万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年7月14日

石田憲 『日独伊三国同盟の起源  イタリア・日本から見た枢軸外交』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 04:45

1940年9月27日に三国同盟が締結された。

それは、合意可能なイデオロギー的基盤が欠落し、相互に享受できる利益も乏しい、「空虚な同盟」だった。

その主導者、ヒトラー、ムッソリーニ、近衛文麿、リッベントロップ、チァーノ、松岡洋右に対して、理性的で親西欧的な外務省・伝統的外交官というイメージが語られることがあるが、それは妥当か?

1930年代半ばから後半にさかのぼれば、それとは違った側面が見られる。

本書では、副題の通り、30年代後半の日伊両国の比較を中心に検討を行っている。

 

 

まず各国の対外政策を作り出す構造を分析。

イギリス=政府・議会・外務省・世論の「綱引き」による政策決定、首相チェンバレンは管理者、「政策決定過程」。

ナチス・ドイツ=外務省・軍・党の多頭制的側面は有しつつ、ヒエラルキーは確固として自壊せず、ヒトラーは決定者、「外交指導」。

イタリア=国王と軍・外務省・党による制度不安定、流動的調整機能、ムッソリーニは調停者、「政策形成過程」。

日本=外務省・陸軍・海軍、さらに宮中グループというクッションも加わり、責任の所在が曖昧、制度の硬直化、頂点が不明瞭な円錐形構造、軍出先の突発的行動に引きずられ、対外政策が突然「表出」する、昭和天皇は「御輿」、「政策表出現象」。

 

 

 

第一章。

反共主義的世界観が伝統的外交官にも影響を与え、「善悪」二元論、「友敵」関係の図式から逃れられなくなる。

「反共主義的世界観」と言っても、反ソ・反コミンテルンだけでなく、国際連盟・中国・スペイン・イギリスなどへの対抗イデオロギーとして広範に利用されるもので、可変的で融通無碍、敵を指定する方便と化してしまっていた。

1932年、日本では政党内閣が終焉、イタリアではグランディ外相が解任されムッソリーニが兼任。

これに対し、32~36年の時期、伝統的外交官の主導権回復が模索された。

例として、日伊両国が中国とエチオピアへの軍事侵攻を進める中、伊のスーヴィッチ外務次官による対独接近回避と親西欧的コンセンサスの主張。

しかし、36年軍部介入の深化とチァーノ外相就任で、スーヴィッチは解任。

36年11月の日独防共協定と37年11月日独伊三国防共協定には、伝統的外交官も積極的に協力してしまった。

だが、当時の具体的国益では、日伊両国はむしろ対立している。

エチオピアをめぐる国際連盟制裁参加で中国と伊の関係は冷却していたものの、伊の対中軍事援助は継続しており、エチオピア戦争中の伊の人種主義的反日キャンペーンと日本の親エチオピア的態度が見られた。

加えて「反共・防共」の面でも一筋縄ではなく、両国ともソ連との関係安定化に努力し、35年3月広田外相が北満鉄道売却問題を妥結、少しさかのぼると伊は33年9月反独政策として伊ソ不可侵条約を締結している。

それがなぜ三国防共協定に向かったのか?

「親英派」と「親枢軸派」という固定的構図では説明できない。

日本では大島浩、白鳥敏夫らを例外にして、ほとんどの外交官が前者に分類されかねない。

イタリアでもチァーノ(親枢軸)対グランディ(親英)という図式では不充分。

著者が提示するのは、政策立案の志向性の高低、権力中枢からの距離の近遠という二つの座標軸を設定した図式。

政策立案志向性-高:権力中枢からの距離-近=「推進」型。

高:遠=「追随」型。

低:近=「批判」型。

低:遠=「傍観」型。

これを現実に適用した場合、政策立案志向性の高低を発想様式の政務型と交渉型に、権力中枢からの距離の近遠を任地の国内と国外に読み替えて分類する。

すると、ムッソリーニ、チァーノ、近衛、広田が常に国内政務型。

スーヴィッチが国内政務型から(駐米大使となり)国外交渉型へ。

駐仏大使から外相になった佐藤尚武、駐シャム大使から東亜局長となった石射猪太郎は、国外交渉型から国内交渉型へ。

当時の外交官を見ると、国外交渉型への移動が多く、人事の固定化と二極分解が顕著で、少数の国内政務型は国内の論理に絡め取られることになってしまった。

ファシズムは日伊接近の結合要素にはならず。

日本側はイデオロギーとしての独立性ではなく政体のコスト・パフォーマンスとしてファシスト・イタリアを評価していたに過ぎず、イタリア側も日本は下からの運動としてのファシズム国家ではないと見なし、むしろ国民党中国を自己と親和的であるとしていた。

結局、結節点となったのは反共主義であるが、上述の如く恣意的な攻撃的政策を正当化する方便のようなものに成り下がっていた。

同時に(ある時期まで、多くの場合)対英協調を主張するものであったため、伝統的外交官にとって内外の反発が少なく同調し易い側面があった。

それが国内合意形成に留まらず、国際的結節点として機能し始め暴走する。

スペイン内戦でのイタリア派遣軍とフランコ側との軋轢が生じた際、「純粋なカトリック君主主義、反動主義の先入観に手をつけない」ようにとの進言が伊外交官から出されている。

