万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年12月28日

鹿島茂 『成功する読書日記』 (文芸春秋)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 03:43

引用文1で触れた本だが、改めて単独で記事にしてみる。

久しぶりにページを手繰ってみると、結構重要な内容があったので。

これまでの人生で三回ほど、読書日記というかメモのようなものをつけたことがあります。・・・・・いずれも、備忘録代わりにつけはじめたもので、毎回、タイトルや著者・・・名くらいをメモしていたにすぎないのですが、どの日記でも、やっているうちに必ずどこかで「コレクター感情」とも呼ぶべき不思議な気持ちが起こってきたことを覚えています。

つまり、ある程度、記載された量がたまってくると、その量が自動的に拡大を要求してくるのです。たんに、読んだ本・・・を書きとめているというよりも、むしろ「収集」しているのではないかという感覚になってきました。

そうなると、「収集した」本や映画をジャンル別にまとめてみようかとか、このジャンルのこの部分は弱いからここを集中して読もうかとか、体系化への志向というものが生まれてきます。たとえば、・・・大長編小説は、露、仏、米を制覇したから、今度はイギリスと日本を片付けなければならない、といった類です。・・・・・これは、自分の好きなものだけを好きなときに読み・・・散らしていたときとは、あきらかに違う心理です。気ままな読書・・・をしていたときと比べると鬱陶しいといえば鬱陶しいのですが、それを補ってあまりある快楽もあります。すなわち、「コレクション」を完成するという喜びです。

「コレクション感情」を利用して読書意欲を刺激するというのは、自分の経験を考えても、確かにかなり使える手段だと言える。

その後、引用文1の文章に続き、

引用に慣れたら、次にチャレンジしていただきたいのは、引用だけからなるレジュメ(要約)です。自分の文章はあまり使わずに、その本のエッセンスとなるような箇所を何ヵ所か選び出し、その引用だけで本を要約するのです。・・・・・この引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。フランスの教育では、これをコント・ランデュ・・・と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用の中にある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。

これも、内容をしっかり把握し記憶するために有益でしょう。

私は、飛ばし読みOK、とあえて答えたいと思います。なぜなら、一行たりとも省略せずに通読しようとしたあげく、冒頭部分だけで投げ出してしまう読み方よりも、読みにくいところは飛ばし読みしても、最後までたどりつく読書のほうが数倍、実り多いものになるからです。

たとえば、黒岩涙香の『噫無情』の訳名で知られるヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』ですが、この作品は、冒頭から読者を引きつけ一気に物語の核心へと導くようには書かれていません。一見、物語とはなんの関係もなさそうなディーニュの司祭ミリエル神父の生涯の叙述から始まります。しかも、それが延々と続きます。その結果、多くの読者は主人公のジャン・ヴァルジャンが登場する前に挫折してしまいます。

ところが、そこを抜けると、物語はにわかに緊張をはらみ始め、あとは全編、波瀾万丈のストーリーが展開し、ジャン・ヴァルジャンという主人公を介して十九世紀全体の見取り図がわれわれの前に現れてくることになるのです。もちろん、途中で何度か退屈な脱線もあるのですが、そうした箇所は読む勢いがつけば自然にクリアできます。ですから、冒頭は飛ばしてもいいから物語に入り込め、これが私がお勧めしたい『レ・ミゼラブル』の読書法です。

これはあまり同意できない感じ。

一部でも飛ばすと、読後の充実感が大幅に削がれる。

難渋あるいは無味乾燥な部分は、完全に飛ばすより、力を抜いて字面を目で流すようなに軽く読み飛ばすことに慣れた方がいいかもしれない。

読書日記をつけるということは、自分で定める〆切の一つになり得ます。高校時代に、いつまでも、読書日記が空白のままで「読了」の一文字を書きつけることができないのを不愉快に思い、一気にケリをつけようとして、『戦争と平和』を集中して読んだことを思い出します。・・・・・人間というのは、まことに怠惰なもので、この〆切がないと、ついついなにもしないで人生を過ごしてしまうものなのです。・・・・・読書日記をインターネットで公開すれば、それは確実に「〆切」の様相を帯びてきます。そして、「〆切」ができれば、自動的に「読み終えようという確固たる意志」も生まれてくるのです。

これにも深く共感。

このブログも、読書のペースメイカーとして、自分なりの「〆切」を作るためにやっているようなものです。

さて、いろいろと、本の処理法について、理想と現実を並べてきましたが、結局のところ、スペースが限られている以上、いくら工夫を重ねても本の増殖に勝つことはできないということになってしまいそうです。

したがって、考え得る究極の方法は、自分では一切本を持たず、図書館の本を徹底利用するということになってきます。つまり、私が読書日記のところで例として出したフランスの学生のように、図書館で借りた本から必要な部分はすべて引用しておき、読書ノートを書庫の代わりとするのです。

ただ、この方法を取るには、一つ、クリアしなければならない関門があります。それは、図書館をいつでも利用できるように、すぐその近くに住むということ、もう一つは、自分の執筆の時間を図書館の開館時間に合わせるということです。最寄りの図書館が自宅から一時間以上もかかるところにあるとか、夜中に仕事をする癖があるというのでは、図書館を自分の書庫代わりにすることはできません。

しかし、この点がクリアできたなら、膨大な蔵書を誇る図書館が書庫の代わりになりますから、お金はかからないわ、スペースはいらないわで、こんなにいいことはありません。蔵書に苦しみぬいた人にとって、これも本に勝つ一つの方法ではあるのです。

ただ、それには、読書日記をつける習慣を身につけたうえで、引用レジュメやコント・ランデュをしっかりと構成できるということが前提となります。

書庫なし、書棚なしの「理想の生活」を送るにも、読書日記をつけるという習慣が不可欠なのです。

読書ノートをつける効用として、読書意欲の刺激の他に、ノートへの記載によって「所有欲」を満足させて、本を借りて済ませ、費用と置き場所を節約できることがある。

これは本当に大きい。

以前は「本気で通読する本は買わないと駄目だ、後でいつでも参照できるように手元に置いておくことが必要だ」という考えからなかなか抜け出せなかったが、読書ノートを書くようになってからは、驚くほど吹っ切れて、本の所有自体にはこだわらないようになった。

こればっかりはやってみないとわからない。

皆様にも一度お試しになるよう薦めます。

 

 

 

短い書評的記述を含む読書日記が大半を占める本だが、所々載っている著者の読書論には参考になる点が多い。

一度手に取ってみて下さい。

2015年12月18日

塚田富治 『近代イギリス政治家列伝  かれらは我らの同時代人』 (みすず書房)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 16:43

「近代」とタイトルにあるが中身は近世17世紀の政治家に限られる。

ロバート・セシル、バッキンガム、ロード、ピム、クロムウェル、ハイドの6人。

 

 

まずプロローグ。

イギリスにおける伝記文学の伝統に言及。

私的生活を暴いたり、業績を羅列するのではなく、深い洞察力と豊富な知識によって書かれた伝記は、愉しく有益な、政治学の最良のテキストたり得る。

マキャヴェリのヴィルトゥ(政治的力量)という概念。

状況の変化を把握し、慎重に振る舞いつつ、必要な決断を的確に下す、共同体の福祉と自由への関心、私的利益と日常的道徳判断からの超越などがその内容。

舞台となる17世紀イギリスについて。

暴力装置の後退と常備軍の不在。

宗教が現代の憲法のように人々をまとめていた。

その下で宮廷と議会が多元的で均衡の取れた政治運営を行う。

一方、その外で民衆の政治への登場が始まりつつあった。

ただ「現代では庶民は存在せず、皆が政治家となっている」とベイコンが嘆いたように、それは必ずしも肯定的なことではない。

 

