万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年6月30日

栗本慎一郎 『ゆがめられた地球文明の歴史』 (技術評論社)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 00:50

ゲルマン的ヨーロッパと漢民族的中国双方の中心史観を排する、というのは最近の史書でよくある謳い文句だが、この人の場合スケールが違う。

まず、文化を集団の価値判断のシステム、文明を一定の時間的継続を持つ諸文化の総合と定義。

文明は地域的時間的限定があり、文化は広がりよりまとまりや深みを持つ。

文書証拠主義に基き、政治史に軽く生活史を加えただけの、視野の狭い歴史学を批判。

精神史は重要だが、文化人類学の成果を取り入れなかった為、従来の歴史学は変化できなかったとする。

 

中国、インダス、メソポタミア、エジプトの「四大文明」のうち、決定的だったのはメソポタミアのみ、他の三つは単発文明、現代文明に繋がる連鎖反応を起こしたのはメソポタミア。

その中でも、シュメール(スメル)が最重要、シュメール以後の諸文化・諸民族の興亡には大きな意味は無いとまで書いている。

巨大建造物と文字使用の合体による文化を基礎にした文明はシュメールに始まる。

軍事支配者「ルガル」、宗教権力者「エンシ」の連合体制が組まれ、この二重統治が崩れて、アッカド支配へ移行した。

過剰生産の貯蔵と分配が、社会に「成長」という病のような要因を植え付けた。

 

そのシュメール文明の起源は南シベリアで、中央アジア、東イランを経て、メソポタミアへ達した。

バルハシ湖の西、アラル海の東の肥沃な草原地帯セミレチエ地方とその北オビ川とエニセイ川間の南シベリア、ミヌシンスク地方が極めて重要な意味を持つ地域。

アフリカで生まれた現生人類は、北上してメソポタミア、コーカサスを経て、南シベリアのミヌシンスク地方に達し、そこで文明が誕生した。

船と馬での移動と金属の積極的利用を知り(後世のヒッタイトの鉄器発明よりこの最初の金属使用の方が決定的に重要)、そこからシュメール人が移動。

古来、いわゆる「草原の道」が極めて重要であり(ただし実在したのは、現行教科書に記されているそれより北側)、それに比してシルク・ロードは副次的存在に過ぎない。

強大な騎馬遊牧国家が貿易幹線を支配し、それに参入できなかった中国、ペルシア、ローマなどの勢力が細々と利用したのがシルク・ロード。

ミヌシンスク文明こそ、現代文明の起源であり、そこからシュメール人が移動し、サカ人(スキタイ人)が生まれ(自称はエシュクあるいはアサカ)、匈奴、ゲルマン、チュルク人、さらにはアシュケナージ・ユダヤ人も起源はこの地にあるとされる(こうまで大風呂敷を広げられると、語族との関係はどうなるのかという疑問も生じるが)。

ちなみに古代日本の飛鳥(あすか)という言葉も上記エシュク、アサカと関係があると著者は言う。

 

アレクサンドロス大王はおそらく文明の起源たる南シベリアを目指して東征を行ったが、その死によって、結果拡大・融合ではなく、縮小・分離の時代が訪れた。

その後生まれたパルティアの重要性を本書は強調。

東イランで生まれ、キリスト教にも繋がるミトラ教を奉ずる国(ゾロアスター教は一般民衆のみ)。

王朝名はアスカ(アルサケス=安息)。

メソポタミア的、ギリシア・ローマ的観念では測りきれない性格を多々有する国家。

草原勢力と協調し東西交易を拡大、ローマの東方拡大は不可能となり、キリスト教も西進せざるを得ず。

ここでゲルマン人の話が出てくる。

本書では、ゲルマン人も広義のスキタイ人分派とされ、西ゲルマンはパルティア建国過程で西に出、東ゲルマンはパルティア国内に残る。

後にゲルマン人はフン族の一部となり、反主流派の重要民族となる。

キリスト教受容に当たって「遅れた」三位一体説を採ったフランクの、正統による異端攻撃正当化が政治的に利用され、その支配統一に繋がる。

フランクは混成民族で、後3世紀に突然現れ、他のゲルマン部族、ゴート、ブルグンド、ヴァンダルとは同列に扱えない。

社会内部の二重構造が対立エネルギーを与え、発展の要因になる。

 

