万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年1月30日

清水義範 『世界文学必勝法』 (筑摩書房)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:22

2008年刊。

世界文学の中から50作を選び、雑談風に気軽に紹介した文章を集めたもの。

もちろん欧米が中心だが、『史記』『シャクンタラー』『キルガメシュ叙事詩』『ルバイヤート』『バーブル・ナーマ』などもある。

著者自身、収録作を全て読んでいたわけではなく、本書を執筆するにあたり、未読作を読んだということも多かったそうで、これから世界文学に挑戦しようかという人にとっては励みになり、親近感を持てる。

巻末には「読むべきもう五十編」のリストが掲げられており、本文の50作と合わせて100冊のガイドになっている。

ただし基本的に一人の作家で一冊だけを選んでいるので、文字通りのベスト100ではないと断っている。

著者の感想や評価を読んでいると、読書意欲がかき立てられて有益。

しかし20世紀後半以後の現代文学の比重がやや高い気がする(本文では50作中9作)。

思い切ってもっと19世紀重視にしてもらった方が良かったかも。

とは言え、良書だとは思います。

2016年1月28日

バイロン 『マンフレッド』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:53

ロマン主義の中心的文学者で、ギリシア独立戦争への参加などもあって、教科書的知名度は高いが、この人の代表作『チャイルド・ハロルドの巡礼』の翻訳は見たことが無い。

これは戯曲なので、たまたま手に取ってみたが、半分詩みたいな作品だった。

内容は・・・・・愛する女性を失って絶望の底にある領主マンフレッドが、魔女や精霊に雄々しく抗しつつ、伝統的な信仰に救いを求めることもせず、堂々と死を受け入れる物語、ととりあえずまとめたが、正直わけがわかりません。

訳者解説で「自我の意識を呪わしく感じながら、最後までこの自我のみを楯として、すべての権威に屈服しようとしない近代人の英雄的な姿」を描いているとあるが、まあそう言われればそうかと思えるだけ。

私の貧しい文学的感性では、評価「1」を付けるしかない。

ほぼ100ページ、しかも戯曲なので、文字がスカスカですぐ読めるのだけが利点。

残念ながら、私のレベルではそんなもんです。

2016年1月22日

トマス・カーライル 『過去と現在  (カーライル選集3)』 (日本教文社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:38

1843年刊。

カーライルはイギリスの評論家・保守思想家で、『フランス革命論』などの著作あり。

本書は、拝金主義と享楽(快楽)主義という二つの悪魔のひき臼にすり潰されていく近代という時代の全面的批判と、中世という宗教的信仰が人間に確固とした価値観を提示していた時代の擁護を内容とする。

統治の義務と責任を果たそうとせず不労所得による享楽に明け暮れる貴族と、金銭勘定以外の価値観を持たず俗悪な趣味に溺れる新興産業資本家、チャーティスト運動など急進的社会変革運動にのめり込む労働者階級の三者を(労働者階級については産業革命後のその悲惨な境遇には深く同情しつつ)共に批判。

キリスト教的信仰を中核とした形而上的価値の復興を強く訴えている。

功利主義の否定も含め、個人的には全く違和感の無い主張だが、個々の具体的史実についての記述にはやや引っかかりを覚えないでもない。

繰り返し穀物法が貴族階級のエゴイズムの象徴として攻撃されているが、果たしてそう単純に言い切れるものかなと思う。

自由貿易を絶対視するというのは本書の論旨と合わないのでは?