 

第一章、「二世政治家の功績と限界  ソールズベリィ伯ロバート・セシル」

1563年生まれ。

エリザベス1世治下、最大の政治家バーリィ卿ウィリアム・セシルの息子。

いとこがフランシス・ベイコン。

父の後ろ盾で政界へ。

1590年秘書長官ウォルシンガムが死去、後任を寵臣エセックス伯と争う。

結局父のバーリィ卿が就任。

1592年枢密参議官。

いとこでライバルのベイコンを引き離す出世。

エセックス伯ロバート・デブルー(レスター伯派を受け継ぐ)との対立。

スペイン・アイルランド遠征での不首尾に焦ったエセックスは1601年ロンドン市街で反乱を計画、逮捕処刑される。

1598年父バーリィ卿死後、女王の全面的信頼を得る。

スコットランド国王ジェームズ6世と極秘接触、1603年エリザベス1世死去後、平穏な王朝交替を実現し、ジェームズからも信認を得る。

1604年ソールズベリィ伯爵に叙せられる。

1608年大蔵卿に就任、後見権と徴発権という二つの国王大権を放棄する代わりに恒常的税収を王に保証するという財政改革を推進。

王領と封建特権による収入で国家財政を賄い、不足分を議会との折衝による臨時課税で補うというこれまでの方式から、国民への恒常的課税による収入への転換で近代的租税国家への脱皮を目指すもの。

だが、議会の反対に直面、政府内でも法務次官だったベイコンは国王大権を商人のように臣下と取り引きすることへの疑問を呈し、財務府長官ジュリアス・シーザー(すごい名前だ。英語の綴りは知らないけれど)は「君主制にとってはもっとも致命的な敵である民主制への道を用意する」と批判した。

平穏な王朝交替を実現した功績は絶大だが、この改革は(長期的な方向性は正しくとも)急進的過ぎて危険だったという解釈で良いか?

マキャヴェリ『リヴィウス論』から以下の引用が置かれていることからしても。

「災いを見つけても、それをやみくもに叩きふせたりしないで、うまくあしらって時間をかせぐほうが、賢明なやり方だと思う。というわけは、このようにうまくあしらって時間をかけているうちに、その兆候が自然消滅することもありうるし、さもなければ、すくなくともその危険の襲来を、はるか後にひきのばすことができるであろう」

問題の種類にもよるだろうが、決まり文句のようにお手軽に「抜本的改革」が叫ばれる現代日本(特に右派や保守を自称する連中が)においては貴重な言葉ではある。

失意のうちに1612年ロバート・セシルは死去する。

 

 

第二章、「史上最低の政治家 バッキンガム公ジョージ・ヴィリヤーズ」

治世前半のジェームズ1世は、ロバート・セシル、フランシス・ベイコンを登用した明君と言えるが、治世後半のジェームズとチャールズ1世はそうではないとの評価が述べられる。

ヴィリヤーズは1592年ジェントリ階層の生まれ。

宮廷に入り、ジェームズ1世と同性愛の噂を立てられる。

当時親カトリックのハワード家と親プロテスタントのカンタベリィ大主教アボット、ペンブルック伯、サザンプトン伯が対立、ヴィリヤーズは後者に担がれる。

1617年バッキンガム伯爵になるという異例の出世。

同年枢密参議官、1618年海軍総司令官。

ベイコンはバッキンガムに以下の進言・忠告を行う。

まず中庸を得たプロテスタント信仰を堅持し、カトリックや再洗礼派のような左右の過激派を退けること。

コモンロー(慣習法)によって国王と国民の双方が拘束される統治を継続し、その意味で議会の重要性を認識すること。

現代の内閣に当る枢密会議が慎重な外交と防衛的軍事政策を採ること。

内戦への警戒を怠らず、それを防止するため、公正な統治と治安対策を整備すること。

重商主義と適切な植民政策、浪費を排した財政を目指すことなど。

だがバッキンガムはその賢明な言葉には従わず、身内びいきで派閥を形成し、国政を私物化。

独占権を乱発、それを身内に集中したことが議会との対立を招く。

大法官ベイコン、財務長官クランスフィールドなど有能な人物もいたが、むしろベイコンが失政のスケープ・ゴートにされ弾劾される。

バッキンガムは外交でも失態を重ねる。

ジェームズの娘がファルツ選帝侯に嫁いだが、ドイツ三十年戦争の端緒をファルツがひらく。

皇太子チャールズとスペイン王女との結婚によりファルツの失地回復を目指す方針を採るが、スペイン宰相オリヴァレスに足元を見られあしらわれる。

その反動で皇太子、バッキンガム、そして反カトリックに燃える世論は対スペイン宣戦に向かい、反対するクランスフィールドをベイコンと同様に弾劾し失脚させる。

ジェームズ1世はバッキンガムに「本当におまえは愚か者だ。近い将来、おまえはこの愚行を悔い、おまえが利用しているこの民衆の気まぐれが、おまえを打つ鞭になることに気づくだろう」と言ったという。

結局チャールズはフランス王女アンリエッタ・マリアと結婚。

リシュリューとの交渉で、宮廷内で王女周辺のカトリック信仰が容認され、子供は13歳までカトリック教徒として教育されることになったが、これに世論は激しい反発を示す。

しかもこの妥協に関わらず、フランスは三十年戦争への(新教徒側への)参戦について判断の自立性主張を押し通し、イギリスが貸与した艦船を国内のユグノー攻撃に使用する行為に出た。

1625年ジェームズ1世死去、チャールズ1世即位。

スペインのカディス遠征に失敗、国内にも窮状が広がる。

宗教政策では、イギリス国教会はカルヴァン予定説の教義を採択していたが、これにアルミニウス派という反対派が出現。

人間の自由意志を強調し、聖職者や外的儀式と威容を重視する。

あくまでプロテスタントではあるが、カトリックに近い。

図式的に言えば、真ん中に国教徒がいて、右側にカトリック、国教徒とカトリックの中間にアルミニウス派、一方、国教徒の左側にはピューリタンがいて、その中で右から左へ長老派・独立派・水平派に分かれているというのが17世紀イギリスの宗教分布イメージ(カトリックを除き、アルミニウス派から水平派までは大きく言ってカルヴァン派プロテスタント)。

(ピューリタン革命で左側へ軸が大きく揺れた後、復古王政で真ん中の国教会に戻り、名誉革命では国教会かカトリックかが問われ、結局中道に落ち着くという結果になった。)

アルミニウス主義をバッキンガムは容認し、その流れで次章の主人公ロードを重用。

「信仰の革新」という極めて危険な行動に乗り出すことになる。

1627年単独でスペインと和平を結んだフランスを攻撃し失敗、仏西両国を同時に敵に回す外交的失敗を喫する。

1628年「権利の請願」提出。

同年、再度のフランス攻撃準備中、昇進について不満を持った将校の手によってバッキンガムは暗殺される。

結局バッキンガムという政治家は、成り上がり者の派閥形成によって地方有力貴族の不満を醸成し、宗教政策の失敗と共に国内分裂の火種を撒き、ピューリタン革命を準備することになってしまった。