4世紀以降、民族大移動の激動を経て、中央アジアではカザール帝国(読み方ではハザールは間違い)が成立、この国家によるウマイヤ朝圧迫のおかげで、ヨーロッパはトゥール・ポワティエで勝利し独立を守ることができた。

カザール帝国は、その支配層が8世紀頃ユダヤ教に改宗、これが現在主流のアシュケナージ・ユダヤ人の起源であり、実は現在のユダヤ人の多くは古代ヘブライ人とは直接の関係は無いとの主張をアーサー・ケストラーが述べたことは有名。

 

 

まとめ。

現生人類が北アフリカに生まれ、メソポタミア、コーカサスを通り、南シベリアに文明拠点を築き、東西に南下。

その一部はペルシアを通ってメソポタミアに逆戻り、これがシュメール人。

ミヌシンスク文明から直接生まれたのがスキタイ人とチュルク人で、両者は同根である可能性が高い。

紀元前2~3世紀までの人類は移動と価値観の相互展開を盛んに行い、連合制の遊牧帝国と統一制の農耕民帝国が並立。

以後、遊牧帝国は徐々に衰退したように見えるが、実際はアジアとヨーロッパは中央アジア北部の草原との関わりを契機に発展したのであり、それが中国とゲルマンの自己正当化史観によって見難くされているだけである。

日本も満州地方を通じてその影響を受けており、決して孤立などしていない。

 

 

 

自分で書いたメモを読み返してみても、よくわからない部分があるし、正直「トンデモ本」の匂いもかなりする。

しかし、この人の説ならとりあえず聞く気になる。

なお同じ栗本氏の『パンツを脱いだサル』(現代書館)もスゴすぎる内容なので、興味のある方は一読をお勧めします。

広告

2016年6月28日

アベ・プレヴォ 『マノン・レスコー』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:44

1731年刊。

名門出の青年シュヴァリエ・デ・グリューが、天性の娼婦とも言うべき魔性の女マノン・レスコーと出会い、悪徳と放埓への道に転落していく物語。

単純にストーリーの起伏と転回だけで面白さを感じさせるという作品だが、含意や寓意に乏しくとも、その方が初心者にとってはわかりやすい。

分量も多くないし、楽にこなせて、しかも実に面白い。

教科書的知名度では劣るが、読んで決して損は無い古典です。

2016年6月23日

近藤和彦 『イギリス史10講』 (岩波新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 08:45

イギリス史の起源としての初期中世、5~8世紀の時期を「暗黒時代」とする解釈に替わって、「ローマ後」「亜(サブ)ローマ」期あるいは「古代末期」「ポスト=ローマ」という区分が提出される。

8世紀末から9世紀にかけて、第二次民族大移動でヴァイキング侵入。

そのヴァイキングを「触媒」にして、アルフレッド大王と曾孫エドガーによる統一が達成される。

同時期のスコットランド、ウェールズ、アイルランドでは群雄割拠の状態のままであり、イングランドのみ統一達成、これが後世まで甚大な影響を残す。

962年オットー1世、987年ユーグ・カペー、973年エドガー、と英仏独三王国成立時点は、かなり近似している。

そしてノルマン征服による変化が加えられ、スカンディナヴィアとの繋がりからフランスとのそれへ変更し、中世ヨーロッパ中心部と直結、中央集権化とフランス文化が移入。

アンジュー(プランタジネット)朝で、大陸の領土との複合君主制が成立、百年戦争まで継続。

以後もブリテン各地方で複合君主、同君連合が組織される。

バラ戦争終結とヘンリ7世の治世を近世史の始まりと見ずに、中世との継続性を重視。

1530年代の宗教改革・統治革命によって近世史が始まったとの見方が提示されている。

ローマ教会からの自立、修道院とカトリック文化の解体によって、貴族とジェントリが地域の実権を持つ名望家社会、信教国家、主権国家が成立。

名望家の支持の上に立っていたのが「絶対主義君主」であり、その名称とは裏腹に官僚制と常備軍を持たず、議会と名望家との実質的には共同統治。

イングランドの宗教改革は世俗的で不純とされるが、ドイツでも宗教改革は神聖ローマ帝国内の主権問題と不可分だった。

メアリ1世の短期の迫害がかえってプロテスタンティズムを根付かせる。

対照的に見られがちなエリザベス1世とジェームズ1世の治世の継続性を指摘。

17世紀の国制革命について、ホイッグ史観とマルクス主義の二つの進歩史観の問題点を指摘。

二つの進歩史観による十七世紀史は、いずれもステュアート朝の四代の国王が連続して専制と破滅の一本道を歩み、ピューリタンと議会が自由と民主と生産力を代表していたかのように述べる。どちらの場合も、イングランド以外の経過は添えものか不純物のような扱いだった。

