万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年12月18日

塚田富治 『近代イギリス政治家列伝  かれらは我らの同時代人』 (みすず書房)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 16:43

「近代」とタイトルにあるが中身は近世17世紀の政治家に限られる。

ロバート・セシル、バッキンガム、ロード、ピム、クロムウェル、ハイドの6人。

 

 

まずプロローグ。

イギリスにおける伝記文学の伝統に言及。

私的生活を暴いたり、業績を羅列するのではなく、深い洞察力と豊富な知識によって書かれた伝記は、愉しく有益な、政治学の最良のテキストたり得る。

マキャヴェリのヴィルトゥ(政治的力量)という概念。

状況の変化を把握し、慎重に振る舞いつつ、必要な決断を的確に下す、共同体の福祉と自由への関心、私的利益と日常的道徳判断からの超越などがその内容。

舞台となる17世紀イギリスについて。

暴力装置の後退と常備軍の不在。

宗教が現代の憲法のように人々をまとめていた。

その下で宮廷と議会が多元的で均衡の取れた政治運営を行う。

一方、その外で民衆の政治への登場が始まりつつあった。

ただ「現代では庶民は存在せず、皆が政治家となっている」とベイコンが嘆いたように、それは必ずしも肯定的なことではない。

 

 

第一章、「二世政治家の功績と限界  ソールズベリィ伯ロバート・セシル」

1563年生まれ。

エリザベス1世治下、最大の政治家バーリィ卿ウィリアム・セシルの息子。

いとこがフランシス・ベイコン。

父の後ろ盾で政界へ。

1590年秘書長官ウォルシンガムが死去、後任を寵臣エセックス伯と争う。

結局父のバーリィ卿が就任。

1592年枢密参議官。

いとこでライバルのベイコンを引き離す出世。

エセックス伯ロバート・デブルー(レスター伯派を受け継ぐ)との対立。

スペイン・アイルランド遠征での不首尾に焦ったエセックスは1601年ロンドン市街で反乱を計画、逮捕処刑される。

1598年父バーリィ卿死後、女王の全面的信頼を得る。

スコットランド国王ジェームズ6世と極秘接触、1603年エリザベス1世死去後、平穏な王朝交替を実現し、ジェームズからも信認を得る。

1604年ソールズベリィ伯爵に叙せられる。

1608年大蔵卿に就任、後見権と徴発権という二つの国王大権を放棄する代わりに恒常的税収を王に保証するという財政改革を推進。

王領と封建特権による収入で国家財政を賄い、不足分を議会との折衝による臨時課税で補うというこれまでの方式から、国民への恒常的課税による収入への転換で近代的租税国家への脱皮を目指すもの。

だが、議会の反対に直面、政府内でも法務次官だったベイコンは国王大権を商人のように臣下と取り引きすることへの疑問を呈し、財務府長官ジュリアス・シーザー(すごい名前だ。英語の綴りは知らないけれど)は「君主制にとってはもっとも致命的な敵である民主制への道を用意する」と批判した。

平穏な王朝交替を実現した功績は絶大だが、この改革は(長期的な方向性は正しくとも)急進的過ぎて危険だったという解釈で良いか?

マキャヴェリ『リヴィウス論』から以下の引用が置かれていることからしても。

「災いを見つけても、それをやみくもに叩きふせたりしないで、うまくあしらって時間をかせぐほうが、賢明なやり方だと思う。というわけは、このようにうまくあしらって時間をかけているうちに、その兆候が自然消滅することもありうるし、さもなければ、すくなくともその危険の襲来を、はるか後にひきのばすことができるであろう」

問題の種類にもよるだろうが、決まり文句のようにお手軽に「抜本的改革」が叫ばれる現代日本(特に右派や保守を自称する連中が)においては貴重な言葉ではある。

失意のうちに1612年ロバート・セシルは死去する。

 

 

第二章、「史上最低の政治家 バッキンガム公ジョージ・ヴィリヤーズ」

治世前半のジェームズ1世は、ロバート・セシル、フランシス・ベイコンを登用した明君と言えるが、治世後半のジェームズとチャールズ1世はそうではないとの評価が述べられる。

