万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年3月30日

講談社旧版「世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 06:35

杉勇    『1 古代オリエント』  2 中

秀村欣二  『2 ギリシアとヘレニズム』

弓削達   『3 永遠のローマ』

堀敏一   『4 古代の中国』

中村元   『5 ガンジスの文明』

山口昌男  『6 黒い大陸の栄光と悲惨』  3 難

増田義郎  『7 インディオ文明の興亡』

堀米庸三  『8 ヨーロッパ世界の成立』

足利惇氏  『9 ペルシア帝国』  3 中

前嶋信次  『10 イスラムの時代』  3 易

増井経夫  『11 中華帝国』

岩村忍   『12 中央アジアの遊牧民族』

永積昭   『13 アジアの多島海』

石井米雄  『14 インドシナ文明の世界』

成瀬治   『15 近代ヨーロッパへの道』

前川貞次郎 『16 ヨーロッパの世紀』

清水博   『17 アメリカ合衆国の発展』

外川継男  『18 ロシアとソ連邦』  1 中

鳥山成人  『19 ビザンツと東欧世界』

岡部健彦  『20 二つの世界大戦』

市古宙三  『21 中国の革命』

護雅夫   『22 アラブの覚醒』

加茂雄三  『23 ラテンアメリカの独立』

荒松雄   『24 変貌のインド亜大陸』

猪木正道  『25 現代の世界』  5 易

 

刊行年代はちょっと下って1970年代後半。

ざっと眺めて即わかるのが、第三世界地域の巻の多さ。

オリエント史に2巻、ラテンアメリカ史に2巻、東南アジア史に2巻という配分は、少し前の世界史全集では考えられない。

そして特筆すべきなのは、ついに一般向け世界史全集でアフリカ史が巻立てされたこと。

(ただし朝鮮史については単独巻にはならず。これは中公新版でもとうとう変わらなかった。30巻近い全集なら、重要な隣国として巻立てしてもいいようには感じるが。)

地域的にはバランスが取れているのかもしれないが、中身に関してはどうも・・・・・。

ちょうど転換期といったところなのか、内容的には学術的・専門的な要素が強くなり、あまり読んで面白いとは感じない。

2巻を費やし、せっかく重厚なページ配分が為されている東南アジア史も、通読はちょっと苦しい。

オリエント史、イスラム史も強いて薦めたくなる出来ではない。

一方、著名な文化人類学者で思想家の山口昌男氏が書いたアフリカ史は出色の巻。

世界史全集初のアフリカ史に関わらず、一般読者向けとしては、講談社現代新書の『新書アフリカ史』が出るまでのスタンダードテキストとして通用するほどの力作だなと思った。

猪木正道氏と佐瀬昌盛氏共著の25巻も、戦後三十年経った時点での刊行とあって、比較的叙述範囲が広い戦後世界史として十分活用できます。

ですが、その他の巻で通読したものと飛ばし読みしたものはちょっと・・・・・。

結局、この全集の価値は、6巻のアフリカ史と25巻の戦後国際政治史にしか無いな、というのが正直な感想です。

これも未読のものを潰していって、全巻読破することは、まずしないでしょう。

2016年3月26日

文芸春秋「大世界史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 07:22

三笠宮崇仁 『1 ここに歴史はじまる』  3 易

村川堅太郎 『2 古典古代の市民たち』

植村清二  『3 万里の長城』

石田幹之助 『4 大唐の春』

井上光貞  『5 日本の登場』

中村元   『6 ガンジスと三日月』

堀米庸三  『7 中世の光と影』  2 易

村上正二  『8 蒼き狼の国』

護雅夫   『9 絹の道と香料の島』

西村貞二  『10 神の国から地上の国へ』

神田信夫  『11 紫禁城の栄光』  4 易

石田一良  『12 日本の開花』

成瀬治   『13 朕は国家なり』

柴田三千雄 『14 革命と皇帝』

鳥山成人  『15 スラヴの発展』

尾藤正英  『16 閉ざされた日本』

矢田俊隆  『17 自由と統一をめざして』  2 易

中屋健一  『18 偉大なるフロンティア』

尾鍋輝彦  『19 カイゼルの髭』  2 易

衛藤瀋吉  『20 眠れる獅子』  4 易

芳賀徹   『21 明治百年の序幕』

林健太郎  『22 二つの大戦の谷間』  5 易

鳥海靖   『23 祖父と父の日本』

野田宣雄  『24 独裁者の道』(文庫改題『ヒトラーの時代』  5 易

猪木正道  『25 冷戦と共存』  5 易

高坂正堯  『26 一億の日本人』  4 易

 