本書での評価は章題通り、最低である。

 

 

第三章、「権力を手にした学長 ウィリアム・ロード」

1573年衣服商の息子として平民に生まれる。

オックスフォード大学入学。

主流のカルヴァン主義に反発しつつ、学内で昇進。

バッキンガムの知己を得て政界にも進出。

急進的カルヴァン派と異なり、ローマ・カトリックを教会としては認め、カトリック教徒も救われ得るとしたが、教皇無謬説、偶像崇拝、化体説は当然認めず。

聖書と使徒信条以外の自由裁量を容認、しかし個々のキリスト者が判断するのではなく、聖職者の会議に拠るべきとし、外面的儀式も重視。

イギリス国教会自体が教義はカルヴァン派プロテスタントだが、儀式はカトリック的と、教科書には書かれているが、ロードはその中でさらにカトリック寄りということのようです。

1627年枢密参議会入り、1628年ロンドン主教、1630年オックスフォード大学学長。

ピューリタンを排除、風紀粛清に努め、中央集権的大学運営を行う。

1633年にカンタベリィ大主教となりイギリス宗教界の最高位に登り詰め、政界でも同時代のリシュリュー、マザランと並んで聖職者出身の権力者となる。

1630年代に仏西と和平を結び、財政を改善、囲い込み等を抑制する経済統制を進める。

内政上は議会を敵視。

マグナ・カルタを「簒奪による卑しい素性のものであり、反乱によって世に示されたる文書」と酷評した。

ロードによれば君主制だけが正統的で正当な制度だとのことだが、貴族制、民主制との均衡ではなく、その両者の全面否定によってかえって君主制を危うくしてしまっている。

ピューリタンへの抑圧と同時に宮廷内のカトリックにも警戒の目を向けたが、こちらは必ずしも成功せず。

盟友ストラフォード伯(この人名は憶えておいた方が良い)と共にアイルランド・スコットランドへ礼拝形式を強要、スコットランドに反乱が勃発しピューリタン革命へ。

当時の宗教信仰は現代の憲法のようなものだった。

エリザベス、ジェームズ時代は公式教義に様々な解釈の余地を残し、人々をまとめ上げていた。

ロードの信仰革新で厳密な解釈が定められると国教会からはじき出された人々が敵意や憎悪を持って反抗するに至る。

ここで著者は、わが国の現行憲法の曖昧さも、このような視点からむしろ肯定的に評価している。

1640年反抗する議会を解散したが、翌年ロードはロンドン塔に監禁され、内乱中の1644年に処刑された。

妥協と説得、懐柔、寛容などを知らない学者政治家の悲劇だったと評されている。

 

 

第四章、「自由のための権謀術数家 ジョン・ピム」

教科書ではピューリタン革命時の指導者として、チャールズ1世とクロムウェルという両端の人物しか出てこないが、議会派の主要政治家として、このピムの名は結構重要。

私もアンドレ・モロワ『英国史』を読むまで知りませんでしたが。

1584年庶民院議員も務めた有力ジェントリの子として生まれる。

カルヴァン主義の強い信仰を持ち、議会入り、バッキンガムを批判。

1628年「権利の請願」提出、議会指導者はクック(コーク)やジョン・エリオット。

意外にもピムはこれらの行動には必ずしも同調せず、妥協的な面を見せる。

しかし徐々に国王への不審を募らせていく。

1640年短期議会および長期議会でハンプデンらと共に指導者となる。

1641年ストラフォード死刑とする法案を通し処刑、ロードを反逆罪で告発。

三年議会法、解散反対法、星室庁廃止などを通過させる。

直後勃発したイングランド内乱の解釈について述べられる。

絶対王政から民主政への移行のための戦い、あるいはマルクス主義的史学ではジェントリを中心とするブルジョワ階級が封建階級に対して戦う革命、ということになる。

しかし王政復古以降、内戦・革命の成果が破棄され、内戦前の諸原則による統治が続き、民主化や革命が起こったはずが、実際には以降2世紀にわたって国王と保守的な議会がイギリスを統治することになった。

そのため、上述の進歩主義史観に対して、1970年代以降のリヴィジョニスト歴史家は「内戦を民主化や革命への過程ではなく、むしろ革新や変化を避け、神の意志にそった公正な権威の確立を求める広範な国民の保守的態度が生みだしたものと解釈している。」

議会は明確な革命的理念など持たずに、状況に押し流されて武力衝突に至った。

その際、カトリックによる陰謀という真偽入り混じった情報によるパニックが大きな役割を果たした。

1641年「大抗議書」採択、これも反カトリックが主要動機だが、議会は急進派と穏健派に分裂、翌42年内戦突入。

ピム自身は議会派の財政基盤を整備する仕事を成し遂げた後、43年に死去。

議会と協調しプロテスタント信仰に支えられた君主政には、ピムは全く忠実だったはずであり、バッキンガムとストラフォードおよびロードによる抑圧的で親カトリック的なものに変化させられたチャールズ1世の統治には反抗したピムを、著者は(マキャヴェリが理想とした)「自由の戦士」であるとしているが、本章で記されている反カトリックのあまりに煽情的な言動やストラフォード抹殺時の煽動などはあまり感心できるものではない。

それがもたらした結果が余りにも悲惨すぎる。

もちろん、チャールズ1世の側にも大いに責任はあるでしょうが。

 

 

 

第五章、「好機をつかんだ軍人政治家 オリヴァー・クロムウェル」

まず確認。

英国史上、有名なクロムウェルは二人いるんですよ。

ヘンリ8世時代に宗教改革を断行したトマス・クロムウェルの甥がオリヴァーの祖父という関係。

この二人の血縁があるのかないのか、かなり前から疑問だったんですが、本書でようやくわかりました。

1599年やや没落した、中流ジェントリに属する家に生まれる。

熱心なカルヴィニストの教育を受け議員になるが、ハンティンドン市の政争に巻き込まれ、ヨーマンに転落。

母方の伯父からの遺産で家計を改善。

1640年時点では無名の一議員に過ぎず、内戦で台頭。

1643年マーストン・ムアの戦い、1644年「ニュー・モデル」軍設立。

「辞退条例」=議会メンバーが軍の指揮権を執ることを禁じる法により和平派議員を排除、クロムウェルが軍を指揮(超法規的に、と書いているが、この時期クロムウェル自身もまだ議員だったから、ということか?)。

1645年ネーズビーの戦いに勝利、1646年和平交渉が行われ、内戦はほぼ終結。

47年軍の反抗にクロムウェルは自制を説くが、結局反軍派の議員は追放され、議会は軍の影響下に置かれる。

クロムウェルと軍の下での和平交渉案では、国王の地位保証、宗教寛容、大赦など意外なほど穏健な内容で、急進派の主張は退けられていた。

しかし国王は妥協せず、軍の拘束を脱しスコットランドへ向かい、第二次内戦。

これに勝利したクロムウェルは(当時では皆ある程度そうだが)やや神がかり的独善に傾き、1648年「プライドの追放」で長老派議員を排除、以後の議会は「残部議会」と呼ばれる。