続いて連盟と中国への攻撃。

むしろ日中戦争が国民政府の中国を対ソ接近へと追いやった。

1937年8月締結の中ソ不可侵条約で日中の共同防共構想は完全に破綻してしまったとの批判を石射猪太郎が残している。

その前、36年12月に、日独防共協定に中国が加入する必要がないことを主張すべく、「中国政府が国内であらゆる努力を傾注して、共産主義を弾圧してきた」と顕彰する声明を出すよう、国民党がドイツに要請したとの記述は非常に興味深い。

加えて対英接近への楽観論。

反共的論理だけを強調して、具体的譲歩を伴わない36年6月~38年10月の吉田茂駐英大使の活動をその失敗例として挙げている。

結論として、善悪二元論、友敵関係による国内的論理への屈服と単純化思考、感情的被害者意識が広まり、レッテル貼りと議論の封殺が進行したことが致命的悪影響をもたらした。

最大公約数的に合意形成を図れる反共主義を結合要素として、反連盟とスペイン・中国での軍事行動を起こし、英国との再協調を目指したが、36・37年の攻撃的膨張路線は必然的に国際対立激化をもたらし、反共から反西欧へ、漠然とした枢軸協力から軍事同盟への文脈転換を引き起こしてしまった。

 

 

 

第二章、日中戦争での日独伊三国の利害関係不一致を描く。

「現実主義」ならば枢軸形成には向かわないはず。

かと言って強固なイデオロギーでもなく、対外政策をめぐるイメージの類似性によるものでしかない。

日中戦争勃発後、1937年11月から12月までの短い期間に、ブリュッセル九ヵ国条約会議、日独伊三国防共協定締結、イタリアの満州国承認、トラウトマン日中和平調停工作、イタリアの国際連盟脱退が起こっている。

まずドイツの対中武器売却と軍事顧問団の存在。

日中戦争が中国を共産主義に向かわせているというドイツ外務省の批判(これは今も昔も日本としては耳が痛い指摘だ)。

ブリュッセル会議ではイタリアは親日的姿勢を採ったが、そもそも多国間協議ではなく中国との直接交渉を求める日本の感謝をよばず、むしろ日本はドイツの仲介を考えるに至る。

その日独接近の端緒となった、日独防共協定であるが、そもそも口頭で合意すれば十分な程度の内容がイデオロギー的に誇張されて条約の形態を取った、具体的取り決めがほとんど無く、独ソ間の既存条約を認めたことで秘密付属協定も実質を失い、同盟から程遠いものであり、ドイツでの調印にも関わらずノイラート外相ではなく駐英大使リッベントロップが署名した、などの問題点を著者は指摘。

三国防共協定ではイタリアを追加加盟国ではなく原署名国として遇することになったが、イタリアでは黄禍論的論調が根強く、孤立を脱却し英国に伊を高く売りつける手段としての協定とする目論見を持つ人々もおり、日本側もその懸念が見られた。

ドイツでも(国内の外交主体間対立も絡んで)対英関係改善の梃子にする意図があった。

また独伊の対中市場、軍需関連での権益は大きく、日本側の批判に対し、「反共」の独伊が中国から撤退すればソ連を導き入れるだけだ、との反論が行われた。

独伊間でも競合関係が見られ、伊の満州国承認後も経済交渉は難航、トラウトマン工作での伊排除が軋轢をもたらし、伊の連盟脱退後、ドイツが復帰するシナリオすらイタリア自身は危惧していたという。

まとめ。

日独伊枢軸が日中戦争をめぐり余波を拡大し、ヨーロッパから東アジアへと一時国際政治の中心舞台を転換する。

この展開は米国の関心を強め、英国の懐疑心を深めるが、この時点での米英提携関係は進展せず、英国は宥和政策を継続。

日独伊は反共主義で結合するが、イデオロギー的共通点に乏しく、修正主義の対象が西欧か東アジアかでも一致せず、東アジアでは現実的国益が対立していた。

対英関係をそれぞれ瀬踏みしつつの枢軸路線だった。

反連盟のカウンター・イメージ、自らの劣位という強迫観念によるパラレル・イメージ、英国の宥和を期待する余り、自国の枢軸派と親英派を英国内部に投影するミラー・イメージが交錯。

 

 

 

第三章、日伊外務省の枢軸抑制失敗、制度的チェック機能低下の構造的問題を検討。

取り上げられる人物は、吉田茂とグランディ両駐英大使、有田八郎外相とバスティニアーニ外務次官。

構造的問題として、統一的指導力の欠如、情報処理の弛緩と欠陥、閉鎖的権力構造、個人の恣意による外交を挙げる。

 

 

 

だるい。

メモはこれが限界だ。

途中からは大幅に省略した。

分析的記述はやや入りくんでおり、少し理解に苦しむ部分あり。

ただ、個別的史実の具体例には初めて知る興味深いものが多かった。

著者の史観や史実評価については、やや疑問や違和感を持つところもあるが、まああまり気にしないでおきましょう。

200ページほどとごく短いが、中身は相当濃い。

悪くはないし、面白いとは一応思うが、読み終えると何か疲れたという感じがする不思議な本でした。

類書の三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』の方がオーソドックスで読みやすいでしょうから、まずこれをお勧めします。

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