万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年9月29日

坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成  「宮中」の制度化と立憲制の導入』 (講談社学術文庫)

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1991年吉川弘文館刊の文庫化。

本書で1992年サントリー学芸賞受賞とのこと。

西南戦争から憲法制定まで、明治10~22年が叙述対象。

国家意思を安定的に決定し運営するシステムとしての「内閣」を確立し、制度化するまでの伊藤博文の努力を描写する。

ただ、本書の序盤では参議を中心にした実力者の集団を「内閣」と呼称しているようで、注意を要する。

参議は廃藩置県後の太政官下の三院制(正院・左院・右院)で、正院を太政大臣・左右大臣と共に構成した役職。

薩長を中心とした実力者は、多くがこの参議に任命されており、これが最も核心的要職と思われる。

各省の卿は、その下に置かれ、行政長官としての役割で参議と兼任する者が多かった。

他の政治的プレイヤーとして、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視らの「大臣」、天皇・皇族・側近らの「宮中」が登場。

これら「内閣」、「大臣」、「宮中」の絡み合いで、明治中期の政局は展開する。

自由民権派からの藩閥政府攻撃に対する防御だけでなく、宮中の政治介入を防止することも制度化の目的。

明治国家を特殊なものとして見るのではなく、第一次世界大戦前に世界の主流であった君主制の一形態として考察。

1878年、これまで明治政府を強力に指導してきた大久保利通が暗殺される。

危機への対応として、天皇と内閣の一体化による政府強化が図られる。

しかし一方で、元田永孚(ながざね)ら宮中の侍補グループによる天皇親政運動が惹起、元田・佐佐木高行・吉井友実・土方久元ら天皇側近らは「有司専制」とは一線を画そうとする。

1879年教育令制定過程で天皇・侍補の批判が加えられ、征韓論政変で下野していた副島種臣が宮内省入りする。

この動きに伊藤・岩倉らは反発し、侍補は廃止されるが、しかし天皇との人格的関係は続き宮中派自体は存続。

同79年末、伊藤は参議と省卿分離を提案、参議中心体制の確立を目指す。

「大臣」では、三条は性格的弱さと定見の乏しさがあり、岩倉は自らの権限に固執。

参議内でも積極財政・殖産興業政策の大隈重信と緊縮財政の井上馨との対立があったが、結局1880年分離実現。

伊藤、大隈、西郷従道、寺島宗則、川村純義、山田顕義が参議専任。

黒田清隆(開拓長官)、井上馨(外務)、山県有朋(参謀長官)、大木喬任(元老院議長)らは例外的兼任とされ、新たに省卿として大山巌(陸軍)、榎本武揚(海軍)、松方正義(内務)が就任。

さらに伊藤は、参議の「内閣」会議の開催・進行の制度化を進める。

これを見た岩倉と同年左大臣に就任した有栖川宮熾仁親王ら「大臣」は宮中派と接近。

大隈が大規模外債を提案したことにより参議「内閣」内の対立が生じると、岩倉は省卿まで下問し議論を拡散、結局最終決定は宮中に持ち込まれ、外債中止。

外債慎重派だった伊藤と大隈との協力不調のため、岩倉が勝利、「大臣」の相対的優位確保と宮中派の勢力回復をもたらす。

次いで地租の部分的米納論という政策を岩倉が提起。

これには伊藤、井上、大隈が行財政の近代化に反するとして一致して反対、支持したのは薩派のみで、天皇・宮中も反対し、米納は不可とされる。

工場払下概則と農商務省設立をめぐって大隈、井上の対立は続き、黒田の離反もあって「内閣」の求心力は低下。

在野では国会期成同盟の請願があり、政府はこれに対抗して集会条例を定めたが、伊藤は自由民権運動の一方的弾圧ではなく誘導と漸進的改革を志向。

同時に元老院と華族制度改革によって宮中への参入を企図、これが華族を政治基盤とする岩倉の反発を買う。

結局、この時点での新華族創設は制限され、士族からの上昇は大久保利通、木戸孝允、広沢真臣(長州出身・1871年暗殺)の三家のみでしかも当人の死後ということになる。

明治14(1881)年初、熱海で伊藤・井上・大隈・黒田の四者会談、本来は国会尚早論で徹底強硬派の黒田を説得する場のはずが、財政論においてまたも大隈と井上の対立が顕在化(同年設立の農商務省は緊縮財政の象徴とされている。ということは1870年設立の工部省の方は殖産興業的積極財政の表れか?)。

大隈は藩閥的背景が無く、政治的孤立化を避けるため薩派から長州閥に乗り換え、表面上緊縮政策に同意しただけであり、加えて早期国会開設によって自身の政治的飛躍を遂げたいという思惑も持っていた。

ただ伊藤との決定的対立を恐れ早期国会論は表に出さず、意見書を有栖川宮に密奏、この内容を知った岩倉は驚愕し、大隈・伊藤の共謀かと恐れたが、それは事実ではなかった。

岩倉は井上毅(太政官大書記官、法制官僚)へ反駁を命じる。

井上毅は政党内閣制を猛烈に批判、それがもたらす小党分立と破滅的帰結を説き、福沢諭吉・交詢社系の英国的立憲制論者を論難、ロエスレルと協力しプロイセン・モデルを提示、岩倉も純プロイセン型の憲法早期制定論を持つ。

