万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年10月29日

木宮正史 『国際政治のなかの韓国現代史』 (山川出版社)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 04:47

東大・早大での講義テキストとして作成した書籍とのこと。

冒頭、「政治歴史学」と「歴史政治学」の区別について。

「政治歴史学」は一次史料に基く実証的研究。

「歴史政治学」は普遍的理論的歴史説明を重視するもので、歴史事例で理論を構築する。

本書は主に前者の立場を採りつつ、韓国現代史に三つの普遍的意義を認める。

1.冷戦体制(南北分断と国際的冷戦)の相互関係。

2.発展途上国からほぼ先進国水準となった韓国の経済発展。

3.民主主義体制への転換。

3について、「民主化第三の波」(ハンチントン)すなわち、1970年代半ばより起った南欧・中南米・東南アジア、特に1986年フィリピン革命の影響を重視。

ここで「権威主義体制」の定義が出てくる。

他の本でも極めて頻繁に出てくる用語なので、これは是非とも理解しておいた方が良い。

政治学者ファン・リンスがスペインのフランコ体制を分析するために提案し、広く使われるようになった概念。

「限定された、責任能力のない政治的多元主義をともなっているが、国家を統治する洗練されたイデオロギーはもたず、しかし独特のメンタリティーはもち、その発展のある時期を除いて政治動員は広範でも集中的でもなく、また指導者あるいは時に小グループが公式的には不明確ながら実際にはまったく予測可能な範囲のなかで権力を行使するような政治体制」

というのがその定義。

ごく単純かつ通俗的に言えば、「全体主義独裁体制ほどは悪くないが、民主主義体制ほど良くもない、その中間」の政治体制。

(個人的には全体主義と民主主義を単純な対立概念とすることに疑問を感じるし、むしろ両者は[伝統的意味での]権威主義に対して同様の性質を持つと私は考えるが。)

 

 

1945年解放直後、呂運亨ら「建国準備委員会」が中道左派および左派主導で「朝鮮人民共和国」建国を宣言。

要職には挙国一致的に左右両派を配していたが、本人の了承を必ずしも得ずに名簿に載せただけの例もあった。

この政府は米軍政によって否認され、雲散霧消。

当時の米軍占領下南朝鮮の政治構図。

まず右派から。

1.李承晩=亡命先だった米国との太いパイプ、独立運動家としての高い名声が利点。しかし国内支持基盤は弱体。南部の単独政府樹立路線。与党自由党結成。

2.金九=上海・重慶で中国国民党と行動を共にする。統一と南北協商を主張。

3.金性洙、宋鎮禹=韓国民主党(韓民党)結成勢力。過去に日本と妥協的で、カリスマ的指導者を欠くのがネック。李承晩派と一部対立しつつも連携。

 

左派。

朴憲永=朝鮮共産党。日本時代の地下活動経験。米軍政の弾圧で越北。46年10月大邱騒乱を起こす。直後、他の二党派と合併して南朝鮮労働党(南労党)を結成。

 

中間派。

1.呂運亨=中道左派。

2.金奎植=中道右派。

47年呂の暗殺と冷戦激化に伴う左右分極化で中道派は没落していく。

農地改革と「親日派」粛清問題で左派が当初優勢。

しかし即時独立ではない国連信託統治にソ連の指示を受けた左派が賛成、これを機に民族主義的主張のイニシアティヴを握った右派が盛り返す。

中道派主導による信託統治受け入れと南北分断回避という歴史のイフは、ソ連占領下の北も単独政府樹立に積極的だったことから、可能性は薄いと著者は指摘している。

米軍政は右派を支持する方向へ。

大邱騒乱で共産党幹部だった、朴正熙の実兄死亡。

48年4月済州島反乱。

8月には大韓民国が建国されるが(第一共和国)、10月には麗水・順天で軍反乱が起き朴もこの時逮捕されている。

単独政府樹立前に、金九・金奎植らが平壌に行き協議を行っているが、結果として金日成に利用された側面が強い。

 

 

ここで、韓国の歴代政治体制を整理。

第一共和国=48~60年。李承晩大統領時代。

第二共和国=60~61年。唯一大統領ではなく首相が実権を持った時期。

軍政=61~63年。左派から転向した軍人朴正熙によるクーデタで成立。

第三共和国=63~72年。朴正熙時代。

第四共和国=72~79年。通称「維新体制」。朴正熙時代後半。より抑圧的と言われたが、北朝鮮における最悪の独裁と対峙していたことも考慮する必要があるでしょう。

第五共和国=80~88年。朴暗殺後実権を握った全斗煥時代。

第六共和国=88年から現在まで。民主化以後。

 