(3巻『万里の長城』は同著者同書名の著作を記事にしているが、このシリーズとは別の本のはず。)

 

刊行年代は河出版とほぼ同じ1960年代末。

このシリーズにおける、表面的な最大の特徴は日本史の巻があること。

日本史を世界史の一部として理解するという、現在にも通じる考え方の先駆と言えるのかもしれないが、正直その弊害も大きいと感じる。

全巻数がさほど多いとは言えないのに、日本史にまで巻を割いたものだから、地域的配分は昔ながらの「東洋史プラス西洋史」に先祖帰りした観がある。

さらに各巻のページ数も決して多くはないので、叙述形式は概ね物語風だが、エピソードや逸話の類が特に豊富なわけでもない。

例えば、7巻の中世ヨーロッパ史などは理屈っぽい話が多く、同じ堀米氏執筆の中公旧版の巻と比べれば、その違いは一目瞭然である。

11巻は結構面白かったが、それは北アジア史の叙述に関してで、本題の中国史はごくありきたりの概説にしか思えなかった。

では、このシリーズには全く取るべき点が無いのかというと、それは全然違う。

私にとって、この「大世界史」シリーズの最大の長所は「現代史執筆陣の圧倒的な素晴らしさ」。

それに尽きる。

衛藤瀋吉、林健太郎、野田宣雄、猪木正道、高坂正堯の諸氏の名前が、本当に輝いて見える。

20巻の東アジア現代史、22巻・24巻の現代史概説、25巻の戦後国際政治史、26巻の戦後日本史、どれもやや古びてはいるが、現在でもそれぞれの分野の基本書として読む価値があるものばかりである。

60年代末、左翼的反体制運動が跋扈していた時期に、これだけ冷静な執筆陣を揃えた出版社の心意気を感じる(現在のように醜い衆愚どもが「右派・愛国的」言説をかつての左翼と同じように喚き立てているのとは全く状況が違う)。

あくまで現代史に限られ、近代史においてはさしたる利点を感じることは無いものの、私としては世界史全集を基本書とする場合、「近代までは中公旧版、現代史は文春大世界史」と薦めたいです。

2016年3月22日

河出版「世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 06:17

今西錦司  『1 人類の誕生』

岸本通夫  『2 古代オリエント』  3 易

貝塚茂樹  『3 中国のあけぼの』

村田数之亮 『4 ギリシア』  3 易

弓削達   『5 ローマ帝国とキリスト教』

佐藤圭四郎 『6 古代インド』

宮崎市定  『7 大唐帝国』  5 易

前嶋信次  『8 イスラム世界』

鯖田豊之  『9 ヨーロッパ中世』

羽田明   『10 西域』  2 易

愛宕松男  『11 アジアの征服王朝』

会田雄次  『12 ルネサンス』

今井宏   『13 絶対君主の時代』

三田村泰助 『14 明と清』

河野健二  『15 フランス革命』

岩間徹   『16 ヨーロッパの栄光』  2 易

今津晃   『17 アメリカ大陸の明暗』

河部利夫  『18 東南アジア』  1 難

岩村忍   『19 インドと中近東』

市古宙三  『20 中国の近代』

中山治一  『21 帝国主義の開幕』

松田道雄  『22 ロシアの革命』

上山春平  『23 第2次世界大戦』

桑原武夫  『24 今日の世界』

 

