万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年7月20日

T・S・エリオット 『文化の定義のための覚書』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:06

トマス・スターンズ・エリオットは、1888年米国セントルイス生まれの詩人。

『荒地』『四つの四重奏』が代表作だが、一般にはミュージカル『キャッツ』の原作者と言った方が一番通りがいいか。

1927年英国に帰化、国教会に入信、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年没。

この人の保守思想家としての一面は西部邁『思想の英雄たち』で知った。

恥ずかしながら、一時D・H・ロレンスと混同していたことがあった。

(むしろ基本的には対立する関係だったのに。)

本書冒頭の解説は本文の要約として適切。

「文学上は古典主義者、政治上は王党派、宗教上においてはアングロ・カトリック」という自己定義は有名。

(ここでの「アングロ・カトリック」はイギリス国教会のこと。)

(1961年版の[本書初版は1948年])序文でも「・・・・・著者のいまの立場を表すのは、君主制を現在も採用しているあらゆる国が、その制度を保ち続けることに賛成であるということであろう。」と記されている。

(私自身も21世紀の現在において全く同じことを思います。)

本文に入ると、まず文化の総合性を指摘。

個人や集団の文化の総和ではない、一体となった社会全体の文化を把握する必要を説く。

時代の進化にともない職能上の複雑化と専門化が生じても、その必要性は変わらない。

意識化の度合いの高まり、過度の分化が、諸分野の関係断絶状態を通じて、文化の全体性喪失と崩壊に繋がる。

それを防ぐ文化の基盤として、宗教の存在が挙げられる。

文化とは一国民の宗教の化身であるとされる(ただし文化と宗教の完全な同一視には著者は反対している)。

懐疑主義そのものは不信心や破壊性を意味するものではなく、必要なものではあるが、絶対懐疑主義は弱さの表われで文化を死に至らしめる。

社会の分化自体は必然であり、そこから諸階級が生まれる。

その階層性を否定し、原子論的社会観に立つと、結局エリート集団による能力主義的な選抜と競争を通じた統治が行われるしかない。

エリート諸集団の専門化・孤立化が進行し、相互作用が欠如する。

かつての社会では、階級が「器・母体・基盤」として存在し、社会全体の文化の継続性・一貫性を確保し、そこから選び出された少数のエリートが文化の硬直化を防いでいた。

だが、一つの平板な原子的個人の集まりからだけ抽出されるエリートには、そうした役割は望めない。

能力が卓越しているという理由だけで個人として[階級と無縁に]のし上がってきた人たちで構成されたエリート集団においては、文化的素地の相違が甚だしいので、その構成員たちはその辺にころがっている共通の関心事だけによって結びつき、ほかのあらゆる点ではばらばらの状態にあるということになる。

その時の実利的社会状況に適合しているだけの「能力的卓越性」を持った人間が、「その辺にころがっている共通の関心事」で結合しても、文化は低質化する一方である。

そもそも文化伝達の主要な経路は、依然として家族である。

そして過去と未来への畏敬の念が階級を構成する。

伝統と慣習によって与えられる無意識のレベルも重要。

限定された目的ではない文化の全体に通じることができない以上、階級的背景を欠いた能力主義的エリートのみによる支配は必ず失敗する。

その具体例として、ソ連のプロレタリア独裁と並んで、南北戦争後の米国における金権政治上のエリート支配と格差拡大、絶対王政下フランス貴族の無力化とブルジョワへの同化、仏革命後第三共和政の不安定を挙げているのは面白い。

ジョージ・オーウェルの書評(本書解説で紹介されている)のように、この主張を特権階級の一方的擁護論だとの批判に対し、著者は以下のように応える。

ここでいえるのは、支配階級は、たとえどれほどひどいやり方でその役割を果たしていたとしても、強制的に除去されれば、その階級の役割が完全に別の集団によって引き継がれることはないということである。

階級構造のある社会の擁護論、そういう社会は、ある意味で「自然な」社会であるとして、これを肯定する論は、われわれが、貴族階級と民主主義を対照的に捉えて、催眠術をかけられたような状態に陥ってしまっていると、毀損される。もしわれわれが、これら二つの語を対蹠的に用いれば、問題全体は歪曲される。著者が提示したのは、「貴族階級の擁護」などではない。――つまり社会の一つの組織の重要性を強調することなどではない。そうではなくて、他のすべての階級が独特の、本質的に重要な役割を果たしているように、貴族階級も独特の、本質的に重要な役割を果たすような形態の社会の必要性を申し立てることなのである。大切なのは、「最上層」から「底辺」に至るまで、幾層もの文化レベルが相接して存在する社会的構造である。上層をなすレベルは下層をなすレベルよりも多量に文化を蔵していると見なすべきではなく、上層をなすレベルは意識化の度合いの高い文化、より専門化した文化を表しているに過ぎないということを心に留めておくのは重要である。