 

続いて、北朝鮮の政治派閥。

曺晩植の朝鮮民主党が弾圧されて以後、非共産勢力が存在する余地は無くなっていった。

「満州派」=金日成、崔庸健ら。団結力が強いので本書では他系と違って「派」と表現。

「ソ連系」=許哥而(ホガイ)ら。ソ連極東朝鮮系住民と中央アジア強制移住者の中から選抜。

「延安系」=武亭、金枓奉ら。親中国共産党派。

「国内系」=植民地時代国内に留まっていた共産主義者。金日成と協力していたグループは「甲山派」と言われる。

「南労党系」=朴憲永ら。私は本書を読むまで、これと国内系を混同して理解していた。

朝鮮戦争後、南労党系が粛清、55年朴憲永処刑、56年スターリン批判に勢いを得た反対派が反金日成運動に乗り出すが、弾圧されソ連系・延安系排除、金日成の独裁体制が確立。

 

 

北に対して軍事的・経済的劣勢と見られていた韓国では李承晩政権が反政府運動で倒れた後、韓国史上唯一の議院内閣制時代の第二共和国が成立。

与党民主党のうち、旧韓民党出身の旧派(大統領尹潽善)と官僚出身などの新派(首相張勉)が対立、政治混迷と経済不振が続く中、61年朴正熙が軍事クーデタを起こす。

朴政権下で急速な経済発展に成功。

李承晩の評価について、保守的な朴派も反朴的左派も共に批判的、保守側では経済停滞と腐敗を指摘、進歩側では金九などと比較して李を南北分断の責任者とする。

しかし朴政権下での発展も、その基盤整備をしたのは(植民地近代化論の立場に立たなければ)李承晩政権であるし、現在の韓国の北に対する圧倒的優位を見れば単独政府の選択は間違っていなかったとする見方も強い。

一方、60年代の北朝鮮では満州派金日成の独裁確立、中ソ対立が深刻化すると主体思想を唱えて67年首領絶対性・唯一指導体制という共産主義国の基準でも異常な個人崇拝体制が固まっていき、74年には金正日への権力世襲内定。

経済面では大きく立ち遅れ、中ソ対立で自主性は高めたが、日米韓協力に比べると体制競争においてやはり極めて不利な立場になった。

米中接近に直面して国内引き締めのため、韓国は「維新体制」導入、より権威主義的政治制度に。

同じ朴政権でも、前半とこの維新体制の後半とでは大きな違いがあるとされている。

79年政権内の権力闘争から偶発的に朴暗殺、崔圭夏が大統領になるが、12・12クーデタで全斗煥に実権掌握。

軍部が一枚岩を保ったのに対し、民主化勢力は金大中派・金泳三派などに分裂していたため、第五共和国成立。

しかし正統性欠如は否めず。

60年代、体制競争で優位と思われていた北は南北二者間の対話枠組みを主張し、それに対し韓国は国連外交に依拠して反対。

70年代以降、両者の国力は均衡、72年の共同声明以来、南北対話も開始。

以後、北の「一つのコリア」政策が攻撃的なものから防御的なものに変化。

南北対話より米国との平和協定を主張するようになる。

韓国の(暫定的な)「二つのコリア」政策も攻撃的なものとまでは言えず、北と西側諸国の外交関係を阻止することに重点を置いていた。

その点では北が「一つのコリア」政策に固執してむしろ良かったとも言える。

南で反米急進化した民主化運動が、軍と理性的な在野勢力が米国を媒介に妥協することを促し、結果国論全体の穏健化に落ち着いた逆説を本書では指摘している。

88年ソウル五輪を盛大に開催、89年東欧共産圏崩壊。

90年南北高位会談、91年南北基本合意書(体制相互承認、交流拡大)、朝鮮半島非核化共同宣言。

94年核問題についてのジュネーヴ米朝枠組み合意。

韓国内政は金融危機の後、進歩派の金大中政権、盧武鉉政権でも新自由主義的政策と本来の支持基盤の社会民主主義的政策が同居する奇妙な状況。

イラク戦争派兵と米韓自由貿易協定、異常な社会格差拡大。

核問題では2003年第一回六者協議が開始されたが、06年北朝鮮は核実験実施、09年再実験。

韓国の対北包容政策が核開発を促したとの批判は必ずしも妥当ではない、北は米国向けの体制維持のため、韓国の態度如何に関わらず核開発を進めたと思われる、と本書には書かれている。

2011年金正日の死まで記しておしまい。

 

 

