万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年11月9日

白石昌也 『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子  ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』 (彩流社)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 16:04

「15歳からの『伝記で知るアジアの近現代史』シリーズ」の1だそうです。

シリーズ名通り、平易で読み易い文体。

副題のうち、ファン・ボイ・チャウは高校世界史で必ず出てくる人名だが、クオン・デは範囲外。

1867年ゲアン省(フエとハノイの中間)でファン・ボイ・チャウは生まれる。

儒学生として科挙・郷試に合格、王族のクオン・デと出会う。

阮朝越南の始祖阮福映(嘉隆帝)の長子は早逝し、2代目ミンマン(明命帝)は第四子。

長子の系統に連なるのがクオン・デ。

当時、ヴェトナム南部のコーチシナはフランス直轄領、中部のアンナンは保護国で植民地支配を受けながら一応フエに朝廷は存続している(その後、ノートに「北部トンキンは中間」と書いてあるのだが、これをどういう意味で自分が書いたのか思い出せない)。

1905年ファン・ボイ・チャウは出国、中国で黒旗軍の劉永福と会見した後、日本に入国、亡命中の梁啓超と会い、『ヴェトナム亡国史』を執筆、東遊(ドンズー)運動を始める。

憲政本党の大隈重信、犬養毅の支持を得て、陸軍振武学校(日清両国の学生、官費留学生向け)や東京同文書院(東亜同文会による設立、上海には東亜同文書院もあり)にヴェトナム人留学生を送り込む。

独立に向けた組織としては、ヴェトナム維新会を設立。

立憲君主制を掲げ、会主にクオン・デを戴く。

主に漢文、一部に喃(ノム)文字とクォクグー(国語)と呼ばれたアルファベットを用いた宣伝文書を作成。

独立運動における、これとは別の流れとして、ファン・ボイ・チャウの論敵ファン・チュー・チンがいる。

他の同志の名前は不要だが、このファン・チュー・チンだけは憶えましょうか。

ファン・チュー・チンは民主共和制を志向、具体的活動では漸進的合法路線を採る。

1907年チュー・チンはハノイに東京義塾を設立(「東京」=ドンキン=ハノイ。ヴェトナム北部の地域名トンキンはフランス人が名付けたもので、ドンキンと語源は同じ)。

しかし同1907年には日仏協約が結ばれ、東遊運動は蹉跌(同年は日露協約、英露協商も結ばれ、第一次大戦に向けた外交陣営が固まる年となる。「協約」と「協商」の名称もチェック)。

ファン・ボイ・チャウは中国保皇派だけでなく、革命派とも接触、孫文とも会見するが、運動上の同意には至らず。

また、幸徳秋水、大杉栄、堺利彦ら社会主義者とヴェトナム・インド・朝鮮・フィリピンの独立運動家が1907年「亜州和親会」という組織を結成したと書かれているが、これは全く知らない名だ(ただしこの頃のボイ・チャウはあくまで立憲君主主義者)。

1908年ヴェトナム国内での叛乱が鎮圧、弾圧が加えられ、東遊運動は終焉、ボイ・チャウは中国やタイに滞在。

1911年辛亥革命勃発、1912年ヴェトナム光復会を結成したボイ・チャウはここで共和制論者になる。

光復会会長はクオン・デだが、両者に溝が出来始める。

孫文・黄興らとの会談不調、ヴェトナムでの蜂起も失敗、13年反袁世凱の第二革命が失敗すると、14年ボイ・チャウは広州で逮捕される。

だが段祺瑞がなぜか保護してくれて処刑されず、15年第三革命を経て17年出獄。

第一次大戦中だが、日本も中国もフランスと同じ陣営のため、独立の好機とはならず。

1924年ヴェトナム国民党を結成するが、翌25年上海で逮捕され、その後フエで1940年に死去するまで15年におよぶ軟禁生活を強いられる。

一方、ファン・チュー・チンは1908年に流刑、11年恩赦でフランスに行き、25年帰国、26年死去している。

このように独立運動が展望を見出せないうちに、民族運動の主導権は1930年ホー・チミンが結成したインドシナ共産党に徐々に握られていく。

クオン・デは日本に滞在し、頭山満・大川周明・松井岩根らアジア主義者と交流、満州国の溥儀即位に心を動かされる。

1939年日中戦争中の上海でヴェトナム復国同盟会を結成、立憲君主制を主張する組織で、クオン・デは委員長に就任。

1940年9月北部仏印進駐で日本軍がヴェトナム入り、この年の10月にボイ・チャウは死去している。

41年7月には南部仏印にも進駐、しかしフランス本国で親枢軸のヴィシー政権が存続していたので、43年11月の大東亜会議にはインドシナ代表の姿は無かった。

大戦中はゴ・ディン・ディエムとカオダイ教、ホアハオ教など新興宗教勢力がクオン・デに接近。

ゴ・ディン・ディエムは30年代にフエ朝廷に仕えていたが、そこを追われ、バオダイ帝とは対立関係。

日本軍はフランス当局からゴを保護、独立時にはクオン・デ皇帝、ゴ首班の構想もあった。

1944年8月ド・ゴールがパリ入城、45年3月日本軍は仏当局を制圧、形式的にはインドシナ三国が独立。

しかしバオダイ帝をクオン・デに交替させることは実現せず。

日本敗戦後、ヴェトミンが蜂起し、ヴェトナム民主共和国成立、46年からインドシナ戦争開始。

49年南部にヴェトナム国成立、元首(皇帝ではない)バオダイ。

クオン・デはホー・チミン、バオダイ両者に帰国嘆願の手紙を送るが拒否され、51年日本で死去。

54年ジュネーヴ協定でインドシナ戦争終戦、その後ヴェトナム共和国大統領ゴ・ディン・ディエム治下、クオン・デの遺骨はフエに戻った。

 

 

読み易い。

あまり予備知識の無い分野では、これくらいの記述がちょうどいい。

まあまあの作品でしょう。

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