万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年7月8日

ヒューム 『人性論』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:47

表題作は一行も読んでいない。

哲学者としてのヒュームについては何も理解する能力が無い。

冒頭の解説を読んで何となくイメージをつかむのが精一杯だ。

本書で読んだのは末尾に付録のような形で収録されている「原始契約について」という30ページ余りの政治小論。

社会契約説を批判したもの。

君主による政府を神聖不可侵なものとして、どれほど圧政的であろうともそれへの反抗は許されないとするトーリー党と、政府を人民の同意と原始契約によってのみ作られたものとして、抵抗権を主張するホイッグ党の両者をともに退ける。

まず前者への批判。

政府は普遍的制度であり、すべては神の摂理によるものであるから、君主の権能だけが神聖化される謂われは無い、下級官吏も国王と同じく神の委任に基いて権力を行使していると考えるべき。

一方、社会契約説について。

いかなる権力も多数者の同意と黙諾がなければ存続できないのは確かだろうが、それは平和と秩序がもたらす利益から自然に生まれた習慣的なもので、明示的な契約に基くものではない。

歴史上そのような契約の存在がはっきり確認できる例は無い。

しかも父祖の同意がその子孫をはるか後まで拘束するという、本来共和制の立場を取る著述家にとっては到底承認されえないはずの仮定が含まれている。

実際の政府樹立は征服という力の行使によるところが多い。

政府が成立した後でも、選挙制度による同意機能が過大評価されている。

「扇動的な首謀者の尻馬にのる多数者の熱狂」に終わるものに、政府の唯一合法的な基礎を認めることはできない。

むしろ政府の完全な解体と人民の自由選択の極大化による無秩序が独裁的軍事支配の契機になってしまう。

名誉革命の成果に幻惑されるべきではない、それは政府全体ではなく王位継承のみが変革され、しかも一千万近い人民のうち、それに関与・決定したのは七百人ほどに過ぎなかった。

アテネ共和制も参政権を持ったのは服従義務を負っていた人間の十分の一にも満たず、属領の住民はもちろん排除されていたが、それでも常にその政治は放恣と混乱を極めていた。

最初の政府は暴力、征服によって樹立されたが、長い間秩序が保たれると服従が自発的かつ慣習的なものになる。

しかしそれは個々人の自由意志による契約と選択と見なされうるようなものではない。

ある君主の支配下に暮らしていて、出て行こうと思えば出て行けるのにその国に留まっていることが、契約と同意の証しだという主張もあるが、外国の言葉も習慣も知らず、その日その日をようやく過ごしている貧しい圧倒的多数の一般国民に自国を去るような選択の自由など実質的には無い。

その自由がある場合でも人口の減少が甚だしくなれば、君主は移住を抑制するだろう(本書に記されてはいないが、これは人口減による弊害が大きくなれば他国への移住を選ばなかった国民の権利が損なわれるから正当だということか?)。

人間は突然かつ一気に世代交代をするのではなく、新旧世代が混じり合って生き死にし、しかも不完全で思慮分別を持っているとは必ずしも言えない、よって既存の政体に順応することが必要、父祖の世代の足跡に概ね従うことは避けられない。

人間が制定したものにはある程度の革新はつきものだが、暴力的な革新は危険で不幸なもの。

立法府によって多数の同意を得ていると思われるものであっても、危険なことは変わりなく避けるべき(例として挙げられているのはヘンリ8世による国教会成立やピューリタン革命)。

王位簒奪者と旧君主が交替した時、しばしば気まぐれに両者に支持を与えるような人民の同意にそもそも大きな意味は無い。

ローマの拡大と共和制危機において、アウグストゥスの支配権確立を人民は感謝、支持し、その後継者にも従順の態度を示した。

しかし帝位が一つの家系によって久しく規則的に継承されるということがなくなり、暗殺と反乱によって皇帝の家系が絶え間なく断絶を繰り返すようになったことは、人民にとって不幸なことであり、帝室断絶の度に内乱と皇帝乱立状態となった。