まあまあ良い。

木村幹『韓国現代史』(中公新書)と並ぶ良書。

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2015年10月27日

ギー・ペルヴィエ 『アルジェリア戦争  フランスの植民地支配と民族の解放』 (白水社文庫クセジュ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:18

フランスのアルジェリア占領は1830年より。

19世紀後半からの本格的帝国主義時代よりかなり前で、インドシナ・サハラ地方・セネガルとはやや異なる性質を持つ植民地。

イギリスの植民地のうち、アメリカ独立は反植民地主義というよりアメリカ国民自身が先住民の征服者であった。

カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは白人が多数派を占める「本当の植民地」。

それらとインド・アフリカとの中間が南アフリカと南ローデシアで、ここでは入植白人と先住民の激しい対立があった。

フランスの場合、ニューカレドニアを例外として大規模な植民はなし。

そもそも19世紀半ば以降人口増加が止まった唯一の国。

アルジェリアのフランス人人口は帰化ヨーロッパ人と現地ユダヤ教徒を合わせても最大14パーセント、1954年では10パーセント未満だった。

トルコ私掠船への攻撃から始まったアルジェリア出兵に対し、アブドゥル・カーディルが抵抗、それを退けたが、上記の通り完全な入植・同化政策には失敗。

1920年代から独立運動が本格化するが、細かな組織名は煩瑣なので省略。

急進派を率いたメサーリー・ハーッジュと穏健派のフェルハート・アッバースという二人の人名と、アラブ・イスラム的アイデンティティを追求したアルジェリア・ウラマー協会と合わせて、三つの流れがあったことだけを確認。

第二次大戦後、活動を活発化させたメサーリーの急進派地下組織は、パレスチナ戦争に忙殺されたアラブ諸国の支持を得られず弱体化、メサーリーは反主流派に転落、ここで主流派の一員として有名なベン・ベラの名前が出てくる。

1954年民族解放戦線(FLN)と民族解放軍(ALN)結成、独立戦争開始。

同年ジュネーヴ協定でインドシナから撤退したフランスはすぐさま別の植民地戦争を戦うことになった。

鎮圧・平定作戦は進捗せず、国内対立は激化、その危機的状況の中でド・ゴールが復帰し、第五共和政を創設、自らを担ぎ出した過激右派の主張を排して、アルジェリア独立を1962年エヴィアン協定で認めたのは周知の通り。

ド・ゴールの決断は、根本的にフランスがアルジェリアのムスリム人口を吸収するのは不可能だという認識に立ってのもの。

「私の村はコロンベイ・レ・ドゥ・エグリズ(・・・・「二つの教会のあるコロンベイ」)ではなく、コロンベイ・レ・ドゥ・モスケ(「二つのモスクのあるコロンベイ」)になってしまうだろう」

勝利を目前にしたFLNも分裂が激しく、メサーリー派は弾圧され、アッバースは解任、後任のベン・ハッダとベン・ベラおよびブーメディエン(ALN総司令官)の権力闘争が発生、ベン・ベラが勝利し独立後の指導者となる。

悲惨な戦争の中で、フランスはFLNより多くのアルジェリア人ムスリムを殺し、FLNはフランス人よりも多くの「裏切者」アルジェリア人(ハルキ=仏軍のムスリム補充兵を含む)を殺していると、本書では指摘されている。

 

 

あまり読み易くない。

フランス人向けの入門書と、日本人向けのそれとでは、大きな差がある。

あまり細かな点をメモする気にもなれない。

類書が少ないので貴重ではあるが・・・・・。

2015年10月22日

大城道則 『古代エジプト文明  世界史の源流』 (講談社選書メチエ)

Filed under: オリエント — 万年初心者 @ 06:47

苦手・手薄分野の補強、というほどの殊勝な気持ちも無く、たまたま目に付いたので読んでみた。

以下、適当な内容抜き書き。

 

 

最初のファラオは、ギリシア・ローマ文献史料ではメネス、考古史料ではナルメル。

オシリス神話=兄オシリスを弟セトが殺害、オシリスの妻イシスが遺体を探しエジプトへ、子のホルスがセトと戦い勝利、結果オシリスは冥界、ホルスはこの世、セトは砂漠の王となった。

最初は王のみが死後オシリス神になると考えられたが、中王国時代は誰もがそうなるとされ、「オシリス神の庶民化」が起こり、新王国時代の「死者の書」に繋がる。

ピラミッドで王のミイラが発見された例はなく、そもそも墓ではないとの説もある。

 

 