本書では、ブリテン諸島の信仰とアイデンティティという観点から、イギリス革命を「三王国戦争」として捉える見解を示す。

アイルランドのカトリック住民対プロテスタント移住者、スコットランドのプレスビテリアン、イングランドのピューリタンと国教徒、という複合君主制の運営にチャールズ1世は失敗。

だがその収拾は、幸運にも「古きよき伝統への復帰」という形でなされることになった。

この[名誉]革命に社会契約と抵抗権の思想をこめた者もいたが、ロックのように少数である。権利の宣言にも権利の章典にもそれを明示する表現はない。名誉革命を導いたのは、長老派でもピューリタンでも共和主義者でも社会契約論者でもなく、「古来の国制」を信じるホウィグとトーリだった。「血まみれメアリ」と三王国戦争と共和制の記憶が古来の国制を選択させたのである。

17世紀末から18世紀初めにかけて、オランダ・ハノーヴァーとのプロテスタント同君連合によるルイ14世への対抗が組織され、中央銀行・直接税・消費税・関税が整備、議会による国民のコンセンサスが形成され、「財政軍事国家」が成立。

これにより英仏第二次百年戦争を勝ち抜き、覇権国として台頭。

産業革命について、国内生産成長率は、1780年代は1.3%、1801年からは1.97%。

20世紀の高度成長から見れば非常に緩やかであるが、しかし

世界史の分岐、そして人類史の画期となった産業革命は、たとえ国際生産の成長率が年一%あまりであろうと、それが数十年続いたのだから、「革命」という名がふさわしい。

アジアとヨーロッパの力関係を永続的に変化させたのだから、なおさらだ。

近現代史に入ると、この種の通史概説書の例に漏れず、あまり取り上げるべき点は無い。

ただ一点、サッチャー政権について。

首相と異なる意見、とりわけディズレーリ以来の保守党のアジェンダであるone  nationの和合を閣議で主張したなら、彼はwet(軟弱派)とされ、やがて排除されてしまう。サッチャ時代(1979~90)が残したのは、イエスマンの保守党、歴史を捨て人材の痩せ細った保守党である。

マネーゲーム以外に未来のみえない、そして「敵」をつくって固まろうとする保守党でなく、自由と連帯、連邦主義の復権をうたう新労働党を有権者は選んだのである。

私もかつてのように、1980年代のレーガン、サッチャー、中曽根の新保守主義政権を礼賛する気は無くなっています。

むしろ伝統的保守主義の決定的変質・衰退の始まりではなかったか。

個人的なことですが、私は有権者になってから国政選挙・地方選挙問わず、自民党以外の政党に投票したことが無い時期が、相当長期間ありました。

しかし自民党が新自由主義者と排外的民族主義者に乗っ取られ、その伝統擁護姿勢がただのファッションとアリバイ作りに過ぎなくなってしまった今となっては、かつては毛嫌いしていたよりリベラルな政党に投票せざるを得なくなりました。

一度など、ある地方選挙で、自民党と新自由主義的な富裕層の傀儡政党だけが主要候補を出しており、あまりに選択肢が乏しく、もう少しで共産党に投票しそうになって慌てたことがあります。

ブレア労働党政権も最後にはイラク戦争を支持して散々な末路を辿ったとは言え、日本でもリベラルな勢力によって異常な格差を解消し国民統合を回復する方向に何とか行かないものかと思いますが、財力で事実上統制された新旧メディアによって、こうまで衆愚政治がシステム化・ビジネス化されてしまった現状においては、それは100%空しい期待に終わるでしょう。

 

 