またカトリックへの軽侮、クロムウェルへの礼賛(ピューリタン的価値観を徹底したからか?)、アヘン戦争正当化(これも自由貿易の為という文脈)、黒人・遊牧民への蔑視(時代状況を考えればこれは言っても仕方ないところがあるが)など。

さらにより根本的には、民主主義を批判して「英雄崇拝」と「賢人政治」を復活させなければならないという主張には同意するが、それは歴史的伝統に可能な限り沿う形で、という前提条件を付けなければ(その意味で本書での既存の貴族階層への批判は厳しすぎると感じる)、表面上民主制を否定しつつ実はその徹底と純化に過ぎない右翼全体主義の罠にはまることになりかねないのではないか。

後世のファシズムの先駆だという平板な批判は当らないと思うが、上記の観点からしてある種の危険があるという考えには肯ける。

ただし、言論の自由・民主主義的多数決制・規制無き市場経済の三位一体を揃えて自由放任を貫けば、自動的予定調和的に永遠の進歩がもたらされるのだから、それにいかなる恣意的介入も為すべきではない、それが「保守」というものだ、などという反吐の出そうな風潮への解毒剤には十分なる。

また自由放任的資本主義の弊害を抑制するため、「労働の組織化」の必要を主張しているが、これをもって集産主義への危険な傾向だと(ハイエク『隷従への道』のように)批判する気には全くなれない。

むしろ初期資本主義がもたらした恐るべき社会的荒廃を矯正することがあまりにも遅かったがゆえに共産主義という最悪の狂信が生まれたと解釈すべき。

最近の新自由主義の跋扈によって同じ誤りが繰り返されるのではないかと強く危惧します。

本書は、労使の協調、さらに共同経営すら示唆する「進歩性」を持ち、そのために断固とした国家介入を支持する。

それを指導するものこそ真の貴族であるとする。

イギリスはまだよくやった方か・・・・・。

自らは原則だけを提示し、具体的指針を出すのは適切ではないと書いてあるのだから、なおさら集産主義との批判は当らないと感じる。

もう一つの論点は、すべてが世論の動向次第となり、偽の価値観が横行する近代社会の批判。

広告宣伝と財力が結合し、社会の支配勢力となることの醜悪さ。

第一巻は序言、現状認識と主要論旨、第二巻は中世修道院を例に採ったキリスト教的政治社会の擁護、第三巻は近代イギリスの現状批判、第四巻は将来への展望と諸提案という構成。

読みにくい部分が多く、例示されている固有名詞に馴染みのないものがかなりある。

しかし、全体的印象はやはり素晴らしい。

是非ご一読を勧めます。

 

われわれは、最近、世界は労賃を労働に配当する才能の点で退歩した、といってよいものか?世界は、よかれ悪しかれ、いつもそういう才能をもっていた。かつて手工業者ごときが、マンチェスター暴動によって世界にたいし要求を公表する必要などなかった時代もあった!――世界は、諸国の富、需要供給の法則の類によって、ちかごろ労働と賃金の問題にたいしひどく不注意になっている。世界があわれにもこの点においても退歩した、とはいうまい。むしろわれわれはこういおう。世界はますます多くの仕事をしようと、まっしぐらに突進するあまり、賃金の分配など考える余地がないのである。そうして、弱肉強食の法則、需要供給の原則、自由放任主義など、さまざまのくだらぬ法則、無法によって、賃金が争奪されるままにしている――仕事をなしとげるのに急ぐあまり、それでよろしい!といっているのである、と。

 

なるほど、今日、われわれが、拝金主義の福音によって、奇妙な結論に達していることを、認めざるをえない。われわれは社会とよぶが、全くの分離、孤立を公言してはばからないのである。われわれの生活は、相互に役立つというものではなく、むしろ、「公正な競争」とかなんとかいう名前をつけられた、正当な戦争法規におおわれた相互敵視であるといってもよい。われわれは、「現金勘定」が唯一の人間関係でないことを、いたるところで、すっかり忘れてしまった。われわれは、なんの疑いもなく、「現金勘定」が人間の契約のいっさいを解除し一掃するものと、考える。「飢えかかっている労働者だって?」と金持の工場主は答える、「おれは、やつらを正当に市場でやとったではないか?契約しただけのものを、何からなにまで、やつらに払っているではないか?これ以上、やつらをどうしなければならぬというのか?」――まさに拝金主義とはゆううつな宗旨ではないか。カインは、自分一個のために、アベルを殺して、「弟アベルは、どこにいますか?」と問われたとき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、かれもまた答えたのであった。わたしはわたしの弟に、かれが当然受けとるべき労賃をはらってやったではないか?

