万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年11月30日

大澤武男 『ヒトラーの側近たち』 (ちくま新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 01:55

2011年11月刊。

『ユダヤ人とドイツ』『ヒトラーとユダヤ人』(講談社現代新書)などの著書あり。

冒頭、ヒトラーの生い立ちなどは省略して、いきなり第一次大戦従軍時の描写から入る。

表題の側近たちのうち、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーなどを除き、あまり知られていない人名をメモする。

ヘルマン・エッサー(1900~81年)=最初期の従者的側近。

ディートリヒ・エッカルト(1868~1923年)=父親的存在の右翼思想家。

エルンスト・ハンフシュテングル(1887~1975年)=上層階級との人脈づくりに貢献した協力者、のちにヒトラーと対立し1937年イギリスに亡命。

女性では、パトロン的存在のベッヒシュタイン夫人とブリュックマン夫人、リヒャルト・ワーグナー未亡人コージマ、長男ジークフリートと結婚していたヴィニフレットなど。

人種主義思想家H・S・チェンバレンはワーグナーの女婿、元イギリス人のコージマはジークフリート死後ナチに急接近する。

フォン・エップ=中将の右翼軍人、ナチに入党、その最初期の国会議員になる。

ヴィルヘルム・フリック=ヒトラー内閣成立時の内相。無任所相兼プロイセン内相のゲーリングと並んで数少ないナチ閣僚。授権法など法的正当性の外面的形式的維持に努めるが、のちの完全なテロ支配に抵抗できず、法務官僚は後退する。

ナチ政権初期の旧体制出身協力者として、国防相のブロムベルクと外相のノイラートはチェックしておく。

経済政策成功に貢献したシャハトも(本書91ページに「自由民主党[DDP]創立者の一人と書かれているが、ドイツ民主党では? 自由民主党だと戦後の政党になってしまう)。

帝国銀行総裁と経済相を兼任。

36年四ヵ年計画に反対し37年経済相、39年総裁辞任、1944年7月20日事件(ヒトラー暗殺未遂)で逮捕、1970年没。

1938年ズデーテン危機に際して、保守派のクーデタが計画され、陸軍参謀総長ベック、後任のハルダー、陸軍最高司令官ブラウヒッチュ、外務次官ヴァイツゼッカー(戦後大統領の父)が加わるが、ミュンヘン会談後腰砕けになる。

とは言え、カイテル、ヨードルらの盲従にも関わらず、軍から反ヒトラーの動きが生まれた。

ナチの恐るべき所業としてホロコーストのほかに、身体・精神障害者と遺伝病保持者に対する安楽死政策が挙げられるが、それを39年戦時突入後実行したのはボウラー総統官房長官。

41年8月ミュンスター司教ジョン・ガーレンがこれに勇気ある糾弾を加え、停止させる。

「ユダヤ人問題の最終解決」としての大量虐殺の実行者としてヒムラー→ハイドリヒ→アイヒマンの系統は憶えておくべき。

42年6月のハイドリヒ暗殺後の後任はカルテンブルンナー。

シュペー(ア)=軍需相。統制経済組織者としては極めて有能で、41年生産の戦闘機9540機、戦車2900台を44年には35350機と17300台に高めたが、燃料の不足からその効果も減殺され敗北に繋がる。

経済恐慌で国民の不満が異常に高まり、最も大衆に受け入れられ易いデマゴギーを駆使できた極右過激派が進出。

特に目立つのが若年層の暴走。

自身の経験や歴史を参照する姿勢に乏しく、易々とナチの宣伝活動の餌食となる。

またナチス自体も、政権獲得時の側近たちの平均年齢が40歳を少し上回る程度だった。

 

 

山ほどあるナチ、ヒトラー関連本の一つで、ありきたりの著作だろうと全く期待していなかったが、そこそこ良かった。

教科書レベルの次に読むのならコンパクトで適切。

『ヒトラーの共犯者』などを読む前の準備としてはいいかも。

ただし、あとがきで東日本大震災以後の日本について、ドイツは迅速な政策決定を行っているとしつつ、日本の政治家と官僚の無能をかなり一方的に非難しているのが気になる。

確かに見方によってはそういう面もあると言えるんでしょうが、よりによってナチについての本で、群衆心理に基く「決断主義」を煽りかねない文章を書くのはどうかと・・・・・・。

それ以外では特に違和感無し。

ごく普通の出来の入門的啓蒙書です。

2015年11月22日

マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか  市場主義の限界』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 00:23

1980年代以降、西側世界を制覇した市場主義を批判した本。

非市場的規範が律してきた公共的部門である教育・医療・治安・司法・安全保障・環境政策に入り込み、さまざまな問題を引き起こす。

これに反対する二つの理由がある。

一つは不平等。

貧しい人々が不当に不利な扱いを受ける、というもの。

もう一つは腐敗。

たとえ条件が平等でも、それらの分野の商品化自体が社会的善を腐敗させてしまう、とするもの。

結果、現代社会は、市場経済を持つ状態から市場社会である状態に陥ってしまった。

市場の論理も、独特のやり方で公共生活から道徳的議論を排除する。市場の魅力の一つは、市場が満たす嗜好について判断を下さないことだ。ある善の評価の方法がほかの方法よりも高等かどうか、あるいは価値があるかどうかを問わないのだ。誰かがセックスや腎臓を金で買いたいと思い、同意する成人が売りたいと思えば、経済学者が問うことはただ一つ、「いくらで?」だ。市場は駄目を出さない。

市場は立派な嗜好と低俗な嗜好を区別しない。

取引をする両者は、交換するものにどれくらいの価値を置くかをみずから決めるのだ。

価値判断を避けるこうした姿勢は、市場の論理の中心にあって、その魅力の大半を説明する。しかし、市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失われ、こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる羽目になったのだ。