まあまあの出来ではある。

しかし、新しい研究動向の紹介に興味深い点がないでもないが、いまひとつ食い足りない。

隔靴掻痒の感が強い。

このシリーズではやはり『ドイツ史10講』が圧倒的に素晴らしく、次いで『フランス史10講』、それに並ぶかやや劣るくらいで本書が来ます。

悪くはないが、特別勧める気にもなれない。

2016年6月19日

松本佐保 『バチカン近現代史  ローマ教皇たちの「近代」との格闘』 (中公新書)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 01:53

近世以来の教皇権の衰退は、「教皇のバビロン捕囚」と「シスマ(教会大分裂)」を経て、宗教改革が勃興、三十年戦争とウェストファリア条約でカトリックとプロテスタントが同権となる、と進んできたが、本格化はフランス革命後。

本書も主にそれ以降の時期を扱っている。

以下、近代における歴代教皇の概略。

 

 

ピウス6世(在位1775~1799年)

ナポレオンのイタリア遠征で教皇領占領。

1797年逮捕されフランスに連行、1799年死去。

 

 

ピウス7世(1800~1823年)

教皇領が一時返還され、1801年ナポレオンとコンコルダート(政教条約)締結。

1804年ナポレオン皇帝戴冠式に出席。

その後、教皇領は再占領され、7世は軟禁。

ウィーン会議で旧領回復、ロンバルディア・ヴェネトと共にイタリアの実質的支配者となったオーストリアの保護下に入る。

 

 

レオ12世(1823~29年)

ゼランティ(非妥協派)と呼ばれる超保守主義を堅持。

 

 

ピウス8世(1829~30年)

前任者と同様の立場。

ルイ・フィリップの七月王政を承認せず。

 

 

グレゴリウス16世(1831~46年)

自由主義的な親仏派と保守的な親墺派の対立が伊国内で顕著になる。

バチカン内でもゼランティと穏健改革派が対立。

教皇自身は超保守派で、メッテルニヒの忠告すら聞かず。

 

 

ピウス9世(1846~78年)

即位当初は穏健自由主義の親仏派と見られ、「覚醒教皇」と呼ばれる。

しかし1848年革命では対オーストリア戦に中立を維持。

教皇領で蜂起が勃発し、ローマ共和国が成立するが、ルイ・ナポレオンに倒される。

以後教皇は保守的になり、サルデーニャ王国の統一政策と対立。

1869~70年第一次バチカン公会議(300年ぶりの公会議)を開催。

1870年普仏戦争中にイタリア王国軍がローマを占領、翌71年にはローマに遷都。

以後教皇は「バチカンの囚人」としてイタリア王国と対立。

だが、1882年三国同盟成立で、オーストリアによる支援の希望も少なくなる。

 

 

レオ13世(1878~1903年)

伊首相クリスピ(任1887~91、93~96年)の親独政策に対し、仏に接近。

1891年「レールム・ノヴァールム」回勅。

労働者保護を主張したもので、これがキリスト教民主主義とカトリック系労働組合運動に繋がる。

仏、西、ベルギー、カナダでの保革両派の対立を調停。

独とも関係を改善し(本書で文化闘争への言及が無いのは奇妙)、英国国教会とも接近。

ただし、米国台頭には批判的視点を持つ。

また、大日本帝国憲法制定に当たって、その宗教の自由保障に祝福の手紙を日本に送ったとのこと。

 

 

ピウス10世(1903~14年)

保守的で前任者の施策の多くを後退させる一方、ブラジル・ボリビア・ペルーの国境紛争を調停、ロシアとの交渉ではポーランド・カトリック教会の状況を改善し、ポグロム(ユダヤ人迫害暴動)を毅然として非難。

社会主義台頭に際して、信徒の政治活動参加禁止を緩和、伊国内の自由主義与党ジョリッティと協力。

 

 

ベネディクト15世(1914~22年)

第一次大戦に中立、伊参戦に反対したため親独的との非難を受ける。

英のパレスチナ外交に警告、平和外交を推進。

1919年ストゥルツォ神父のイタリア人民党結成。

 

 

ピウス11世(1922~39年)

共産主義の脅威に直面。

ムッソリーニはカトリックの影響力回復を代償に人民党を解体していく。

のちに戦後イタリアの首相となるデ・ガスペリは人民党内で社会党とも団結し、ファシスタ党と対決することを主張したが容れられず、地下に潜行、バチカン市内にかくまわれ、ストゥルツォは英国に亡命。