刊行年代は1960年代末。

私が読んだのはリンクを張って、書名一覧での評価と通読難易度を併記した巻だけです。

中公旧版に比べて巻数が増え、地域的にもバランスが取れてきた。

ヴェトナム戦争およびそれに伴う反戦運動が大きな争点となっていた時代状況から当然かもしれないが、東南アジア史が単独に巻立てされたのは画期的と言える。

(もっとも内容的には初心者向けとは到底言えず、かなり難があるものだが。)

叙述形式としては物語的なものが依然中心となっており、読みやすくはある。

ただ各巻の出来についてはあまり芳しくないというのが正直なところ。

通読していない巻も含めて、ざっと見ると、強いてこれを選ぶという程の長所に乏しい巻がほとんど。

18巻の東南アジア史や5巻のローマ史などは癖がありすぎる。

もちろん例外もある。

イスラム史の巻はかなり安定してきた。

中公旧版のイスラム史と比べると、その違いはかなりはっきりわかる。

そして何より特筆大書すべきなのが、7巻の宮崎市定氏の著。

このシリーズの最高傑作であるのみならず、各種世界史全集の中でも最高峰と言うべき珠玉の一冊。

この巻の素晴らしさはどれほど強調してもし過ぎることはない。

極めて独創的な解釈と明解かつ迫力のある筆致が結合した歴史叙述の傑作です。

中公旧版でも宮崎氏執筆巻は存在するが、共著だったので、単独執筆のこの巻に軍配が上がる。

結局私にとって、このシリーズ最大の功績は『大唐帝国』という傑作を生んでくれたことです。

極論すれば、それがすべて。

これから未読のものを潰していって、全巻通読するというのは・・・・・・まずしないでしょう。

ただ好みもありますから、これを基本書に据えるという方はそれもいいと思います。

2016年3月18日

中公旧版「世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 05:51

貝塚茂樹  『1 古代文明の発見』  4 易

村川堅太郎 『2 ギリシアとローマ』  4 易

堀米庸三  『3 中世ヨーロッパ』  4 易

塚本善隆  『4 唐とインド』  2 中

岩村忍   『5 西域とイスラム』  2 易

宮崎市定  『6 宋と元』  5 易

松田智雄  『7 近代への序曲』  2 易

大野真弓  『8 絶対君主と人民』  2 易

田村実造  『9 最後の東洋的社会』  3 易

桑原武夫  『10 フランス革命とナポレオン』  1 易

中屋健一  『11 新大陸と太平洋』  2 易

井上幸治  『12 ブルジョワの世紀』  1 易

中山治一  『13 帝国主義の時代』  2 易

江口朴郎  『14 第一次大戦後の世界』  2 易

村瀬興雄  『15 ファシズムと第二次大戦』  3 易

松本重治  『16 現代 人類の岐路』  2 易

 

