万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年12月28日

鹿島茂 『成功する読書日記』 (文芸春秋)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 03:43

引用文1で触れた本だが、改めて単独で記事にしてみる。

久しぶりにページを手繰ってみると、結構重要な内容があったので。

これまでの人生で三回ほど、読書日記というかメモのようなものをつけたことがあります。・・・・・いずれも、備忘録代わりにつけはじめたもので、毎回、タイトルや著者・・・名くらいをメモしていたにすぎないのですが、どの日記でも、やっているうちに必ずどこかで「コレクター感情」とも呼ぶべき不思議な気持ちが起こってきたことを覚えています。

つまり、ある程度、記載された量がたまってくると、その量が自動的に拡大を要求してくるのです。たんに、読んだ本・・・を書きとめているというよりも、むしろ「収集」しているのではないかという感覚になってきました。

そうなると、「収集した」本や映画をジャンル別にまとめてみようかとか、このジャンルのこの部分は弱いからここを集中して読もうかとか、体系化への志向というものが生まれてきます。たとえば、・・・大長編小説は、露、仏、米を制覇したから、今度はイギリスと日本を片付けなければならない、といった類です。・・・・・これは、自分の好きなものだけを好きなときに読み・・・散らしていたときとは、あきらかに違う心理です。気ままな読書・・・をしていたときと比べると鬱陶しいといえば鬱陶しいのですが、それを補ってあまりある快楽もあります。すなわち、「コレクション」を完成するという喜びです。

「コレクション感情」を利用して読書意欲を刺激するというのは、自分の経験を考えても、確かにかなり使える手段だと言える。

その後、引用文1の文章に続き、

引用に慣れたら、次にチャレンジしていただきたいのは、引用だけからなるレジュメ(要約)です。自分の文章はあまり使わずに、その本のエッセンスとなるような箇所を何ヵ所か選び出し、その引用だけで本を要約するのです。・・・・・この引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。フランスの教育では、これをコント・ランデュ・・・と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用の中にある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。

これも、内容をしっかり把握し記憶するために有益でしょう。

私は、飛ばし読みOK、とあえて答えたいと思います。なぜなら、一行たりとも省略せずに通読しようとしたあげく、冒頭部分だけで投げ出してしまう読み方よりも、読みにくいところは飛ばし読みしても、最後までたどりつく読書のほうが数倍、実り多いものになるからです。

たとえば、黒岩涙香の『噫無情』の訳名で知られるヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』ですが、この作品は、冒頭から読者を引きつけ一気に物語の核心へと導くようには書かれていません。一見、物語とはなんの関係もなさそうなディーニュの司祭ミリエル神父の生涯の叙述から始まります。しかも、それが延々と続きます。その結果、多くの読者は主人公のジャン・ヴァルジャンが登場する前に挫折してしまいます。

ところが、そこを抜けると、物語はにわかに緊張をはらみ始め、あとは全編、波瀾万丈のストーリーが展開し、ジャン・ヴァルジャンという主人公を介して十九世紀全体の見取り図がわれわれの前に現れてくることになるのです。もちろん、途中で何度か退屈な脱線もあるのですが、そうした箇所は読む勢いがつけば自然にクリアできます。ですから、冒頭は飛ばしてもいいから物語に入り込め、これが私がお勧めしたい『レ・ミゼラブル』の読書法です。

これはあまり同意できない感じ。

一部でも飛ばすと、読後の充実感が大幅に削がれる。

難渋あるいは無味乾燥な部分は、完全に飛ばすより、力を抜いて字面を目で流すようなに軽く読み飛ばすことに慣れた方がいいかもしれない。

読書日記をつけるということは、自分で定める〆切の一つになり得ます。高校時代に、いつまでも、読書日記が空白のままで「読了」の一文字を書きつけることができないのを不愉快に思い、一気にケリをつけようとして、『戦争と平和』を集中して読んだことを思い出します。・・・・・人間というのは、まことに怠惰なもので、この〆切がないと、ついついなにもしないで人生を過ごしてしまうものなのです。・・・・・読書日記をインターネットで公開すれば、それは確実に「〆切」の様相を帯びてきます。そして、「〆切」ができれば、自動的に「読み終えようという確固たる意志」も生まれてくるのです。

これにも深く共感。

このブログも、読書のペースメイカーとして、自分なりの「〆切」を作るためにやっているようなものです。

さて、いろいろと、本の処理法について、理想と現実を並べてきましたが、結局のところ、スペースが限られている以上、いくら工夫を重ねても本の増殖に勝つことはできないということになってしまいそうです。

したがって、考え得る究極の方法は、自分では一切本を持たず、図書館の本を徹底利用するということになってきます。つまり、私が読書日記のところで例として出したフランスの学生のように、図書館で借りた本から必要な部分はすべて引用しておき、読書ノートを書庫の代わりとするのです。

ただ、この方法を取るには、一つ、クリアしなければならない関門があります。それは、図書館をいつでも利用できるように、すぐその近くに住むということ、もう一つは、自分の執筆の時間を図書館の開館時間に合わせるということです。最寄りの図書館が自宅から一時間以上もかかるところにあるとか、夜中に仕事をする癖があるというのでは、図書館を自分の書庫代わりにすることはできません。

しかし、この点がクリアできたなら、膨大な蔵書を誇る図書館が書庫の代わりになりますから、お金はかからないわ、スペースはいらないわで、こんなにいいことはありません。蔵書に苦しみぬいた人にとって、これも本に勝つ一つの方法ではあるのです。

ただ、それには、読書日記をつける習慣を身につけたうえで、引用レジュメやコント・ランデュをしっかりと構成できるということが前提となります。

書庫なし、書棚なしの「理想の生活」を送るにも、読書日記をつけるという習慣が不可欠なのです。

読書ノートをつける効用として、読書意欲の刺激の他に、ノートへの記載によって「所有欲」を満足させて、本を借りて済ませ、費用と置き場所を節約できることがある。

これは本当に大きい。

以前は「本気で通読する本は買わないと駄目だ、後でいつでも参照できるように手元に置いておくことが必要だ」という考えからなかなか抜け出せなかったが、読書ノートを書くようになってからは、驚くほど吹っ切れて、本の所有自体にはこだわらないようになった。

こればっかりはやってみないとわからない。

皆様にも一度お試しになるよう薦めます。

 

 

 

短い書評的記述を含む読書日記が大半を占める本だが、所々載っている著者の読書論には参考になる点が多い。

一度手に取ってみて下さい。

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