万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年5月20日

徳善義和 『マルティン・ルター  ことばに生きた改革者』 (岩波新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:57

こういう超有名人でも、手頃な、いい伝記というのはなかなか無いものです。

私が最も感心したのは、モンタネッリ『ルネサンスの歴史』下巻に記されているルター伝だが、2012年にこれが出た。

著者は1932年生まれで、ルーテル神学校を卒業、ルター著作集の共訳者だそうです(お名前の漢字が全部いい文字ですね)。

1483年マルティン・ルターはハンス・ルダーの子として生まれる(父親はルダー姓、改革者として立ち現れた頃からルターの名を使用するようになる)。

ドイツ中東部のザクセンおよびテューリンゲンで主に活動。

農民から鉱夫を経て実業家にまでなった父の期待を受けて法学を修めるが、突然修道士となる。

1517年ザクセンのヴィッテンベルク大学で「九十五箇条の提題」を発表、宗教改革の烽火が上がる。

1521年教皇に破門されるが、当時ザクセンで発達していた鉱業を管理する宮廷顧問官など、ドイツの新興官僚ら勃興しつつあった社会的諸勢力の支持を受け、ローマ教会への抵抗を続ける。

結果、ローマ・カトリック一色だったヨーロッパ世界が、主に四つに分裂。

カトリック=フランス、イタリア、スペイン、アイルランド、ドイツ南部、オーストリアおよびポーランド、チェコ、ハンガリー。

ルター派=北ドイツとデンマークおよびスカンジナヴィア諸国。

カルヴァン派=オランダ、スコットランドおよび西ドイツの一部。

英国国教会=イングランド。

高校世界史の範囲内だが、この宗教改革後の宗派別色分けは、すぐ頭に浮かぶようにしておいた方がよい。

まず宗教改革の代表格であるルター派の範囲が実は余り広くないことをイメージしておく。

結局プロイセンを含む北ドイツと、そこから北に向かってデンマーク、スウェーデンの北欧諸国のみ。

カルヴァン派も、フランスのユグノー、イングランドのピューリタンという極めて強力な少数派を形成したが、一国の国教的地位を占めたのはオランダとスコットランドだけ。

だが後にアメリカ合衆国という巨大国家の多数派教派となる。

で、この範囲外、バルカン半島南部とロシアはもちろんギリシア正教会の管轄。

プロテスタント勃興により、古代の教父ヒエロニムスによるラテン語訳「ウルガタ」聖書(元々旧約はヘブライ語、新約はギリシア語[コイネー]で編纂)の解釈を教会が独占し、民衆の精神生活がその庇護下に置かれていた中世時代は終焉、人々が母語に翻訳された聖書を通じ、直接神に向き合う時代が訪れた。

以下、ウォルムス喚問で皇帝に対し、神と自らの良心の名の下に、敢然と反抗したルターの決断について。

ヨーロッパの近代は、思想的には、個人の人格、主体性、信念や信条を尊重することを基本に発展したが、ルターのこの発言はその先駆けとなったともいえるだろう。ただし、ルターの言う「良心」とは、神という絶対的な存在を前にしての良心であって、近代の思想家たちが考える、人間を主体とした良心とは異なることに注意が必要である。ルターには、人間は罪を犯さざるをえない存在であるという認識があった。そういう存在である人間の良心は、自ら善きものになれるものではなく、神のことばにとらえられることで初めて善きものになれる。ルターの回答の最後、「神よ、私を助けたまえ」という言葉は、そのことを語っているのである。

この結果をどう見るか。

贖宥状の乱発に象徴されるように、当時の教皇庁の堕落が目に余るものだったことは疑い得ない。

しかし、カトリックという普遍的教会の束縛を脱して、新教の各派教会に属すると、あるいは教会という媒介無しに個人として存在するようになると、後には信仰や良心自体を投げ捨てるようになったのが、近現代の民衆なわけです。

主観的には真摯な信仰から発したものであっても、結局宗教改革は近代の世俗主義が蔓延る契機になってしまったという印象が強い。

そうなると、プロテスタントの誕生自体をなかなか肯定的に見ることができなくなってしまった。

フランスはカトリックに留まりつつ、ローマ教皇と政教協約を結び、独自の国教会に近いものを作り上げているが、せめてそのくらいに収まらなかったものかと、やや無責任だが、そう感じてしまう。

