万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年1月22日

トマス・カーライル 『過去と現在  (カーライル選集3)』 (日本教文社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:38

1843年刊。

カーライルはイギリスの評論家・保守思想家で、『フランス革命論』などの著作あり。

本書は、拝金主義と享楽(快楽)主義という二つの悪魔のひき臼にすり潰されていく近代という時代の全面的批判と、中世という宗教的信仰が人間に確固とした価値観を提示していた時代の擁護を内容とする。

統治の義務と責任を果たそうとせず不労所得による享楽に明け暮れる貴族と、金銭勘定以外の価値観を持たず俗悪な趣味に溺れる新興産業資本家、チャーティスト運動など急進的社会変革運動にのめり込む労働者階級の三者を(労働者階級については産業革命後のその悲惨な境遇には深く同情しつつ)共に批判。

キリスト教的信仰を中核とした形而上的価値の復興を強く訴えている。

功利主義の否定も含め、個人的には全く違和感の無い主張だが、個々の具体的史実についての記述にはやや引っかかりを覚えないでもない。

繰り返し穀物法が貴族階級のエゴイズムの象徴として攻撃されているが、果たしてそう単純に言い切れるものかなと思う。

自由貿易を絶対視するというのは本書の論旨と合わないのでは?

またカトリックへの軽侮、クロムウェルへの礼賛(ピューリタン的価値観を徹底したからか?)、アヘン戦争正当化(これも自由貿易の為という文脈)、黒人・遊牧民への蔑視(時代状況を考えればこれは言っても仕方ないところがあるが)など。

さらにより根本的には、民主主義を批判して「英雄崇拝」と「賢人政治」を復活させなければならないという主張には同意するが、それは歴史的伝統に可能な限り沿う形で、という前提条件を付けなければ(その意味で本書での既存の貴族階層への批判は厳しすぎると感じる)、表面上民主制を否定しつつ実はその徹底と純化に過ぎない右翼全体主義の罠にはまることになりかねないのではないか。

後世のファシズムの先駆だという平板な批判は当らないと思うが、上記の観点からしてある種の危険があるという考えには肯ける。

ただし、言論の自由・民主主義的多数決制・規制無き市場経済の三位一体を揃えて自由放任を貫けば、自動的予定調和的に永遠の進歩がもたらされるのだから、それにいかなる恣意的介入も為すべきではない、それが「保守」というものだ、などという反吐の出そうな風潮への解毒剤には十分なる。

また自由放任的資本主義の弊害を抑制するため、「労働の組織化」の必要を主張しているが、これをもって集産主義への危険な傾向だと(ハイエク『隷従への道』のように)批判する気には全くなれない。

むしろ初期資本主義がもたらした恐るべき社会的荒廃を矯正することがあまりにも遅かったがゆえに共産主義という最悪の狂信が生まれたと解釈すべき。

最近の新自由主義の跋扈によって同じ誤りが繰り返されるのではないかと強く危惧します。

本書は、労使の協調、さらに共同経営すら示唆する「進歩性」を持ち、そのために断固とした国家介入を支持する。

それを指導するものこそ真の貴族であるとする。

イギリスはまだよくやった方か・・・・・。

自らは原則だけを提示し、具体的指針を出すのは適切ではないと書いてあるのだから、なおさら集産主義との批判は当らないと感じる。

もう一つの論点は、すべてが世論の動向次第となり、偽の価値観が横行する近代社会の批判。

広告宣伝と財力が結合し、社会の支配勢力となることの醜悪さ。

第一巻は序言、現状認識と主要論旨、第二巻は中世修道院を例に採ったキリスト教的政治社会の擁護、第三巻は近代イギリスの現状批判、第四巻は将来への展望と諸提案という構成。

読みにくい部分が多く、例示されている固有名詞に馴染みのないものがかなりある。

しかし、全体的印象はやはり素晴らしい。

是非ご一読を勧めます。

 

われわれは、最近、世界は労賃を労働に配当する才能の点で退歩した、といってよいものか?世界は、よかれ悪しかれ、いつもそういう才能をもっていた。かつて手工業者ごときが、マンチェスター暴動によって世界にたいし要求を公表する必要などなかった時代もあった!――世界は、諸国の富、需要供給の法則の類によって、ちかごろ労働と賃金の問題にたいしひどく不注意になっている。世界があわれにもこの点においても退歩した、とはいうまい。むしろわれわれはこういおう。世界はますます多くの仕事をしようと、まっしぐらに突進するあまり、賃金の分配など考える余地がないのである。そうして、弱肉強食の法則、需要供給の原則、自由放任主義など、さまざまのくだらぬ法則、無法によって、賃金が争奪されるままにしている――仕事をなしとげるのに急ぐあまり、それでよろしい!といっているのである、と。

 

