万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年10月6日

牧野雅彦 『ロカルノ条約  シュトレーゼマンとヨーロッパの再建』 (中公叢書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:33

『ヴェルサイユ条約』(中公新書)と同じ著者で、その続編的作品。

アメリカ主導のヴェルサイユ体制に対し、独仏共同で生み出したロカルノ体制は、ドーズ案という経済的後ろ盾は依然米国に頼っていたものの、通説では大恐慌襲来後もラインラント進駐まで約十年間存続した。

そのロカルノ前史から崩壊までのヨーロッパ史を、独のシュトレーゼマンと仏のブリアンという二人の政治家を中心に描く。

 

 

アリスティド・ブリアンは1862年ナント生まれ。

戦闘的サンディカリストとして政界入り。

1899年ワルデック・ルソー内閣で、社会主義者がブルジョワ内閣に入閣することの是非をめぐるミルラン問題が論争になり、ジャン・ジョレスは入閣支持、ジュール・ゲードは反対、ブリアンはジョレスを支持。

1905年ブリアン主導で有名な政教分離法制定、仏とヴァチカンとの政教条約破棄、宗教団体への公的補助禁止、しかし修道会の教育からの完全排除と修道院そのものの解散は避けられる。

ブリアンは社会主義から離れつつ、1906年クレマンソー内閣の宗務大臣からのちに法相を務め、1909~11年には早くも首相になっている。

(フランスは社会主義者の穏健化がスムーズに進んだ印象があります。)

1913年ポワンカレ大統領の下でも短期間首相を務め三年兵役法を推進、大戦前夜に「主戦論者」との非難を受ける。

大戦中、1915年10月~17年3月首相在任。

辞任後、「ランケン事件」という対独講和秘密交渉に関わる(ランケンは独外交官の名)。

ブリアンはアルザス・ロレーヌ併合と懲罰的でない額の賠償を要求する代わりにライン左岸には手出しせずとの条件を主張、一方ドイツ側はアルザス・ロレーヌの一部割譲承認を提起したという。

こういう交渉も戦時における狂気に近い好戦世論の前ではあまりに無力だったんでしょう。

首相クレマンソーは、カイヨー元首相を逮捕することまでして講和派を弾圧、1918年大戦に勝利。

20年ポワンカレ大統領任期満了、クレマンソーが出馬、これにブリアンは反対しカトリック勢力の支持も取り付け、クレマンソー当選阻止。

仏第三共和政の大統領は本来名誉職的扱いだが、ここでクレマンソーが勝利していれば、その変質もあり得たと著者は評している。

右派のミルラン「国民ブロック」政府をブリアンも支持。

ミルランが大統領に選出されると、強硬派のポワンカレは英国との協調の点で難があり、ブリアンが21年1月から22年1月首相となったが、ブリアン自身もこの時期は対独強硬派。

賠償問題・ポーランド国境問題で報復的立場を採る。

ワシントン会議に参加するが、米国は海軍軍縮と東アジア問題にのみ集中しヨーロッパへの積極的関与を拒否、英国もライン流域安保には貢献の意思を見せるが中東欧国境維持へのコミットメントは避け、ソヴィエト政権はドイツとラパロ条約を結び孤立からの脱出を図る。

結局、戦後の敵愾心に駆られた対独強硬論は行き詰まりを見せ、ラパロ後首相を辞任したブリアンは違う対応を迫られる。

 

 

グスタフ・シュトレーゼマンは1878年ベルリンのプロテスタント中産階級の家に生まれる。

左派自由主義を奉ずるフリードリヒ・ナウマンの国民社会連盟に一時参加、実業界団体での活動を経て、国民自由党(ビスマルクの統一事業を支持して進歩党から分離)に入党、議員当選。

シュトレーゼマンはあくまで国民的自由主義者で、帝政やプロイセン君主制への忠誠は副次的なものとされている。

戦時には併合主義的態度を採り、敗戦後成立した中道政党、民主党には参加せず。

元国民自由党の基盤から生まれた、ドイツ人民党を結成。

国家人民党と同じく、ワイマール共和国での代表的右派政党だが、反共和制的な国家人民党とは距離を置く。

内閣の順や政権与党の内容などはさすがに煩雑なので以下省略。

通史としては林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)という名著中の名著がありますので、そちらをご覧下さい。

屈辱的講和条約と莫大な賠償支払いを耐え忍ぶ「履行政策」への批判が高まり、エルツベルガーやラーテナウら政治家への極右勢力による暗殺事件も続発。

こうした危機的状況でシュトレーゼマンと人民党は過激団体を取り締まる「共和国保護法」に賛成。

ここで党内重工業グループを率いる大実業家のフーゴー・シュティンネスによる「私の見るところではラーテナウ暗殺は君主制を撃った」という言葉が紹介されているが、極右の暴力が巻き起こした危機感が「理性の上での共和主義者」を増やし、帝政の復活をかえって不可能にしたという力学は非常によく理解できるところだ。

