万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年3月10日

南川高志 『新・ローマ帝国衰亡史』 (岩波新書)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 12:13

本書では、まずローマ帝国衰亡論の変容について語る。

ギボン以来、蛮族侵入とキリスト教化に滅亡原因を求め、5世紀をもって古代から中世にはっきりと移行したという見方が一般的。

その後、政治より社会・文化の重視、心性史の研究深化から、急激な変化よりも継続性に注目し、2世紀から8世紀まで、帝政ローマからシャルルマーニュ時代までを「古代末期」と規定し、古代でも中世でもない時期とする見解が生まれる。

だが、21世紀に入ると、再度帝国滅亡の事実を重視する研究が現れることになる。

本書では、ローマ帝国を「地中海帝国」と定義しイタリア・ローマ市を中心とする史観に疑問を呈し、アルプス以北の広大な「辺境」を重視する。

時期的にはコンスタンティヌスから5世紀初頭までを扱う。

ただし5世紀初頭と言っても、410年ゴート族のローマ攻略にはウェイトを置かず、ブリテン島の帝国離脱などを取り上げる。

 

まず、「線」ではなく「ゾーン」としての国境。

ローマ帝国盛期の国境は閉鎖的な軍事境界線ではなく、外部との日常的で盛んな通商が行われている。

(ただし、東方ササン朝は真の「敵」「他者」として認識されていた。)

市民権の拡大は続き、社会的流動性が確保されていた。

その中で、ラテン語と(混交的)伝統宗教がローマ人としての自己認識を与え、それを備えた軍隊と地方有力者の協力関係こそが帝国を実体化するものだった。

中央にはごくわずかな官吏が存在しただけで、地方自治への行政丸投げが顕著。

属州の「ローマ化」は実際にはそれほどでもなく、地方有力者が主流。

それに相対する「ゲルマン人」も、各部族が固定的で一律な集団ではなく、離合集散を繰り返し、その都度アイデンティティが構成し直されていく。

著者は、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの統治に異なる歴史的意義を見る。

ディオクレティアヌスはドミナートゥス創始者というより3世紀軍人皇帝の最後(なお「3世紀の危機」はやや誇張されているとも言う)。

ディオクレティアヌスは騎士身分を政界に進出させ元老院議員身分を排除、皇帝直属部下が支配権を持つ体制を構築。

一方、コンスタンティヌスは騎士や都市参事会議員を元老院議員に昇格させ、統治権を再び元老院に戻す。

騎士身分自体が4世紀のうちに消滅。

テトラルキア(四分統治制)混乱時に支配基盤となったガリアの新興地方有力者を元老院に引き上げる一方、東半では内戦勝利者として乗り込んだため、直属官僚による中央集権政治を確立、東西で統治構造に差が生じることになった。

なおコンスタンティヌスによる外部世界からの兵士登用は、この時点では軍の「蛮族化」というべきものではない。

それは後世の事実を少し前のこの時期に遡及させた見方。

軍制改革として、ディオクレティアヌス時代、辺境に大軍を貼り付けていたのを削減し、野戦機動軍を創設、軍人皇帝時代に重武装の境界線となっていた国境は、再び曖昧なゾーンに戻され、野戦軍管轄地域は広域化し、指揮権は統一された「総司令官」職に一元化された。

この職に後には外部部族出身者が就任することになるが、コンスタンティヌス大帝在位時には問題化せず。

その他には、ニカイア公会議にも関わらず大帝はアリウス派に接近、後継者を親族に分散させて紛争の種をまくことになった。

(なおコロヌスなど経済面の話は本書では無し。)

大帝死去直後の親族殺害を後継者コンスタンティウス2世が主導したとの確証は無く、おそらくその周辺の人物であろうと思われる。

だがこの事件が後の宦官政治と相俟って、コンスタンティウスの治世に暗いイメージを与えることになってしまった。

マグネンティウスの反乱鎮圧後、ガリアでの粛清とアリウス派信仰強要。

コンスタンティノープル元老院を整備し統制下に置き、東方では皇帝権力強化。

国内の統一を維持し、対外威信を確保したコンスタンティウス2世時代には帝国衰退の兆しは見られない、と評されている。

その従兄弟で「背教者」として有名なユリアヌスが副帝としてガリアで活躍。

これをコンスタンティウスが妨害したという説には根拠は無い。

この時期のユリアヌスを、コンスタンティウスが不当な監視下に置いていたとの記述が、ギボンや辻邦生『背教者ユリアヌス』などに多く見られるが、ユリアヌスは即位前まで軍事経験が全く無かったのだから、コンスタンティウス任命の将軍たちが仕切ったのは当然とも言える。

蛮族侵入によるガリアの荒廃ぶりも、ユリアヌス自身と彼を英雄視する史家アンミアヌスが誇張した虚像の可能性があるとされている。

後にユリアヌスが軍事行動を主導して大きな成果を挙げたことは事実だが。

(ユリアヌスに批判的な著作を書いた現代史家バワーソックは、ユリアヌスを硬軟両様の策を用いた現実主義者ではなく、好戦的指導者としているが、著者はそれも一面的見方だと退けている。)