人生のあらゆる問題を個々人の物資的利害と効用に還元する経済学的アプローチとそれに基くインセンティブ政策乱発の欠陥を著者は指摘。

経済学は価値判断をしない学問であり、道徳哲学とも政治哲学とも無関係だという考え方は、つねに疑問視されてきた。だが、経済学が思い上がった野望に燃えるこんにち、この主張を擁護するのはとりわけ難しくなっている。市場の範囲が生活の非市場的領域に広がれば広がるほど、市場はますます道徳的問題にかかわるようになるのだ。

経済効率について考えてみよう。それを気にするのはなぜだろうか。おそらく、社会的効用を最大化するためだろう。この場合、社会的効用とは人々の選好の総和として理解されている。マンキューが説明するように、資源の効率的な分配は社会のあらゆる構成員の経済的福祉を最大化する。では、社会的効用を最大化するのはなぜだろうか。ほとんどの経済学者はこの問題を無視するか、さもなくば何らかの形の功利主義的な道徳哲学に頼る。

だが、功利主義はいくつかのおなじみの反論にさらされる。

市場の論理に最もかかわりのある反論は、選好の道徳的価値にかかわらず、それを最大限満たすべきだとする理由を問う。オペラが好きな人もいれば、闘犬や泥んこレスリングが好きな人もいる場合、われわれは本当に価値判断を避け、功利計算においてこれらの選好を同列に扱わねばならないのだろうか。

市場の論理が、たとえば自動車、トースター、薄型テレビといった有形財にかかわるとき、この反論は大きな意味を持たない。商品の価値は消費者の好みの問題にすぎないと想定するのは、理にかなっている。だが、セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護などに市場の論理が応用される場合、あらゆる人の選好が同じ価値を持つと想定するのが妥当とは言いにくい。道徳的負荷のあるこうした領域では、善を評価するある方法のほうが、別の方法より高級で適切かもしれない。

もしそうだとすれば、われわれが選好の道徳的価値を追求せずに、それを見境なく満たすべきだとする理由ははっきりしなくなる(子供に読書の楽しみを教えたいという願望と、至近距離でセイウチを撃ちたいという隣人の願望を、本当に同じように扱うべきだろうか)。

道徳的問題の領域に市場原理を導入することによって、社会的善が取引の中で腐敗する。

経済学者は利他心や連帯心などの美徳を「節約」して市場では解決できない問題に当てた方が良いなどと、利いた風な口をきくが、このアナロジー(類推)は著者によれば不適切である。

それらの美徳は使うと減るようなものではなく、鍛えられて強くなる筋肉のようなもので、使わなければ退化するはずだ、と。

 

 

具体的事例が多く、それが内容の中心。

それゆえ、読みやすく面白いと一応は言える。

そこで描かれるアメリカ社会の実態はもう狂ってるとしか言い様がない。

そして日本もこのような国になりつつある、というかほぼなってしまったことにぞっとする。

自由と市場の名において、最低最悪の醜い利己主義を正当化し、恬として恥じない経済学者と新興起業家という人種に、心底からの嫌悪と軽蔑を感じる。

そしてそれを矯正するどころか、迎合して「左翼」を批判した気になっている自称「保守」「右派」には反吐が出る思いだし、もう「(国民を道連れにせず自分達だけ)地獄に落ちろ」と言いたい気分だ。

 

 

『これからの正義の話をしよう』『公共哲学』に比べると、テーマが限られており、やや食い足りないが、それでも良質な読み物であることに変わりはないでしょう。

2015年11月12日

三宅昭良 『アメリカン・ファシズム  ロングとローズヴェルト』 (講談社選書メチエ)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 15:47

アメリカにファシズムはあったのか。この問いに対する答えは、もちろん、〈ファシズム〉の定義いかんによる。

たとえば、イタリア・ファシズムに見られた「マルクス主義と国民主義の融合体、哲学的には意志論、経済的には開発主義のイデオロギー」と定義するなら、アメリカには〈ファシズム〉のあろうはずもなくなる。また、もう少し広く、イタリアとドイツ、それに日本を含む、三者の共通項をくくり出し、とりわけその膨張主義に焦点をあてる場合にも、アメリカには〈ファシズム〉はなかったことになる。

しかし、右の定義は、いずれも〈ファシズム〉を暗黙のうちに〈民主主義〉との対立概念として設定し、そのことによって問いそのものを無効にしようとするものである。つまり、その前提にたつかぎり、アメリカは〈民主主義〉の体現者として、あらかじめ免罪されているのだ。ここには先の世界大戦を連合国側が〈民主主義〉対〈ファシズム〉の戦争と位置づけたことが反映しているように思われる。

彼らは福祉国家と人権思想を戦争目的にかかげ、勧善懲悪の二元論的構図を打ち出した。そしてこの対立の図式は、戦後世界に受け継がれた。すなわち、西と東は互いに相手を〈ファシズム〉と重ねあわせて憎悪したのだった。その意味で、これまでの〈ファシズム〉研究は、個々の研究の意図がどうあれ、戦中と戦後の〈民主主義〉の連続性と一貫性を保証し、その正当性を確認する場として機能してきた、とまずは判断してよいだろう。しかし、はたして〈ファシズム〉と〈民主主義〉はそれほどにも鋭角的に対立するものなのだろうか。

たとえば、ヒトラーは議会制民主主義の手続きを通じて、つまり民主主義のルールにのっとって政権を掌握した。ムッソリーニはたしかにローマ進軍という示威行動で国王をつき動かしたが、ファシスト党はすでにイタリア国民のあいだに広く深く根をひろげ、数々の経済政策をつうじて民衆の支持を磐石のものにしていた。一方、〈民主主義〉を標榜する英米も、戦前戦中を通じ、戦術的政策決定に際し、帝国主義的植民地主義的利害を民主主義の原理に優先させた。民間人を標的にした戦略爆撃はその最たるものであり、戦争終結をめぐる連合国諸国間の駆け引きの直中で落とされた原爆は、その陰惨すぎる最悪の象徴である。