私にとってすべての基本となるシリーズです。

世界史関係の書籍を読み漁るようになった、ごく初期に通読したこともあり、個人的には最も印象深く、愛着もあります。

そういう個人的事情抜きでも、このシリーズはまさに基本書の名に相応しいと思われます。

政治史を中心に据え、そこで活躍する個性を描写し、様々な興味深いエピソードを積み重ねて、物語としての歴史を叙述していく。

社会史、生活史、心性史などが重視される現在の史学からすれば、時代遅れと言えばその通りだし、古臭いと言えばこれほど古臭い形式もない。

だが、そもそも歴史の原初形態は文学と融合した物語であったろうし、全くの初心者が最初に接するものとしては、この種の歴史が最も適していると思う。

1960年前後の刊行と、何しろ半世紀以上前のシリーズであるから、その短所や欠落を挙げることは極めて容易である。

インド史を少し付け加えつつも、ほぼ中国史に限られる「東洋史」と欧米主要国のみの歴史を切り貼りした「西洋史」の二本立て。

西アジア史、中央アジア史は当時の研究水準もあって極めて手薄であり、もちろんアフリカ史は影も形も無い。

アフリカ史はともかく、東南アジア史が全く割愛されているのには、半世紀前とは言え、驚きである。

近現代史のかなりの部分に昔ながらの左派的偏向が見られるし、その事は各巻の記事でも指摘しています。

だが、そのような欠点を勘案しても、物語としての面白さがすべてをカバーしてくれます。

現在の中公文庫には新版の方の「世界の歴史」が収録され、以前文庫化されていたこの旧版は絶版となっています。

そうである以上、このシリーズが再び新刊ルートで販売されることは事実上無いと言うしかないんでしょう。

しかし、同じ60年代に出た「日本の歴史」は新装版に衣替えした上で発売されています。

それを思うと、こちらはなぜ復刊してくれなかったのかと感じることもあります。

いかに古びた面があるとは言え、いやだからこそ初心者にとって効用が高いシリーズとなっているからです。

ただ、幸い公共図書館で収蔵されている率は極めて高いでしょうから、手に触れることは比較的容易だと思います。

未読の方には、全巻通読するつもりはなくとも、興味のある巻だけでも、気軽な気持ちで手に取ることをお勧め致します。

2016年3月14日

サッカリー 『虚栄の市 全4巻』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:02

19世紀初頭、イギリス上流社会の貴族とブルジョワを鋭い風刺精神で描いた写実主義文学の傑作。

教科書的な知名度は高いが、各種文学全集への収録は少なめか。

低い身分に生まれながら、美貌と才気で世間でのし上がろうとする悪女ベッキー・シャープと、貞淑で心優しい美女アミーリア・セドリ、アミーリアを見守り続ける質朴・誠実なウィリアム・ドビンの三者を中心に物語は展開していく。

ベッキー(レベッカ)は家庭教師として、雇い主のクローリー准男爵一家に入り込み上流社会に乗り出していき、アミーリアは実家を襲った苦難に耐え、婚約者のジョージ・オズボーンと結ばれるが、ワーテルローの戦いに巻き込まれ、さらなる悲劇に見舞われる。

作者は二人の女性の人生を交錯させながら、当時の腐敗した社会の実像を描き出しつつ、すべての人間に共通する弱さと欠点を諦観を持って浮かび上がらせている。

素晴らしい。

ストーリーは起伏に富み、全く飽きさせない。

全4巻という長さにひるんでいたが、読み始めると流れるようにページを手繰ることができる。

これほど面白い小説だとは全く予想していなかった。

文学全集への収録が少ないのは、単に分量の問題だけかと思える。

評価は「4」にしようかと思ったが、メリハリを付けて「5」にしましょうか。

また翻訳が素晴らしいというのもあると思います。

これは2004年完結の新訳で、非常に読みやすく、大変良い。

あと感じたことは、登場人物の書き分けが極めて巧みだということ。

脇役も含めた人物の性格が、さして注意深く読まなくても、自然と頭に刻み込まれる。

これは読んで良かった。

著名作品で未読のものを潰していくつもりで手に取ったが、心から楽しむことができた。

皆様にも是非お勧めします。

2016年3月10日

南川高志 『新・ローマ帝国衰亡史』 (岩波新書)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 12:13

本書では、まずローマ帝国衰亡論の変容について語る。

ギボン以来、蛮族侵入とキリスト教化に滅亡原因を求め、5世紀をもって古代から中世にはっきりと移行したという見方が一般的。

その後、政治より社会・文化の重視、心性史の研究深化から、急激な変化よりも継続性に注目し、2世紀から8世紀まで、帝政ローマからシャルルマーニュ時代までを「古代末期」と規定し、古代でも中世でもない時期とする見解が生まれる。

だが、21世紀に入ると、再度帝国滅亡の事実を重視する研究が現れることになる。

本書では、ローマ帝国を「地中海帝国」と定義しイタリア・ローマ市を中心とする史観に疑問を呈し、アルプス以北の広大な「辺境」を重視する。

時期的にはコンスタンティヌスから5世紀初頭までを扱う。

ただし5世紀初頭と言っても、410年ゴート族のローマ攻略にはウェイトを置かず、ブリテン島の帝国離脱などを取り上げる。

 

まず、「線」ではなく「ゾーン」としての国境。

ローマ帝国盛期の国境は閉鎖的な軍事境界線ではなく、外部との日常的で盛んな通商が行われている。

(ただし、東方ササン朝は真の「敵」「他者」として認識されていた。)