 

ブル[イギリス国民]は生まれながらにして保守主義者である。このゆえにまた、わたしは言い表わせぬほどかれを尊敬するのである。すべて偉大な国民は保守主義者である。容易に新奇を信せず、現実の状況における多くの過ちをゆるし、法律や、かつて厳粛に確立され、今日にいたるまで長いあいだ正当で決定的なものとして見なされてきた習慣のなかに、偉大なものの存在することを、深く、永久に確信するのである。急進的改革者よ、なるほど正しくいって、最終的習慣などは、どこにもない。それは絶対にないのである。だが諸君は、あらゆる文明諸国において、最終的と考えられている習慣のあることにお気づきであろう。のみならず、古代ローマでは、それは、「モレス」という名のもとに、道徳、徳、神その人の「おきて」と考えられていたのである。いわば、習慣の多くは、こういうものである。ほとんどすべての習慣はこういうものであった。そして「かつては厳粛に認められた習慣」のすべてを、最後の、神聖なものとして、人間が歩くための規則であることをいささかも疑わず、詮議立てしようとしない、まじめな人を、わたしは大いに尊敬したい――諸君は馬鹿というかもしれぬ、が、それはそれにしても良い性質の馬鹿、最良の馬鹿であろう。

 

すべてを利己心や、強欲な金銭欲や、快楽欲、名声欲にゆだねよ――というのが、絶望の福音である。そうなると、人間は新案特許の消化器械となる。たんに自由貿易、自由に消化する場所を与えて、それからおのおの手に入れられるだけのものを消化し、あとは運命にゆだねるというわけであろうか!わが不幸な、働く拝金主義の兄弟よ、より不幸な、のらくろな道楽者の兄弟たちよ、かつて世界がこんなふうに長いあいだまとまっていたことは一度もなかった。・・・・・結局、みんな飢えから泣き叫び、「不可能」となり、狂水病にかかった無数の犬のように、自滅的な狂気に陥るのである。

 

じつのところ、さきに述べざるをえなかったように、「同胞から圧迫を受けない自由」は、人間自由の欠くべからざる一部であるとはいえ、いかにもつまらぬ微々たるものである。ことさらの理由もなしに、だれひとり諸君に圧迫を加える者はなく、諸君に苦役を課したり、酷使できない。なるほど、諸君は、あらゆる人間から自由である。しかし、諸君自身と悪魔にたいしてはどうか?諸君より賢い人も、賢くない人も、諸君を駆使することはできない。けれども、諸君自身の軽薄、錯乱、誤った金銭欲、ウィンザーのジョージ王などはどうであろうか?ああ、自由独立の選挙民諸君、諸君に圧迫を加える者は一人もない、だがこの下らぬビールのビンは、諸君を悩まさないだろうか?どういう人間も諸君を駆使することができない。だが、このばかばかしい麦芽醸造酒のビンは、それができる!諸君はサクソン人セドリックの奴隷ではないが、諸君自身の獣欲や、この光った容器の酒の奴隷である。それでいて、諸君は諸君の「自由」についてむだ口をたたく。なんという大たわけであろう!