・・・・・敵を外部につくる態度ほど〈ファシズム〉的なものはない。その点でいえば、〈ファシズム〉を外部化する戦中の〈民主主義〉もまた、すぐれて〈ファシズム〉的だったのである。〈ファシズム〉は〈民主主義〉の外部などでは決してない。むしろそれは内部の問題なのである。別言すれば、それは〈民主主義〉と民衆政治の問題なのである。そしてそのように考えるならば、アメリカにも〈ファシズム〉はたしかにあったのである。

・・・・・民主主義とは、民衆が代議制と選挙と多数決によって自らの意思を〈代表/表象(リプレゼント)>する制度にほかならない。しかし、うちなる<ファシズム>が作動しはじめると、それは民衆のなかに希薄化されていた権力を機構の頂点にむけて収奪する装置にいとも簡単に化ける。しかも民主制度は自己をかぎりなく抽象化しているので、小さくゆっくり暴走が始まると、それをチェックし制御する機構がなし崩しにされてしまうのである。

 

1930年代アメリカにはミニ・ファシストたちが多数存在した。

農場休日連合のミロ・リーノ、ドイツ系アメリカ人連盟のフリッツ・クーン、銀シャツ党のウィリアム・ペリー、タウンゼント運動のフランシス・タウンゼント、社会正義国民同盟のチャールズ・カグリン(カフラン)・・・・・。

そのうちの一人、ルイジアナ州連邦上院議員で「富の共有運動 Share Our Wealth Movement(SOW運動)」の組織者、ヒューイ・ロング[あだ名は『キング・フィッシュ』](1893~1935年)が本書の主人公。

幸い国家の最高権力には達しなかったが、無制限の煽動を許す民主主義社会の性質を逆手に取り、一時は恐るべき脅威となって1930年代のアメリカに立ち現われた。

ルイジアナの自営農の息子に生まれ、大学進学に失敗、無軌道・自堕落な生活を経て、セールスマンになるが第一次大戦で解雇され、それから一念発起して大学入学、猛勉強の末弁護士になる。

ルイジアナ州はメキシコ湾に接する南部、西にテキサス、東はミシシッピ州、ミシシッピ川河口の大都市ニューオリンズを擁す。

元フランス領でカトリック教徒の多い、貧しい州。

ロングは政界に進出、<民衆の組織化>、<既成勢力の打破>、<反=大企業のキャンペーン>で「平民の味方」を演出、有力者を卑語・猥語を多用しながら罵倒。

そうした「わかりやすさ」と親密さのなかに、ヒューイはときおり彼らの理解のおよばない話を少しだけまぜることを忘れないのであった。

という具合に典型的デマゴーグとして巧妙に台頭。

個人的口添えで支持者のトラブルを解決、ロングへの批判に対して「それがどうした、みんな彼のおかげじゃないか。」という感覚を生み出す。

1924年知事選に出馬し落選。

既成勢力と大企業と自身に批判的な新聞を三位一体とする陰謀論を展開。

28年の選挙では知事当選、道路建設・教育・医療・天然ガス供給などの公共事業と福祉行政で民衆の支持を広げるが、反対派への圧迫と独裁的姿勢が徐々に強まる。

ロングを支持した民衆は、自由と権利の喪失に気付かなかったのか?

いや、この言い方は正確ではない。誰がどこで代償を払っているかはわかっているのだが、その代償は物理的なものだと思いこみ、そのことを気にかけぬどころか、むしろ小気味いいことと思っているのだ。そしてもっとも始末の悪いのは、ロングの仕掛けた階級怨嗟にこの男は自分が乗せられていることに気づいていない点である。

つまりかれは無自覚のうちに、おのれの心を支配されているのだ。

自由をないがしろにして経済発展をめざす態度。それをここでは<開発主義>と呼ぼう。ロングの公共事業「福祉」政策は、この<開発主義>に他ならない。かれは、たしかにめざましい経済発展をもたらした。しかしそのいっぽうで人びとから自由と権利を奪った。かれが誇示した成功と速度は、自由よりも経済的利益を優先させてはじめてなし遂げられたのだ。

ファシズムのやっかいなところは、そうした<開発主義>をつねに民衆の合意をとりつけながら押し進めてゆく点にある。しかもその合意が、合理的判断力を持った個人の集合体が、冷静さのなかで積極的意志を働かせた結果では必ずしもないにもかかわらず、「民衆の合意」として機能してしまう点にある。こうして一人の、あるいは少数の権力者の意志が、「民衆の意志」にすりかわって政治の世界をひた走る。

為政者は民衆に「開発」を与え、民衆は為政者に権力を与える。手段が目的と化し、目的が手段と化す。そして人びとは繁栄のかわりに自由を失う。こうして民衆と権力と開発主義は手に手を取って輪舞曲を踊り、ロングはそのにぎやかな舞踏のなかを、独裁化の道を突き進んだのである。

民衆と権力と開発主義の輪舞曲は、既成勢力と大企業のうえに恐怖となって立ち現れた。支配と服従を強いる一方で、従わないもの、逆らうものには徹底した復讐を返すことになる。選挙で、人事で、議会運営と課税政策において、ロングは経済エリートたちに、勝つのは誰か、権力はどこにあるのかを教えてゆく。民主政治の<形式>を守る限り、勝つのは金持ちではなく、多くを束ねたものであり、権力はかれらを魅惑したもののところにあるのだということを。

<民主主義>の形式を遵守しながらその実質を骨抜きにすること。これが<ファシズム>台頭の方法である。そうして民主主義を必至に追い込み、最後の一手で息の根を止める。ドイツのヒトラーもイタリアのムッソリーニも、そうやって“合法的に”独裁制を敷き、当の議会制を無力化した。そしてこの点においてキングフィッシュは、かれらヨーロッパのファシストとすこしも変わりなかったのである。

1930年連邦上院議員選に勝利(32年1月まで知事兼任)、31年民主党全米委員会ルイジアナ代表に就任。

(当時、南北戦争以来南部では民主党が独壇場。ニクソン・レーガン時代まで共和党勢力は極小。現在では完全に逆転している。)