1926年人民党解散、29年ラテラノ条約、バチカン市国成立。

1933年7月にはナチス・ドイツとも政教条約締結。

しかしファシストの暴力やナチの人種主義を非難する回勅も発している。

1937年「とてつもない懸念とともに」では、人種・民族・国家の神格化を批判した。

 

 

ピウス12世(1939~58年)

批判者からは「ヒトラーの教皇」との非難すら浴びせられる人物。

独ソ戦では独に近い立場だったとも言えるが、1940年にはドイツに占領されたオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの各君主に同情の手紙を送っている。

また仏のレジスタンスを保護、ナチの暴状が激しくなると米英に接近。

ソ連には一貫して警戒と批判を保つ。

この教皇が原爆投下を糾弾したことは日本人として忘れてはならないだろう。

1943年8月ナチがローマのゲットーに侵入した際にはバチカン内にユダヤ人を保護。

ホロコーストへ一定の抗議は行っていたが、それが100万単位の規模とは認識していなかったかも、と記されている。

冷戦下、米国と急接近、元はプロテスタント国家のため疎遠だったが、ニューヨーク大司教スペルマン枢機卿を通じ、ジョゼフ・ケネディ(大統領ジョンの父)ら米政界とも親交を深める。

戦後伊国内ではキリスト教民主党を支援。

 

 

ヨハネ23世(1958~63年)

1962(~65)年第二次バチカン公会議開催。

エキュメニズム(教会統一)を推進。

無神論と物質主義に対抗して、他宗派・他宗教との協力と寛容を説く。

(現実の共産主義国家との共存を説いた「地上の平和」回勅については本書では記述無し。)

その没後、スペルマンが後任教皇に就任する見方もあったが、米国のヴェトナム介入支持発言がネックとなり実現せず。

後の破滅的結果を見れば、それで良かったと言える。

 

 

パウロ6世(1963~78年)

公会議第二会期を継続。

リベラル派ジョン・コトニー・マリー(『ルネサンスの歴史』でルターを評価するカトリック権威者として少しだけ名前が出てくる)と保守派のヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)が対峙。

ラテン語が義務化されていたミサにおいて、各国語を正式に許可。

教皇の行動範囲制約を解除し、世界各国を積極訪問。

西ドイツの東方外交と連携し、東欧共産圏と交渉を持つ。

ただし、ラテン・アメリカで急進的な聖職者が説く「解放の神学」にはジレンマに満ちた対応をせざるを得ず。

 

 

ヨハネ・パウロ1世(1978年)

在位わずか34日。

伝統派と改革派の対立の中、改革派として登位したが、直後に病死。

 

 

ヨハネ・パウロ2世(1978~2005年)

保革両派の妥協で選出。

ポーランド人で、非イタリア人として450年ぶりの教皇。

パウロ6世の理念に忠実だが、「解放の神学」は許容せず。

「解放」とはあくまで資本主義的唯物論からの脱却であり、それは政治闘争では達成され得ないと唱える。

これは非常に立派な見識だと思う。

物質的欲求を精神の上位に置く点では、共産主義者も新自由主義者も変わりない。

その意味で、米国にこの教皇を褒め称える資格があるのか疑う。

1981年暗殺未遂に遭遇。

東欧共産圏への影響力拡大を恐れるソ連KGBが関与したと見られる。

1989年には東欧共産圏が崩壊。

日本を含む多数の国を訪問。

中南米では急進的聖職者と権威主義的政府の双方を批判。

ユダヤ・イスラム教との和解を推進、東方正教会とも関係を改善、エルサレムの中立化を主張。

発展途上国での信者が急増(1978年3億4000万から2005年11億)。

 

 

ベネディクト16世(2005~2013年)

保守派のラッツィンガー枢機卿。

ドイツ人で生前退位。

 

 

フランシスコ(2013年~)

アルゼンチン出身、初の南米出身者教皇。

あと、イエズス会出身で初の教皇だということは本書で初めて知った。

 

 

 

読みやすい。

手ごろ。

テンポ良く読み進められる文章。

高校世界史の空白を埋めてくれる良書です。

2016年6月17日

ハーバート・ジョージ・ウェルズ 『タイムマシン』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:59

1895年の作。

SF小説の元祖か。

内容は特に言うことがない。

ごく短いので読むのが楽。

他の版では別の作品を収録していることが多いが、これは表題作のみなので余計にそうだ。

80万年後の未来で、弱々しい地上人イーロイ人と野蛮な地底人モーロック人が並存するという話から、文明の先行きへの悲観論が感じられるが、それとフェビアン協会加入や保守思想家チェスタトンとの論争など、著者の進歩的思想とどう繋がるのかが不明だ。