その不幸は、人民に皇帝選択権が与えられていなかったからではなく、規則的に交替し合う一連の支配者を戴くことが出来なかったからである。

この記述には盲点を突かれた。

確かに、ローマ帝国は初代ユリウス・クラウディウス朝以来、安定した世襲継承を確立できなかった。

約500年続いたのに、世界史上の帝国・王国でもかなり異例だ。

にもかかわらず、それを何とも思わず無視するか、あるいは塩野七生氏のように逆にそれを専制王朝とは違う帝政ローマの長所として評価するかである。

安定した世襲王朝を確立できなかった(さらに欲を言えば、統一を象徴する君主と実際的な権力が分離した英国・日本のような史的展開が見られなかった)ことが、ローマ帝国の短所とすべきではないかと思える。

人間は原初的本能のみに導かれれば放埓な自由に耽り、他人を支配することを望む。

そこで経験と反省の力で、平和と社会秩序のために統治者の権威と服従、「忠誠」の必要が出る。

「誠実」すなわち約束尊重の義務は、「忠誠」と同じく人間社会の明白な利益と必要のために生まれたものであり、両者は同格の存在、後者を前者によって基礎づける想定を行う必要は無い。

これに対して、われわれが君主に服従しなければならないのは、あらかじめわれわれが、暗黙の中に、そのような約束を与えているからだ、と答えられるだろう。だが、なぜわれわれは約束を守らねばならないのだろう。これに対しても、もしも人々が契約を尊重しなかったならば、現に莫大な利益をもたらしている、あの人類間の商業取引がなんの保証も得られなくなるからだ、と主張されるに違いない。だが、そのように言われうるとすれば、そこからまた、もしも強者が弱者を、無法者が公正者を侵害することを防ぐ法律や統治者や裁判官が存在しなかったならば、人間は社会生活を、少なくとも文明的な社会生活を送ることはできないだろうという事も、等しい権利をもって言われうるはずである。

忠誠の義務と誠実の義務とは全く同等な力と権威を持つものであるから、一方を他方に還元してみたところで、なんの得るところもない。両義務を確立するものは社会の一般的利益と必要とであり、それで十分である。

政府に服従しなければならない理由を問われた場合、私だったら、なんのためらいもなく、そうしなければ社会が存続できないからだ、と答える。この答えは、明快で全人類にとってわかりやすいものである。ところが諸君の答えは、われわれは約束を守らねばならないからだ、である。だがそんな答えは、哲学的な理論に習熟した人ででもない限り、だれにも理解されないし、また歓迎されもしない。そのうえ、なぜわれわれは約束を守らねばならないのか?と反問されれば、たちまち諸君は返答に窮してしまうだろう。かりに諸君がまともに返答できたとすれば、その答えは忠誠義務を直接的に、なんらのまわり道もしないで、説明するもの以外ではなかったはずである。

その忠誠の対象は誰にされるべきか?

長年続く家系に連なる君主である場合が最も幸福である。

その起源が暴力による権力奪取であったとしても、そうである。

王権にしても私有財産にしても、はるかに遠いその起源において何の不正の痕跡もないことはほとんど無いが、それでも我々はそれを社会の安定のために尊重しなければならない。

もしもわれわれが、可能な限りのあらゆる観点から、ありとあらゆるあげ足取りの論理規則を駆使して、せんさく吟味する似非哲学の跳梁を許すならば、たとえどんな徳、どんな道徳的義務であっても、たちどころに欠陥をさらさないようなものはないからである。

ローマ帝国史における帝位継承時の混乱と専制政府という両極端の危険。

一方、君主制・貴族制・民主制の各要素が並立共存している自由な政府の安定性。

あらゆる革命や政体変革に伴う無秩序を避けるために、王位の継承性が最大限に重んじられるべき。

結局、合法的な政府はすべて原始契約と人民の同意に基かねばならないという理論は、人類一般の感情に反した、あらゆる時代の、あらゆる国民の慣行に反する奇論である。

例えばロックは「絶対王制は市民社会と相容れない、したがってそれは、けっして市民政府のひとつの形態ではあり得ない」(『統治論』)と述べるが、ごく最近まで政府の基礎は契約だなどと考える人はほとんどいなかった、そのようなことはありえない。

 

 

面白い。

私のレベルではやや論旨が読み取りにくいところもあるが、通読に困難は感じない。

ヒュームの政治経済論として、岩波文庫で『市民の国について 全2巻』が出ているが、ひとまずこの小論を読むだけでもいいでしょう。

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