ヴィリヤーズは1592年ジェントリ階層の生まれ。

宮廷に入り、ジェームズ1世と同性愛の噂を立てられる。

当時親カトリックのハワード家と親プロテスタントのカンタベリィ大主教アボット、ペンブルック伯、サザンプトン伯が対立、ヴィリヤーズは後者に担がれる。

1617年バッキンガム伯爵になるという異例の出世。

同年枢密参議官、1618年海軍総司令官。

ベイコンはバッキンガムに以下の進言・忠告を行う。

まず中庸を得たプロテスタント信仰を堅持し、カトリックや再洗礼派のような左右の過激派を退けること。

コモンロー(慣習法)によって国王と国民の双方が拘束される統治を継続し、その意味で議会の重要性を認識すること。

現代の内閣に当る枢密会議が慎重な外交と防衛的軍事政策を採ること。

内戦への警戒を怠らず、それを防止するため、公正な統治と治安対策を整備すること。

重商主義と適切な植民政策、浪費を排した財政を目指すことなど。

だがバッキンガムはその賢明な言葉には従わず、身内びいきで派閥を形成し、国政を私物化。

独占権を乱発、それを身内に集中したことが議会との対立を招く。

大法官ベイコン、財務長官クランスフィールドなど有能な人物もいたが、むしろベイコンが失政のスケープ・ゴートにされ弾劾される。

バッキンガムは外交でも失態を重ねる。

ジェームズの娘がファルツ選帝侯に嫁いだが、ドイツ三十年戦争の端緒をファルツがひらく。

皇太子チャールズとスペイン王女との結婚によりファルツの失地回復を目指す方針を採るが、スペイン宰相オリヴァレスに足元を見られあしらわれる。

その反動で皇太子、バッキンガム、そして反カトリックに燃える世論は対スペイン宣戦に向かい、反対するクランスフィールドをベイコンと同様に弾劾し失脚させる。

ジェームズ1世はバッキンガムに「本当におまえは愚か者だ。近い将来、おまえはこの愚行を悔い、おまえが利用しているこの民衆の気まぐれが、おまえを打つ鞭になることに気づくだろう」と言ったという。

結局チャールズはフランス王女アンリエッタ・マリアと結婚。

リシュリューとの交渉で、宮廷内で王女周辺のカトリック信仰が容認され、子供は13歳までカトリック教徒として教育されることになったが、これに世論は激しい反発を示す。

しかもこの妥協に関わらず、フランスは三十年戦争への(新教徒側への)参戦について判断の自立性主張を押し通し、イギリスが貸与した艦船を国内のユグノー攻撃に使用する行為に出た。

1625年ジェームズ1世死去、チャールズ1世即位。

スペインのカディス遠征に失敗、国内にも窮状が広がる。

宗教政策では、イギリス国教会はカルヴァン予定説の教義を採択していたが、これにアルミニウス派という反対派が出現。

人間の自由意志を強調し、聖職者や外的儀式と威容を重視する。

あくまでプロテスタントではあるが、カトリックに近い。

図式的に言えば、真ん中に国教徒がいて、右側にカトリック、国教徒とカトリックの中間にアルミニウス派、一方、国教徒の左側にはピューリタンがいて、その中で右から左へ長老派・独立派・水平派に分かれているというのが17世紀イギリスの宗教分布イメージ(カトリックを除き、アルミニウス派から水平派までは大きく言ってカルヴァン派プロテスタント)。

(ピューリタン革命で左側へ軸が大きく揺れた後、復古王政で真ん中の国教会に戻り、名誉革命では国教会かカトリックかが問われ、結局中道に落ち着くという結果になった。)

アルミニウス主義をバッキンガムは容認し、その流れで次章の主人公ロードを重用。

「信仰の革新」という極めて危険な行動に乗り出すことになる。

1627年単独でスペインと和平を結んだフランスを攻撃し失敗、仏西両国を同時に敵に回す外交的失敗を喫する。

1628年「権利の請願」提出。

同年、再度のフランス攻撃準備中、昇進について不満を持った将校の手によってバッキンガムは暗殺される。

結局バッキンガムという政治家は、成り上がり者の派閥形成によって地方有力貴族の不満を醸成し、宗教政策の失敗と共に国内分裂の火種を撒き、ピューリタン革命を準備することになってしまった。

本書での評価は章題通り、最低である。

 

 

第三章、「権力を手にした学長 ウィリアム・ロード」

1573年衣服商の息子として平民に生まれる。

オックスフォード大学入学。

主流のカルヴァン主義に反発しつつ、学内で昇進。

バッキンガムの知己を得て政界にも進出。

急進的カルヴァン派と異なり、ローマ・カトリックを教会としては認め、カトリック教徒も救われ得るとしたが、教皇無謬説、偶像崇拝、化体説は当然認めず。

聖書と使徒信条以外の自由裁量を容認、しかし個々のキリスト者が判断するのではなく、聖職者の会議に拠るべきとし、外面的儀式も重視。

イギリス国教会自体が教義はカルヴァン派プロテスタントだが、儀式はカトリック的と、教科書には書かれているが、ロードはその中でさらにカトリック寄りということのようです。