強いてこれを、というのではないが、まあ著名な作品にしては手頃です。

2016年6月13日

引用文(西部邁14)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 04:37

西部邁『学問』(講談社)より。

 

 

二・二六事件

 

一九三一年からの五年間、軍人および右翼人士によるクーデタの企てや要人暗殺の事件が相次いだ。三月事件、血盟団事件、五・一五事件、相沢事件そして二・二六事件がそれである。

保守派は、一般に、ラディカル(急進的)な変革よりもグラデュアル(漸進的)な改革を好む。そうでなければ歴史・慣習・伝統の継承がうまく進まないと考えるからである。

その意味では、この五年間に保守派は背を向けざるをえない。

しかし現状が極度に歴史・慣習・伝統から離れていたら、「政府への一撃[クー・デタ]」があって然るべきである。クーデタはもちろん法律の秩序に反する行為であるのだが、政治の道徳を取り戻すためにあえて不法を犯さなければならぬという場合もあるのだ。

二・二六事件はそうした「正統の一撃」といえるであろうか。否である。

この事件において(いわゆる統制派に対立する皇道派の青年将校)磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀らの掲げた「萬世一神たる天皇陛下御統帥」というのは――「一神」や「統帥」という言葉をどう解釈するかによるとはいえ――いかにも矯激である。

大日本帝国憲法の第十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とありはした。しかしそれは天皇の大権を、常時、軍隊に及ばせるということではない。

そもそもそんな優越せる能力が天皇にあるわけもなく、その第五十五条に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあるように、軍隊を統御するのはまずもって軍人自身なのである。

皇道派の国体論は、長きに及んだ立憲君主制支持の政体論と食い違いすぎるという意味で、反歴史的である。

後年、近衛文麿はこうしたクーデタをも国際共産主義の陰謀と(いささか被害妄想の調子で)とらえたが、「歴史破壊にもとづく社会設計の実験主義」という点で、これらのクーデタと社会主義の暴力革命とのあいだに共通性があるのは確かである。

保守派のクーデタや暴力革命は、流行に棹差す者たちとしての大衆からではなく、歴史・慣習・伝統の寡黙な担い手としての「庶民」によって支持されるものでなければならない。

ニ・二六クーデタにはそうした支持は寄せられなかったのである。

確かに、兵士の出身母体である農村は農業恐慌のなかであえいでいた。その窮状を救わんとする志においてはクーデタ軍は庶民とつながっていた。だが、庶民救済の具体策がクーデタ軍にあったわけではないのである。

いずれにせよ、天皇主権の政体を実現させようとしたこのクーデタ軍は、皮肉にも、天皇大権による戒厳令と(原隊復帰を命じた)奉勅命令によって解散させられた。

設計図すら持たない設計主義に彼らが走ったのは、感情過多のポピュリズム(人気主義)と武力優先のミリタリズム(武断主義)の両脚しか持っていなかったからだと思われる。

とはいえ、国内外の情勢が緊迫の度を増すなかで、軍人たちが至純の情を掻き立てて自分らの士気を鼓舞せんとした経緯には大いに同情すべきものがある。

ましてや、既存の権力機構が状況に適応するのに精一杯で、というよりその過程で官僚主義をむくつけくみせつけるとなれば、青年将校たちが決起するのも無理はなかったとみておくべきなのであろう。

2016年6月8日

引用文(中島岳志1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 01:13

中島岳志『保守のヒント』(春風社)より。

さて、ここまで左派と右派の違いから、「保守」「右翼」「新自由主義」といった立場の違いを見てきました。

もうお分かりだと思いますが、私はこの中で「保守」の立場に共感しています。理性への過信を捨て、人智を超えたものに依拠しながら漸進的な改革を進めていくという保守思想こそが重要だと考えています。

しかし、そんな私にとって、昨今の「保守」といわれる人たちの主張や議論には、共感できないものがたくさんあります。「それは保守思想なんかじゃなくて、単なる左翼への反発でしょ」と言いたくなるようなものが巷には溢れかえっていて、そのことが保守に対する無理解や嫌悪感につながっているのではないかと思います。