1649年国王処刑。

一方、リルバーンら水平派も弾圧。

1653年議会を解散、護国卿(ロード・プロテクター)独裁。

所々穏健な態度を見せてはいたが、結局こうなる。

護国卿は国王より強大な権限を持ち、議会の権限は骨抜き、それでも反抗する議会を1655年再度解散、実質的に厳しい軍管区制を敷くことになる。

対スペイン戦の財政補助を求めて開かざるを得なかった議会は軍管区制を否定、その代わり王位の提供を申し出るが、軍の意向を慮ったクロムウェルは拒否。

しかし伝統的王政と変わらないように護国卿制を変化させることは受け入れ、同時に議会の特権も維持される。

1658年クロムウェル死去。

次章の主人公であるハイドは、クロムウェルを邪悪と非難しつつ、以下のような態度も示したいたという。

ハイドは、政体の変革にさいしてマキアヴェッリが勧める旧政体の統治者の血筋を絶滅させるという血なまぐさい方法をクロムウェルがとらなかったことを好意的に紹介している。「将校評議会で一度ならず、統治を揺るぎないものとするただひとつの方策として、王党派すべての大量虐殺が提案されたとき、クロムウェルはそれに同意することはなかった」と記し、ハイドはクロムウェルが「血にまみれた男ではなく、マキアヴェッリの方法を全面的に拒否した」・・・・ことを評価する。敵である王党派にたいするこうした寛大な処置は、王制の復活にさいして大量の報復を招くことなく、国民的な和解を容易にする下地となったのである。

そしてピューリタン革命の総括として、著者は以下のように述べる。

同時代の、そして後世の人々のクロムウェルにたいする評価は分かれている。しかしクロムウェルがくりかえした革命的実験は、イギリス国民各層に消しがたいトラウマを残しつつ、それ以降の世代に貴重な教訓を与えることとなった。いつの時代の革命もそうかもしれないが、十七世紀のイギリスの革命がもたらした最大の果実は、革命は絶対に回避すべきという逆説的な教訓である。このとき以降、イギリスは忠実にこの教訓を守りつづけ、革命という痙攣的な社会の再編成を試みることはなかった。かつて革命がなければもたらされないと思われていた変化を、イギリスの人々は長い期間にわたる改革の積み重ねをとおして実現していくことになるのである。

名誉革命は実際には革命ではない、ということでしょう。

エドマンド・バークが『フランス革命の省察』で、名誉革命は世襲王政原理を何ら否定していない、カトリック復活と議会制度破壊を目論んだジェームズ2世こそが既存の伝統的原理を断絶しようとした「革命家」だ、いう意味の主張を展開していたことを思い出した。

考えてみれば、名誉革命でステュアート朝が終わったわけじゃないですしね。

ウィリアム3世もメアリ2世もアン女王もステュアート朝の君主です。

バーク曰く、君主の血統による王位継承に国家の安定が決定的に拠っているということを名誉革命の指導者たちは一瞬たりとも見失わなかった、それがピューリタン革命・フランス革命と名誉革命の差だ、と『省察』に書かれていました。

 

 

 

第六章、「内戦と革命の傷をいやす政治的力量 クラレンドン伯エドワード・ハイド」

本書の最後を復古王政の政治家ハイドで締めくくったこと自体が示唆的である。

イギリスに世界史上初の議会制民主主義をもたらした名誉革命をグランド・フィナーレとして、ピューリタン革命はその不可欠な前段階、復古王政は本来あるべきではなかった余分な回り道という通俗的史観から、完全に訣別していると感じる。

王政復古の立役者ハイドを著者は極めて高く評価している。

ハイドは1609年生まれ。

堅実なジェントリの家出身。

古典教育を受け、法学を学び、豊かな人文主義的教養と宗教的寛容の考えを持つ。

同時代を生きたホッブズへの批判もハイドは述べている(保守派のホッブズ評価については、クイントンの引用文参照)。

議会内穏健派として大抗議書に反対。

議会外の民衆運動と急進派の支配を懸念し、国王と議会の和解仲裁を目指すが、結局ヨークの国王陣営に身を投じる。

議会主権に反対し、あくまで立憲王政を主張。

「われわれ先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制、民主制の三つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が三つの身分間に存在するかぎり、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築きあげてきた。君主制の長所はひとりの支配者のもとに国民を統合し、その結果国外からの侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国のもっとも有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」

この言葉には完全かつ心の底から共感する。

これを先のロードや現代の凡庸な民主主義者の見解と比べれば雲泥の差がある。

常に妥協と和解を説いていたハイドだが、面白いことに1645年の時期には、軍の指揮権委譲や主教制度廃止を要求する議会側提案を拒否した。

この時期の妥協は王政の全面的後退を招きかねないとの理由で。

長期的に、規制された立憲王政復活の道を探る。

皇太子と共に大陸に亡命、亡命宮廷で地位を向上させ、宮廷のカトリックへの傾斜を阻止。

クロムウェル死後、国内が混乱する中、実力者モンク将軍と交渉、高校世界史でも出てくるブレダ宣言はハイドが起草したもの。

王政復古後、「三年議会法」は破棄されたが、星室庁や後見権などは復活せず、租税制度も革命時のものを引き継いだ。

1661年クラレンドン伯爵となり、大法官に就任。

元は寛容な宗教観を持っていたものの、クラレンドン法典と呼ばれる取締法規を制定。

クロムウェル時代に得たダンケルクを仏に売却。

第二次英蘭戦争(ハイド自身は和平派)での経済難で国民の不評を招く。

チャールズ2世の不興も買い、1667年失脚、亡命。

『イングランドの反乱と内戦の歴史』を執筆。

ハイドは、古典古代的教養、法学知識、マキャヴェリズムへの理解を混合させた優れた政治家であったと評されている。

「法の支配」「国王と議会の間の力の均衡」「政治と宗教を融和させた国教会」に支えられた伝統的国制が以後19世紀半ばまで安定と繁栄をもたらしたと評価。

ピューリタン革命が進歩への重要な契機と見なされていた頃、ハイドへの評価は低かった。

ウィッグ史観のトレヴェリアンもそう。

(だが上記リンク先での引用文で書かれている国体はまさにハイドが理想としたもので、言葉の真の意味での「共和政」であると思われる。)

しかし、調停と妥協を旨とするハイドの力量こそ、現代で最も必要なはず、と著者は記している。

 

 

 

エピローグ。

革命を含む、人類の試行錯誤が結果として民主化と進歩をもたらした。

よほどの超保守主義者や反動家でないかぎり、試行錯誤の総決算は政治の世界では今までのところは、黒字となっているはずである。

が、それは19世紀までの話で、20世紀以降は違う。

革命や戦争はもはや有効ではない。

(個人的には、果たしてそうか?、もう1789年以後の決算は赤字なのではないか?、と思ってしまうが。私は「よほどの超保守主義者」で「反動家」らしい。)

そうであるなら、強権的指導者、心情倫理に従う宗教家、視野の狭いテクノクラートを排し、慎重で冷静に妥協と協調と説得を行う政治家と国民に著者は期待をかけ、本書を締め括っている。

 

 

 

みすず書房らしい、しっかりとした堅実な作りで、実に安心して読める。

一つ一つの章は小伝といった具合の分量だが、読みやすく含蓄のある文章になっている。

類書が少なく貴重、かつ読書効用が極めて高い。

強くお勧めします。

2015年12月15日

佐藤優 『紳士協定  私のイギリス物語』 (新潮社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 07:19