不正選挙で後任知事もロング派より就任。

ロングに攻撃された既成勢力の側にも多くの問題はあったが、ロングの手法は議会主義そのものを掘り崩す不正・無法に満ちたものだった。

・・・・・もっとも忘れてはならないのは、民衆はこのような<ファシズム>への道を正当な道と見なし、ロングとともに歩いたことである。<ファシズム>が真に恐ろしいのは、こうして社会の弱点につけ込み、弱いものに「援助」を降り注ぎ、じつは誰かの自由と権利を踏みにじっておきながら、「正義」の仮面をかぶって擡頭する点である。

人びとは見えない支配に踊らされ、その装いに熱狂し、その成果をたたえ、その速度を賛美する。こうして民衆を組織しながら、<ファシズム>は服従と隷属の制度を拡充して行くのだ。

32年6月、ロング自身の宣伝目的でルーズヴェルトの大統領候補指名を支持、以後機会主義的にFDR(フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト)を支持したり罵倒したりする。

内務長官ハロルド・イッキーズ、財務長官ヘンリ・モーゲンソーらの指示で、連邦職をめぐる抗争で反ロング派とFDR派が同盟を組み、ロング派と泥仕合を演じ同じレベルに堕ちる。

その中で、公共事業・社会的救済事業は停滞し、行政は政治化する傾向を見せる。

行政が権力をめぐる暗闘の場となり、住民への奉仕をおきざりにするとき、人びとのあいだにはいっそうの政治不信が広がり、無気力と挫折と絶望が蔓延する。

<民主主義>が<ファシズム>に対抗するには、自ら<ファシズム>に身を落とす以外にない。ファシズムのもうひとつの恐ろしさはこの一点にある。だが、「身を落とす」には、二つのやり方がある。一つはそれを自覚的に、苦渋の選択として受け入れる態度である。そして戦いのあと、そのことを些かもごまかさず、「身を落とした」ことの責任をどこまでも引き受けることである。ではもう一つの態度は何か。<ファシズム>に誘発されて、われ知らずに<ファシズム>に身をやつしてしまう態度である。

同じことをするにも両者のあいだには千里の径庭がある。なぜなら、前者はつねに自己を批判的に見る視点が確保されているが、後者はつねに<聖戦のレトリック>で自己を正当化してはばからないからである。そして、われわれがどちらの道を選ぶかは、まさに<民主主義>と民衆政治の「内部の問題」として発生するのである。

33年3月ごろより、極端な累進課税と相続制限を唱えるSOW運動開始。

当時の最新メディアであるラジオを利用した宣伝。

34年運動は本格化、“Every Man a King”と題された煽動演説を行う。

SOW協会は公称700万人以上で、誇張はあったとしても極めて多数の国民を引き寄せていたことは間違いない。

最低資産保証、労働時間短縮、教育拡充、年金・恩給支給を約束し、「ニュー・ディールとウォール街の結託」を批判。

そのレトリックは通俗の極みで、数字と学者と新聞名の羅列、聴衆は内容をいちいち吟味する時間も方法もないまま、ロングの主張に正確な裏づけがあるという「印象」だけを得て信奉者になってしまう。

その表面上のイメージとは異なり、ロング・プランは反資本ではなく親資本の面もあり(実際に権力を握ればこの種の低劣な人間は大資本との妥協に走るだろう)、社会の拝金主義を否定するものというより恣意的支配欲の現われとも言うべき。

実現可能性はゼロで、100万ドル以上の資産を一律に没収することにしても、全家庭に分配してわずか400ドルという試算。

実効性が無いことを知りつつ、それを大衆動員に利用していた。

ロングの目論見は、36年予備選でFDRを揺さぶり、民主党を離党し第三党を結成、共和党に勝利させ、自身の待望論を高め、40年大統領選で民主党からの指名とホワイトハウスの座を射止めるというもの。

かれは最高権力の椅子に座るために「喜んでもう四年間、国民に苦しみを味わってもらう気」でいた。

SOW運動を意図的に不公平に適用して不平不満を煽り、自暴自棄のエネルギーを自陣に引き寄せ、資産調査を恣意的に活用し、反対派への弾圧に利用。

恐怖に駆られた富者もロングに迎合、ラジオによるプロパガンダと世論操作をますます深化させる。

だれもみな他人の痛みがわからなくなり、今日と明日の生活を救われるために富者の自由と権利をないがしろにして平気になるであろう。じつは自分の心を進んで放棄していることに気づかずにである。そうなればもう、見境のつかなくなったかれらの声が、<見えない支配>に狂わされたかれらの声が、「民衆の声」として「多数者の声」として「声なき民の声」として、闇につつまれたアメリカの空を覆い尽くすにちがいないのである。

むしろ、われわれはこう考えなければならない。すなわち、環境と政策と悪魔的手腕がそろえば、民衆はいかようにも暴走する可能性をひめているのである。そしてそのことにアメリカもドイツもイタリアもない、と。・・・・・「SOWプラン」は分配主義の経済改革を装っているが、その本質は敵の外部化による、<大衆動員>と<独裁化>の政治装置であった。これはじつに恐るべき政治体制にアメリカを導く可能性をひめていたのである。

ここに描いた仮説は、あるいは荒唐無稽と映るかもしれない。しかしロングが国政の場でローズヴェルトと渡りあう一方で、ルイジアナで敷いた完全独裁制と照らし合わせれば、それは<あるいは起りえたかもしれないひとつの未来>として、われわれにその再考をうながすべく迫ってくるにちがいないのである。

陰謀理論すれすれの階級怨嗟煽動が何の制限も受けずに横行し、少数者の権利犠牲が正当視され、結果すべての人びとの権利が否定される。

常に「敵」を造り出す手法、その「敵」と戦う醜いデマゴーグがメディア上では「英雄」とされる倒錯。

「自由と利益のバーター」としか言いようのない事態が進行。

ルイジアナでは、新聞の利益にではなく、総売上額に重税を課す反新聞法制定。

キングフィッシュは、新聞には「うそ」しかなく、自分の側にあるのは「真実」のみと主張する。つまり健全な政争の場ともなりえたところを「うそ」と「真実」の<聖戦のレトリック>で塗りかためたのである。