なるほど、今日、われわれが、拝金主義の福音によって、奇妙な結論に達していることを、認めざるをえない。われわれは社会とよぶが、全くの分離、孤立を公言してはばからないのである。われわれの生活は、相互に役立つというものではなく、むしろ、「公正な競争」とかなんとかいう名前をつけられた、正当な戦争法規におおわれた相互敵視であるといってもよい。われわれは、「現金勘定」が唯一の人間関係でないことを、いたるところで、すっかり忘れてしまった。われわれは、なんの疑いもなく、「現金勘定」が人間の契約のいっさいを解除し一掃するものと、考える。「飢えかかっている労働者だって?」と金持の工場主は答える、「おれは、やつらを正当に市場でやとったではないか?契約しただけのものを、何からなにまで、やつらに払っているではないか?これ以上、やつらをどうしなければならぬというのか?」――まさに拝金主義とはゆううつな宗旨ではないか。カインは、自分一個のために、アベルを殺して、「弟アベルは、どこにいますか?」と問われたとき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、かれもまた答えたのであった。わたしはわたしの弟に、かれが当然受けとるべき労賃をはらってやったではないか?

 

ブル[イギリス国民]は生まれながらにして保守主義者である。このゆえにまた、わたしは言い表わせぬほどかれを尊敬するのである。すべて偉大な国民は保守主義者である。容易に新奇を信せず、現実の状況における多くの過ちをゆるし、法律や、かつて厳粛に確立され、今日にいたるまで長いあいだ正当で決定的なものとして見なされてきた習慣のなかに、偉大なものの存在することを、深く、永久に確信するのである。急進的改革者よ、なるほど正しくいって、最終的習慣などは、どこにもない。それは絶対にないのである。だが諸君は、あらゆる文明諸国において、最終的と考えられている習慣のあることにお気づきであろう。のみならず、古代ローマでは、それは、「モレス」という名のもとに、道徳、徳、神その人の「おきて」と考えられていたのである。いわば、習慣の多くは、こういうものである。ほとんどすべての習慣はこういうものであった。そして「かつては厳粛に認められた習慣」のすべてを、最後の、神聖なものとして、人間が歩くための規則であることをいささかも疑わず、詮議立てしようとしない、まじめな人を、わたしは大いに尊敬したい――諸君は馬鹿というかもしれぬ、が、それはそれにしても良い性質の馬鹿、最良の馬鹿であろう。

 

すべてを利己心や、強欲な金銭欲や、快楽欲、名声欲にゆだねよ――というのが、絶望の福音である。そうなると、人間は新案特許の消化器械となる。たんに自由貿易、自由に消化する場所を与えて、それからおのおの手に入れられるだけのものを消化し、あとは運命にゆだねるというわけであろうか!わが不幸な、働く拝金主義の兄弟よ、より不幸な、のらくろな道楽者の兄弟たちよ、かつて世界がこんなふうに長いあいだまとまっていたことは一度もなかった。・・・・・結局、みんな飢えから泣き叫び、「不可能」となり、狂水病にかかった無数の犬のように、自滅的な狂気に陥るのである。

 

じつのところ、さきに述べざるをえなかったように、「同胞から圧迫を受けない自由」は、人間自由の欠くべからざる一部であるとはいえ、いかにもつまらぬ微々たるものである。ことさらの理由もなしに、だれひとり諸君に圧迫を加える者はなく、諸君に苦役を課したり、酷使できない。なるほど、諸君は、あらゆる人間から自由である。しかし、諸君自身と悪魔にたいしてはどうか?諸君より賢い人も、賢くない人も、諸君を駆使することはできない。けれども、諸君自身の軽薄、錯乱、誤った金銭欲、ウィンザーのジョージ王などはどうであろうか?ああ、自由独立の選挙民諸君、諸君に圧迫を加える者は一人もない、だがこの下らぬビールのビンは、諸君を悩まさないだろうか?どういう人間も諸君を駆使することができない。だが、このばかばかしい麦芽醸造酒のビンは、それができる!諸君はサクソン人セドリックの奴隷ではないが、諸君自身の獣欲や、この光った容器の酒の奴隷である。それでいて、諸君は諸君の「自由」についてむだ口をたたく。なんという大たわけであろう!

 

人間の行き当たるあらゆる道のうちで、いついかなるときにも、まただれにとっても「最善の道」の存在することは、たしかである。この時この場で、なすべきもっとも賢明なことは一つある、――もしかれが、指導によるにせよ強制によるにせよ、ともかくそれを行うことができれば、それはとりもなおさず、いわば「人間らしく」やったのであり、すべての人と神がかれに同意し、じつのところ、全宇宙をあげて、かれによくやったと叫んでいるのである!そうしたばあい、かれの成功は完全であり、その幸福は絶頂に達する。この道は、この道を見いだしそこを歩いて行くことこそ、かれにとって欠くべからざる、唯一の道である。かれをその道に押しすすめるものが、たとえ殴打やけ飛ばした形でくるにしても、すべてそれは自由である。かれを妨げるものが、区理事会、教区総会、投票所、満場の拍手かっさい、川のような麦芽醸造酒であるにしても、すべて隷属なのである。

 