 

人間の行き当たるあらゆる道のうちで、いついかなるときにも、まただれにとっても「最善の道」の存在することは、たしかである。この時この場で、なすべきもっとも賢明なことは一つある、――もしかれが、指導によるにせよ強制によるにせよ、ともかくそれを行うことができれば、それはとりもなおさず、いわば「人間らしく」やったのであり、すべての人と神がかれに同意し、じつのところ、全宇宙をあげて、かれによくやったと叫んでいるのである!そうしたばあい、かれの成功は完全であり、その幸福は絶頂に達する。この道は、この道を見いだしそこを歩いて行くことこそ、かれにとって欠くべからざる、唯一の道である。かれをその道に押しすすめるものが、たとえ殴打やけ飛ばした形でくるにしても、すべてそれは自由である。かれを妨げるものが、区理事会、教区総会、投票所、満場の拍手かっさい、川のような麦芽醸造酒であるにしても、すべて隷属なのである。

 

人間の自由が、選挙所で投票し、「見よ、おれも、国会討論会の弁士の一人に二万分の一関係がある。神々は、おれに親切にしてくれるではないか?」というところにあるという考えは、――いかにもこっけいきわまるものではないか!それにもかかわらず自然は、現在のところ親切である。そして多くの、ほとんどすべての人びとの頭にそれを植えつけている。とくに社会的孤立と、だれもがみな別々に分かれて、現金勘定以外、「全く関係をもたぬ」ことによってかちとった自由、こういう自由は、これまでこの世ではほとんど見られなかったものであり、――諸君がいかに勧めても、全世界がこれ以上耐えられぬものである。この自由は、すべての人びとに歓呼をもって迎えられながら、それほど活動をつづけぬうちに、幾百万の労働階級にとって、それが食料の欠乏で死ぬ自由であることがわかる。一方、無数ののらくろ者のばあい、それは、仕事なしに生きること、つまり、この神の世界においてもはや真面目なつとめを持たぬという、もっとも有害な自由である。こういう苦境に立たされる人間はどうなるのか?地上の法は沈黙を守っている。そして天上の法は口をきくが、その声は聞こえぬ。仕事のないことと、仕事の根深い必要とが、まさしく驚くべき新らしい人生観と処世術を生ずる!道楽半分、無頓着、男だて、など、ときにはおそらく半狂乱になったバイロン風の反抗の爆発となって現われる。・・・・・兄弟よ、われわれは、長年の立憲政治をへた現在でも、自由と奴隷の意味が、完全にはわかっていないのである。

 

民主主義、つまりこのような方向へ自由を追求することは、ともかく行きつくところまで行かねばなるまい。あの「馬脚」閣下でも、あるいはその一党のだれひとりとして、それをとどめることはできぬ。あくせくと働く幾百万の人は、指導の必要を痛切に感じ、それを本能的に激しく望むあまり、ニセの指導をしりぞけ、一時的にせよ、指導なんか要らないとさえ考える。しかしそれも一時にすぎない。人間隷属の最小のものは、ニセの長上者によって人間が圧迫を受けることである。もっとも明白であるが、しょせんは最小のものであろう。そうした圧迫をふりとばして、憤然と足でふみつけるがよい。わたしはかれを責めない。あわれみ、称賛する。しかし、ニセの長上者による圧迫を振りとばしても、まだ、解決すべき大問題は残っている。それは真の長上者による統治を見いだすことである!ああ、われわれのように行き暮れて、困惑し、小ばかにし、冷笑し、神を忘れた不幸な者が、どうしてその解決を知るであろうか?それは数世紀にわたる仕事であり、苦難、混乱、暴動、障害によって、われわれは教えられる。災害や絶望によってでないとはいえぬ!それは、他のいっさいの教訓を含む教訓であり、あらゆる教訓のうちで学ぶのにもっとも困難なものである。

 

労働時間法、工場法その他、同様の法案について、筆者は語る資格がない。どういう特殊の方法によれば、法律で、労働者と労働者の親方のあいだに干渉できるものか、わたしは知らない。それはわたし以外の人のなすべきことである。――ただ、わたしに理解できるのは、すべての人たちも理解しはじめているように、法律の干渉、それもかなりの干渉が絶対必要であり、こうした方面のことは、もはや無法乱脈な需要供給として、たんなる賃金相場にだけまかせておけぬ、ということである。・・・・・干渉はすでにはじまっている。それは永続されなければならない。ひろく拡大され、鋭くされなければなるまい。こうした問題は、むなしく暗黒のなかに放置して、人目につかぬままに、しておくことはもはやできない。天はそれを見ているのである。天の祝福ではない、のろいが、それを見ようともしない人びとにふりかかるのである。