いかなる限定も条件も設けずに相手を全面的に悪であると糾弾すること。自派が百パーセント正しいと宣言し、たたかいの構図を正邪のレトリックで粉飾すること。それは<ファシズム>の論理である。あるいは<ファシズムのレトリック>と言いかえてもよい。なぜなら<ファシズム>にあっては、論理とレトリックは同一のものだからである。「うそ」を根拠に課税しようとする「新聞税」は、こうして<ファシズム>のレトリック(あるいは論理)をふりまわすキングフィッシュの手によって、州議会に送りこまれることになる。

反新聞法は審議もほとんどなく可決、司法権すら手中に入れ、州警察とは別の実力執行機関を私兵化。

州レベルではもはや独裁体制が完成していたようなものだ。

そして真に恐怖すべきことは、全国の有力新聞がこの事件をとりあげ、反言論統制のアンチ・ロング・キャンペーンをはったにもかかわらず、SOWの人気は少しも衰えなかったという事実である。つまりそれは、ルイジアナの言論の自由よりも、あるいは新聞に意見を発表するほどの人たちの自由よりも、自分が現在の困窮から救われることを優先させたということである。自分を救ってくれる人が、それ以外のことで何をしようと「それがどうした」のひと言で片付けたのである。美しい明日が約束されるなら、見知らぬ他人の発言の自由など、かれらの関知するところではなかったのだ。

かれほど自己イメージの演出にたけた政治家もまれであろう。大切なのは真実ではなく、どう見えるか、どう見せるかである。そうかれは信じていた。そして民衆はこの<見える>ものにこそつき従うのだということを知りつくしていたのである。かれがあれほど新聞の「うそ」にこだわったのも、自分が本当はうそをついているからであり、新聞の「うそ」は己れの演出努力を台無しにするからだったにちがいない。

自身は連邦議員で権限もないのに堂々と州議会に出席。

反対派議員が何を言っても口汚いジョークの餌食にするか無視。

正常な言論討議など成り立たず、反対派は無力感を持って沈黙するほかなかった。

審議の「能率化」によって、ある委員会では10分間に七つの法案が採決された。

あらゆる利権を横取りし、暗黒界とも影で協力し、人事権を恣意的に拡張。

ニュースを含むすべての映画上映を禁止し、ジャーナリズムを完全に抑えつける。

ルーズヴェルト政権はルイジアナ州への軍事介入すら検討した。

しかし、その独裁に突如終止符が打たれる。

35年9月ロングが青年医師に狙撃され暗殺。

犯人も射殺され、陰謀説も囁かれたが、その根拠は薄い。

犯人の動機として、ロング独裁への反感の他、ロングの政敵であった、妻の家族に対し、ロングが人種的中傷を行っていたことがある。

南部で深刻な人種問題に対するロングの対応は典型的二枚舌で、KKKへ迎合すると思えば、それを黒人記者に釈明するという具合。

ロングに人種偏見が薄いというより、白人・黒人双方に支配欲を発揮したというだけ。

暗殺者の側にも「黒人の血が混じっている」とのロング発言に反発したような偏見があったが、結局ロングの自業自得とも言える。

死後、SOW運動は内部分裂し、腐敗摘発の対象となりロング派は崩壊、残存勢力はFDR政権と妥協・和解、ただロングへの郷愁だけは残る。

「ロング神話」とは、たしかにロングの正当化であったが、それ以上に民衆による自己正当化の物語であった。ロングは正しく、かれを支持し選択した自分たちもまた正しかったというわけである。・・・・・民衆は贖罪のエレメントを必要としていた。ルイジアナ・スキャンダルはそこに格好の素材を提供した。・・・・・民衆はみごとに子分たちを叩きのめし、ロングを聖化し、自己を正当化した。そして自分たちの過ちを認めることだけはしなかった。

 

 

<笑い>あるいは<ユーモア>ほどファシズムから遠いものはない。多くの人はそう考えるだろう。

たしかにヒトラーやムッソリーニに<笑い>はない。敵を嘲笑したり、不敵な笑みを漏らすことはあっても、かれらはいずれも人から笑われることを極度に恐れ、嫌った。当然であろう。かれらは強烈なカリスマ性を身にまとい、自己を人びとの崇拝の対象に高めるべく努めたのだから。そのような独裁者たちにとって、<笑い>はかれらの虚飾と努力をうち砕く破壊的要素でしかなかった。ファシズムに対抗する手段として<笑い>の戦略化が提唱されるゆえんもここにある。

ところがヒューイ・ロングには<笑い>という対抗手段が通用しない。なぜならかれはユーモアと笑いを民衆の動員と組織化の方法に組み込んでいたからである。ロングは笑われることを少しも恐れなかった。それどころか、みずから道化的パフォーマンスを買ってでて、笑われることをつうじて人びとの心に浸透し、その笑いを勝利と権力と支配に結びつけていったのである。その意味で、かれはたいへん特異なファシストであった。

・・・・・われわれ日本人はほんとうに三〇年代のルイジアナ政治を笑えるか・・・・・われわれはどのくらい腐敗政治に寛容であるか。どれほどの茶番が赦されているか。われわれは政治家を尊敬しているか。尊敬されない政治家が当選するのはなぜなのか。

笑ってばかりいられない理由はほかにもある。ファシズムは豊かな国が貧しくなったときに出来する(ほんとうに豊かでなくともよい。問題なのは、貧しくなったときに豊かだったと錯覚することである)。では日本の未来はどうであろうか。われわれは物心両面でますます豊かで恵まれた社会を築いてゆけるだろうか。それとも荒廃した心と政治的未成熟はそのままに、いまの物質的繁栄を失ってゆくのだろうか。残念ながら現在のところ、多くの人は後者を予想するように思われる。

