万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年2月9日

引用文(田中美知太郎1)

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田中美知太郎『今日の政治的関心』(文芸春秋)より。

 

「恐怖からの解放」の恐ろしさ

ひとはそれぞれに「おそれる」ところのものをもっていなければならない。この「おそれ」を失ってしまっては人間も社会も駄目になってしまう。ということを、古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスが、その作品のなかでアテナの神に語らせている。もっとも「おそれ」にもいろいろあって、恐怖と畏怖とでは違うところがあるとも考えられる。「おそれを知らぬ」は勇者の形容にもなれば、無法者の形容にもなる。真の勇気は畏るべきものを畏れ、恐るべからざるものを恐れぬことにあると言われた。「おそれる」と言っても「おそれない」と言っても、そう簡単ではないのである。われわれはどこでその区別をしたらいいのか。何か拠りどころとなる確実なものをもっているだろうか。もしひとが神を畏れるとしたら、そういう確かな拠りどころをもつことになるだろう。「神ぞ知る」ということが言われるが、それはわたしたちに勇気をあたえると共に、また「つつしみ」を教える。これの正反対のところに「神を恐れざる」という言葉があり、残虐非道の所業に対して用いられたりする。もしわれわれが神を信ずることができるなら、原理的には恐るべきことと然らざるものとの区別が判然として来て、われわれも迷いがなくなるわけである。しかし、不幸にしてわれわれは神不在の時代にあるとも言われている。もっともこれはキリスト教化されていた西ヨーロッパあるいはアメリカの話であって、わが日本には神々はあったけれども、神は初めから不在であったのではないかという説もある。いわゆる東洋精神の根拠を無神論に求めたりすることがないでもない。西洋に旅行した日本のインテリが、彼の地で書かされる書類の「宗教」の欄に「無神論者」と書いて得意になっていたという話を聞いたことがある。神を恐れぬ極悪非道の人間を名のるのだから、相手はびっくりするわけである。なんとも滑稽な話と言わなければならない。

他方しかしながら、われわれの自由社会なるものは、あらゆる恐怖からの解放を標榜する社会なのである。そしてその解放のうちには宗教的拘束からの解放ということも含まれているとも見られるだろう。そして神不在の時代の到来ということも、宗教のこの自由化あるいは俗化と共に相関的に考えられねばならぬだろう。神不在の時代はまだ到来したばかりで完結はしていない。しかしやがて神を恐れぬ残虐非道の所業が日常となるような、完全ニヒリズムの時代になるかも知れない。しかしわれわれは恐怖から解放された自由の楽園を、そのような恐怖にみちた社会と考えたくない。無論またそのような転落を希望はしない。しかしその危険がないとは言えない以上、われわれはそれの防止に努力しなければならないだろう。しかし宗教が俗化によってかえって本当の力を失いつつあるとも見える現代において、われわれはほかにどんな防止手段をもつと言うのだろうか。われわれが最初に名を挙げた悲劇作家は、祖国の自由を守るためにペルシア戦争に参加したことを誇りとしていた人であるが、かの作品においてその自由な市民国家には「おそれ」が保存されていなければならないことを説いたのである。あらゆる「おそれ」からの解放は、かえって自由社会を崩壊させるものなのである。人間社会は正義の裁きとアイドース(おそれとつつしみ)がなくては成立しないということを、プラトンはプロタゴラス神話として語っている。われわれは人間社会のこの基本的な事実をせめてもの拠りどころにしなければならない。

古代ギリシアが生んだ世界最大の歴史家の一人は、人間の行動が利欲と名誉心と恐怖心によって支配されるものであるという極めて現実的な見方をしている。つまり恐怖はそういう現実的なファクターとして、歴史理解の鍵になるということである。利欲と名誉心については特別の説明は必要ないであろう。金銭を求め名声を求めるのは極めて普通の人間的事実である。そしてそれの反対の損害や不名誉を恐れるのも、これまた人間普通のことである。そしてこのような恐れが不法な行為への抑止力になっていることも、これまた疑うべからざる事実である。不法行為に対する刑罰が、それらの強い抑止力となることもよく知られているところである。しかしこの面のきびしさが、かのあらゆる恐怖からの解放を求める声が大きくなるにつれて、次第にゆるんで来ていることも見逃せない事実である。そして何も恐れぬ人たちが多くなる。そしてそのことが神をも恐れぬ極悪非道の人間を成長させ、これに権力を与えるようなことにもなる。これが今日の独裁制なのである。すなわち極悪人による支配(カキストクラシー)であり、あらゆる恐怖からの解放を原則とする自由社会がこれを生み出す危険を多分にもっているのである。このような逆転を防ぐには、われわれはあらためて「おそれ」の重要性に気づき、これを守るようにしなければならない。「恐怖の均衡」という言葉が、今日の国際平和の説明に用いられたりするが、神不在の今日においては、軍事力を抑止力として用いることも、さし当たり有効性が大であろうと考えられよう。これに対する一部の人たちの高尚めいた批判は、むしろ極悪非道を助けるだけのものである。しかし「おそれ」は恐怖から畏怖へ、そして畏怖から畏敬へと変えて行かねばならぬ。それは神を呼びもどし、真の自由と平和を実現する途となるだろう。    (1979.1)

 

 

田中氏がこの文章で批判しているのは、空想的平和主義者と容共的社会主義者ですが、現在の「“畏れ”の感情を持たない極悪非道の人間」は間違いなく排外的民族主義と好戦的言辞を撒き散らす自称「愛国者」と金銭勘定以外の一切の価値を嘲笑する下劣な新自由主義者でしょうね。

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