第二中間期(前1650~1539年頃)ヒクソス(セム系?)の支配。

前17世紀前半にはヒッタイト、ミタンニ、カッシートの活動。

プトレマイオス朝時代のマネト『エジプト史』では、ヒクソスの急激な侵入を記しているが、実際には徐々に定着しエジプト文化も尊重しており、デルタ地帯の都アヴァリスは国際的都市となった。

 

 

アメンホテプ4世(アクエンアテン)のアマルナ時代。

太陽神ラーとテーベ主神アムンの習合、アムン・ラー信仰により新王国時代有力神官団が形成。

多神教内でも神々の序列はあり、天上はラー、地上はホルス(=ファラオ)、冥界はオシリスが支配すると考えられた。

王位はアクエンアテン(妃はネフェルトイティ)→スメンクカラー→トゥトアンクアテン(「アテン神の生ける似姿」)と移り、トゥトアンクアテンがトゥトアンクアムンと改名するが、これがいわゆるツタンカーメン王。

アメンホテプ4世は「一神教の祖」というより、アムン神官団排除のためにアテン信仰を興した、ラー神は認めていたし、ヒクソス時代にはセト神一神教が行われていたので、4世だけが唯一特殊例ではない、またモーセがこのファラオに近しい立場にあり、そこからヘブライ人の一神教が生まれたとするフロイトの推論は、時期的に合わず難があり、現在では認められていない、とのこと。

セト神は悪神化され、ホルス王権と対照的に位置付けられたが、それゆえにかえってアテン神のような忘却化を免れた。

 

 

アマルナ時代の外交を物語るアマルナ文書。

バビロニア・アッシリア・ミタンニ・ヒッタイトによる均衡状態。

文書はほぼすべて当時の国際共通語アッカド語(アッシリア・バビロニアの母語)で書かれている。

ヒッタイトの南下とアッシリアの台頭という平和から動乱への時代の変化が読み取れる。

ヒッタイトとのカデシュの戦い。

前1479~25年トトメス3世(第18王朝)が領土を拡張したが、アマルナ時代にシリア・パレスチナでの影響力を喪失、その後前1279~1213年頃ラメセス2世(第19王朝)が再拡張。

ライバルのヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族系だが、実際は多民族国家。

古バビロニアとミタンニを滅ぼすが、カデシュではエジプトと引き分け、アッシリアへの懸念から講和締結。

 

 

前13世紀末から12世紀初頭、「海の民」の侵入。

ヒッタイトやミケーネが滅亡させられたなか、第19王朝メルエンプタハ王のエジプトは、イスラエルと並んで、その撃退に成功。

「海の民」について、碑文では「サルディニア・シチリア・アカイア・エトルリア・リュキア・ペリシテ人」などの名があるが、的確な表現なのかが不明で、それぞれの民族名の最後に「海の」という形容詞が付くため、普通「海の民」と呼ばれる。

「海の民」は滅ぼした王国の民を組み込んで膨張、固有の文化を持たず。

ここで著者は飛躍的かもしれないがと断った上で、全く別種の、驚くべき推論をあげているのだが、実は「海の民」とは津波災害の擬人化された表現である可能性があると書いている。

 

 

アレクサンドロス大王の侵入、ギリシア文明の拡大と人類同胞理念を強調するのはギリシア・ローマ的見方で、現在では西洋中心主義と言われても仕方ない、東方が西方に与えた影響の方が大きいはずとしている。

また大王が「東征」ではなく「西征」に向かっていれば、ローマもカルタゴも滅ぼされていただろうと書かれていて、そうなれば世界史は全く変わったものになった可能性があるわけである。

ヘレニズム時代、アレクサンドリアの繁栄もエジプトによる周辺文化の消化という面は変えられず、一方的ギリシア化が進んだとは言えない、ただクレオパトラはその死後もエジプトの象徴として強いイメージを残すことになった。

ローマ時代もエジプト文化は拡散し続け、英国ヨークにもセラピス神殿遺跡が存在し、ハドリアヌス帝のエジプト趣味も有名である。

 

 

 

タイトルと目次を眺めていた時は実に面白そうだったのだが、実際読んでみるとそうでもなかった。

もう一つ食い足りない。

章ごとに「はじめに」と「おわりに」とがあり、読み易く丁寧な叙述ではあるが、内容はいまいちでした。

2015年10月15日

加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ  (シリーズ日本近現代史5)』 (岩波新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:58

『戦争の日本近現代史』『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は紹介済み。

以前ほどでもないが、岩波書店でこの手の近現代史の本は読みたくないなとは思っているが、これは著者名から手に取ってみようかと思う。

戦前昭和における日中紛争についての日本人の認識は、通常の戦争ではなく、「不法な」中国に対する「報償」「復仇」というものが主流だった。

その背景を考察するのが、本書の主たるテーマ。

以下、ポイントを箇条書き。

 