鈴木宗男事件で逮捕され外交官から評論家に転じた著者の自伝的作品。

外交官試験合格後のロシアでの研修とイギリスでの留学とホームステイ先の家族との交流が主な内容。

この人には極めて多数の著作があり、斜め読みではあるが相当数に目を通してはいる。

著者の論調には深く共感する部分もあれば、やや首を傾げる所もあるが、本書は非常に面白く読める。

『国家の罠』『獄中記』『インテリジェンス人間論』『先生と私』などと並んでお勧めします。

2015年12月11日

佐藤優 『読書の技法』 (東洋経済新報社)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:23

作家・評論家として多くの連載を持つ著者による実践的読書論。

冒頭で著者の書斎と書棚の写真が載せられているが、その充実ぶりにうらやましさでため息が出る。

本文の内容は、高校レベルの基礎知識の重要性、限られた時間で熟読する本を厳選する必要、読書中の鉛筆・シャーペンでの傍線チェック、読後のノート作成等々。

かなり面白い。

これまで読んだ読書術の本で最も共感したのは小谷野敦『バカのための読書術』だったが、本書はそれと並ぶくらいである。

一度図書館で借りてみることをお勧めします。

 

最初に読書の面白さを教えてくれたのは、中学1年生から通い始めた学習塾の国語の先生だった。

早稲田大学商学部出身の元出版社勤務の先生で、「中学1年生も大学生も、国語力はあまり違わない。漢字だけきちんと覚えて、よい作品に幅広く触れることが大切だ」と、生徒に小説を読むことをすすめてくれた。

「世の中で起きていることをそのまま記述していく、それが近代的な小説の基本で、小説は物の考え方の基本になる。だから自然主義からスタートしたほうがいい」と最初に指定されたのは、モーパッサンの短編「首かざり」(『モーパッサン短編集2』所収)だった。先生は解説が優れ、ルビが丁寧な旺文社文庫版をすすめたが、家の近くの本屋には新潮文庫版しかなく、それを買った。

小説をきちんと読んだのは初めてだったが、その中で描かれている登場人物の虚栄心に驚き、それが読書を面白いと思った最初の経験だった。

次に、同じ新潮文庫で太宰治の『晩年』を読み(中学校で配られた副読本に一部が載っていた)、島崎藤村の『破戒』、田山花袋の『蒲団』、夏目漱石の『こころ』と続いた。どれも入学試験に出るものばかりで、読み終わるたびに先生が作品について解説してくれ、『こころ』については「人間の内面の問題に入っていく、それが近代と関係している」と教えてくれた。

その後、フロベール、カミュ、ツルゲーネフ、チェーホフなど世界文学を読み漁り、気がつくと、学校から帰ると本を読み、学習塾の往復でも読む生活になっていた。その結果、学校の成績も上がり、このころ、理系から文系少年になった。

両親は読書を強要はしなかったが、反対することもなかった。「本は借りて読むものではない」と、父親は欲しい本は惜しみなく買ってくれた。

中学校入学前にはまったくなかった本棚が、1年生で1本でき、3年間で4本になった。学習参考書が50冊ほどあったが、3年間で合計800冊ほど読んだことになる。

 

 

ロシアの知的エリートは、大学入学前に徹底的に教科書を読み込む。特に歴史と国語の教科書は、質量共に日本語の教科書を遥かに凌駕している。1年ずつかけて古代史、中世史、近代史、現代史を学ぶが、それぞれの教科書が500ページほどある。国語の教科書はそれ以上に厚い。

日本でも、大学受験のために歴史を丸暗記する学生は少なくない。しかし、歴史の論理を理解しないまま丸暗記するので、大学入学後しばらくすると、ほとんど忘れてしまう。ロシアやイギリスの知的エリートは、きちんと理解したうえで徹底的に暗記につとめるので、その知識が血肉となり、将来応用が利くものになる。

筆者自身、鈴木宗男事件に連座して、「鬼の特捜」(東京地方検察庁特別捜査部)に逮捕され、512日間の拘置所生活を送ったが、そこで学術書を中心に220冊を読み、抜き書きや思索メモなどを綴った読書ノートを62冊作ったことは、後々の読書生活と執筆活動に大きくプラスに作用している。

 

 

 

標準的なビジネスパーソンの場合、新規語学の勉強に取り組む必要がなく、「ものすごく時間がかかる本」がないという条件下で、熟読できる本の数は新書を含め1カ月に6~10冊程度だろう。つまり、最大月10冊を読んだとしても1年刊で120冊、30年間で3600冊にすぎない。

3600冊というと大きな数のように見えるが、中学校の図書室でもそれくらいの数の蔵書がある。人間が一生の間に読むことができる本の数はたいしてないのである。この熟読する本をいかに絞り込むかということが読書術の要諦なのである。

 

 

 

「ノートを作る時間があったら他の本を読んだほうがいい」「その時間がもったいない」と主張する論者もいるが、筆者はその意見には与しない。

・・・・・

ゆるい形で本を読む習慣が身についてしまうと、いくら本を読んで知識を取り入れても、頭の中に定着していかない。本を読んで、「あっ、自分も知っている」という感覚は味わえても、「では、どう知っているのか」と突っ込んだ質問を改めてされると答えられないのだ。それは、取り込んだ知識が自分の中で定着していない証拠である。

10冊の本を読み飛ばして不正確な知識をなんとなく身につけるより、1冊の本を読み込み、正確な知識を身につけたほうが、将来的に応用が利く。

 

 

「コメントに書くことが思い浮かばない」という相談も受けるが、最初は、「筆者の意見に賛成、反対」「この考えには違和感がある」「理解できる、理解できない」など自分の「判断」を示すもので十分である。

「わからない」「そのとおり」「おかしい」の一言でもいい。何らかの「判断」を下すことが重要だ。

次のステップとしては、自分の「判断」に加えて、「意見」も書き込むようにする。

「私はこうは思わない」「この部分は、あの本のパクリだ」「同じデータに関して、あの専門家は別の評価をしている」など自分の「意見」も書き込めるようになれば、十分理解して自分で運用できる水準になっている。

2015年12月4日

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会 編 『世界史をどう教えるか  歴史学の進展と教科書』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 05:43

著者名欄が今までで一番長いですね(たぶん)。

2008年刊。

高校世界史の先生が、近年の歴史学の研究動向によって教科内容が変化した事例を、分野ごとに挙げていく本。

古代オリエント、古代ギリシア・ローマ、インド・東南アジア、東アジア・内陸アジア、イスラーム、ヨーロッパ中世、ヨーロッパ近世、ヨーロッパ近代、アジア近代、20世紀の歴史、の全10章。

 

 

 

「はじめに」で全体の概観。

(1)マルクス主義的発展段階論の失効。

古代・中世・近代などの語句は、古代オリエント、中世ヨーロッパなど地域限定で用いられるのみ。

この時代区分を世界のあらゆる地域に適用することはもはやなくなった。

ヨーロッパ史の区分を普遍的に適用はできない。

(2)政治史中心から社会史重視へ。

(3)国民国家の相対化。

一国史記述への反省。

(4)「人種」概念の有効性失効。

 

 

 