日本が貧しくなったとき、緊急に解決すべき問題が山のように積み上げられるだろう。それらを解決するためには強力な指導力が必要になるにちがいない。大切なのは、正確で規則に従ってはいるが実効に乏しいのろまな手続きではなく、強引でもなんでも速度にすぐれた達成であるからだ。しかしそれは一方でファシズムの発芽を許す格好の土壌を形成する。そのとき、目の前に<ロング>と<ローズヴェルト>がいたとして、果たしてわれわれはどちらを選択するのだろうか。うまく後者を選択したとして、その<ローズヴェルト>が堕落しかけたとき、冷静にそれをチェックできるだろうか。

時折、戦前ファシズムの復活を憂慮する意見を聞くが、筆者はその心配はないと考える。

そういう事態が訪れたときは、われわれはよほどの阿呆だったと言うしかないだろう。

むしろ気をつけなければならないのは、もっと洗練され、ファシズム的側面を隠したファシズム、つまり仮面をかぶったファシズムである。それはどんな仮面だろうか。正確な予想は難しい。しかしロングの<笑う/われるファシズム>、<陽気なファシズム>は、笑いとパターナリズムが恐怖政治を隠すという点で、ヨーロッパ型ファシズムにはない、ひとつの練習問題を提供してくれるはずである。

 

本書が出た1997年の時点で、こう書いた筆者の慧眼はただ事ではない。

「既得権益」を攻撃し、様々な社会保障制度や労働規制の廃絶を目論み、新自由主義的市場原理主義的「改革」をどんなに深刻で致命的な弊害や副作用があろうと強行し、最新メディアであるネットという個人攻撃の凶器を用い、既存メディアや反対する人々を誹謗中傷と罵詈雑言という言論の暴力と卑怯・卑劣な一方的印象操作で沈黙させ、一部資本の傀儡に過ぎないという自分の正体はひた隠す最低最悪の「右派」的デマゴーグ政治家や「論客」が跋扈する現在の日本を見ると、背筋が凍る著作。

そのような醜悪・卑劣な連中がネットを中心に大量に氾濫させている憎悪表現によって、我々は「心を支配され」ているにも関わらず、それに無自覚で何の抵抗もできずにいる。

もう「笑いのファシズム」はこの国の支配を完成させつつある。

 

 

アメリカ史のみならず、より広い視野からも必読の文献。

強く薦める。

2015年11月9日

白石昌也 『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子  ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』 (彩流社)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 16:04

「15歳からの『伝記で知るアジアの近現代史』シリーズ」の1だそうです。

シリーズ名通り、平易で読み易い文体。

副題のうち、ファン・ボイ・チャウは高校世界史で必ず出てくる人名だが、クオン・デは範囲外。

1867年ゲアン省(フエとハノイの中間)でファン・ボイ・チャウは生まれる。

儒学生として科挙・郷試に合格、王族のクオン・デと出会う。

阮朝越南の始祖阮福映(嘉隆帝)の長子は早逝し、2代目ミンマン(明命帝)は第四子。

長子の系統に連なるのがクオン・デ。

当時、ヴェトナム南部のコーチシナはフランス直轄領、中部のアンナンは保護国で植民地支配を受けながら一応フエに朝廷は存続している(その後、ノートに「北部トンキンは中間」と書いてあるのだが、これをどういう意味で自分が書いたのか思い出せない)。

1905年ファン・ボイ・チャウは出国、中国で黒旗軍の劉永福と会見した後、日本に入国、亡命中の梁啓超と会い、『ヴェトナム亡国史』を執筆、東遊(ドンズー)運動を始める。

憲政本党の大隈重信、犬養毅の支持を得て、陸軍振武学校(日清両国の学生、官費留学生向け)や東京同文書院(東亜同文会による設立、上海には東亜同文書院もあり)にヴェトナム人留学生を送り込む。

独立に向けた組織としては、ヴェトナム維新会を設立。

立憲君主制を掲げ、会主にクオン・デを戴く。

主に漢文、一部に喃(ノム)文字とクォクグー(国語)と呼ばれたアルファベットを用いた宣伝文書を作成。

独立運動における、これとは別の流れとして、ファン・ボイ・チャウの論敵ファン・チュー・チンがいる。

他の同志の名前は不要だが、このファン・チュー・チンだけは憶えましょうか。

ファン・チュー・チンは民主共和制を志向、具体的活動では漸進的合法路線を採る。

1907年チュー・チンはハノイに東京義塾を設立(「東京」=ドンキン=ハノイ。ヴェトナム北部の地域名トンキンはフランス人が名付けたもので、ドンキンと語源は同じ)。

しかし同1907年には日仏協約が結ばれ、東遊運動は蹉跌(同年は日露協約、英露協商も結ばれ、第一次大戦に向けた外交陣営が固まる年となる。「協約」と「協商」の名称もチェック)。

ファン・ボイ・チャウは中国保皇派だけでなく、革命派とも接触、孫文とも会見するが、運動上の同意には至らず。

また、幸徳秋水、大杉栄、堺利彦ら社会主義者とヴェトナム・インド・朝鮮・フィリピンの独立運動家が1907年「亜州和親会」という組織を結成したと書かれているが、これは全く知らない名だ(ただしこの頃のボイ・チャウはあくまで立憲君主主義者)。

