万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年11月2日

安岡昭男 『副島種臣』 (吉川弘文館 人物叢書)

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読み方は「そえじま たねおみ」。

髭面のなかなか迫力のある写真が巻頭に掲げられている。

征韓論政変で西郷隆盛・板垣退助と共に下野した人物として名前はそこそこ知られているが、しかし実際何をした人物なのかと問われれば言葉に詰まる人も多いでしょう。

副島は明治初期に外務卿を務めた。

他に明治の外務卿・外務大臣は、沢宣嘉(のぶよし)、岩倉具視、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董(ただす)、内田康哉。

条約改正交渉で名前を知っている人名も多いです。

 

 

1828年佐賀藩士の枝吉家に生まれ、藩校弘道館に学ぶ。

大木喬任(たかとう)、江藤新平、大隈重信、久米邦武らと交友。

京都遊学中にペリー来航を知る。

1859年父の死後、副島家の養子となる。

尊攘論者だが、藩主鍋島直正(閑叟)の勧めで、大隈重信と共に長崎で米国人フルベッキに学ぶ。

維新で長崎奉行職を引き継ぎ、各国と交渉を持つ。

当時列強との間で問題となった、浦上キリシタン弾圧事件には直接関与せず。

佐賀藩は戊辰戦争当初ははっきりした態度を採らなかったが、雄藩の一つとして建設していた近代軍備による貢献で地位向上、薩長土肥と呼ばれる藩閥の一角を占める。

1868年、副島は参与に任命。

藩主直正に呼び捨てにされ、「拙者は最早、朝臣にござる。」と言い返したというエピソードが記されている。

同年「政体書」を副島と福岡孝弟が起草。

形式的三権分立を持つ太政官制で、官吏互選を定めたものだが、大村益次郎は共和政治に類するものとして反対、投票せず。

69年版籍奉還と「職員(しきいん)令」。

これも副島が中心に制定。

右大臣三条実美(左大臣は欠)、大納言岩倉、参議副島、前原一誠、大久保利通、広沢真臣、および各卿(外務卿は沢宣嘉)。

政体書より行政権を強化して中央集権化、集議院は諮問機関に留められる(政体書における議政官下局およびそれが改名した公議所は立法機関)。

同年大村益次郎暗殺。

暗殺犯の処刑一時差し止めの動きがあり、これに副島も同調したような記述がある。

ドイツ医学導入に当っての議論では、米国の如き民主国は日本と相容れず、立憲君主国のドイツに倣うべきと主張、多面性を持った人物として描かれる。

「新律綱領」制定へ協力、ナポレオン法典の翻訳を指示。

71年外務卿に就任(前任者の岩倉はすぐに欧米使節として出発)。

この際、留守政府は大改革を行わないとの約定は不合理だとして、板垣と共に反対している。

外務卿としてまず72年マリア・ルス号事件に遭遇。

ペルー船での清国苦力虐待事件。

神奈川県令だった陸奥は介入に消極的で辞任、後任大江卓、司法卿江藤も消極派だったが、米英公使の支持も得て、苦力は清国へ帰国。

そしてこの事件にも関わらず、73年ペルーと和親貿易航海条約の締結にも成功している。

これより前、71年に伊達宗城・李鴻章間で、日清修好条規を締結。

73年条約批准のため、副島は訪清。

李と会談し、中華思想を難じる。

「中国ヲ以テ自ラ画(かぎ)リ夷狄ヲ外ニスルハ堯舜ノ道ニ非ス」

「夷の中華に於る、常に恥じて勉む、故に強く而して能く興る、中華の夷に於る、自ら矜で怠る、故に弱く而して必ず亡ぶ」

「夷も亦人国なり、君子を以て侍てば則ち君子と為り、蛮夷を以て侍てば則ち蛮夷と為る」

三跪九叩頭礼はマカートニー、アマーストの時代から問題になっていたが、副島は当時在位していた同治帝に、米英仏独露に先んじて跪礼拒否で謁見を得ることに成功。

72年琉球藩を設置、71年琉球人殺害事件の起きた台湾に関心を持ちつつ、当時北方において日露雑居で紛争が頻発していた樺太の全島買収を企図する(米国のアラスカ買収も直近だった)が実現せず、後に75年には樺太・千島交換条約が結ばれる。