22年1月成立した仏ポワンカレ内閣によって23年1月ルール占領、ワイマール共和国に一大危機が襲来する。

ルールは独仏国境の北部にある、エッセン・ボフム・ドルトムントが中心の地方。

これによる経済麻痺と超インフレ、極右・極左の地方政権成立と半内乱状態が勃発。

なお、この時点ではルールだけでなく、そもそもラインラントが戦勝国によって占領中だったこともチェック。

ここにおいて、8月シュトレーゼマン大連立内閣が成立、「受動的抵抗」を停止、レンテンマルク導入によるインフレ収束、極右・極左勢力の鎮圧を見事に成し遂げる。

なお地方の過激派政権抑圧に当っては「左に厳しく、右に甘い」という傾向が指摘されるが、著者はこれをやむを得ないものとしている。

続いてドーズ案で賠償問題も小康状態に。

ナチスと共産党はドーズ案に反対したが、国家人民党内で賛否が割れ、受諾が決まる。

なお25年には大統領エーベルトが死去、シュトレーゼマンはやや適切さに欠ける行動を採り、ヒンデンブルクが大統領当選。

ワイマール共和国大統領は通常は儀礼的役職だが、憲法上は能動的活動の余地も持っており、ヒンデンブルクが就任したのは結果としてシュトレーゼマンの失敗であるとされている。

とは言え、右派が共和政を受け入れる上でプラスになった面もあり、当初は悪影響は表面化せず。

外交では、ようやく国際協調の機運が盛り上がり、1925年10月ロカルノ条約調印。

英仏独伊ベルギーの地域的安全保障・西方国境現状維持・ラインラント非武装、ドイツと仏・ベルギー・ポーランド・チェコとの個別仲裁条約、仏・ポーランド間、仏・チェコ間の相互援助条約の総称。

ドイツは西方国境の維持を約したが、東方国境については平和的変更の可能性を残した。

このロカルノ条約を成立させた人々としては、英仏独各国の首相ではなく外相を記憶しておく。

シュトレーゼマンとブリアン、そしてイギリスのオースティン・チェンバレン。

英国はボールドウィン保守党内閣時代だったはずだが、仏独の首相パンルヴェとハンス・ルターは本書を読んでもすぐ出てこないし、憶えなくていいでしょう。

でもイタリアの首相の名前はわかりますよね?

 

「英仏独の首相の名前も知らんのに、イタリアの首相を知ってるわけがないだろ」という言葉が聞こえてきますが、いやそんなことないでしょう。

 

皆さん、絶対ご存知のはずです。

 

ほら、あの人物ですよ。

 

 

 

 

そう、ベニト・ムッソリーニです。

 

「ローマ進軍」は1922年、ムッソリーニはすでに政権の座について数年を経ています。

1920年代後半の国際協調の一角で、ムッソリーニのイタリアが堅実にその役割を果たしていたことは記憶する価値がある。

ドイツ内政の安定と国際的地位回復のために奮闘したシュトレーゼマンだが、左派社会民主党は最大の国民政党としての役割を自覚せず旧王侯財産・秘密再軍備・政教分離教育・装甲巡洋艦建造などの問題で彼の足を引っ張り、右派は右派でより露骨な利己的政策を主張、国家人民党では過激派フーゲンベルクが党首に就任、伝統への忠誠ではなく排外的ナショナリズムを優先させナチと共闘、保守派とドイツ全体を破滅の道へと誘い込むことになる。

29年暫定的なドーズ案に替えて提出されたヤング案に右派は反対闘争を展開、シュトレーゼマンは、現状のままに危機が再来すれば中間層の消滅とコンツェルンと隷属的人間が生まれるのみ、そして自分の代わりにヒトラーのような人物が台頭するだろうと反論したが、この警告は空しかった。

シュトレーゼマンは同年10月死去。

大恐慌襲来後、30年からドイツは、中央党出身のブリューニング「大統領内閣」時代に入り、31年苦し紛れにオーストリアとの関税同盟を発表するが、根回しなしの突然の公表に仏は猛反発し、計画は頓挫、独仏協調は崩壊する。

内政ではブリューニングの緊縮財政・デフレ政策が恐慌を深刻化させナチを台頭させたとの批判もあるが、賠償問題解決のため、あえて不況と支払い不能状態を諸外国に示す意図もあった、さらに当時のドイツ財政で積極的なケインズ政策の余地がどれだけあったか疑問だと著者は書いているが、後者はあまり首肯出来ない意見のように感じた。

ブリアンも国際連盟での満州事変処理を最後の仕事にして、32年3月死去。

 

その後の展開について。

35年の英独海軍協定は宥和政策の端緒として評判が悪いが、これはロカルノ諸国が再軍備宣言を行ったドイツを地域的安保の枠組みに引きとめようとする試みと解釈できる、とされている。

一般的に36年ラインラント進駐によってロカルノ条約は破棄されたと見なされるが、これ以後もオーストリアをめぐる対独牽制体制として変容しつつロカルノ体制は機能していたと著者は書く。

ただ、これはイタリアが反独陣営に留まっていることが大前提となる。

1938年、イタリアの黙認に基く、オーストリア併合と独伊枢軸確立によって、ロカルノ条約体制は完全に崩壊したと本書では評されている。

 

「あとがき」で、著者は前著で描いたウィルソン米大統領に好感を持てないと書いていた(私はむしろ著者の記述を読んで逆にややウィルソンを見直したのだが)。

どのような理想を奉じていようとも、額に青筋を立てたり眉間に皺を寄せた指導者を国民の多数が支持するという事態は、それが合衆国大統領であれ一九三三年の独裁者であれ、国民にとってあまり幸福なことではない。

 

 

 

読みやすく面白い。

脚注にも有益な情報と批評が含まれているのは前著と同じなので、飛ばさず読んだ方が良い。

巻末の年表も詳しい上に見やすいので便利。

ロカルノ条約という単体の歴史的出来事ではなく、戦間期の詳しい通史として使える。

『ワイマル共和国』との併読を薦める。

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