万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年6月19日

松本佐保 『バチカン近現代史  ローマ教皇たちの「近代」との格闘』 (中公新書)

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近世以来の教皇権の衰退は、「教皇のバビロン捕囚」と「シスマ(教会大分裂)」を経て、宗教改革が勃興、三十年戦争とウェストファリア条約でカトリックとプロテスタントが同権となる、と進んできたが、本格化はフランス革命後。

本書も主にそれ以降の時期を扱っている。

以下、近代における歴代教皇の概略。

 

 

ピウス6世(在位1775~1799年)

ナポレオンのイタリア遠征で教皇領占領。

1797年逮捕されフランスに連行、1799年死去。

 

 

ピウス7世(1800~1823年)

教皇領が一時返還され、1801年ナポレオンとコンコルダート(政教条約)締結。

1804年ナポレオン皇帝戴冠式に出席。

その後、教皇領は再占領され、7世は軟禁。

ウィーン会議で旧領回復、ロンバルディア・ヴェネトと共にイタリアの実質的支配者となったオーストリアの保護下に入る。

 

 

レオ12世(1823~29年)

ゼランティ(非妥協派)と呼ばれる超保守主義を堅持。

 

 

ピウス8世(1829~30年)

前任者と同様の立場。

ルイ・フィリップの七月王政を承認せず。

 

 

グレゴリウス16世(1831~46年)

自由主義的な親仏派と保守的な親墺派の対立が伊国内で顕著になる。

バチカン内でもゼランティと穏健改革派が対立。

教皇自身は超保守派で、メッテルニヒの忠告すら聞かず。

 

 

ピウス9世(1846~78年)

即位当初は穏健自由主義の親仏派と見られ、「覚醒教皇」と呼ばれる。

しかし1848年革命では対オーストリア戦に中立を維持。

教皇領で蜂起が勃発し、ローマ共和国が成立するが、ルイ・ナポレオンに倒される。

以後教皇は保守的になり、サルデーニャ王国の統一政策と対立。

1869~70年第一次バチカン公会議(300年ぶりの公会議)を開催。

1870年普仏戦争中にイタリア王国軍がローマを占領、翌71年にはローマに遷都。

以後教皇は「バチカンの囚人」としてイタリア王国と対立。

だが、1882年三国同盟成立で、オーストリアによる支援の希望も少なくなる。

 

 

レオ13世(1878~1903年)

伊首相クリスピ(任1887~91、93~96年)の親独政策に対し、仏に接近。

1891年「レールム・ノヴァールム」回勅。

労働者保護を主張したもので、これがキリスト教民主主義とカトリック系労働組合運動に繋がる。

仏、西、ベルギー、カナダでの保革両派の対立を調停。

独とも関係を改善し(本書で文化闘争への言及が無いのは奇妙)、英国国教会とも接近。

ただし、米国台頭には批判的視点を持つ。

また、大日本帝国憲法制定に当たって、その宗教の自由保障に祝福の手紙を日本に送ったとのこと。

 

 

ピウス10世(1903~14年)

保守的で前任者の施策の多くを後退させる一方、ブラジル・ボリビア・ペルーの国境紛争を調停、ロシアとの交渉ではポーランド・カトリック教会の状況を改善し、ポグロム(ユダヤ人迫害暴動)を毅然として非難。

社会主義台頭に際して、信徒の政治活動参加禁止を緩和、伊国内の自由主義与党ジョリッティと協力。

 

 

ベネディクト15世(1914~22年)

第一次大戦に中立、伊参戦に反対したため親独的との非難を受ける。

英のパレスチナ外交に警告、平和外交を推進。

1919年ストゥルツォ神父のイタリア人民党結成。

 

 

ピウス11世(1922~39年)

共産主義の脅威に直面。

ムッソリーニはカトリックの影響力回復を代償に人民党を解体していく。

のちに戦後イタリアの首相となるデ・ガスペリは人民党内で社会党とも団結し、ファシスタ党と対決することを主張したが容れられず、地下に潜行、バチカン市内にかくまわれ、ストゥルツォは英国に亡命。