ユリアヌスが対峙したフランク族、アラマンニ族は、上述の通り、固定的「民族」集団ではない。

内政では、帝国初期のイタリア地方都市・属州都市出身者台頭、3世紀のドナウ・バルカン地方に続く、4世紀の外部部族登用がコンスタンティヌスとユリアヌス時代に見られ(「第三の新しいローマ人」)、配下の将軍らにもフランク・アラマンニ出身者がいた。

ユリアヌスは周囲に推されてパリで正帝に即位、バワーソックはこれを意図的行動とするが、著者は必ずしもそう見ていない。

副帝時代にガリアを安定化し掌握したユリアヌスだが、正帝即位後、東方へ向かい消耗、戦死。

続くヴァレンティニアヌス朝時代。

外部出身者の軍編入形態に変化が生じる。

以前からあった個々の外部部族による補助軍加入が、組織的移住・植民(ラエティ)に変わり、それがさらにフォエデラティ(同盟部族)に与えられた土地で自治権を持ち、戦時には帝国ではなく元の部族・集団の指揮で戦う形になり、ブッケラリイ(有力者の私的軍隊)が(特にガリアにおいて)生まれることになる。

軍事ポストの評価が高まり、「第三の新しいローマ人」がそこに多く就任。

辺境での募兵が行われた場合、別の地域での勤務が原則だったのが、4世紀以降の機動軍設立と帝位争いのため、地元での兵士補充が常態化し、それが地方有力者と結合して帝国の実質的統治下でない存在となる。

「民族大移動」の端緒となったゴート族についてはヨルダネス『ゴート史』があるため詳細な民族史が記されてきたが、これも固定的民族アイデンティティを一貫して持ち続けてきたとは認められない。

西ゴート、東ゴートの語も本書では用いず。

フン人=匈奴とは断定できず、現在でも民族系統不明とされる。

「民族大移動」について、376年が特に大規模とは言えず。

ただしローマ帝国が長年避けてきた、多くの部族集団が共同連携して帝国に反抗するという事態が初めて生じる。

378年アドリアノープルの戦いで、皇帝ヴァレンス敗死、軍事上のみでなく精神的にも影響は甚大。

251年デキウス帝がゴート族相手に戦死、しかし後継帝がゴート族を撃退している。

今回、ゴート人はドナウ以北に戻ることは二度と無かった。

テオドシウス帝時代、ゴート族とのフォエドゥス(条約)締結。

独立勢力の永住を帝国内に認めた画期的(ある意味致命的)出来事との評価がなされてきたが、この内容自体は以前にも例がある。

重要なのは、その後定住して帝国構成員として暮らしたのではなく、再度移住し始めたこと。

東西分裂後、偏狭なローマ人意識が台頭、多様な外部部族を「ゲルマン人」として一括して敵視する傾向(「排他的ローマ主義」)が生じ、それに反発して外部部族の側でもローマの伝統・習慣に従わず、独自の風習を維持するようになった。

蛮族の「大侵入」の実態について、伝統的にはもちろんその破滅的状態が強調されてきたが、歴史学者の間ではその順応的側面が述べられるようになった。

しかし最近では、実態はやはり極めて破壊的なものであったとの解釈が力を得ているとのこと(個人的にはそりゃそうでしょう、と思う)。

410年ホノリウス帝はブリテン島を放棄。

結局本書で最重要視されているのはこの史実。

この時にローマ帝国としての意義は消滅した、と著者は判断している。

ローマ人としての自己意識を持った軍隊が消え、外部部族を同化する意志が潰え、侵入者に荒されたガリアでは有力者が直接住民を支配下に入れて自衛・自立する。

以後西ローマは程なくイタリアの一地方政権に転落し、アエティウスによるフン人撃退も、その一地方政権が自己防衛のため、その時の諸部族の力関係を利用して連合を組織して一時的に成功したのみ、と解釈している。

476年の「西ローマ帝国滅亡」は、同時代にはさして注目されず、次の6世紀になってローマ帝国滅亡と認識されるようになった。

4世紀の第四四半期まで対外的には劣勢でなかったのが、5世紀初頭には西半が(事実上)滅亡。

30年ほどで、全ローマ史から見れば、ほとんど「一瞬」の滅亡と言える。

 

 

十分面白い。

経済・文化、地中海周辺地域、キリスト教などは扱わず、あくまで政治史中心の試論と著者は断っているが、その方がかえってわかりやすいものになっている。

専門的な研究をよく噛み砕いて、読みやすい形で提供してくれている、良質で有益な啓蒙的入門書の見本とも言える本。

同じ著者の『ローマ五賢帝』と共に、何の躊躇いもなく推薦できます。

広告

WordPress.com Blog.