筆者は、真の民主主義はこうしたさまざまに異なる文化のレベルを包含していなければ、維持されえないという見方に傾いている。比較的レベルが高くて比較的小規模の集団が、比較的レベルが低くて比較的大規模の集団と同等の力をもつ限り、文化のレベルはまた、力のレベルのように見なされえよう。というのは、完全なる平等は無責任の遍在を意味する、という主張は成立可能だからだ。しかし筆者が思い描くような社会では、個人はそれぞれ自分が引き継いだ社会的地位に応じて、国家に対する責任を、大小の差はあれ、引き継ぐことになるだろう。すなわちそれぞれの階級がいくらか差異のある責任を負うことになろう。すべての人がすべての事柄において等しい責任を負うような民主主義であったら、それは良心的な人々にとっては抑圧的なものとなるであろうし、残余の良心的でない人々にとっては、やりたい放題やれるという底のものとなるであろう。

ある社会の中で多様な階層性の存在が重要なことと全く同じように、文化の繁栄のためには、また地域の統一性と多様性のバランスも重要。

中央と地方の相互依存と対立と求心力が均衡していなければならない。

国際社会においても同様。

世界文化がもし実現すれば、それは悪夢としての画一的文化でしかない。

だが、仮構としての統整的理念としてなら有用。

著者は、宗教においても多様性擁護の観点から近世宗教改革の新旧教分裂を肯定的に捉え、プロテスタントにおける国家と教会の分離もよしとする。

三十年戦争、ピューリタン革命など、宗教戦争の悲惨もあったが、英国内の正統はあくまで国教会であるとし、しかし他の教会が豊かな貢献をしていることも十分認めている。

文化の枠組みの中に政治が位置づけられている限り、政治への関心や実践はすべての人の務めとは言えない。

あるいはそうであったとしても、同程度・同平等責任ではない。

ここでも階層性による役割の違いがあって然るべき。

もしそれが無ければ、最も低質で凡庸な意見の勝利がもたらされるだけである。

文化が重層構造をなしている社会、権力や権威が重層構造をなしている社会においては、政治家は発言を行う際に、少なくとも手垢のついた言葉は使うまいとする気構えをもつかもしれない。なぜらなその場合、政治家は少数ながら、散文の規準というものを維持し、批判力に富む人々の見識に対して尊敬の念を抱き、そうした人々の嘲笑を恐れる気持ちを抱くからである。

現在のようにネットというメディアで、すべての発言が相対化されて評価されるようになれば、その価値判断の規準は目を覆いたくなるほど低級化するしかない。

本書では、その規準を保つ上層階級における古典古代の歴史と政治学教育の重要性を主張。

そこには、現代社会の思考上便利な道具となっている民衆という巨大な非人格的エネルギーではなく、個々の人間の情熱が取り上げられているからである。

ごく最近になって現れた政治理論の類いは、従来の政治理論に比べると、人間性にさして関心を払っていない。この種の政治理論は、最も好ましいと見なされる政治形態であれば、それがどのようなものであれ、これに適合するように常に新たに作り直されうるものとして、人間性を扱う傾向がある。・・・・・大衆という空漠としたものの中にのみ人間性を見つけようとしているので、それは倫理から離脱する傾向がある。

社会主義はもちろん、自由民主主義の理論についても当てはめるべき言葉だ。

続けて、教育への過大評価を批判。

知恵と学問への敬意を与えることを越えて、政治的動機付けを行う過剰教育が過少なそれと同様に不幸の原因となりうることを指摘。

機会均等と能力主義の観点から教育の重視が言われるが、教育が普及しないせいで名も無きミルトンが埋もれている可能性が確かにあるものの、その代わり流血の惨事をもたらしたクロムウェルのような人物も生まずに済んでいる面もあるはずだ、と著者は述べる。

加えて、その教育自体が産業社会の効率性への過剰適応によって歪められている。

社会階層の区別が消滅するにつれて、形式的平等社会の中でむしろ醜い妬みとエゴが拡大する。

流行の政治社会理論が大衆の頭に注入され、古典的伝統的学問の継承が断絶。

そこにやって来るのは、歪んだ学歴社会である。

諸階級を保全した上で、その内部で下層階級から優れたものを選び出し、例外的に階層を引き上げることは有益だが、のっぺらぼうの大衆社会から実利的関心だけによって選ばれたエリートは文化的には劣弱と言う他無い。

エリート集団に牛耳られた社会への完全な適合を目指す教育制度は、教育を社会的成功につながるもののみに限定し、社会的成功を、その制度の内部において優等生であった者のみに与えることにもなろう。いくつかの試験に合格し、心理学者によって考案されたテストにおいて優秀な結果を示した人々のみによって支配され、方向づけられる社会の先行きは、安心できるものではない。

「識者」や経済界の圧力で、大学教育をビジネスに適合的なものに「改革」するというような報道に接すると、日本も本格的な衰亡期に入ったなとつくづく感じます。

そうした「改革」を推進する勢力が「保守」を自称し、むしろリベラルな人々がそれに反対しているのを見ると、もう口を開く気も無くなります。

 

 

著作が入手しにくい思想家について手頃で読みやすい本はありがたい。

中公クラシックスの中でも特に嬉しい収録作。

初心者でも十分読みこなせる内容。

堅実な良書。

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