 

マンチェスターのような全産業都市はいずれも、その煙とすすをすっかりもやし、全世界におよぶ征服を押しすすめながら、百エーカーばかりの樹木の茂った、自由に出入りできる緑地を確保し、そこに小さな子供たちを遊ばせ、またいっさいを征服する労働者に、そこでたそがれどきの微風に息をつかせるべきではなかろうか?諸君はそのとおりだというにちがいない!議会にやる気さえあれば、実行をもってこたえることができるのである。・・・・・そして「おれのもうけがなくなる」といって反対するような「既得利権」にたいしては、ことごとく――議会にやる気があれば、こう答えるであろう、「そうだよ、しかしわが国の子供たちが健康と、生命と、魂を得るのだ。」――「それじゃ、われわれの綿紡績業はどうなるのか?」と、工場法が提出されると、ある紡績業者はさけんだ、「われわれの大切な綿紡績業はどうなるのか?」イギリスの人びとは断固として答える、「これらの幼児の弱々しい滅びそうな魂をすくうべきである、おまえの綿紡績業は成行きにまかせておくがよい。一つは神さまの命じていることだし、もう一つは別段神さまの命じていることではない。われわれは、悪魔と組むようなことまでして、綿紡績業を繁栄させることはできない!」

2016年1月18日

引用文(佐藤優1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 05:45

佐藤優『インテリジェンス人生相談 復興編』(扶桑社)より。

古い小説は読まない?例えば中央公論社から出ていた『日本の文学』というのがあるんだけど、青い表紙で全88冊くらいあると思う。古本屋なら1万円くらい。あるいは赤い表紙『世界の文学』。これを片っ端から読んでいく。お金はほとんどかからないけど、ものすごく深い小説の世界に入っていくことができるはず。そうすると、多分あなたが抱えている悩みごと、心配ごとの相当の部分がその小説の中に出てくる。人生の代理体験を小説の中ですることができるんだ。既にこの世にいない、われわれと世界を異にしているものすごく優れた知性と対話をしていく、勉強していくことは、すごくいいと思う。・・・・・例えば夏目漱石もそう。『門』や『それから』を読んでみて。

文学がいい。ハウツー本とか、婚活マニュアルとか、そんなんじゃなくて。それも古いものがいい。大正、昭和期がいい。明治になると、ちょっとまた違うから。半年くらい読み続けてみるといいです。本を読むことが面白くなってくるから。本の面白さっていうのは、古いものを読まないとわからない。

読んでピンとくるところがあったら、鉛筆で線を引いておいて、とりあえず読み終わるまでは書き写しはしないで、読み終わってから書き写すといい。

ノートをとる習慣があるんだったら、それを発展させていって、ノートと対話していくというのは、すごくいいと思うよ。ノートと対話することを始めたら、ノートが宝物になる。自分の思ってることや、いろんなものを引用して書いたりして。ノートって1年でどんなに頑張っても10冊も書けないんだよ。1年で1.5cmくらいにしかならない・・・・・し、実際にはそんなに書けない。それを全部とっておくと、確実に昔の自分と対話できるよ。全然話の合うヤツがいなければ、自分と話せばいいんですよ。

人間の記憶力はけっこうあって、「ノートのどの辺に書いた」とかいうのはだいたい覚えているから。極力、ノートに手で書いたほうがいい。そうすると、世界で一つしかないノートになる。だから、情報じゃなくてノートに残す。