1627年枢密参議会入り、1628年ロンドン主教、1630年オックスフォード大学学長。

ピューリタンを排除、風紀粛清に努め、中央集権的大学運営を行う。

1633年にカンタベリィ大主教となりイギリス宗教界の最高位に登り詰め、政界でも同時代のリシュリュー、マザランと並んで聖職者出身の権力者となる。

1630年代に仏西と和平を結び、財政を改善、囲い込み等を抑制する経済統制を進める。

内政上は議会を敵視。

マグナ・カルタを「簒奪による卑しい素性のものであり、反乱によって世に示されたる文書」と酷評した。

ロードによれば君主制だけが正統的で正当な制度だとのことだが、貴族制、民主制との均衡ではなく、その両者の全面否定によってかえって君主制を危うくしてしまっている。

ピューリタンへの抑圧と同時に宮廷内のカトリックにも警戒の目を向けたが、こちらは必ずしも成功せず。

盟友ストラフォード伯(この人名は憶えておいた方が良い)と共にアイルランド・スコットランドへ礼拝形式を強要、スコットランドに反乱が勃発しピューリタン革命へ。

当時の宗教信仰は現代の憲法のようなものだった。

エリザベス、ジェームズ時代は公式教義に様々な解釈の余地を残し、人々をまとめ上げていた。

ロードの信仰革新で厳密な解釈が定められると国教会からはじき出された人々が敵意や憎悪を持って反抗するに至る。

ここで著者は、わが国の現行憲法の曖昧さも、このような視点からむしろ肯定的に評価している。

1640年反抗する議会を解散したが、翌年ロードはロンドン塔に監禁され、内乱中の1644年に処刑された。

妥協と説得、懐柔、寛容などを知らない学者政治家の悲劇だったと評されている。

 

 

第四章、「自由のための権謀術数家 ジョン・ピム」

教科書ではピューリタン革命時の指導者として、チャールズ1世とクロムウェルという両端の人物しか出てこないが、議会派の主要政治家として、このピムの名は結構重要。

私もアンドレ・モロワ『英国史』を読むまで知りませんでしたが。

1584年庶民院議員も務めた有力ジェントリの子として生まれる。

カルヴァン主義の強い信仰を持ち、議会入り、バッキンガムを批判。

1628年「権利の請願」提出、議会指導者はクック(コーク)やジョン・エリオット。

意外にもピムはこれらの行動には必ずしも同調せず、妥協的な面を見せる。

しかし徐々に国王への不審を募らせていく。

1640年短期議会および長期議会でハンプデンらと共に指導者となる。

1641年ストラフォード死刑とする法案を通し処刑、ロードを反逆罪で告発。

三年議会法、解散反対法、星室庁廃止などを通過させる。

直後勃発したイングランド内乱の解釈について述べられる。

絶対王政から民主政への移行のための戦い、あるいはマルクス主義的史学ではジェントリを中心とするブルジョワ階級が封建階級に対して戦う革命、ということになる。

しかし王政復古以降、内戦・革命の成果が破棄され、内戦前の諸原則による統治が続き、民主化や革命が起こったはずが、実際には以降2世紀にわたって国王と保守的な議会がイギリスを統治することになった。

そのため、上述の進歩主義史観に対して、1970年代以降のリヴィジョニスト歴史家は「内戦を民主化や革命への過程ではなく、むしろ革新や変化を避け、神の意志にそった公正な権威の確立を求める広範な国民の保守的態度が生みだしたものと解釈している。」

議会は明確な革命的理念など持たずに、状況に押し流されて武力衝突に至った。

その際、カトリックによる陰謀という真偽入り混じった情報によるパニックが大きな役割を果たした。

1641年「大抗議書」採択、これも反カトリックが主要動機だが、議会は急進派と穏健派に分裂、翌42年内戦突入。

ピム自身は議会派の財政基盤を整備する仕事を成し遂げた後、43年に死去。

議会と協調しプロテスタント信仰に支えられた君主政には、ピムは全く忠実だったはずであり、バッキンガムとストラフォードおよびロードによる抑圧的で親カトリック的なものに変化させられたチャールズ1世の統治には反抗したピムを、著者は(マキャヴェリが理想とした)「自由の戦士」であるとしているが、本章で記されている反カトリックのあまりに煽情的な言動やストラフォード抹殺時の煽動などはあまり感心できるものではない。

それがもたらした結果が余りにも悲惨すぎる。

もちろん、チャールズ1世の側にも大いに責任はあるでしょうが。

 

 

 

