万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年11月22日

マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか  市場主義の限界』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 00:23

1980年代以降、西側世界を制覇した市場主義を批判した本。

非市場的規範が律してきた公共的部門である教育・医療・治安・司法・安全保障・環境政策に入り込み、さまざまな問題を引き起こす。

これに反対する二つの理由がある。

一つは不平等。

貧しい人々が不当に不利な扱いを受ける、というもの。

もう一つは腐敗。

たとえ条件が平等でも、それらの分野の商品化自体が社会的善を腐敗させてしまう、とするもの。

結果、現代社会は、市場経済を持つ状態から市場社会である状態に陥ってしまった。

市場の論理も、独特のやり方で公共生活から道徳的議論を排除する。市場の魅力の一つは、市場が満たす嗜好について判断を下さないことだ。ある善の評価の方法がほかの方法よりも高等かどうか、あるいは価値があるかどうかを問わないのだ。誰かがセックスや腎臓を金で買いたいと思い、同意する成人が売りたいと思えば、経済学者が問うことはただ一つ、「いくらで?」だ。市場は駄目を出さない。

市場は立派な嗜好と低俗な嗜好を区別しない。

取引をする両者は、交換するものにどれくらいの価値を置くかをみずから決めるのだ。

価値判断を避けるこうした姿勢は、市場の論理の中心にあって、その魅力の大半を説明する。しかし、市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失われ、こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる羽目になったのだ。

人生のあらゆる問題を個々人の物資的利害と効用に還元する経済学的アプローチとそれに基くインセンティブ政策乱発の欠陥を著者は指摘。

経済学は価値判断をしない学問であり、道徳哲学とも政治哲学とも無関係だという考え方は、つねに疑問視されてきた。だが、経済学が思い上がった野望に燃えるこんにち、この主張を擁護するのはとりわけ難しくなっている。市場の範囲が生活の非市場的領域に広がれば広がるほど、市場はますます道徳的問題にかかわるようになるのだ。

経済効率について考えてみよう。それを気にするのはなぜだろうか。おそらく、社会的効用を最大化するためだろう。この場合、社会的効用とは人々の選好の総和として理解されている。マンキューが説明するように、資源の効率的な分配は社会のあらゆる構成員の経済的福祉を最大化する。では、社会的効用を最大化するのはなぜだろうか。ほとんどの経済学者はこの問題を無視するか、さもなくば何らかの形の功利主義的な道徳哲学に頼る。

だが、功利主義はいくつかのおなじみの反論にさらされる。

市場の論理に最もかかわりのある反論は、選好の道徳的価値にかかわらず、それを最大限満たすべきだとする理由を問う。オペラが好きな人もいれば、闘犬や泥んこレスリングが好きな人もいる場合、われわれは本当に価値判断を避け、功利計算においてこれらの選好を同列に扱わねばならないのだろうか。

市場の論理が、たとえば自動車、トースター、薄型テレビといった有形財にかかわるとき、この反論は大きな意味を持たない。商品の価値は消費者の好みの問題にすぎないと想定するのは、理にかなっている。だが、セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護などに市場の論理が応用される場合、あらゆる人の選好が同じ価値を持つと想定するのが妥当とは言いにくい。道徳的負荷のあるこうした領域では、善を評価するある方法のほうが、別の方法より高級で適切かもしれない。

もしそうだとすれば、われわれが選好の道徳的価値を追求せずに、それを見境なく満たすべきだとする理由ははっきりしなくなる(子供に読書の楽しみを教えたいという願望と、至近距離でセイウチを撃ちたいという隣人の願望を、本当に同じように扱うべきだろうか)。

道徳的問題の領域に市場原理を導入することによって、社会的善が取引の中で腐敗する。

経済学者は利他心や連帯心などの美徳を「節約」して市場では解決できない問題に当てた方が良いなどと、利いた風な口をきくが、このアナロジー(類推)は著者によれば不適切である。

それらの美徳は使うと減るようなものではなく、鍛えられて強くなる筋肉のようなもので、使わなければ退化するはずだ、と。

 

 

具体的事例が多く、それが内容の中心。

それゆえ、読みやすく面白いと一応は言える。

そこで描かれるアメリカ社会の実態はもう狂ってるとしか言い様がない。

そして日本もこのような国になりつつある、というかほぼなってしまったことにぞっとする。

自由と市場の名において、最低最悪の醜い利己主義を正当化し、恬として恥じない経済学者と新興起業家という人種に、心底からの嫌悪と軽蔑を感じる。

そしてそれを矯正するどころか、迎合して「左翼」を批判した気になっている自称「保守」「右派」には反吐が出る思いだし、もう「(国民を道連れにせず自分達だけ)地獄に落ちろ」と言いたい気分だ。

 

 

『これからの正義の話をしよう』『公共哲学』に比べると、テーマが限られており、やや食い足りないが、それでも良質な読み物であることに変わりはないでしょう。

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