・・・・・

そもそも、この世界は狂っているんだから。こんなところに適応できるのは頭のおかしい人なんです。

2016年1月16日

ラファイエット夫人 『クレーヴの奥方  他二篇』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:25

1678年刊。

ルイ14世時代の古典主義文学で、小説家としては数少ない著名作家。

フランス心理小説の始祖とも言われる。

16世紀アンリ2世時代を舞台に、クレーヴ夫人と美青年ヌムール公の道ならぬ恋を描いた作品。

しかし・・・・・読みにくい・・・・・。

宮廷社会の描写もひたすらだるい。

心理分析の詳細さはよくわかったが、それほど面白くはない。

小品『モンパンシエ公爵夫人』と『タンド伯爵夫人』も併録されており、プラトニックだったクレーヴ夫人に対し、それを超えた関係を持った夫人たちの不幸を描いているが、どちらも習作的作品というもので、特にどうと言うこともない。

文学史上の著名作をとりあえず読んだというだけの結果になりました。

2016年1月14日

引用文(青木裕司1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 04:23

青木裕司『NEW青木世界史B講義の実況中継  5 文化史』(語学春秋社)より。

これは大学生に限らず、みなそうなんですが、あまり文学なんて読んでないよな。で、言っときたいんだけど、やっぱり読んだ方がいい。理由は2つ。まず面白いからだね。そして次の理由は、やや機能的になっちゃうけど、いろんな学問をやるときに役に立つんですね。

だいたい学問て、最終的には「人間とはなにか?」を追及する行為だろう。そのアプローチのしかたの1つが歴史学だったり経済学だったりするわけだね。でも、過去の事実だけ調べても歴史はわかんないし、お金の流れだけ見つめても経済のことわかんないよ。重要なのは、そこに介在している人間が、どういう意識でそのことをなそうとしてきたのか、ということだ。

で、文学っていろんな人間の生きざま、そして死にざまの記録だろう。そこには、人間のさまざまな行動が明示してあるわけだ。しかも香り高い表現でね。そこに展開されているドン=キホーテの行動やラスコリニコフの苦悩を辿ることによって、少しは人間ってものがわかるようになるわけ。僕たちが一生かかって経験できることって、限られているから、それを文学で補うわけ。言っとくが、われわれのような凡庸な人間の実体験なんて、天才が作り出したフィクションの前では屁みたいなもんさ。

2016年1月12日

ハンス・カロッサ 『ルーマニア日記』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:23

著者は1878年生まれ、1956年没。

医師としての活動のかたわら、自伝的要素の強い小説作品を書いた20世紀ドイツを代表する文学者の一人。

ただこの人は、ナチ政権時代、トーマス・マン、ヘッセ、ブレヒト、レマルクら著名文学者が亡命したり非協力を貫いた中、ドイツ国内に留まり、やや迎合的姿勢を(心ならずも、かもしれないが)取ってしまったので、一部で批判を受けたこともあったようだ。

この『ルーマニア日記』は、第一次大戦中、フランスからルーマニア方面に転戦した軍医の体験を記した作品。

日常と化した戦争の中での出来事を淡々と描きつつ、その悲惨さと空しさを静かに訴える。

あまり読みやすいとは感じないが、短いのがよい。

手に取れば、何か感じるところがあるでしょう。

2016年1月8日

引用文(辻原登1)

Filed under: 引用文, 文学 — 万年初心者 @ 07:33

辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社)より(括弧など一部表記変更あり)。

二十年ほど前、私が四十歳になるかならぬかの頃、もう一度、十九世紀ヨーロッパ小説にどっぷり浸ることに決めた。そのとき、二つのルールを課した。一つは、二十世紀という世紀があったことを(そのときは私はまだ二十世紀に生きていたのだが)忘れること。第一次世界大戦も第二次世界大戦も、プルーストもジョイスもカフカもすべて忘れて。

二つ目は、小林秀雄の助言に従うこと。その助言とは、「若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め」(「作家志願者への助言」・・・・)というものだ。

さて何から始めたかというと、これも小林秀雄の助言に従うことにした。少し長いが、彼の全集でしかみつからぬ文章なので、全文を引用する。タイトルはずばり、「トルストイを読みたまえ」。