「左翼が気に入らない」という「気分としての反左翼」が保守と見なされるのは、やっぱりおかしい。「左翼の言っていることの反対のことを言っていれば保守だ」というような脊髄反射的な反左翼は、そろそろ卒業したほうがいいんじゃないかと、強く思います。

たとえば「大東亜戦争」についての見方ですが、私は「保守派」=「大東亜戦争全面肯定論」といった巷の図式は、どうしても受け入れることができません。保守思想を根本に据える限り、大東亜戦争の背景にあった思想を肯定することは、そう簡単にできることではないと思うからです。

「大東亜戦争」に至る社会思想を支えたものは、明らかに行き過ぎた設計主義です。理想社会の実現に燃えて満州を統治した革新官僚しかり、二・二六事件などのクーデターを構想した青年将校・革新右翼しかり、大東亜共栄圈の構想しかり、です。「王道楽土」という極端な理想主義や「八紘一宇」という世界連邦思想など、保守主義からは遠くかけ離れた思想だといわざるを得ません。社会を一気に変えてしまう「革命」を批判してきた保守が、五・一五事件や二・二六事件のような革命的クーデターを容認できるはずがありません。保守は、あくまでも「漸進的な改革」を志向する存在です。

もちろん私には、自分が経験したことのないような戦場の極限状態で、懸命に生きて死んでいった日本人たちに対する畏敬の念があります。私の祖父も戦場に行った人ですし、話を聞いていると、祖父のような市井の人間が欧米の植民地主義に強い反感を持っていたこともよく理解できます。だから、近代日本の歩みを全否定するような議論には、どうしても違和感を覚えます。

 しかし、一九三〇年代以降の歴史を、全面的に肯定することもできない。あの時代には、間違いなく行き過ぎた設計主義や理想主義が共有されていました。人間の(多くの場合は日本人の)能力に対する思い上がりがアジア諸国に対する帝国主義的支配につながったことに対して、私は保守思想を重視するが故に、批判的です。

しかも、当時を生きた保守主義者たちは、「大東亜戦争」に対して極めて懐疑的で批判的でした。代表的なのは福田恆存や田中美知太郎ですね。

福田恆存は、一九八〇年に『諸君!』に掲載した論考「言論の空しさ」の中で、次のように言っています。

 

「当時、私は反戦ではなく厭戦であつたと書いた事があるが、それは反戦を進歩主義の象徴とする風潮に対する一種の厭味であつて、実はやはり反戦であった。勿論、戦争を悪とするが如き単純な反戦ではなく、国家、国民の命運を賭けた戦に対する姿勢、態度の軽佻浮薄にへどが出るほどの反感を覚えたのである。」

福田はここではっきりと、自分は「反戦」の立場だったと述べています。それは、戦争に至る日本人の態度の軽々しさに「へどが出るほどの反感を覚えた」からだと言います。事実、福田は戦争中に職を辞して、自宅の庭に防空壕を掘ったりしています。恐らくは、アメリカも酷いが、戦争に突き進む日本の指導者・国民も「軽佻浮薄」で気に入らないというのが福田の当時の心境だったのでしょう。

これは戦前・戦中の日本を研究してきた人間としては、よくわかります。戦前の皇国主義的な熱狂は、ちょっと異常なテンションです。しかも言葉がものすごく軽い。福田が「軽佻浮薄」だと見なした感覚は、当時の新聞などを読んでいるとよくわかります。

このような感覚は、田中美知太郎も同様です。
田中は、『諸君!』に連載し、後に単行本化された『時代と私』(文藝春秋社 一九八四年)の中で、戦争当時を回想して次のように言っています。

 

「わたしは戦争一般とか、あるひは戦争目的について、一般的な抽象論の立場で否定の結論を出したわけではない。むしろもつと具体的に、この戦争が日本国民のためにならない戦争であり、満州事変以来の愚昧と不正の国内政治から生まれて来た不始末のやうなものであるから、これを容認できなかったのであり、一刻も早く中止すべきものと考へただけのことであると言へば、まあ大体は当ってゐるのではないだろうか。」