市民権の拡大は続き、社会的流動性が確保されていた。

その中で、ラテン語と(混交的)伝統宗教がローマ人としての自己認識を与え、それを備えた軍隊と地方有力者の協力関係こそが帝国を実体化するものだった。

中央にはごくわずかな官吏が存在しただけで、地方自治への行政丸投げが顕著。

属州の「ローマ化」は実際にはそれほどでもなく、地方有力者が主流。

それに相対する「ゲルマン人」も、各部族が固定的で一律な集団ではなく、離合集散を繰り返し、その都度アイデンティティが構成し直されていく。

著者は、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの統治に異なる歴史的意義を見る。

ディオクレティアヌスはドミナートゥス創始者というより3世紀軍人皇帝の最後(なお「3世紀の危機」はやや誇張されているとも言う)。

ディオクレティアヌスは騎士身分を政界に進出させ元老院議員身分を排除、皇帝直属部下が支配権を持つ体制を構築。

一方、コンスタンティヌスは騎士や都市参事会議員を元老院議員に昇格させ、統治権を再び元老院に戻す。

騎士身分自体が4世紀のうちに消滅。

テトラルキア(四分統治制)混乱時に支配基盤となったガリアの新興地方有力者を元老院に引き上げる一方、東半では内戦勝利者として乗り込んだため、直属官僚による中央集権政治を確立、東西で統治構造に差が生じることになった。

なおコンスタンティヌスによる外部世界からの兵士登用は、この時点では軍の「蛮族化」というべきものではない。

それは後世の事実を少し前のこの時期に遡及させた見方。

軍制改革として、ディオクレティアヌス時代、辺境に大軍を貼り付けていたのを削減し、野戦機動軍を創設、軍人皇帝時代に重武装の境界線となっていた国境は、再び曖昧なゾーンに戻され、野戦軍管轄地域は広域化し、指揮権は統一された「総司令官」職に一元化された。

この職に後には外部部族出身者が就任することになるが、コンスタンティヌス大帝在位時には問題化せず。

その他には、ニカイア公会議にも関わらず大帝はアリウス派に接近、後継者を親族に分散させて紛争の種をまくことになった。

(なおコロヌスなど経済面の話は本書では無し。)

大帝死去直後の親族殺害を後継者コンスタンティウス2世が主導したとの確証は無く、おそらくその周辺の人物であろうと思われる。

だがこの事件が後の宦官政治と相俟って、コンスタンティウスの治世に暗いイメージを与えることになってしまった。

マグネンティウスの反乱鎮圧後、ガリアでの粛清とアリウス派信仰強要。

コンスタンティノープル元老院を整備し統制下に置き、東方では皇帝権力強化。

国内の統一を維持し、対外威信を確保したコンスタンティウス2世時代には帝国衰退の兆しは見られない、と評されている。

その従兄弟で「背教者」として有名なユリアヌスが副帝としてガリアで活躍。

これをコンスタンティウスが妨害したという説には根拠は無い。

この時期のユリアヌスを、コンスタンティウスが不当な監視下に置いていたとの記述が、ギボンや辻邦生『背教者ユリアヌス』などに多く見られるが、ユリアヌスは即位前まで軍事経験が全く無かったのだから、コンスタンティウス任命の将軍たちが仕切ったのは当然とも言える。

蛮族侵入によるガリアの荒廃ぶりも、ユリアヌス自身と彼を英雄視する史家アンミアヌスが誇張した虚像の可能性があるとされている。

後にユリアヌスが軍事行動を主導して大きな成果を挙げたことは事実だが。

(ユリアヌスに批判的な著作を書いた現代史家バワーソックは、ユリアヌスを硬軟両様の策を用いた現実主義者ではなく、好戦的指導者としているが、著者はそれも一面的見方だと退けている。)

ユリアヌスが対峙したフランク族、アラマンニ族は、上述の通り、固定的「民族」集団ではない。

内政では、帝国初期のイタリア地方都市・属州都市出身者台頭、3世紀のドナウ・バルカン地方に続く、4世紀の外部部族登用がコンスタンティヌスとユリアヌス時代に見られ(「第三の新しいローマ人」)、配下の将軍らにもフランク・アラマンニ出身者がいた。

