万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年4月9日

イプセン 『民衆の敵』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:15

『人形の家』が当時もたらした衝撃は今日の我々にはもはやわからない、と記事に書きました。

女性の権利擁護や自立促進は(十分に実現されているとは言えないが)方向としては完全な正義と認識されているので。

しかし、こちらの作品の方が今読むとはるかに衝撃的だ。

なぜなら民主主義と多数決制を真正面から否定しているものだから。

ノルウェーのある田舎町で、医師ストックマンが、町に繁栄をもたらしている温泉に有毒物が混入していることを発見し、大いに費用のかかる水道の付け替えという対策を採るよう訴えるが、目先の利益に目がくらみ、真理・真実から目を背け、詭弁を弄して言い繕う町の有力者・富裕層と、彼らに易々と煽動され、言うがままになる町民によって迫害され、「民衆の敵」とのレッテルを貼られ、排除されてしまう。

自由思想家気取りの反権力ジャーナリストや、反対党派に属するがゆえに一時主人公に近づく人々も、結局私利私欲からストックマンを裏切り、家族以外では唯一、朴訥な船長だけが味方となる。

(以下引用、旧仮名遣い等の変更あり。)

真理と自由とのもっとも危険な敵は、――いいか、堅実な多数である!そうだ!この呪うべき、堅実なる、ぐうたらなる多数である。・・・・・わたしの自由を奪い、わたしの真理を語る口を塞ぐのは、この社会を占むる圧倒的多数の人間のなす業である。

・・・・・多数が正義を有することは断じてない!断じて、だ!これこそあまねく瀰漫した社会的虚偽の一つであって、之を聞くごとに、一箇の独立した思索しうる人間は憤怒を覚えざるをえないのである。そもそも一つの国に於て、その住民の多数は一体いかなるものから成ってをるか?――それは悧巧であるか、それとも馬鹿であるか?このひろい地球上いたるところ、馬鹿こそまさしく圧倒的大多数を占めるものである。・・・・・しかるに何たる事だ、呪うべし、憤るべし、馬鹿が悧巧を支配することがあたりまえ、とは怪しからん話ではないか!

よろしい、よろしい。諸君はわたしを怒鳴り負かすことはできるだろう。しかし反駁することはできんじゃないか。多数は力を持っている。――まことに遺憾ながら――之は事実だ。しかし正義を持つことは決してない。・・・・・正義とはつねに小数のみの所有するところのものだ。

・・・・・ああそうだ、そうだとも。・・・・・わたしは革命家になったのだ。わたしは、多数の声は真理の声である、――などという虚偽に対して革命を起そう、と考えているのだ。そもそも、多数がそのまわりに寄ってたかるような真理とは一体なんだ?そういう真理はもはやよぼよぼに年をとって、いまにもぶっ仆れそうになっている真理だ。・・・・・年老いた真理などというものは、かならず見る影もなく痩せ衰えたものだ。しかるにだ、こうなってはじめて多数はその真理を知って、之を健全なる精神的栄養として社会にすすめるのだ。こんな食物に栄養的価値は少しもない。・・・・・こういう多数向きの真理というものは、去年つくった燻製肉みたいなものだ。ぷんと臭って、腐って、そいつを鹽でおし直したハムみたいなものだ。われわれの周囲のあらゆる社会層に猖獗するこの道徳的壊血病は、こうして発生する。

・・・・・大衆、群集、この呪うべき堅実なる多数、――これこそわれらが生活の精神的源泉を腐らしめ、われらの足下の大地を病毒の巣と化すものである・・・・・

・・・・・そういう汚物は山ほど数えあげることができる・・・・・それは、諸君が親の代から譲られたものであって、それを諸君がいまなお無分別にも社会にむかって喚きたてているところのものだ。すなわち、――下等種属、群集、大衆、――これが国民の精髄である、これが国民そのものである、――という教えだ。社会に於て、凡庸な人間、無智低級な人間が、小数の真に精神的に高い人格者と平等に、裁いたり認めたり支配したり決定したりする権利がある、――というあの思想だ。・・・・・わたしが言及するところの賤民とは、何も下層階級の間にのみ発見せられるものを言うのではない。かかる類の者はわれらの周囲にうようよと這いまわっているのである。――社会の最上層にまで跋扈しているのである。

そうとも!わたしはわが生れ故郷を愛する。愛する故に、わが町が虚偽の上に栄えるのを見るより、むしろその滅亡を期するのだ!

やや気になる点もないではない。

多数が古き因襲に囚われるというより、新奇な流行に乗ぜられて誤りを犯す方がよりあり得るのではないか?

それに抗する少数者も、未来の真理を先取りするというより、過去に存在したそれを再発見しようという構えが無ければ、民主主義を克服すると称して、実は表面上別種の群集心理を絶対化してしまった右翼全体主義の罠にはまってしまう恐れがあるように思われる。

しかし訳者あとがきで紹介されている作者の手紙は実に含蓄が深い。

いわゆるリベラルなジャーナリズムの態度は何たる事であるか。また、行為や思想の自由を説きかつ筆にしながら、かえっていわゆる購読者の意見なるものの奴隷と化しさっている新聞の指導者たちの態度は何たる事であるか――。私は、政治に関与し党派に所属するということには、なにか道徳的頽廃を伴うものがある、という従来の確信をますます強めるばかりであります。すくなくともこの私は、多数を味方とする党派には絶対に加入する気はありません。ビョルンソンは『多数はつねに正義を持つ』と言います。そうしてまた実際政治家として、彼はしか言うを余儀なくされるのであろう、と想像します。しかし私は、その反対に、『少数こそつねに正義を持つ』と言わざるをえないのです。・・・・・わが国民をデモクラティックな社会をなそう、という努力は、元来はもっと讃えらるべきものではありながら、そのためにわれらの社会は、しらずしらずのうちに、甚だしい程度に賤民の団体に化し了ったのであります。われらが郷土に於ては、精神的高貴というものは次第に消滅しつつある。

現在の日本に引き付けて言えば、「言論の自由」を利用した愚昧・低劣な多数者による、賢明・穏健な少数者への言論抑圧などは、ネット社会で嫌と言うほど見せつけられています。

「反左翼」という「年老いた真理」を妄信し、何の知性も品位も無く反対者に罵詈雑言を浴びせて自己満足に耽る自称「保守」「右派」「愛国者」の跋扈も同様です(そんな見下げ果てた連中は二、三十年前ならば間違いなく左翼的たわ言を同じように妄信していたでしょう)。

作者の言う、言葉の真の意味での(精神的な)「賤民」が、改革派政治家・経済学者・IT企業家などの「社会の最上層」(とんだ上層もあったもんですが)を占めているのも間違いない。

事態がここまで来てしまえば、祖国の滅亡を望むような心境になるのも、理解できなくはないです。

 

 

本書は竹山道雄氏の手に成る相当古い訳で、しかも独訳からの重訳らしいですが、大きな問題はないでしょう。

非常に重い読後感を与える傑作として、強くお勧めします。

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