第五章、「好機をつかんだ軍人政治家 オリヴァー・クロムウェル」

まず確認。

英国史上、有名なクロムウェルは二人いるんですよ。

ヘンリ8世時代に宗教改革を断行したトマス・クロムウェルの甥がオリヴァーの祖父という関係。

この二人の血縁があるのかないのか、かなり前から疑問だったんですが、本書でようやくわかりました。

1599年やや没落した、中流ジェントリに属する家に生まれる。

熱心なカルヴィニストの教育を受け議員になるが、ハンティンドン市の政争に巻き込まれ、ヨーマンに転落。

母方の伯父からの遺産で家計を改善。

1640年時点では無名の一議員に過ぎず、内戦で台頭。

1643年マーストン・ムアの戦い、1644年「ニュー・モデル」軍設立。

「辞退条例」=議会メンバーが軍の指揮権を執ることを禁じる法により和平派議員を排除、クロムウェルが軍を指揮(超法規的に、と書いているが、この時期クロムウェル自身もまだ議員だったから、ということか?)。

1645年ネーズビーの戦いに勝利、1646年和平交渉が行われ、内戦はほぼ終結。

47年軍の反抗にクロムウェルは自制を説くが、結局反軍派の議員は追放され、議会は軍の影響下に置かれる。

クロムウェルと軍の下での和平交渉案では、国王の地位保証、宗教寛容、大赦など意外なほど穏健な内容で、急進派の主張は退けられていた。

しかし国王は妥協せず、軍の拘束を脱しスコットランドへ向かい、第二次内戦。

これに勝利したクロムウェルは(当時では皆ある程度そうだが)やや神がかり的独善に傾き、1648年「プライドの追放」で長老派議員を排除、以後の議会は「残部議会」と呼ばれる。

1649年国王処刑。

一方、リルバーンら水平派も弾圧。

1653年議会を解散、護国卿(ロード・プロテクター)独裁。

所々穏健な態度を見せてはいたが、結局こうなる。

護国卿は国王より強大な権限を持ち、議会の権限は骨抜き、それでも反抗する議会を1655年再度解散、実質的に厳しい軍管区制を敷くことになる。

対スペイン戦の財政補助を求めて開かざるを得なかった議会は軍管区制を否定、その代わり王位の提供を申し出るが、軍の意向を慮ったクロムウェルは拒否。

しかし伝統的王政と変わらないように護国卿制を変化させることは受け入れ、同時に議会の特権も維持される。

1658年クロムウェル死去。

次章の主人公であるハイドは、クロムウェルを邪悪と非難しつつ、以下のような態度も示したいたという。

ハイドは、政体の変革にさいしてマキアヴェッリが勧める旧政体の統治者の血筋を絶滅させるという血なまぐさい方法をクロムウェルがとらなかったことを好意的に紹介している。「将校評議会で一度ならず、統治を揺るぎないものとするただひとつの方策として、王党派すべての大量虐殺が提案されたとき、クロムウェルはそれに同意することはなかった」と記し、ハイドはクロムウェルが「血にまみれた男ではなく、マキアヴェッリの方法を全面的に拒否した」・・・・ことを評価する。敵である王党派にたいするこうした寛大な処置は、王制の復活にさいして大量の報復を招くことなく、国民的な和解を容易にする下地となったのである。

そしてピューリタン革命の総括として、著者は以下のように述べる。

同時代の、そして後世の人々のクロムウェルにたいする評価は分かれている。しかしクロムウェルがくりかえした革命的実験は、イギリス国民各層に消しがたいトラウマを残しつつ、それ以降の世代に貴重な教訓を与えることとなった。いつの時代の革命もそうかもしれないが、十七世紀のイギリスの革命がもたらした最大の果実は、革命は絶対に回避すべきという逆説的な教訓である。このとき以降、イギリスは忠実にこの教訓を守りつづけ、革命という痙攣的な社会の再編成を試みることはなかった。かつて革命がなければもたらされないと思われていた変化を、イギリスの人々は長い期間にわたる改革の積み重ねをとおして実現していくことになるのである。

名誉革命は実際には革命ではない、ということでしょう。

エドマンド・バークが『フランス革命の省察』で、名誉革命は世襲王政原理を何ら否定していない、カトリック復活と議会制度破壊を目論んだジェームズ2世こそが既存の伝統的原理を断絶しようとした「革命家」だ、いう意味の主張を展開していたことを思い出した。