1908年ヴェトナム国内での叛乱が鎮圧、弾圧が加えられ、東遊運動は終焉、ボイ・チャウは中国やタイに滞在。

1911年辛亥革命勃発、1912年ヴェトナム光復会を結成したボイ・チャウはここで共和制論者になる。

光復会会長はクオン・デだが、両者に溝が出来始める。

孫文・黄興らとの会談不調、ヴェトナムでの蜂起も失敗、13年反袁世凱の第二革命が失敗すると、14年ボイ・チャウは広州で逮捕される。

だが段祺瑞がなぜか保護してくれて処刑されず、15年第三革命を経て17年出獄。

第一次大戦中だが、日本も中国もフランスと同じ陣営のため、独立の好機とはならず。

1924年ヴェトナム国民党を結成するが、翌25年上海で逮捕され、その後フエで1940年に死去するまで15年におよぶ軟禁生活を強いられる。

一方、ファン・チュー・チンは1908年に流刑、11年恩赦でフランスに行き、25年帰国、26年死去している。

このように独立運動が展望を見出せないうちに、民族運動の主導権は1930年ホー・チミンが結成したインドシナ共産党に徐々に握られていく。

クオン・デは日本に滞在し、頭山満・大川周明・松井岩根らアジア主義者と交流、満州国の溥儀即位に心を動かされる。

1939年日中戦争中の上海でヴェトナム復国同盟会を結成、立憲君主制を主張する組織で、クオン・デは委員長に就任。

1940年9月北部仏印進駐で日本軍がヴェトナム入り、この年の10月にボイ・チャウは死去している。

41年7月には南部仏印にも進駐、しかしフランス本国で親枢軸のヴィシー政権が存続していたので、43年11月の大東亜会議にはインドシナ代表の姿は無かった。

大戦中はゴ・ディン・ディエムとカオダイ教、ホアハオ教など新興宗教勢力がクオン・デに接近。

ゴ・ディン・ディエムは30年代にフエ朝廷に仕えていたが、そこを追われ、バオダイ帝とは対立関係。

日本軍はフランス当局からゴを保護、独立時にはクオン・デ皇帝、ゴ首班の構想もあった。

1944年8月ド・ゴールがパリ入城、45年3月日本軍は仏当局を制圧、形式的にはインドシナ三国が独立。

しかしバオダイ帝をクオン・デに交替させることは実現せず。

日本敗戦後、ヴェトミンが蜂起し、ヴェトナム民主共和国成立、46年からインドシナ戦争開始。

49年南部にヴェトナム国成立、元首(皇帝ではない)バオダイ。

クオン・デはホー・チミン、バオダイ両者に帰国嘆願の手紙を送るが拒否され、51年日本で死去。

54年ジュネーヴ協定でインドシナ戦争終戦、その後ヴェトナム共和国大統領ゴ・ディン・ディエム治下、クオン・デの遺骨はフエに戻った。

 

 

読み易い。

あまり予備知識の無い分野では、これくらいの記述がちょうどいい。

まあまあの作品でしょう。

2015年11月6日

福田紀一 『おやじの国史とむすこの日本史』 (中公文庫)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 07:15

1977年中公新書で刊行、2012年文庫化。

1979年第一回サントリー学芸賞受賞。

戦後30年を経た時点での歴史教育をめぐる随想。

戦前の「国史」教育では、皇国史観と抵触する、崇峻天皇弑逆や聖徳太子の豪族対策などは教えられていなかった。

そういえば別の本でも、戦前の教科書では壬申の乱が載っていなかったと読んで驚いた記憶がある。

ただ、高坂正堯氏がどこかで、戦前も教育に制約はあっても歴史研究は比較的自由だった、歴史は制限が無ければ無条件で真実が見えてくるというものではない、と書いており、それに共感したのを覚えているが、やはり問題はあったんでしょう。

北条氏や足利氏を頭から否定的に評価するなど。

なお、1970年代の受験日本史についての章で、当時の難問奇問が紹介されているが、これがすごい。

司馬江漢の銅版画代表作は何か?(不忍池図[しのばずのいけず])、東大寺大仏の造仏技術者は誰か?(国中連公麻呂[くになかのむらじきみまろ])、民法典論争で穂積八束と対立したのは誰か?(梅謙次郎)とか、正気とは思えない例がどんどん出てくる。

一方、こうしたクイズ式問題への反動で、論文形式問題への信仰も批判している。

あと戦争体験と歴史、郷土史(地域史)の重要性などが内容。

気軽に読めてあっという間に読了できる。

図書館にあったら借りてみて下さい。

2015年11月2日

安岡昭男 『副島種臣』 (吉川弘文館 人物叢書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:46

読み方は「そえじま たねおみ」。

髭面のなかなか迫力のある写真が巻頭に掲げられている。

征韓論政変で西郷隆盛・板垣退助と共に下野した人物として名前はそこそこ知られているが、しかし実際何をした人物なのかと問われれば言葉に詰まる人も多いでしょう。

副島は明治初期に外務卿を務めた。

他に明治の外務卿・外務大臣は、沢宣嘉(のぶよし)、岩倉具視、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董(ただす)、内田康哉。

条約改正交渉で名前を知っている人名も多いです。

 

 