ルターのドイツ語著作が、新発明の活版印刷によって史上初のマスメディアとして機能したと書かれてあるのも、嫌な感じです。

情報技術の発達について、活版印刷は宗教戦争を、新聞は帝国主義戦争と共産主義を、ラジオはファシズムを、テレビは先進諸国の衆愚社会化をもたらしたと言える。

ではインターネットは、となると怖くなってくるので、考えるのは止めておきます。

ルター自身が、後世破滅的な結果をもたらしたものの萌芽で苦しんでいる。

聖書の言葉に縛られず、自らの意思が神の霊と直結していると考え、自身の行為を絶対化する「熱狂主義者」である。

ヴィッテンベルク大学の同僚で急進派のカールシュタットは、ルターの権威で押さえ込むことができたが、1525年ドイツ農民戦争が勃発。

・・・・・見解を求められたルターは「勧告」を執筆し、まず諸侯の責任を指摘し、中立、公平な仲介者を得て、事態の平和的な解決に努めるように求めた。ルターの主張は、キリスト教の名の下に社会的要求を掲げてはならないこと、ただし農民たちの要求の中には正当なものもあるので、諸侯はこれを認める努力をすべきこと、事態の解決に当たって実力行使は行ってはならないことなどであった。

ところが、状況は急激に悪化し、一揆は一気に暴動状態へとエスカレートしていった。急転回する事態に対応できず、荒れるに任せていたなかで、ルターは急遽、『農民の殺人・強盗団に抗して』を執筆して、暴徒の鎮圧を諸侯に求める。かつてヴィッテンベルクの騒乱に直面した際には、「力によらず、ことばによって」の基本に立ち、事態を平和的な解決に導いたルターであったが、このときは、信仰においては一切妥協しないという厳しい一面を見せた。ルターにとって、福音の名の下、暴力によって要求が押し進められるのは、認め難いことだったのである。

よく批判的に言及されるが、このルターの態度自体は非難に値するとは思えない。

こうしか仕様が無いと思える。

しかし、以下のユダヤ人に対する態度には首を傾げる。

ユダヤ人のキリスト教への改宗は、ルターの生涯の課題であった。・・・・・かつてローマ・カトリック教会が支配していた時代には、キリストの福音は正しく教えられていなかった。だから、ユダヤ人はキリスト教に改宗するのが困難だったのだ。このように論じるルターは、ユダヤ人として生まれたイエス・キリストの説いた福音が、宗教改革によって明らかにされた以上、ユダヤ人もいまやキリストの教えの下に身を寄せることができるだろうと説く。

「いやいや、そんなわけないでしょう」と思わず言いたくなる。

実際には改宗者はほとんど生まれず、ルターは反ユダヤ的発言を残し、それが後世ナチに利用されることになってしまう。

ルターの教義内容については、以下の文章のみを引用しておく。

ルターの宗教改革的発見は、聖書を人間に実現可能な掟の書として見ないと捉えたことになる。律法のことばは、人間を自分の弱さに徹底的に直面させる。ルターは絶望のどん底の中で、ようやくそのことに気づかされた。そして、その絶望のふちから、聖書のもうひとつのことばである「福音」へと一挙に反転跳躍する。律法から福音へ。この転回運動が人間に救いをもたらすのであり、キリストがその死と復活によって、すなわち十字架によって人間に示したことである。ルターは聖書のことばとの格闘から、そういう理解に到達したのだった。

こうして聖書の読み方が変わった。対照的、対立的に捉えれば、伝統的な教会の読みは人間の能動的な行いを強調し、ルターの読みは人間の受動的な受け入れを強調したといえるだろう。強調点の置き方は異なっても、律法を福音と並んで重視する点では、伝統的な読みも、ルターの新しい読みも、なんら変わるところはない。ルターの読みが画期的なのは、律法に注目して人間の行いを重視するあまり、福音を見失っていた伝統的な読みの道すじを一八〇度逆転させたことであった。律法による絶望の下で、福音は新しく姿を現す。神はこの道を、キリストによってすでに備えていた。ルターによる発見が、「福音の再発見」と呼ばれる所以である。

以上の文章の通り、だから教会の教えに従う能動的行為を強調する点で、カトリックの方が人間の自由意志の重要性を認めているという見方ができるわけである。

1546年、ルターは死去。

同年シュマルカルデン戦争勃発。

1555年アウグスブルク(アウクスブルク)の宗教和議を、ルターは知ることがなかった。

 

 

悪くはないんですが、ちょっと物足りない。

決定版伝記という感じはしない。

もっと詳しい内容が欲しいところだが、その分読みにくくなるか。

まあ普通です。

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