 

 

満州事変の四つの特質。

(1)相手国指導者不在の状況。  蒋介石は剿共戦従事、張学良も事変当時は北平に滞在中。

(2)政治関与を禁じられたはずの軍人が主導。  陸軍刑法を骨抜きにし、「事実の説明と推断」で国民を煽動。

(3)国際法抵触を自覚しつつその違反との非難を避けようとする。  張の悪政と満州人「民族自決」の強調。

(4)満蒙という地域概念の恣意的拡張。  東部内蒙古や熱河・チャハル両省も含める。

 

 

 

満蒙特殊権益を列強は承認していたのかという問題。

日本の権益についての二つの見方、「概括主義」と「列挙主義」。

概括主義=満蒙地域全てが日本の既存権益。

列挙主義=条約・協定に基く確実な個々の既得権益のみを主張すべきとする。

大正期、原敬内閣時代、外交調査会において伊東巳代治がかつて自身も支持した概括主義を批判、列強の承認を自明視するべきでなく、排他的勢力圏の構築よりも、自由競争で英仏優位の華中へ進出すべきと主張。

(ここでの伊東の態度は珍しくまともに思える。)

同盟国イギリスとの交渉でも概括的意味で満蒙が日本の勢力圏だとする承認はなされたことはなく、米国が日本の中国での特殊権益を認めた、極めて稀な外交合意である石井・ランシング協定でも、「特殊権益」解釈の限定があり、通商独占は否定されている。

原、伊東のように、満州権益の列強による承認が列挙主義によって辛うじて認められたと見なし、以後の日本は排他的勢力圏を断念して長江流域へ日米協調の下に進出を計るべきとの冷静な見方がある一方、満州権益を断固として維持・拡張しようとする意見も根強く残る。

 

 

 

事変前、突破された三つの前提。

(1)幣原外交の説得力喪失。

20年代半ば、国共合作でソ連と組んだ反帝国主義的中国が最大の既得権益保持国イギリスを圧迫、日本はそれを利用し自らの力を認めさせ漁夫の利を占める形勢。

しかし国共分離で中国内の連ソ反英派は衰退、英国の地位は回復し、米英は中国の好意獲得競争に走り、一方北伐を完遂した中国の次なる国権回復運動の標的は日本の満州権益に移る。

米英協調という幣原外交の基盤は掘り崩されていったが、この情勢をマクマリーのような冷静な外交官は批判的に見ており、長い目で見れば中国にとっても損失だったとしている。

(2)張作霖を通じた北満州権益深化という田中外交の挫折。

田中の張政権支持堅持に苛立つ関東軍の一部が張を爆殺、張学良は日本を仇敵とし、満州の情勢はかえって不安定化。

(3)総力戦体制整備の困難さの認識。

石原莞爾らは、米ソ相手の持久戦で圧倒的不利な立場の日本でも、満蒙を領有すれば自給自足体制を確立できると考えたが、その行為が中国ナショナリズムを敵に回し、日本に途方も無い重荷を背負わせるとの危惧は(当時の石原には)無かった。

恐慌時に国内の負担なしで総力戦体制が可能になるとの謳い文句は、少し前に経済的計算のみで軍縮を支持したような人々を、満州事変支持に誘い寄せた。

 

 

 

事変後、直接二国間交渉論で日中が同意しかけたが、中国側は日本国内の穏健派を過大視し、対日強硬論がその勢力を強めると考え、国際連盟に提訴し、問題を国際化したが、結果としてそれは完全な誤認と失敗だった。

日本の国民世論は事変を熱狂的に支持、無産政党は沈黙、大新聞は地方への販売拡張のため連日煽情的紙面を掲載、政府と陸軍首脳は中堅層に引きずられずるずると政策転換。

「日本の軍人はまるで義和団だ」との吉野作造の言葉や、上海事変時、日本人居留民の行動が「当時我国の信用を堕したことは一通りではない」との日本総領事の発言を読むと、情けないという気持ちを抑えることが出来ない。

1931年末、日本側が治外法権放棄、中国側は東北全域での商租権と雑居自由を日本に与え、満州は自治委員会が統治するという妥協案が提案される。

張学良は排除され、国民党も有利な点があるし、これで手を打っておけばいいじゃないですか・・・・・。

この案は立ち消えになり、32年初頭米国はスティムソン・ドクトリンを発表するが英独などは追従せず。

リットン調査団報告書では、日本人に十分な割り当てを課した外国人顧問採用と対日ボイコットの永久停止、居住・商租権の全満州への適用など日本に有利な点が多々あったにも関わらず、事変を自衛権の発動と民族自決の擁護と認めないことで日本の世論は激高。