ユリアヌスは周囲に推されてパリで正帝に即位、バワーソックはこれを意図的行動とするが、著者は必ずしもそう見ていない。

副帝時代にガリアを安定化し掌握したユリアヌスだが、正帝即位後、東方へ向かい消耗、戦死。

続くヴァレンティニアヌス朝時代。

外部出身者の軍編入形態に変化が生じる。

以前からあった個々の外部部族による補助軍加入が、組織的移住・植民(ラエティ)に変わり、それがさらにフォエデラティ(同盟部族)に与えられた土地で自治権を持ち、戦時には帝国ではなく元の部族・集団の指揮で戦う形になり、ブッケラリイ(有力者の私的軍隊)が(特にガリアにおいて)生まれることになる。

軍事ポストの評価が高まり、「第三の新しいローマ人」がそこに多く就任。

辺境での募兵が行われた場合、別の地域での勤務が原則だったのが、4世紀以降の機動軍設立と帝位争いのため、地元での兵士補充が常態化し、それが地方有力者と結合して帝国の実質的統治下でない存在となる。

「民族大移動」の端緒となったゴート族についてはヨルダネス『ゴート史』があるため詳細な民族史が記されてきたが、これも固定的民族アイデンティティを一貫して持ち続けてきたとは認められない。

西ゴート、東ゴートの語も本書では用いず。

フン人=匈奴とは断定できず、現在でも民族系統不明とされる。

「民族大移動」について、376年が特に大規模とは言えず。

ただしローマ帝国が長年避けてきた、多くの部族集団が共同連携して帝国に反抗するという事態が初めて生じる。

378年アドリアノープルの戦いで、皇帝ヴァレンス敗死、軍事上のみでなく精神的にも影響は甚大。

251年デキウス帝がゴート族相手に戦死、しかし後継帝がゴート族を撃退している。

今回、ゴート人はドナウ以北に戻ることは二度と無かった。

テオドシウス帝時代、ゴート族とのフォエドゥス(条約)締結。

独立勢力の永住を帝国内に認めた画期的(ある意味致命的)出来事との評価がなされてきたが、この内容自体は以前にも例がある。

重要なのは、その後定住して帝国構成員として暮らしたのではなく、再度移住し始めたこと。

東西分裂後、偏狭なローマ人意識が台頭、多様な外部部族を「ゲルマン人」として一括して敵視する傾向(「排他的ローマ主義」)が生じ、それに反発して外部部族の側でもローマの伝統・習慣に従わず、独自の風習を維持するようになった。

蛮族の「大侵入」の実態について、伝統的にはもちろんその破滅的状態が強調されてきたが、歴史学者の間ではその順応的側面が述べられるようになった。

しかし最近では、実態はやはり極めて破壊的なものであったとの解釈が力を得ているとのこと(個人的にはそりゃそうでしょう、と思う)。

410年ホノリウス帝はブリテン島を放棄。

結局本書で最重要視されているのはこの史実。

この時にローマ帝国としての意義は消滅した、と著者は判断している。

ローマ人としての自己意識を持った軍隊が消え、外部部族を同化する意志が潰え、侵入者に荒されたガリアでは有力者が直接住民を支配下に入れて自衛・自立する。

以後西ローマは程なくイタリアの一地方政権に転落し、アエティウスによるフン人撃退も、その一地方政権が自己防衛のため、その時の諸部族の力関係を利用して連合を組織して一時的に成功したのみ、と解釈している。

476年の「西ローマ帝国滅亡」は、同時代にはさして注目されず、次の6世紀になってローマ帝国滅亡と認識されるようになった。

4世紀の第四四半期まで対外的には劣勢でなかったのが、5世紀初頭には西半が(事実上)滅亡。

30年ほどで、全ローマ史から見れば、ほとんど「一瞬」の滅亡と言える。

 

 

