万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年4月3日

ショーペンハウアー 『読書について』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 07:43

岩波文庫版で既読のものを今回この版で再読。

表題作と「自分の頭で考える」「著述と文体について」を併録。

再読して何より強い印象を受けたのが、読書論についてのあれこれではなく、匿名の誹謗中傷的言論に対する徹底的な批判。

現代社会最大最悪の宿痾が、近代の始まりにおいてすでに賢明な人には見えていたんだと思った。

それを知ると、何とも言えない焦燥感と嫌悪感に駆られる気持ちがやや落ち着くが、同時にこの種の悪を防ぐことはもう何をしても不可能なんだなとの乾いた絶望感も感じる。

 

なによりも、物書きの悪行の盾となっている匿名性が廃止されねばならない。評論雑誌が匿名性を採用した口実は、読者に警告する正直な批評家を、著者やそのパトロンの遺恨から守ることだった。だがこの種のケースが一件あれば、自分で言ったことの責任を負えない者が、あらゆる責任をのがれるために匿名にするケースや、金でいいなりになる卑劣漢が、出版業者から酒手をかせぐために、悪書を読者に推奨し、その破廉恥な行いをかくすために匿名にするケースは、その百倍あるだろう。また単に、批評家のどんよりした脳みそ、無価値・無能ぶりを覆い隠すのにも用いられる。信じがたいことだが、匿名の陰で身の安全がはかれるとなると、連中は無礼きわまりなく、ひるむことなくペンでどんな悪事でもくりだす。

 

ルソーは『新エロイーズ』序文に「名誉心ある者なら、自分が書いた文章の下に署名する」と書いている。この逆も言える、すなわち「自分が書いた文章の下に署名しないのは名誉心なき者だ」。これは攻撃的文書におおいにあてはまり、たいていの批評がそうだ。だからリーマーが『ゲーテにまつわる報告』(序文29ページ)で言ったことは正しい。「面と向かって率直に発言する相手は、名誉心ある穏健な人物だ。そういう人物なら、お互いに理解し合えるし、うまく折り合い、和解することができる。これに対して、陰でこそこそ言う人間は、臆病な卑劣漢で、自分の判断を公言する勇気すらない。自分がどう考えたかはどうでもよく、匿名のまま見とがめられずに、うっぷんを晴らし、ほくそ笑むことだけが大事なのだ」。これはゲーテの意見でもあった。ゲーテの意見はたいていリーマーの報告にそのまま引かれている。

 

匿名の評論雑誌はそもそも、無学が学識をさばき、無知が分別をさばいても処罰されない無法地帯であり、一般読者をあざむき、悪書をほめそやして時間と金をだまし取っても見とがめられない場だ。匿名は物書き、とくにジャーナリズムのあらゆる悪事の堅固な城塞ではないか。

こうした匿名批評家の特に愚かしくあつかましい言動は、国王のように〈Wir〉〈われわれ〉と一人称複数形で話すことだ。

こうした生業は金をもたらすが、名誉をもたらさない。攻撃する匿名氏はとりもなおさず卑劣漢で、請け合ってもよいが、名乗ろうとしないのは公衆をあざむこうという魂胆だからだ。ただ匿名の著者に対しては、匿名で批評する権利が与えられる。そもそも匿名を撤廃すれば、あらゆる物書きの悪事は九九パーセント存在しなくなるだろう。

[原注より]

匿名批評家がおかした罪に対しては、編集者自身が書いたかのように、編集者に直接、責任を負わせるべきだ。それは徒弟がへたな仕事をしたときに、親方に責任を取らせるのと同じだ。こんな稼業の連中など、鼻であしらえばいい。匿名は文筆の世界のならず者だ。すぐさま「ならず者め、ひとの悪口を言いながら、それを自分の仕業とみとめる気がないのなら、その中傷の口を閉じろ!」という言葉を浴びせればいい。匿名批評には匿名の手紙ほども価値がないのだから、そんなものは匿名の手紙に対するのと同じ不信の目で応じればいい。そうしないと匿名の書き手に誠実さをみとめ、匿名協会会員として容認することになってしまう。決してそんなことがあってはならない。

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