中国国内の不安定こそが事変の原因とする日本側に、五・一五事件が起るような日本こそが不安定だと中国側が反論したとの記述を読むと、恥ずかしい。

愚かな多数者の集団ヒステリーには誰も逆らえないのが近代という時代とは言え、何とも言いようの無い気分になります。

世論煽動に使われた、中国の「不法」行為にしてもやや微妙な点がある。

「自衛」のための鉄道守備兵駐屯の法的根拠は実は曖昧さがあり、はっきりしているのは中国警察の監察権拒否だけで、日露戦争前には日本自身が対露抗議でその曖昧さを利用していたり、満鉄併行線問題でも将来の対ソ戦にとって有利と考えられる部分では中国の建設を黙認していたりしていた。

内田康哉外相は中国政府内親欧米派の圧迫のみを考慮して強硬策を追求したが、これは少し前の中国側の日本評価と同じくらいの誤算だ。

日中両国で、妥協と和解を説く穏健な人々はますます少なくなり、両国にとって破滅的な全面衝突路線が誰にも止められなくなる。

汪兆銘は、戦時にはまず中国側が一方的に甚大な被害を受ける展開になる、中国経済の中心はすでに海岸部に移っており、そこを日本軍によって破壊されれば、政府は内陸に逃れても、弱体・傀儡化し、後に来るのはソヴィエト化と国家分裂だ、と述べ、対日宥和策を主張したが、このように完全に正しい主張が全く通らなくなる(日本側においても同様)。

重光葵ら幣原外交を清算した外務省の新主流派は、中国からの欧米勢力駆逐を目標とし、日本側は支那駐屯軍撤収、租界・治外法権放棄という妥協を自ら行い、イギリスを犠牲に対中宥和を図ろうとする。

これは陸軍の一部に見られたような、一方的な攻撃的政策でないのはいいが、イギリスのリース・ロス使節の重要性を見逃したのは重大な過ちだった。

イギリスの支援を受け、孔祥熙財政部長の下で幣制改革を成功させた中国では、連外抗日派が勢力を強める。

ナショナリズムの異様な高まりの中で西安事件が発生、第二次国共合作のきっかけになるが、著者がこの西安事件前後の中国ナショナリスト青年と二・二六事件の青年将校との共通点を示唆しているのが興味深い。

以後、不幸にして日中は全面戦争の道を歩み、両国とも破滅に至ることになる。

 

 

 

 

ほとんどが外交史。

シリーズ名からするとやや違和感がある内容。

一般的通史とは違った角度からの叙述が多く、面白いことは面白い。

この巻はまあ、お勧めできます。

2015年10月6日

牧野雅彦 『ロカルノ条約  シュトレーゼマンとヨーロッパの再建』 (中公叢書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:33

『ヴェルサイユ条約』(中公新書)と同じ著者で、その続編的作品。

アメリカ主導のヴェルサイユ体制に対し、独仏共同で生み出したロカルノ体制は、ドーズ案という経済的後ろ盾は依然米国に頼っていたものの、通説では大恐慌襲来後もラインラント進駐まで約十年間存続した。

そのロカルノ前史から崩壊までのヨーロッパ史を、独のシュトレーゼマンと仏のブリアンという二人の政治家を中心に描く。

 

 

アリスティド・ブリアンは1862年ナント生まれ。

戦闘的サンディカリストとして政界入り。

1899年ワルデック・ルソー内閣で、社会主義者がブルジョワ内閣に入閣することの是非をめぐるミルラン問題が論争になり、ジャン・ジョレスは入閣支持、ジュール・ゲードは反対、ブリアンはジョレスを支持。

1905年ブリアン主導で有名な政教分離法制定、仏とヴァチカンとの政教条約破棄、宗教団体への公的補助禁止、しかし修道会の教育からの完全排除と修道院そのものの解散は避けられる。

ブリアンは社会主義から離れつつ、1906年クレマンソー内閣の宗務大臣からのちに法相を務め、1909~11年には早くも首相になっている。

(フランスは社会主義者の穏健化がスムーズに進んだ印象があります。)

1913年ポワンカレ大統領の下でも短期間首相を務め三年兵役法を推進、大戦前夜に「主戦論者」との非難を受ける。

大戦中、1915年10月~17年3月首相在任。

辞任後、「ランケン事件」という対独講和秘密交渉に関わる(ランケンは独外交官の名)。

ブリアンはアルザス・ロレーヌ併合と懲罰的でない額の賠償を要求する代わりにライン左岸には手出しせずとの条件を主張、一方ドイツ側はアルザス・ロレーヌの一部割譲承認を提起したという。