十分面白い。

経済・文化、地中海周辺地域、キリスト教などは扱わず、あくまで政治史中心の試論と著者は断っているが、その方がかえってわかりやすいものになっている。

専門的な研究をよく噛み砕いて、読みやすい形で提供してくれている、良質で有益な啓蒙的入門書の見本とも言える本。

同じ著者の『ローマ五賢帝』と共に、何の躊躇いもなく推薦できます。

2016年3月6日

トマス・アクィナス 『君主の統治について  謹んでキプロス王に捧げる』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:38

専門の研究者でもない限り、トマスの主著『神学大全』は絶対に読めない。

中央公論「世界の名著」(現在では中公クラシックスにも収録)の抄訳でもまず無理でしょう。

本書はトマスによる唯一の政治論的著作とのこと。

人間が政治的動物であり集団生活をせざるを得ない以上、統治の必要は歴然としている、と述べた後、アリストテレスに倣って、支配者の数に基き、正しい支配を君主制(王制)・貴族制・政体(ポリティア=すべての支配形態に共通の名称)、不正な支配を僭主制・寡頭制・民主制に分類。

(最後のものはそれぞれ民主制と衆愚制でないことに注意。)

そのうち、力と意志を集中させ得ることから、正しい支配の中では君主制が最善であり、不正な支配では僭主制が最悪であるとする。

現代の「常識」では君主制が最善とは信じられないだろうし、不正な支配の中では民主制の悪が最も少ないというのなら、危険の少ない政治体制として多数者の支配たるデモクラシーを理想としていいのではないかと考えるでしょう。

しかしトマスは、最悪の支配体制である僭主制、それもその中でも最悪である過度の独裁制は、君主制からではなく、民主制(とそれに不可避的に付きまとう党派争いから生まれた寡頭制)からこそ、しばしば生じるものだと鋭く指摘する。

ところで、危険のさし迫った二つのもののうち、どちらかを選ばねばならぬ場合、より少ない悪の生じるもののほうを選ぶべきであろう。君主制はたとえそれが僭主制に転じることがあるとしても、そこから生じる悪は多数の貴族たちによる支配が腐敗して生じる悪に比べれば、より少ないものである。

というのも、多数の支配から生じる対立はあらゆる社会集団にとって最重要な価値である平和という善を破壊するものだからである。しかし、この平和という善は僭主制によって必ずしも壊されるわけではない。というのは僭主制の下で最も影響を受けるのは個々人の利益にすぎないからである。もちろん、その僭主制が社会全体を隷属に陥れるような過度の僭主制でなければの話であるが。そういうわけで、これら二つのものがともに危険を孕むものとしても、一人の支配のほうが多数の支配よりも優先されるべきである。

また、重大な危険が頻繁に起こるような類いのものは極力これを避けるべきであるように思われる。多数者にとっての最大の危険は一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でより頻繁に生じるものである。というのも一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でのほうが、人が共通善への配慮から遠ざかることが多いからである。そして数名の支配者たちのなかの或る者が共通善への配慮から遠ざかる場合、その者は配下の集団を対立の危険に晒すことになる。支配者たちの間の確執は集団の対立を生じさせるものだからである。これに対して、一人の人間が支配する場合には、その人間は共通善に大いに注意を向けるものである。そしてたとえかれがそうした共通善への配慮を欠くとしても、そのことが直ちに、かれが民衆を抑圧し、上述のごとく悪しき支配の最悪の形態である絶対的な僭主制になるというわけでもない。したがって、多数の支配から生じる危険は一人の支配から生じる危険よりももっと避けねばならないのである。

さらには、一人の支配よりも多数の支配のほうが僭主制に転落する可能性が稀であるどころか、むしろ頻繁である。というのも多数の支配の下で一度対立が生じると、人はしばしば他の人間たちに抜きん出ようとし、ひとり民衆の支配を恣(ほしいまま)にしようとするからである。このことはかつて実際に起こった事柄からしてはっきり見てとれるところである。すなわち、ローマ共和国の歴史がふんだんに示しているように、ほとんどすべての多数支配は僭主制に終わっているのである。というのもローマ共和国は長い間多数の政務官によって治められていたが、その後、陰謀や対立、あげくは内乱まで引き起こし、最も残虐な僭主の手に落ちたのである。一般的にいって、人がもし過去の出来事や現在ただ今起こっている事柄をよく検討してみるならば、僭主制が栄えるのは一人の支配の下においてよりも、多数の支配の下にある土地においてであることが明らかとなるであろう。