1828年佐賀藩士の枝吉家に生まれ、藩校弘道館に学ぶ。

大木喬任(たかとう)、江藤新平、大隈重信、久米邦武らと交友。

京都遊学中にペリー来航を知る。

1859年父の死後、副島家の養子となる。

尊攘論者だが、藩主鍋島直正(閑叟)の勧めで、大隈重信と共に長崎で米国人フルベッキに学ぶ。

維新で長崎奉行職を引き継ぎ、各国と交渉を持つ。

当時列強との間で問題となった、浦上キリシタン弾圧事件には直接関与せず。

佐賀藩は戊辰戦争当初ははっきりした態度を採らなかったが、雄藩の一つとして建設していた近代軍備による貢献で地位向上、薩長土肥と呼ばれる藩閥の一角を占める。

1868年、副島は参与に任命。

藩主直正に呼び捨てにされ、「拙者は最早、朝臣にござる。」と言い返したというエピソードが記されている。

同年「政体書」を副島と福岡孝弟が起草。

形式的三権分立を持つ太政官制で、官吏互選を定めたものだが、大村益次郎は共和政治に類するものとして反対、投票せず。

69年版籍奉還と「職員(しきいん)令」。

これも副島が中心に制定。

右大臣三条実美(左大臣は欠)、大納言岩倉、参議副島、前原一誠、大久保利通、広沢真臣、および各卿(外務卿は沢宣嘉)。

政体書より行政権を強化して中央集権化、集議院は諮問機関に留められる(政体書における議政官下局およびそれが改名した公議所は立法機関)。

同年大村益次郎暗殺。

暗殺犯の処刑一時差し止めの動きがあり、これに副島も同調したような記述がある。

ドイツ医学導入に当っての議論では、米国の如き民主国は日本と相容れず、立憲君主国のドイツに倣うべきと主張、多面性を持った人物として描かれる。

「新律綱領」制定へ協力、ナポレオン法典の翻訳を指示。

71年外務卿に就任(前任者の岩倉はすぐに欧米使節として出発)。

この際、留守政府は大改革を行わないとの約定は不合理だとして、板垣と共に反対している。

外務卿としてまず72年マリア・ルス号事件に遭遇。

ペルー船での清国苦力虐待事件。

神奈川県令だった陸奥は介入に消極的で辞任、後任大江卓、司法卿江藤も消極派だったが、米英公使の支持も得て、苦力は清国へ帰国。

そしてこの事件にも関わらず、73年ペルーと和親貿易航海条約の締結にも成功している。

これより前、71年に伊達宗城・李鴻章間で、日清修好条規を締結。

73年条約批准のため、副島は訪清。

李と会談し、中華思想を難じる。

「中国ヲ以テ自ラ画(かぎ)リ夷狄ヲ外ニスルハ堯舜ノ道ニ非ス」

「夷の中華に於る、常に恥じて勉む、故に強く而して能く興る、中華の夷に於る、自ら矜で怠る、故に弱く而して必ず亡ぶ」

「夷も亦人国なり、君子を以て侍てば則ち君子と為り、蛮夷を以て侍てば則ち蛮夷と為る」

三跪九叩頭礼はマカートニー、アマーストの時代から問題になっていたが、副島は当時在位していた同治帝に、米英仏独露に先んじて跪礼拒否で謁見を得ることに成功。

72年琉球藩を設置、71年琉球人殺害事件の起きた台湾に関心を持ちつつ、当時北方において日露雑居で紛争が頻発していた樺太の全島買収を企図する(米国のアラスカ買収も直近だった)が実現せず、後に75年には樺太・千島交換条約が結ばれる。

征韓論争で下野、74年愛国公党を板垣、後藤象二郎、江藤、由利公正と共に結成(同郷の江藤は同年佐賀の乱で刑死)、民撰議院設立建白書提出。

ただし副島はかつての勤王の志士として、批判対象の「君主専制」の文字を「有司専制」変えさせている。

副島は在清イタリア公使に、英国ですら君民共治などの語は官府では決して用いないと忠告されたこともあったという。

75年大阪会議で木戸と板垣は参議に復帰、元老院・大審院・地方官会議設置、元老院議官には勝海舟(安芳)、山口尚芳(ますか)、河野敏鎌(とがま)、加藤弘之、後藤、由利、福岡、吉井友実、陸奥、鳥尾小弥太、三浦梧楼らが就任するが、副島は辞退。

清国漫遊中に西南戦争。

79年(明治12)年侍講に就任、宮中派の一員となる。

だがこの時期友人の債務保証によって進退窮まる。

副島の窮地を聞いた明治帝が10万円を下賜、一度は感激した副島だが国父は万民を平等に愛すべき、偏愛は君徳を傷つけるとして、天災救恤にと返却、この経緯を聞いた明治帝は副島が死ぬかもしれないと感じ使者を急行させ、副島が割腹しようとしていた寸前に止めさせたという。

こうした潔癖な性格から、明治十四年の政変では黒田清隆を批判。

民間での活動ではアジア主義的団体との関わりが挙げられる。

1880年興亜会(1883年以降亜細亜協会)の会長に一時就任。

(この団体は甲午軍乱、甲申事変での朝鮮改革派の衰退により会員が減少、1900年近衛篤麿の東亜同文会に吸収される。)

1892年には前年結成された東邦協会という別の組織の会頭にもなっており、賛同者には小村寿太郎や加藤高明の名も見える。

91年第一次松方正義内閣が成立するが、大津事件で青木周蔵外相辞任、品川弥二郎内相も徹底した選挙干渉が強い批判を受け辞任、副島が後任内相となるが、数ヵ月後辞任、松方内閣もすぐ崩壊した。

その前、1888年枢密院が設置されると枢密顧問官に就任、黒田内閣下の大隈外相による条約改正交渉に反対している。

外交面では、日清戦争後の清国人労働者排除政策を批判、中国ナショナリズムが日本に向けられた際の危険を警戒、対露政策では主戦論を主張して慎重派の元老に反対、日露戦争中の1905年1月30日に副島は死去する。

最後にその政治・社会思想について。

普通選挙と一院制を主張。

「下等社会・上等社会の名称あるべからず」との言葉を残している。

しかし個人的には、貴族・華族的な階層性を排した君主制である「一君万民」という考え方は危険ではないかと思える。

「王室の尊栄を侵す者は用捨なし」とも言っているが、平等な民衆の中で君主だけが孤立して存在しているような社会は不安定で、君主制の存立基盤自体を掘り崩し、ついには愚かしい「民意」によって独裁制を出現させてしまう気がしてならない。

階級社会に不可避的に伴う様々な不条理を眼前に見れば、「一人の君主の前での絶対的平等」という理念に魅力があるのは認めるにしても。

また樽井藤吉の東洋社会党(1882年結成、同年結社禁止)を支援、「古の天子は社会党なり借地党の主義なり」として、復古的な王土王民論の立場から小作農保護を訴えたという。

(この東洋社会党というのは教科書的には全く無名で、私も本書で初めて知った。)

 

 

 

ごく普通。

是非にと薦めるわけではないが、それなりに役立つ。

副島自身は影響力のある公職に就いた時期が短いが、少し変わった視点からの明治史として読める。

本書に限らず、著名人物の伝記を、年代と重要史実をチェックしながら、多数読み込んでいけば徐々に実力がついてくると思います。

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