1926年人民党解散、29年ラテラノ条約、バチカン市国成立。

1933年7月にはナチス・ドイツとも政教条約締結。

しかしファシストの暴力やナチの人種主義を非難する回勅も発している。

1937年「とてつもない懸念とともに」では、人種・民族・国家の神格化を批判した。

 

 

ピウス12世(1939~58年)

批判者からは「ヒトラーの教皇」との非難すら浴びせられる人物。

独ソ戦では独に近い立場だったとも言えるが、1940年にはドイツに占領されたオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの各君主に同情の手紙を送っている。

また仏のレジスタンスを保護、ナチの暴状が激しくなると米英に接近。

ソ連には一貫して警戒と批判を保つ。

この教皇が原爆投下を糾弾したことは日本人として忘れてはならないだろう。

1943年8月ナチがローマのゲットーに侵入した際にはバチカン内にユダヤ人を保護。

ホロコーストへ一定の抗議は行っていたが、それが100万単位の規模とは認識していなかったかも、と記されている。

冷戦下、米国と急接近、元はプロテスタント国家のため疎遠だったが、ニューヨーク大司教スペルマン枢機卿を通じ、ジョゼフ・ケネディ(大統領ジョンの父)ら米政界とも親交を深める。

戦後伊国内ではキリスト教民主党を支援。

 

 

ヨハネ23世(1958~63年)

1962(~65)年第二次バチカン公会議開催。

エキュメニズム(教会統一)を推進。

無神論と物質主義に対抗して、他宗派・他宗教との協力と寛容を説く。

(現実の共産主義国家との共存を説いた「地上の平和」回勅については本書では記述無し。)

その没後、スペルマンが後任教皇に就任する見方もあったが、米国のヴェトナム介入支持発言がネックとなり実現せず。

後の破滅的結果を見れば、それで良かったと言える。

 

 

パウロ6世(1963~78年)

公会議第二会期を継続。

リベラル派ジョン・コトニー・マリー(『ルネサンスの歴史』でルターを評価するカトリック権威者として少しだけ名前が出てくる)と保守派のヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)が対峙。

ラテン語が義務化されていたミサにおいて、各国語を正式に許可。

教皇の行動範囲制約を解除し、世界各国を積極訪問。

西ドイツの東方外交と連携し、東欧共産圏と交渉を持つ。

ただし、ラテン・アメリカで急進的な聖職者が説く「解放の神学」にはジレンマに満ちた対応をせざるを得ず。

 

 

ヨハネ・パウロ1世(1978年)

在位わずか34日。

伝統派と改革派の対立の中、改革派として登位したが、直後に病死。

 

 

ヨハネ・パウロ2世(1978~2005年)

保革両派の妥協で選出。

ポーランド人で、非イタリア人として450年ぶりの教皇。

パウロ6世の理念に忠実だが、「解放の神学」は許容せず。

「解放」とはあくまで資本主義的唯物論からの脱却であり、それは政治闘争では達成され得ないと唱える。

これは非常に立派な見識だと思う。

物質的欲求を精神の上位に置く点では、共産主義者も新自由主義者も変わりない。

その意味で、米国にこの教皇を褒め称える資格があるのか疑う。

1981年暗殺未遂に遭遇。

東欧共産圏への影響力拡大を恐れるソ連KGBが関与したと見られる。

1989年には東欧共産圏が崩壊。

日本を含む多数の国を訪問。

中南米では急進的聖職者と権威主義的政府の双方を批判。

ユダヤ・イスラム教との和解を推進、東方正教会とも関係を改善、エルサレムの中立化を主張。

発展途上国での信者が急増(1978年3億4000万から2005年11億)。

 

 

ベネディクト16世(2005~2013年)

保守派のラッツィンガー枢機卿。

ドイツ人で生前退位。

 

 

フランシスコ(2013年~)

アルゼンチン出身、初の南米出身者教皇。

あと、イエズス会出身で初の教皇だということは本書で初めて知った。

 

 

 

読みやすい。

手ごろ。

テンポ良く読み進められる文章。

高校世界史の空白を埋めてくれる良書です。

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