人間の自由が、選挙所で投票し、「見よ、おれも、国会討論会の弁士の一人に二万分の一関係がある。神々は、おれに親切にしてくれるではないか?」というところにあるという考えは、――いかにもこっけいきわまるものではないか!それにもかかわらず自然は、現在のところ親切である。そして多くの、ほとんどすべての人びとの頭にそれを植えつけている。とくに社会的孤立と、だれもがみな別々に分かれて、現金勘定以外、「全く関係をもたぬ」ことによってかちとった自由、こういう自由は、これまでこの世ではほとんど見られなかったものであり、――諸君がいかに勧めても、全世界がこれ以上耐えられぬものである。この自由は、すべての人びとに歓呼をもって迎えられながら、それほど活動をつづけぬうちに、幾百万の労働階級にとって、それが食料の欠乏で死ぬ自由であることがわかる。一方、無数ののらくろ者のばあい、それは、仕事なしに生きること、つまり、この神の世界においてもはや真面目なつとめを持たぬという、もっとも有害な自由である。こういう苦境に立たされる人間はどうなるのか?地上の法は沈黙を守っている。そして天上の法は口をきくが、その声は聞こえぬ。仕事のないことと、仕事の根深い必要とが、まさしく驚くべき新らしい人生観と処世術を生ずる!道楽半分、無頓着、男だて、など、ときにはおそらく半狂乱になったバイロン風の反抗の爆発となって現われる。・・・・・兄弟よ、われわれは、長年の立憲政治をへた現在でも、自由と奴隷の意味が、完全にはわかっていないのである。

 

民主主義、つまりこのような方向へ自由を追求することは、ともかく行きつくところまで行かねばなるまい。あの「馬脚」閣下でも、あるいはその一党のだれひとりとして、それをとどめることはできぬ。あくせくと働く幾百万の人は、指導の必要を痛切に感じ、それを本能的に激しく望むあまり、ニセの指導をしりぞけ、一時的にせよ、指導なんか要らないとさえ考える。しかしそれも一時にすぎない。人間隷属の最小のものは、ニセの長上者によって人間が圧迫を受けることである。もっとも明白であるが、しょせんは最小のものであろう。そうした圧迫をふりとばして、憤然と足でふみつけるがよい。わたしはかれを責めない。あわれみ、称賛する。しかし、ニセの長上者による圧迫を振りとばしても、まだ、解決すべき大問題は残っている。それは真の長上者による統治を見いだすことである!ああ、われわれのように行き暮れて、困惑し、小ばかにし、冷笑し、神を忘れた不幸な者が、どうしてその解決を知るであろうか?それは数世紀にわたる仕事であり、苦難、混乱、暴動、障害によって、われわれは教えられる。災害や絶望によってでないとはいえぬ!それは、他のいっさいの教訓を含む教訓であり、あらゆる教訓のうちで学ぶのにもっとも困難なものである。

 

労働時間法、工場法その他、同様の法案について、筆者は語る資格がない。どういう特殊の方法によれば、法律で、労働者と労働者の親方のあいだに干渉できるものか、わたしは知らない。それはわたし以外の人のなすべきことである。――ただ、わたしに理解できるのは、すべての人たちも理解しはじめているように、法律の干渉、それもかなりの干渉が絶対必要であり、こうした方面のことは、もはや無法乱脈な需要供給として、たんなる賃金相場にだけまかせておけぬ、ということである。・・・・・干渉はすでにはじまっている。それは永続されなければならない。ひろく拡大され、鋭くされなければなるまい。こうした問題は、むなしく暗黒のなかに放置して、人目につかぬままに、しておくことはもはやできない。天はそれを見ているのである。天の祝福ではない、のろいが、それを見ようともしない人びとにふりかかるのである。

 

マンチェスターのような全産業都市はいずれも、その煙とすすをすっかりもやし、全世界におよぶ征服を押しすすめながら、百エーカーばかりの樹木の茂った、自由に出入りできる緑地を確保し、そこに小さな子供たちを遊ばせ、またいっさいを征服する労働者に、そこでたそがれどきの微風に息をつかせるべきではなかろうか?諸君はそのとおりだというにちがいない!議会にやる気さえあれば、実行をもってこたえることができるのである。・・・・・そして「おれのもうけがなくなる」といって反対するような「既得利権」にたいしては、ことごとく――議会にやる気があれば、こう答えるであろう、「そうだよ、しかしわが国の子供たちが健康と、生命と、魂を得るのだ。」――「それじゃ、われわれの綿紡績業はどうなるのか?」と、工場法が提出されると、ある紡績業者はさけんだ、「われわれの大切な綿紡績業はどうなるのか?」イギリスの人びとは断固として答える、「これらの幼児の弱々しい滅びそうな魂をすくうべきである、おまえの綿紡績業は成行きにまかせておくがよい。一つは神さまの命じていることだし、もう一つは別段神さまの命じていることではない。われわれは、悪魔と組むようなことまでして、綿紡績業を繁栄させることはできない!」

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