田中は、ここではっきりと「満州事変以来の愚昧」という表現を使っています。そして「大東亜戦争」をそのような「愚昧」と「不正の国内政治」によってもたらされた「不始末」と批判しています。

これこそが、戦争を潜り抜けてきた保守思想家の言葉です。まともな保守思想家は、あの時代の極端な設計主義や熱狂を、とても苦々しく見ていました。

だから、昨今の田母神ブームのような現象は、私には保守からの逸脱としか思えません。近代日本を全面的に否定するような議論への批判としては理解できますが、しかしその反動として根拠が希薄な陰謀史観をもちだし、満州事変のような左翼的設計主義やラディカリズムを全面肯定しようとする姿勢は、余りにも浅はかとしか言いようがありません。

このような現象は、一種のポピュリズムなのでしょう。田母神現象は現代日本の保守崩壊を象徴しています。

昭和維新運動は「保守」ではない

さて、三月事件や一〇月事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件といったテロ、クーデター事件が繰り返されたのが昭和初期の日本社会だったわけですが、このような一連の昭和維新運動を、私は保守の立場からどうしても肯定的に見ることができません。繰り返しになりますが、一部の人間が担い手となる革命によって、世の中を一気によくしようなんていうラディカリズムは、保守の精神から最も遠いものです。そこには過剰な理性への過信が見え隠れしていますし、理想社会の実現可能性を妄信しすぎています。

・・・・・・

頭山満のような伝統右翼の文章には、このような設計主義的な政治ヴィジョンはほとんど出てきません。彼らは制度設計という発想は、ほとんど持っていませんでした。伝統右翼にとっては、このような過剰な「計らい」こそが近代の理性主義・合理主義の問題と捉えられたわけで、新世代と旧世代の間に大きな思想的差異が生じていることが分かると思います。

私は基本的に、北一輝や大川周明を「右翼の本流」と捉えることに疑問を持っています。特に北一輝は理性によって世界を理想的なものに改造できると考えていますし、そのための手段として天皇を位置づけようとしています。また、彼に強い影響を受けて二・二六事件を起した青年将校・磯部浅一は、獄中手記の中で厳しい天皇批判を綴っています。自らの革命の意思を理解できない天皇にに対して「何と云ふザマです」と憤っています。

彼らにとって、自己の設計主義的改造プランは、天皇の大御心の上位に位置づけられる概念です。自分たちの構想こそが国民の総意を反映しており、この総意と大御心は一致すべきであるとの見解が共有されています。

これは、天皇を奉じているように見えて、実は天皇を国家改造の手段と見なす「非右翼」的な態度です。「革新右翼」の存在は、大川周明が自己規定しているように、左派・革新勢力の一形態と見なすほうが理解しやすいでしょう。

・・・・・・

日本語には、元々、「輿論[よろん]」と「世論[せろん]」の区別がありました。前者は「パブリック・オピニオン」(公的な意見)を意味し、後者は「ポピュラー・センチメント」(大衆的な感情)を意味します。小泉靖国参拝のときに表出したものは、あきらかに「オピニオン」ではなく「センチメント」でした。ここでは論理的思考が感情的熱狂に追いやられ、議論が通じない社会が現出してしまっています。

・・・・・・

そして、このような気分化した世論は、最近の異常なバッシング現象と軌を一にしています。

これは左派/右派に関係ない現象です。

たとえば、原発事故の問題については、まったく批判や議論が継続しないにもかかわらず、赤坂の議員宿舎の家賃が九万円ほどであることに対しては、延々と批判の声が継続します。日本は公務員数が先進諸国に比して圧倒的に少ないにもかかわらず、公務員数の削減を要求する声は拡大し続けます。

結局のところ、想像可能な嫉妬心に基づく気分的な批判ばかりが繰り返され、特定の人物や集団に対するバッシングが支持を集めるのです。敵を創造し、それを容赦なく叩くことによって、政治的な支持が与えられています。

・・・・・・

「ざまあみろ」という気分に基づくバッシングは、見ている側にとっては心地いいのでしょう。もちろん行き過ぎた無駄遣いは正されるべきですが、しかし、独断的に「ムダ」というレッテルを張られ、反論する機会を奪われ、その状況に戸惑う姿がテレビで放送され嘲笑される人のことを考えると、どうしても強い憤りを覚えます。

最大の問題は、このような気分化した「世論」なのではないかと私は思っています。

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.