こういう交渉も戦時における狂気に近い好戦世論の前ではあまりに無力だったんでしょう。

首相クレマンソーは、カイヨー元首相を逮捕することまでして講和派を弾圧、1918年大戦に勝利。

20年ポワンカレ大統領任期満了、クレマンソーが出馬、これにブリアンは反対しカトリック勢力の支持も取り付け、クレマンソー当選阻止。

仏第三共和政の大統領は本来名誉職的扱いだが、ここでクレマンソーが勝利していれば、その変質もあり得たと著者は評している。

右派のミルラン「国民ブロック」政府をブリアンも支持。

ミルランが大統領に選出されると、強硬派のポワンカレは英国との協調の点で難があり、ブリアンが21年1月から22年1月首相となったが、ブリアン自身もこの時期は対独強硬派。

賠償問題・ポーランド国境問題で報復的立場を採る。

ワシントン会議に参加するが、米国は海軍軍縮と東アジア問題にのみ集中しヨーロッパへの積極的関与を拒否、英国もライン流域安保には貢献の意思を見せるが中東欧国境維持へのコミットメントは避け、ソヴィエト政権はドイツとラパロ条約を結び孤立からの脱出を図る。

結局、戦後の敵愾心に駆られた対独強硬論は行き詰まりを見せ、ラパロ後首相を辞任したブリアンは違う対応を迫られる。

 

 

グスタフ・シュトレーゼマンは1878年ベルリンのプロテスタント中産階級の家に生まれる。

左派自由主義を奉ずるフリードリヒ・ナウマンの国民社会連盟に一時参加、実業界団体での活動を経て、国民自由党(ビスマルクの統一事業を支持して進歩党から分離)に入党、議員当選。

シュトレーゼマンはあくまで国民的自由主義者で、帝政やプロイセン君主制への忠誠は副次的なものとされている。

戦時には併合主義的態度を採り、敗戦後成立した中道政党、民主党には参加せず。

元国民自由党の基盤から生まれた、ドイツ人民党を結成。

国家人民党と同じく、ワイマール共和国での代表的右派政党だが、反共和制的な国家人民党とは距離を置く。

内閣の順や政権与党の内容などはさすがに煩雑なので以下省略。

通史としては林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)という名著中の名著がありますので、そちらをご覧下さい。

屈辱的講和条約と莫大な賠償支払いを耐え忍ぶ「履行政策」への批判が高まり、エルツベルガーやラーテナウら政治家への極右勢力による暗殺事件も続発。

こうした危機的状況でシュトレーゼマンと人民党は過激団体を取り締まる「共和国保護法」に賛成。

ここで党内重工業グループを率いる大実業家のフーゴー・シュティンネスによる「私の見るところではラーテナウ暗殺は君主制を撃った」という言葉が紹介されているが、極右の暴力が巻き起こした危機感が「理性の上での共和主義者」を増やし、帝政の復活をかえって不可能にしたという力学は非常によく理解できるところだ。

22年1月成立した仏ポワンカレ内閣によって23年1月ルール占領、ワイマール共和国に一大危機が襲来する。

ルールは独仏国境の北部にある、エッセン・ボフム・ドルトムントが中心の地方。

これによる経済麻痺と超インフレ、極右・極左の地方政権成立と半内乱状態が勃発。

なお、この時点ではルールだけでなく、そもそもラインラントが戦勝国によって占領中だったこともチェック。

ここにおいて、8月シュトレーゼマン大連立内閣が成立、「受動的抵抗」を停止、レンテンマルク導入によるインフレ収束、極右・極左勢力の鎮圧を見事に成し遂げる。

なお地方の過激派政権抑圧に当っては「左に厳しく、右に甘い」という傾向が指摘されるが、著者はこれをやむを得ないものとしている。

続いてドーズ案で賠償問題も小康状態に。

ナチスと共産党はドーズ案に反対したが、国家人民党内で賛否が割れ、受諾が決まる。

なお25年には大統領エーベルトが死去、シュトレーゼマンはやや適切さに欠ける行動を採り、ヒンデンブルクが大統領当選。

ワイマール共和国大統領は通常は儀礼的役職だが、憲法上は能動的活動の余地も持っており、ヒンデンブルクが就任したのは結果としてシュトレーゼマンの失敗であるとされている。