1.古代オリエント史。

オリエント史の範囲が拡大。

エーゲ文明やパルティア、ササン朝も含めるようになった。

ただし元の構成に戻った教科書もあり。

ヒッタイトの製鉄術発明は、製鉄自体の遺跡は見つかっておらず、鉄製品も少なすぎるので、疑問視する意見もあり。

ペルシア湾古代の海岸線は内陸部に入り組み、ウル・ウルク・ラガシュなどは海に近く、それが土砂の堆積で変化したとされてきたが、実際には現在と同じではないかという説。

支流や沼沢・湖を通じてペルシア湾と連絡していた。

シュメールよりシュメル、スメルの方がアッカド語原音に近いが、日本の国粋主義者が「スメラミコト」とこじつけないように戦前のオリエント学者があえてシュメールとしたとの伝聞あり。

シュメール滅亡は、アッカド人による征服の他、土壌の塩化による内部崩壊の要因もあり。

オリエント王は神官王(プリースト・キング)でエジプト王ファラオは現人神(ゴッド・キング)との説は現在では否定され、王権はエジプトでも神的で永遠だが、王個人は神に従属する存在とされていた。

ピラミッドはヘロドトスが墓としているのが広まったが、「王の権威や権力を象徴するもの」という書き方で、墓とする表現は教科書に見られなくなっている。

一種の神殿とも取れるが、墓の定義次第か。

世界帝国前のアッシリアの扱いが増えた。

前二千年紀初頭建国、ミタンニに服属。

メソポタミアの内、北部はアッシリア、南部はバビロニア、双方ともセム系アッカド語、諸方言としてアッシリア語があるが、古バビロニア語はハンムラビ法典などの史料が多く、結果アッシリアよりバビロニアを優位視する史観が成立。

最高神アッシュル(土地の神格化)が一貫して地位を占めるが、これがアッシリア国家長寿の理由か。

オリエント世界の共通語がアッカド語からアラム語に変わる。

統一アッシリアはこの変化に適合し、現地語主義や異文化理解を進め、通説とは異なり、残酷・抑圧的支配ではない、むしろ新バビロニアの方がそう言える。

アッシリア滅亡後の四国対立時代、リディアはアッシリア最大版図の外にあり、アッシリアから独立したのではない。

インド・ヨーロッパ語族の移動の意義を強調し過ぎるのは、恣意的・イデオロギー的で、はっきり言えばナチ時代の影響すら見られる。

アケメネス、ダレイオスはギリシア語だが、ハカーマニシュ、ダーラヤワウはいくら原語発音主義が進んでも、定着しないですね。

ギリシアは自由で個人尊重、ペルシアは専制主義で悪という決め付けは教育現場ではなくなったかと思うと書かれているが、いやーなくなってませんよ。

 

 

 

2.古代ギリシア・ローマ史

バナール『黒いアテナ』=古代ギリシアに対して黒人系エジプト文明とセム系フェニキア文明が決定的影響を与えたという説だが、批判も多い。

ミケーネ文明はドーリア人や「海の民」侵入によるものではない。

「海の民」はペリシテ人としてパレスチナに定住。

ギリシアへの侵入者ではなく、内部崩壊したギリシアから流出した集団が「海の民」。

ポリス以外に諸集落がゆるやかな枠組形成した国家=エトノスが存在。

ポリスがギリシア史の全てではない。

ポリスは都市国家というより、領域を持たない、市民団こそがポリスの実体。

アルファベットは商業上の必要ではなく、ホメロスの作品を固定化するためという説が有力。

集住(シノイキスモス)があったのか疑問視される。

その史料となった前4世紀アリストテレス、後1世紀プルタルコスが、250年前・600年前の社会について的確に理解できたか疑問。

僭主政=民衆の支持を得て非合法に政権奪取したものとされるが、最近では貴族間の激化した抗争を収拾する為に生まれたとの説がある。

衆愚政治とはバイアスのある表現だと書かれているが、しかしこれ自体現代的偏見では?

ヘレニズム時代のギリシア化は過大視されている、ドロイゼンの主張自体、帝国主義時代の思潮を背景にしていた。

ローマ帝国主義論争=必ずしも防衛的帝国主義とは言えないローマの膨張、指導層の軍事的成功への志向と平民の経済的利益への期待、同盟国との結合強化と親ローマ的指導者との利害一致。

「小さな政府」のローマ帝国=地方行政への委託、軍隊による行政代行。

帝国の急激な没落という伝統的説に対する「古代末期」説=200年~7世紀まで、新たな文化、思考様式、心性、社会規範が形成された時代。

ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』の影響。

ピレンヌ・テーゼ=西ローマ帝国崩壊ではなくイスラム進出が地中海経済の衰退をもたらし、中世世界を形成した。

後期帝政においても都市は没落せず、地中海世界の一体性保持、フランクもローマの制度・人脈利用、476年西ローマ滅亡は当時の人々の意識では東帝国ゼノン帝による帝国再統一に過ぎず。

クローヴィスらゲルマン諸王も東ローマより称号・官職を授かり、東ローマ皇帝名で貨幣鋳造。

ユスティニアヌス帝の征服がむしろ国土荒廃をもたらす。

アラブ人征服後も実際は地中海交易は消滅せず、ローマはイスラムが継承、価値が低下したヨーロッパは無視され、直接支配されず。

 

 

 

3.インド・東南アジア史

カースト制について。

英統治下で一元的法制度導入、その中で利益関係から様々なジャーティが属するヴァルナを自己決定、例えば純粋なクシャトリヤは消滅していたはずなのに、カースト単位でクシャトリヤを名乗るような例あり。

(不可触民を除いて)ヴァルナは実際には出生では決定されず。

カースト制が古代からずっと同じ形で続いてきたのではない。

現代インドはカーストよりも学歴格差などが顕著で都市中間層が欧米的生活を営む多様な民主主義国家となっている。

ヒンドゥー教は一つの宗教というより、日本人の宗教意識全般のようなもので、仏教とヒンドゥー教の対立はあまり強調されなくなった。

南インドの重要性=「海の道」から。

大航海時代も、元々重要だった「海の道」にヨーロッパ勢力が加わっただけ。

東南アジアで、辺境・周辺ではなく海洋交易の中心として繁栄した港市国家。

以前はマルクス主義的な生産力重視論、消費軽視の観点から、主要農産物ではなく嗜好品を産する東南アジア軽視傾向があったが、しかしそれを支配したオランダが覇権を握った意味は重い。

英蘭戦争も、その後の名誉革命による同君連合まで考えれば、オランダの敗北とまで言えず、北米ニューアムステルダム喪失は重要な砂糖生産地南米スリナム獲得で埋め合わされ、日本貿易も独占している。

最近の教科書では東南アジアの現状中心に教える観点から、アンコール・ワット、ボロブドゥール遺跡に代表されるような古代文明の記述は少ない。

これは植民地をベースに現在の国家が形成されたことからしてやむを得ない。

主要農作物生産が貧弱なゆえに植民地されたのではなく、商品作物が豊かだったからこそ植民地化されるのが早かった、と解釈すべき。

 

 

 