考えてみれば、名誉革命でステュアート朝が終わったわけじゃないですしね。

ウィリアム3世もメアリ2世もアン女王もステュアート朝の君主です。

バーク曰く、君主の血統による王位継承に国家の安定が決定的に拠っているということを名誉革命の指導者たちは一瞬たりとも見失わなかった、それがピューリタン革命・フランス革命と名誉革命の差だ、と『省察』に書かれていました。

 

 

 

第六章、「内戦と革命の傷をいやす政治的力量 クラレンドン伯エドワード・ハイド」

本書の最後を復古王政の政治家ハイドで締めくくったこと自体が示唆的である。

イギリスに世界史上初の議会制民主主義をもたらした名誉革命をグランド・フィナーレとして、ピューリタン革命はその不可欠な前段階、復古王政は本来あるべきではなかった余分な回り道という通俗的史観から、完全に訣別していると感じる。

王政復古の立役者ハイドを著者は極めて高く評価している。

ハイドは1609年生まれ。

堅実なジェントリの家出身。

古典教育を受け、法学を学び、豊かな人文主義的教養と宗教的寛容の考えを持つ。

同時代を生きたホッブズへの批判もハイドは述べている(保守派のホッブズ評価については、クイントンの引用文参照)。

議会内穏健派として大抗議書に反対。

議会外の民衆運動と急進派の支配を懸念し、国王と議会の和解仲裁を目指すが、結局ヨークの国王陣営に身を投じる。

議会主権に反対し、あくまで立憲王政を主張。

「われわれ先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制、民主制の三つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が三つの身分間に存在するかぎり、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築きあげてきた。君主制の長所はひとりの支配者のもとに国民を統合し、その結果国外からの侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国のもっとも有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」

この言葉には完全かつ心の底から共感する。

これを先のロードや現代の凡庸な民主主義者の見解と比べれば雲泥の差がある。

常に妥協と和解を説いていたハイドだが、面白いことに1645年の時期には、軍の指揮権委譲や主教制度廃止を要求する議会側提案を拒否した。

この時期の妥協は王政の全面的後退を招きかねないとの理由で。

長期的に、規制された立憲王政復活の道を探る。

皇太子と共に大陸に亡命、亡命宮廷で地位を向上させ、宮廷のカトリックへの傾斜を阻止。

クロムウェル死後、国内が混乱する中、実力者モンク将軍と交渉、高校世界史でも出てくるブレダ宣言はハイドが起草したもの。

王政復古後、「三年議会法」は破棄されたが、星室庁や後見権などは復活せず、租税制度も革命時のものを引き継いだ。

1661年クラレンドン伯爵となり、大法官に就任。

元は寛容な宗教観を持っていたものの、クラレンドン法典と呼ばれる取締法規を制定。

クロムウェル時代に得たダンケルクを仏に売却。

第二次英蘭戦争(ハイド自身は和平派)での経済難で国民の不評を招く。

チャールズ2世の不興も買い、1667年失脚、亡命。

『イングランドの反乱と内戦の歴史』を執筆。

ハイドは、古典古代的教養、法学知識、マキャヴェリズムへの理解を混合させた優れた政治家であったと評されている。

「法の支配」「国王と議会の間の力の均衡」「政治と宗教を融和させた国教会」に支えられた伝統的国制が以後19世紀半ばまで安定と繁栄をもたらしたと評価。

ピューリタン革命が進歩への重要な契機と見なされていた頃、ハイドへの評価は低かった。

ウィッグ史観のトレヴェリアンもそう。

(だが上記リンク先での引用文で書かれている国体はまさにハイドが理想としたもので、言葉の真の意味での「共和政」であると思われる。)

しかし、調停と妥協を旨とするハイドの力量こそ、現代で最も必要なはず、と著者は記している。

 

 

 

エピローグ。

革命を含む、人類の試行錯誤が結果として民主化と進歩をもたらした。

よほどの超保守主義者や反動家でないかぎり、試行錯誤の総決算は政治の世界では今までのところは、黒字となっているはずである。

が、それは19世紀までの話で、20世紀以降は違う。

革命や戦争はもはや有効ではない。

(個人的には、果たしてそうか?、もう1789年以後の決算は赤字なのではないか?、と思ってしまうが。私は「よほどの超保守主義者」で「反動家」らしい。)

そうであるなら、強権的指導者、心情倫理に従う宗教家、視野の狭いテクノクラートを排し、慎重で冷静に妥協と協調と説得を行う政治家と国民に著者は期待をかけ、本書を締め括っている。

 

 

 

みすず書房らしい、しっかりとした堅実な作りで、実に安心して読める。

一つ一つの章は小伝といった具合の分量だが、読みやすく含蓄のある文章になっている。

類書が少なく貴重、かつ読書効用が極めて高い。

強くお勧めします。

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