万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年3月6日

トマス・アクィナス 『君主の統治について  謹んでキプロス王に捧げる』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:38

専門の研究者でもない限り、トマスの主著『神学大全』は絶対に読めない。

中央公論「世界の名著」(現在では中公クラシックスにも収録)の抄訳でもまず無理でしょう。

本書はトマスによる唯一の政治論的著作とのこと。

人間が政治的動物であり集団生活をせざるを得ない以上、統治の必要は歴然としている、と述べた後、アリストテレスに倣って、支配者の数に基き、正しい支配を君主制(王制)・貴族制・政体(ポリティア=すべての支配形態に共通の名称)、不正な支配を僭主制・寡頭制・民主制に分類。

(最後のものはそれぞれ民主制と衆愚制でないことに注意。)

そのうち、力と意志を集中させ得ることから、正しい支配の中では君主制が最善であり、不正な支配では僭主制が最悪であるとする。

現代の「常識」では君主制が最善とは信じられないだろうし、不正な支配の中では民主制の悪が最も少ないというのなら、危険の少ない政治体制として多数者の支配たるデモクラシーを理想としていいのではないかと考えるでしょう。

しかしトマスは、最悪の支配体制である僭主制、それもその中でも最悪である過度の独裁制は、君主制からではなく、民主制(とそれに不可避的に付きまとう党派争いから生まれた寡頭制)からこそ、しばしば生じるものだと鋭く指摘する。

ところで、危険のさし迫った二つのもののうち、どちらかを選ばねばならぬ場合、より少ない悪の生じるもののほうを選ぶべきであろう。君主制はたとえそれが僭主制に転じることがあるとしても、そこから生じる悪は多数の貴族たちによる支配が腐敗して生じる悪に比べれば、より少ないものである。

というのも、多数の支配から生じる対立はあらゆる社会集団にとって最重要な価値である平和という善を破壊するものだからである。しかし、この平和という善は僭主制によって必ずしも壊されるわけではない。というのは僭主制の下で最も影響を受けるのは個々人の利益にすぎないからである。もちろん、その僭主制が社会全体を隷属に陥れるような過度の僭主制でなければの話であるが。そういうわけで、これら二つのものがともに危険を孕むものとしても、一人の支配のほうが多数の支配よりも優先されるべきである。

また、重大な危険が頻繁に起こるような類いのものは極力これを避けるべきであるように思われる。多数者にとっての最大の危険は一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でより頻繁に生じるものである。というのも一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でのほうが、人が共通善への配慮から遠ざかることが多いからである。そして数名の支配者たちのなかの或る者が共通善への配慮から遠ざかる場合、その者は配下の集団を対立の危険に晒すことになる。支配者たちの間の確執は集団の対立を生じさせるものだからである。これに対して、一人の人間が支配する場合には、その人間は共通善に大いに注意を向けるものである。そしてたとえかれがそうした共通善への配慮を欠くとしても、そのことが直ちに、かれが民衆を抑圧し、上述のごとく悪しき支配の最悪の形態である絶対的な僭主制になるというわけでもない。したがって、多数の支配から生じる危険は一人の支配から生じる危険よりももっと避けねばならないのである。

さらには、一人の支配よりも多数の支配のほうが僭主制に転落する可能性が稀であるどころか、むしろ頻繁である。というのも多数の支配の下で一度対立が生じると、人はしばしば他の人間たちに抜きん出ようとし、ひとり民衆の支配を恣(ほしいまま)にしようとするからである。このことはかつて実際に起こった事柄からしてはっきり見てとれるところである。すなわち、ローマ共和国の歴史がふんだんに示しているように、ほとんどすべての多数支配は僭主制に終わっているのである。というのもローマ共和国は長い間多数の政務官によって治められていたが、その後、陰謀や対立、あげくは内乱まで引き起こし、最も残虐な僭主の手に落ちたのである。一般的にいって、人がもし過去の出来事や現在ただ今起こっている事柄をよく検討してみるならば、僭主制が栄えるのは一人の支配の下においてよりも、多数の支配の下にある土地においてであることが明らかとなるであろう。

以上の認識が、プラトンらの古代政治哲学、バークのような近代保守主義、コーンハウザーなど20世紀の大衆社会論の叡智と知見に完全に一致していることに感嘆する。

上記引用文中にあるように、ローマ史が教える最大の教訓は、民主化が独裁政治を生むという逆説的真理です(私が塩野七生『ローマ人の物語』を絶賛する気が失せたのは、著者が前期帝政を無条件に肯定しており、それを「民意と世論に基く独裁制樹立」と見る史観をほぼ完全に欠いているからに他なりません)。

そうした古代以来の常識が失われたのが、近代という時代なんでしょう。

義務と忠誠の観念によって階層的に秩序付けられた社会を構成し、その最上層の君主には、伝統的信仰による、現世を超えた拘束を課すという、中世の政治観が至極真っ当に思える。

その表面的な不平等に関わらず、君主制・貴族制・民衆制の三者はいずれもその勢力を保ち、均衡して社会を成り立たしている。

君主による権力の乱用は、貴族と民衆という世俗的要素と教会という宗教的要素によって抑制され得る。

その均衡状態こそ、「真の意味での共和制」と呼ぶべきもの。

だが、そうした階層性を排し、君主と貴族を消滅させ、世俗化によって信仰心をすり潰して教会を無力化し、根無し草の原子的個人だけで構成された(一般的意味ではあるが、実は偽の意味での)共和制が成立した後、民衆煽動の混乱状態から生まれたのが、ファシズムと共産主義という(かつての君主制とは比べ物にならないほど無制限の権力を行使する)左右の全体主義的独裁政治と醜い衆愚世論および拝金主義的資本主義が跋扈する「自由社会」です。

 

 

本文は100ページ余りで、半分以上が訳注と解説なので、読み通すのは楽。

是非にとは言いませんが、一読すれば、その堅実な常識的思考に深く納得するでしょう。

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