4.東アジア・内陸アジア史

黄河文明ではなく中国文明という呼び方が増えているが、長江文明という語は定着せず、別な文明起源一元論に陥る危険あり。

夏王朝は王権形成期、中国ではすでに最初の王朝と認められているが、殷の甲骨文字のような同時代文字史料によって論証されるべき。

ウルス=人間のかたまり、「国」ではない。

遊牧民連合体が指導者の出身集団の名をとって、例えば「モンゴル」とされる。

匈奴がトルコ系かモンゴル系かという議論に大きな意味はない。

教科書から「オゴタイ・ハン国」が消えた。

遊牧ウルスを持ち、領域内の都市を含めて支配した王家の当主の存在をもって、「ハン国」とされる。

ハイドゥとその子チャパル支配地域がオゴタイ・ハン国とされたが、オゴタイ家は内陸部で遊牧生活を送り、都市支配権は大カアンが持っていた時期があり、その後反乱を起したハイドゥが都市も掌握したが、史料上は「ハイドゥの国」でありオゴタイ・ハン国ではない。

チャパル時代にチャガタイ家に領域を奪われ、チャガタイ・ハン国成立。

つまり、オゴタイ、チャガタイ両ハン国が並立したのではなく、「ハイドゥの国」が滅ぼされチャガタイ・ハン国に取って替わられたということ。

モンゴル人第一主義も、蒙古・色目・漢人・南人の四人種区分も実態に即さないとして消えつつある。

明清史を従来の中国史内部のみの枠組で捉えるのではなく、外部世界とくに海を通じた交流と冊封関係を重視する見方が増える。

 

 

 

5.イスラーム史

キリスト教・仏教は「先進的・柔軟・寛大・自由・平和的・弱者保護・理解し易い」、イスラムは「後進的・厳格・異質な考えを認めない・結束力が強い・奇妙・不自由・攻撃的・えたいが知れない・理解しにくい」イメージ。

『教科書の中の宗教』参照。

表記の変化。

マホメット⇒ムハンマド、イスラム⇒イスラーム、アウランゼーブ⇒アウラングゼーブ、スレイマーン1世⇒スレイマン1世。

アラビア語が普遍語であるから、コーランもクルアーンに、メッカもマッカにいずれ書き改めるべき。

しかしインドネシアのサレカット・イスラームは現地発音ではイスラムに近い。

必要以上に神経質になったり、末梢的知識に振り回されないようにもするべき。

かなり以前からオスマン・トルコはオスマン帝国に変えられている。

支配層はトルコ系に限られず、トルコ人=アナトリアの農民を蔑んで呼ぶ呼称でもあったので。

さらに古い言い方でイスラム帝国全体をサラセン帝国と呼ぶこともあった。

これもアブラハム(イブラヒム)の妻サラ、アラビア半島の地名サラカ、東方を意味するペルシア語シャルクなど語源には諸説あるが、不明。

ヨーロッパからイスラムを指す侮蔑的表現なので現在はほとんど使われず。

スルタン=カリフ制は、さすがにかなり前から教科書では留保付きで載るだけになっている。

オスマン朝はカリフ承認を必要としておらず、むしろ二大聖地保護権の方が重要。

しかし19世紀衰退期に入るとオスマン朝自身がそれを主張するようになる。

 

 

 

6.ヨーロッパ中世史

教科書表記の変化、ゲルマン民族、ゴート族⇒ゲルマン人、ゴート人。

商業・社会・生活上の用語が多く。

ピレンヌ・テーゼ=ローマ崩壊ではなくイスラム進出が契機となって中世封建社会が成立した、その後、ヴァイキングが欧州の外側(大西洋・地中海・東欧)を囲み、11世紀に商業の復活。

一方、この見方への訂正の動きもあり。

イスラム以前のメロヴィング朝での関税収入が過大評価されているのではないか、イスラム進出後もヨーロッパの通商は阻害されていないのではないか、カロリング朝でも地中海貿易は盛んで、当時の金貨から銀貨への移行も貿易減少によるものではないのではないか、等。

教科書ではピレンヌに倣ってカロリング期を中世の開始期とする記述もあるが、多くはこの時代を「分水嶺」とはしていない。

ユダヤ人、スラヴ人、スカンジナビア人による西北ヨーロッパとイスラム圏との通商ルートという、今まであまり注目されていなかった経済的繋がりもあり。

ピレンヌ・テーゼは経済史的には否定されたが、文化的文明史的にヨーロッパ中心主義を克服した功績あり、中世成立にはイスラム、ビザンツ、ノルマンという外的要素が不可欠だった。

11世紀中世盛期、ヨーロッパだけでなく、中央ユーラシアのトルコ系政権、東アジアでの遼・宋抗争、日本の武士団など、世界的に軍人政権が樹立。

地球環境考古学での10~14世紀の気温上昇に関係あり?

十字軍初期は宗教的情熱、後期は世俗的利害という通説はむしろ逆、第四回でのビザンツ宮廷クーデタへの介入は偶発的で、第一回でも諸侯の領地・戦利品、商人の商圏拡大、農民の負債帳消しと身分的自由への期待という動機が大きい。

その熱狂も12世紀初頭には下火になっていたが、それが聖戦思想に突き動かされて続行される(ルイ9世など)。

「最初の近代人」で理性的平和的に十字軍を遂行したと言われるフリードリヒ2世の基盤となったノルマン・シチリア王国の近代的官僚制統治はやや誇張されており、実際には異なる行政制度のモザイク。

1282年シチリアの晩鐘は、フランスが地中海支配の主役を降り国内統一へ向かい、代ってスペインが進出、国際政治が宗教的情熱の上に立つのを象徴する事件、中世的聖戦理念は失われ、ヨーロッパ内部の宗教改革へ。

ビザンツ聖像禁止令は、イスラムからの批判を意識して出されたものではなく、修道院領の没収が目的、その後聖像復活決定の後にイスラム勢力の反発。

むしろイスラムがビザンツから影響を受けたことになる。

 

 

 

7.ヨーロッパ近世史

かつて主流だった、大塚久雄の「大塚史学」、イギリス資本主義の先進性の原因を探るという問題意識から、「中間的生産者層」が市場圏を拡大し、ブルジョワ革命を遂行、「問屋制手工業」ではなく「工場制手工業(マニファクチュア)」、商業より生産構造重視する見方。

「地理上の発見」は消えたが、「大航海時代」は適切か、すでに完成されていた交易ネットワークにヨーロッパ勢力が遅れて加わっただけではないか。

価格革命のインフレ説はもう成り立たず、イタリア都市の衰退も急激に起こったものではない。

16世紀ヨーロッパで原因不明の人口増加、拡大した需要に対応して、バルト貿易で穀物・鉄・木材・ニシンなどを押さえたオランダが覇権を握る。

ルネサンスの概念が広すぎる、自由・民主など近代精神の根本的起源との評価はさすがに無くなってきているが。

ラテン語古典から直接ギリシア語古典に当たれることになったことは重要、だがそれを可能にしたイタリア都市を中心とするなら、ルネサンスを中世の項目の最後に入れ、イタリアのみの記述にすればよいのではないか、との提案に意表をつかれる。

地中海貿易がポルトガルの活動によって即衰退したのではない、オスマン朝のエジプト征服による中東の安定とその商業規制の緩さによって現状維持には成功している。

ポルトガルは1622年サファヴィー朝によりホルムズから追放されペルシア湾制海権を喪失、香辛料貿易は衰退、代ってオランダが香辛料の原産地そのものと日本産出の銀を手に入れ覇権奪取。