「若い人々から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何も読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。あんまり本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え。文学に於て、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、文学入門書というようなものを信じてはいけない。途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて充分に驚くことだけが大事である。」

こうして私は先ず「トルストイ全集」からはじめた。スタンダール、バルザック、デュマ、ディケンズ、フローベールといったぐあいである。

その結果、何があったか、何が分かったか?・・・・いや、何も。しかし、たのしかった。

いや、やはりこういうことが分かった。骨身にしみた。・・・・作家にとって、現実とは十九世紀小説で、それ以前の物語も二十世紀小説も文学なのだ、ということだ。

・・・・それにしても、十代で読んだ『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を四十歳や五十歳になって、再読するときのよろこびはどうだろう!しかも、新しい訳で。

・・・・・

[杉本秀太郎氏の文章]
「ヨーロッパの文学は、音楽と肩を並べて、十九世紀に大きな球体あるいは多面立方体を数多く生み出したが、やがて破片の処理にあけくれるいたましい世がやってきた。しかし成熟した小説にまなんでしるされた自伝、回想があちこちに残った。小説の末路を心配しているよりも(心配するしかないのだが)思想の生態誌をよみ取りたどる楽しみを求めて、二度とかえらぬ世の長い長い小説をよんでいると、月日はあやしくも物狂おしくながれすぎる。」

これほど美しく、簡潔な十九、二十世紀文学論があるだろうか。二十年前、私が十九世紀ヨーロッパ小説にもう一度、浸り切ろうと発心したのは、そういうことだったのだ、と思いたい。

私の場合、プルースト『失われた時を求めて』(の全篇)、ジョイス『ユリシーズ』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』、トーマス・マン『魔の山』、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』など、二十世紀の大長編に挑戦しない(できない)ことをこの文章によって正当化しているところがあります。

2016年1月4日

トルストイ 『アンナ・カレーニナ 全4巻』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:55

読み切りました・・・・・。

文豪トルストイの『戦争と平和』と並ぶ、もう一つの代表作。

オブロンスキー公爵の妹で高級官僚カレーニンの妻アンナ、青年軍人ヴロンスキー、オブロンスキーの妻の妹キティ、良心的で理想家肌の地主貴族リョーヴィンの四者が織り成す物語。

非常に読みやすく、流れるようにページを手繰ることができる。

恋愛心理小説としても、思想小説としても極めて完成度が高い。

加えて社会小説としても、19世紀初頭のロシアを描いた『戦争と平和』よりも、作者トルストイにとっての同時代を描いたこちらの方が良いと感じた。

急激な資本主義化と西欧文明の流入がもたらす弊害、没落する地主貴族と社会的無秩序、拝金主義と物質主義の蔓延、信仰の後退とそれに伴う精神的空白および狂信的過激主義の台頭など。

また末尾近くで、本書刊行時の露土戦争でナショナリズムに興奮する世論が全能の支配者となり、社会的上層部すらがそれに押し流される事態の醜悪さが巧みに描かれてもいる。

パン・スラヴ主義の美名の下に起こった現実を揶揄したものだが、本書を完璧な芸術作品として激賞したドストエフスキーも、この描写には批判的意見を述べたという。

だが、これはトルストイに分があるよなあと思える。

以上のような社会の頽廃を抑えるために、既存の正教会とは異なる民衆の素朴な信仰に望みを託したトルストイの期待は全く空しいものだったと言うしかない。

 

面白い。

これだけの大長編にもかかわらず、ほとんどテンションを落とさず読み通せる。

翻訳も素晴らしいです。

訳者と出版元に深く感謝したい。

この古典を10日余りで読了できて、書名一覧での通読難易度を「難」ではなく「中」に、評価を「4」にできるのは、私にとって大きな喜びです。

19世紀小説の代表格として是非お勧めしておきます。

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