征韓論争で下野、74年愛国公党を板垣、後藤象二郎、江藤、由利公正と共に結成(同郷の江藤は同年佐賀の乱で刑死)、民撰議院設立建白書提出。

ただし副島はかつての勤王の志士として、批判対象の「君主専制」の文字を「有司専制」変えさせている。

副島は在清イタリア公使に、英国ですら君民共治などの語は官府では決して用いないと忠告されたこともあったという。

75年大阪会議で木戸と板垣は参議に復帰、元老院・大審院・地方官会議設置、元老院議官には勝海舟(安芳)、山口尚芳(ますか)、河野敏鎌(とがま)、加藤弘之、後藤、由利、福岡、吉井友実、陸奥、鳥尾小弥太、三浦梧楼らが就任するが、副島は辞退。

清国漫遊中に西南戦争。

79年(明治12)年侍講に就任、宮中派の一員となる。

だがこの時期友人の債務保証によって進退窮まる。

副島の窮地を聞いた明治帝が10万円を下賜、一度は感激した副島だが国父は万民を平等に愛すべき、偏愛は君徳を傷つけるとして、天災救恤にと返却、この経緯を聞いた明治帝は副島が死ぬかもしれないと感じ使者を急行させ、副島が割腹しようとしていた寸前に止めさせたという。

こうした潔癖な性格から、明治十四年の政変では黒田清隆を批判。

民間での活動ではアジア主義的団体との関わりが挙げられる。

1880年興亜会(1883年以降亜細亜協会)の会長に一時就任。

(この団体は甲午軍乱、甲申事変での朝鮮改革派の衰退により会員が減少、1900年近衛篤麿の東亜同文会に吸収される。)

1892年には前年結成された東邦協会という別の組織の会頭にもなっており、賛同者には小村寿太郎や加藤高明の名も見える。

91年第一次松方正義内閣が成立するが、大津事件で青木周蔵外相辞任、品川弥二郎内相も徹底した選挙干渉が強い批判を受け辞任、副島が後任内相となるが、数ヵ月後辞任、松方内閣もすぐ崩壊した。

その前、1888年枢密院が設置されると枢密顧問官に就任、黒田内閣下の大隈外相による条約改正交渉に反対している。

外交面では、日清戦争後の清国人労働者排除政策を批判、中国ナショナリズムが日本に向けられた際の危険を警戒、対露政策では主戦論を主張して慎重派の元老に反対、日露戦争中の1905年1月30日に副島は死去する。

最後にその政治・社会思想について。

普通選挙と一院制を主張。

「下等社会・上等社会の名称あるべからず」との言葉を残している。

しかし個人的には、貴族・華族的な階層性を排した君主制である「一君万民」という考え方は危険ではないかと思える。

「王室の尊栄を侵す者は用捨なし」とも言っているが、平等な民衆の中で君主だけが孤立して存在しているような社会は不安定で、君主制の存立基盤自体を掘り崩し、ついには愚かしい「民意」によって独裁制を出現させてしまう気がしてならない。

階級社会に不可避的に伴う様々な不条理を眼前に見れば、「一人の君主の前での絶対的平等」という理念に魅力があるのは認めるにしても。

また樽井藤吉の東洋社会党(1882年結成、同年結社禁止)を支援、「古の天子は社会党なり借地党の主義なり」として、復古的な王土王民論の立場から小作農保護を訴えたという。

(この東洋社会党というのは教科書的には全く無名で、私も本書で初めて知った。)

 

 

 

ごく普通。

是非にと薦めるわけではないが、それなりに役立つ。

副島自身は影響力のある公職に就いた時期が短いが、少し変わった視点からの明治史として読める。

本書に限らず、著名人物の伝記を、年代と重要史実をチェックしながら、多数読み込んでいけば徐々に実力がついてくると思います。

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