宗教改革の記述ではキリスト教の教理に深入りし過ぎ、国家と教会との関係により重点を置くべき。

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、プロテスタンティズムが現状では宗教的基礎の無い禁欲を経て功利主義的現世観に成り果ててしまっているという現代社会批判が込められていたのに、日本ではそれを無視して、「プロテスタント=善、カトリック=悪」の図式がまかり通っている、との指摘は面白かった。

なお、ウェーバー論文は古典だが、歴史学の専門論文ではなく、必ずしも実態に合っていない、ピューリタンは王政復古後のイギリスで主流になり得ず、オランダでも自由・利殖に寛容なアルミニウス派は否定され、グロティウスは投獄・亡命。

国家と教会との関係では、教皇庁から一国全体の教会の自立を成し遂げたイギリスが最も宗教改革らしい改革との評価。

17世紀に対内的統一と対外的自立性を持つ主権国家が確立、それが18世紀後半から19世紀にかけてより中央集権的で精神的一体性も兼ね備えた国民国家に移行。

絶対王政国家は主権国家の中で相対的に王権が強いものだが、それでも国民国家よりは中央集権的ではない。

「中核国」=政治体制にかかわらず商工業・金融分野でグローバルな資本主義体制推進の中心となる国・地域。

オランダ⇒イギリス⇒アメリカと推移。

この場合17世紀前半オランダ、17世紀後半フランスとしたいところだが、政治的覇権とは違った概念だから、フランスは入れない方がいいのか?

イギリス革命について、ブルジョワ革命か否かという視点はもはや意味が無い、諸階層間に明確な利害対立軸が見られず、結局、反仏反カトリック世論が最終的に英蘭同君連合を誕生させたという国際関係の視点が重要。

 

 

 

8.ヨーロッパ近代史

「市民革命」という語が教科書から消えつつある。

ブルジョワジーと貴族、封建制と資本主義の闘争という見方への留保から。

現在では産業革命の項目が米仏革命より前に置かれていることが多い。

ブルジョワ革命が産業革命の前提と見なされなくなった。

問屋制・工場制手工業についても言及少ない。

イギリスで産業革命が始まった理由や経過よりも、「世界の一体化」という視点から産業革命を見る。

「二重革命論」=英仏を一体化して見、英産業革命と仏革命が近代世界を形成すたとする。

「環大西洋革命論」=18世紀後半から19世紀前半にかけて大西洋両岸で自由主義的改革が行われたとする。

(私が持っている価値観からすれば、以上二つの見方は疑問を感じる。)

19世紀イギリスで産業資本家が完全に権力を掌握したことはない、伝統的貴族と大地主が依然支配層を形成=「ジェントルマン資本主義」。

アメリカ合衆国独立について、北米を特別な植民地とするのではなく、他の中南米植民地と同様に扱い、最も成功したクリオーリョの革命とするのが自然だ、との記述には目が覚める思いがした。

独立宣言ではジョージ3世を攻撃しているが、王政自体には必ずしも批判を加えず、フランス等への配慮と本書ではしているが、果たしてそれだけか?

フランス革命は貴族とブルジョワの対立から起こったというより、ブルジョワ的意識を持った貴族が推進役、ミラボー伯爵、ラファイエット侯爵、タレーラン司教の、それぞれの肩書きを取って紹介してきたことがおかしい。

経済構造が政治的意識を決定するというマルクス主義では説明がつかない。

「自由と平等」のための大量殺人を正当化する言説が誕生した、との指摘には感心した。

ギルド・荘園など社団が消滅、対外戦争とナショナリズムによる一体感から、媒介を経ずに個人と国家が直結する国民国家成立。

国教カトリックと国家の闘争は、「革命暦」などのみで記述が少ないが、結局以後のフランスにとって最も大きな影響を受けたのが、この非宗教性=「ライシテ」ではないか、としている。

「フランス本国よりソ連のほうがフランス革命をたくさん教えている」(ブローデル)との言葉を紹介した後、典型的市民革命としてフランス革命をこれほど詳しく教える必要はなし(バスティーユ襲撃や封建的特権廃止宣言は日付まで書いてある)、教科書の分量も減らしては、と書いてある。

ウィーン体制は1970年代から学会では再評価されてきた、平和と秩序を実現したEUの先駆とも言われ、奴隷売買禁止という成果も挙げた。

大きな戦争が無く、民衆のナショナリズムが抑えられていたことにより、民族紛争も抑止されていた時代という評価を教える必要がある。

なお中南米独立をウィーン体制への反抗とするのは無理であり、ナポレオン戦争・大陸封鎖令による自立化と黒人主体のハイチ革命へのクリオーリョの恐れが独立に繋がり、それを市場拡大を図る英米が支持し実現。

中南米における利益共有が19・20世紀の米英協調を準備したとの評価。

ロシア・東欧=「後進的」というイメージの偏り、ロシアの「上からの改革」は他国、例えばイギリスと同じであり、限界性だけを強調するのは正しくない。

東欧の民族独立運動、往々にして他の民族への抑圧を引き起こしがちでもある(東欧だけでなく)。

 

 

 

9.アジア近代史

インド反英運動での大衆的ナショナリズムがヒンドゥー中心となり、ムスリムや不可触民との衝突激化、ナショナリズムが持つ排他性に注意が必要。

アヘン戦争は広東に対外貿易を集中させ財源とする重商主義政策を採る中央政府とそれに反抗する地方(一部はヨーロッパと結ぶ)の対立という構図。

軍事的にはイギリスが圧倒的とは言えず、中央政府の内部分裂から敗北。

日本の開国、イギリスが戦費負担等コストを避けるために極端な強硬策を避け、日本側も幕府が交渉能力を発揮、租界を置かせなかった、行き過ぎた明治礼賛はおかしい、幕府の不平等条約の負債を強調する見方は当たらない。

洋務運動の限界は中体西用論にあるのではなく、挙国体制の不在。

タイのチャクリ改革は国王権力による主体性確保によって独立維持に成功。

帝国主義の原因は経済的なものとは限らず、より複合的なもの。

その目標となったのはアフリカ・東南アジア・オセアニアの三地域で、オスマン・イラン・中国は主権自体は維持、インドは唯一例外だが、アジア諸帝国は一応存続している。

ただアジアの交易ネットワーク参入に過ぎなかった大航海時代と違って、ヨーロッパが一方的優位にあったことは事実。

 

 

 

10.20世紀の歴史

ファシズムの解釈。

単なる権威主義国家ではなく、大衆的運動と結びつき、国民の合意を取り付けようとした国家。

ナチスの訳語が「国家社会主義ドイツ労働者党」から「国民社会主義ドイツ労働者党」に変わってきている。

高校生の頃は、後者の表記に違和感があり、「こんな極右政党に“国民”なんて付けるのはおかしいじゃないか」と思っていたが、今思うとそう書くべきかなとも思う。

社会主義に批判的記述の教科書も増えてきているとあるが、しかし民主主義を批判する射程にまでは(残念ながら)まず達しないでしょう。

ファシズム(と共産主義)は民主主義が生みだしたものです。

 

 

 

 

やっと終わった・・・・・。

目に付いた所を適当に抜き書きしただけだが、疲れました。

概説書の中で時々紹介されるような、新しい学説がぎっしり詰まったおいしい本。

立ち読みや読み始めの時に感じた程のテンションは、途中から得られなくなったが、それでも充分高評価だ。

是非手に取って頂きたい本です。

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