以上の認識が、プラトンらの古代政治哲学、バークのような近代保守主義、コーンハウザーなど20世紀の大衆社会論の叡智と知見に完全に一致していることに感嘆する。

上記引用文中にあるように、ローマ史が教える最大の教訓は、民主化が独裁政治を生むという逆説的真理です(私が塩野七生『ローマ人の物語』を絶賛する気が失せたのは、著者が前期帝政を無条件に肯定しており、それを「民意と世論に基く独裁制樹立」と見る史観をほぼ完全に欠いているからに他なりません)。

そうした古代以来の常識が失われたのが、近代という時代なんでしょう。

義務と忠誠の観念によって階層的に秩序付けられた社会を構成し、その最上層の君主には、伝統的信仰による、現世を超えた拘束を課すという、中世の政治観が至極真っ当に思える。

その表面的な不平等に関わらず、君主制・貴族制・民衆制の三者はいずれもその勢力を保ち、均衡して社会を成り立たしている。

君主による権力の乱用は、貴族と民衆という世俗的要素と教会という宗教的要素によって抑制され得る。

その均衡状態こそ、「真の意味での共和制」と呼ぶべきもの。

だが、そうした階層性を排し、君主と貴族を消滅させ、世俗化によって信仰心をすり潰して教会を無力化し、根無し草の原子的個人だけで構成された(一般的意味ではあるが、実は偽の意味での)共和制が成立した後、民衆煽動の混乱状態から生まれたのが、ファシズムと共産主義という(かつての君主制とは比べ物にならないほど無制限の権力を行使する)左右の全体主義的独裁政治と醜い衆愚世論および拝金主義的資本主義が跋扈する「自由社会」です。

 

 

本文は100ページ余りで、半分以上が訳注と解説なので、読み通すのは楽。

是非にとは言いませんが、一読すれば、その堅実な常識的思考に深く納得するでしょう。

2016年3月2日

バンジャマン・コンスタン 『アドルフ』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:44

著者のコンスタンは1767年スイス生まれ。

フランス革命中、恐怖政治を避けてスイスに滞在中、スタール夫人(ネッケルの娘)と交際、恋人となる。

フランス国籍を取得し、ナポレオン時代に政界にも進出するが、しだいに政権批判を強め、国外追放となる。

百日天下でなぜか再びナポレオン側につくが、弁明書を出したのち、復古王政に仕える。

死の直前成立した七月王政を支持、1830年没。

小説作品は実質、この『アドルフ』のみ。

他に政治思想・宗教書などもあり。

オルテガ『大衆の反逆』のフランス語版序文では、集産主義思想への抵抗者として一言だけだが、なぜか肯定的に触れられている。

本作は、表題の主人公の名前の通り、ドイツが舞台。

(現在ではこの名前だと、あの人物しか思い浮かばないが。)

アドルフという名門出の青年とある貴族の愛人だったエレノールの恋愛が成就した途端、女の束縛を疎ましく感じた男が徐々に別れを意識し、両者の軋轢が激しくなり、ついに悲劇を迎える様が描かれている。

ロマン主義の先駆であると共に、フランス心理小説の代表作という。

恋の高揚期ではなく、その倦怠期と終末を詳細に描写した、特異な恋愛小説。

トルストイ『アンナ・カレーニナ』の、アンナとヴロンスキーの関係を思い起こした。

200ページにも満たないので、読むのは楽。

それでいて、終盤は迫力があり、死に直面した際の信仰、それもしばしば外面的・形式的と思われるだけの儀式が実は必要なことなど、共感を持つ記述もあった。

高校教科書に載るほどの知名度はないが、これは読んで良かった。

楽に読める古典としてなかなか良い。

WordPress.com Blog.