とは言え、右派が共和政を受け入れる上でプラスになった面もあり、当初は悪影響は表面化せず。

外交では、ようやく国際協調の機運が盛り上がり、1925年10月ロカルノ条約調印。

英仏独伊ベルギーの地域的安全保障・西方国境現状維持・ラインラント非武装、ドイツと仏・ベルギー・ポーランド・チェコとの個別仲裁条約、仏・ポーランド間、仏・チェコ間の相互援助条約の総称。

ドイツは西方国境の維持を約したが、東方国境については平和的変更の可能性を残した。

このロカルノ条約を成立させた人々としては、英仏独各国の首相ではなく外相を記憶しておく。

シュトレーゼマンとブリアン、そしてイギリスのオースティン・チェンバレン。

英国はボールドウィン保守党内閣時代だったはずだが、仏独の首相パンルヴェとハンス・ルターは本書を読んでもすぐ出てこないし、憶えなくていいでしょう。

でもイタリアの首相の名前はわかりますよね?

 

「英仏独の首相の名前も知らんのに、イタリアの首相を知ってるわけがないだろ」という言葉が聞こえてきますが、いやそんなことないでしょう。

 

皆さん、絶対ご存知のはずです。

 

ほら、あの人物ですよ。

 

 

 

 

そう、ベニト・ムッソリーニです。

 

「ローマ進軍」は1922年、ムッソリーニはすでに政権の座について数年を経ています。

1920年代後半の国際協調の一角で、ムッソリーニのイタリアが堅実にその役割を果たしていたことは記憶する価値がある。

ドイツ内政の安定と国際的地位回復のために奮闘したシュトレーゼマンだが、左派社会民主党は最大の国民政党としての役割を自覚せず旧王侯財産・秘密再軍備・政教分離教育・装甲巡洋艦建造などの問題で彼の足を引っ張り、右派は右派でより露骨な利己的政策を主張、国家人民党では過激派フーゲンベルクが党首に就任、伝統への忠誠ではなく排外的ナショナリズムを優先させナチと共闘、保守派とドイツ全体を破滅の道へと誘い込むことになる。

29年暫定的なドーズ案に替えて提出されたヤング案に右派は反対闘争を展開、シュトレーゼマンは、現状のままに危機が再来すれば中間層の消滅とコンツェルンと隷属的人間が生まれるのみ、そして自分の代わりにヒトラーのような人物が台頭するだろうと反論したが、この警告は空しかった。

シュトレーゼマンは同年10月死去。

大恐慌襲来後、30年からドイツは、中央党出身のブリューニング「大統領内閣」時代に入り、31年苦し紛れにオーストリアとの関税同盟を発表するが、根回しなしの突然の公表に仏は猛反発し、計画は頓挫、独仏協調は崩壊する。

内政ではブリューニングの緊縮財政・デフレ政策が恐慌を深刻化させナチを台頭させたとの批判もあるが、賠償問題解決のため、あえて不況と支払い不能状態を諸外国に示す意図もあった、さらに当時のドイツ財政で積極的なケインズ政策の余地がどれだけあったか疑問だと著者は書いているが、後者はあまり首肯出来ない意見のように感じた。

ブリアンも国際連盟での満州事変処理を最後の仕事にして、32年3月死去。

 

その後の展開について。

35年の英独海軍協定は宥和政策の端緒として評判が悪いが、これはロカルノ諸国が再軍備宣言を行ったドイツを地域的安保の枠組みに引きとめようとする試みと解釈できる、とされている。

一般的に36年ラインラント進駐によってロカルノ条約は破棄されたと見なされるが、これ以後もオーストリアをめぐる対独牽制体制として変容しつつロカルノ体制は機能していたと著者は書く。

ただ、これはイタリアが反独陣営に留まっていることが大前提となる。

1938年、イタリアの黙認に基く、オーストリア併合と独伊枢軸確立によって、ロカルノ条約体制は完全に崩壊したと本書では評されている。

 

「あとがき」で、著者は前著で描いたウィルソン米大統領に好感を持てないと書いていた(私はむしろ著者の記述を読んで逆にややウィルソンを見直したのだが)。

どのような理想を奉じていようとも、額に青筋を立てたり眉間に皺を寄せた指導者を国民の多数が支持するという事態は、それが合衆国大統領であれ一九三三年の独裁者であれ、国民にとってあまり幸福なことではない。

 

 

 

読みやすく面白い。

脚注にも有益な情報と批評が含まれているのは前著と同じなので、飛ばさず読んだ方が良い。

巻末の年表も詳しい上に見やすいので便利。

ロカルノ条約という単体の歴史的出来事ではなく、戦間期の詳しい通史として使える。

『ワイマル共和国』との併読を薦める。

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