これに対し、伊藤は自身の漸進論が御破算になったので、大隈、岩倉(および井上毅)双方の動きに憤激。

一時伊藤・大隈間に和解の動きがあったが、岩倉が病気で調停者の役割を果たせず。

権利を極端に限定した国会を早期に開設すべきとの井上毅に対して伊藤は強い批判を持ち、この両者が井上馨と薩派の支持を争う情勢となる。

ここで北海道官有物払下げ事件発生。

肥前大隈派の払下げ反対運動。

伊藤は薩派と大隈派の二者択一を迫られるが、軍内の勢力を見れば前者の排除は不可能であり、大隈追放へ。

伊藤と井上毅との関係回復、太政官制改革と内閣制度確立では一致(ただし華族制度改革では対立)、払下げ中止と引き換えに宮中派も説得成功、国会開設論について伊藤の主導権回復。

伊藤はイギリス型、プロイセン型双方の直輸入的適用を否定、抽象的原則を一律に当てはめる議論を拒否、歴史的個別性を重視し、日本独自の立憲制を築き上げることを主張。

つまり、ここで明治国家がプロイセン・モデルに固まったという訳ではなく、「政府=プロイセン型、民間=イギリス型」という二分論的理解は適切ではないというのが著者の評価。

しかし、伊藤と山県の対立を利用して岩倉も巻き返しを図り、大臣・参議対等の内閣制度という伊藤案は否定され、岩倉の参議・省卿兼任体制復活が通る。

華族制度改革も停止、伝統的公家秩序保持を重視する岩倉と士族身分保護を意図する井上毅が共闘。

このように、明治十四年の政変で伊藤は成功したとは言えず、大隈追放という代償を払っても完全な主導権を持てず、最高指導者になったのでもない。

とは言え、財政面では松方デフレが定着し政争の焦点となることはなくなり、薩長参議の協力が進み、宮中派の介入余地もなく、黒田が実質的に政権から外れたこともあって、「内閣」の求心力は拡大した。

1882年、伊藤は訪欧憲法調査に出発、欧化主義との批判が自身に向けられ、留守中の政治変動への不安もあったが、あえて実行。

実際の伊藤は近視眼的欧化主義者などではなく、西欧の日本蔑視に対する正当な反発心も持ちつつ、抽象的理論・学説のみならず、行政運営の実態と慣習の吸収に努め、「立憲カリスマ」の威信を得ることに成功。

伊藤が学んだシュタインも、厳密な法律学的ローマ法的な新国法学ではない、歴史・政治学的な行政学を唱える非主流派だった。

留守中、壬午軍乱による朝鮮問題緊迫化。

1883年帰国。

岩倉が死去。

この時期、福沢諭吉は『帝室論』で皇室を政治の外に置くことを主張、井上毅のプロイセン主義を批判、福沢は幕末の天皇象徴の争奪戦再現を危惧、藩閥政府だけではなく、五箇条の御誓文を民権派が自らの武器として持ち出すことを戒め、政府・民権派双方が天皇を現実政治に巻き込もうとすることを批判した。

1884年制度取調局長官に伊藤就任、同じく宮内卿兼任、天皇・宮中の欧化反対に対処しつつ巧妙に勢力拡大。

立憲改進党の華族への浸透に危機感を持ち、安定した上院を形成するために華族改革断行を決意、伊藤は社会秩序を流動化する危険を一部冒しても、新華族創出によって政府支持拡大を追求。

84年華族令制定。

反対派へも配慮し、公侯伯子男の序列で新華族は最高でも伯爵位に留め、数も全509家中29家のみ、さらに宮中関係者を優遇し、受爵者の賢所参拝を行う(それと同時に欧風夜会を開催し、そこに天皇・皇后臨席)。

また、それまで見舞金にも事欠く状態だった皇室財産を株式を基にして充実させる。

明治天皇と伊藤との間には信頼感と共に、いまだ軋轢があった。

85年、ついに内閣制度確立、総理伊藤、外相井上馨、内相山県、蔵相松方、陸相大山、海相西郷、司法相山田、文相森有礼、農商務省谷干城、逓信相榎本武揚。

伊藤は内閣の連帯責任を主張、これを政党内閣への道を開くとして井上毅が反対したが、伊藤は退ける。

「内閣職権」制定、君主ではなく首相が能動者として政務に当たり、法律勅令は内閣で起草し首相の副署が必要と定められる。

これは首相の各大臣への統制権を定めた1810年のハルデンベルク官制がモデルとされ、同時代のプロイセンではなくすでに廃止されたものを参考にしており、あくまで外国のコピーではなく日本の現実に合った制度を作り上げるべきとの伊藤の姿勢がよく現われている。

1886年、「明治十九年の陸軍紛議」、大山と「四将軍派」の対立は前者の藩閥主流派が勝利するが、伊藤は四将軍派に近い天皇にも配慮、以後天皇の意向も尊重し信頼を得る。

「機務六条」制定、閣議への天皇臨御は首相奏請時のみとする。

皇室典範起草、皇位継承問題と皇室費への議会関与否定。

これらの措置は政治から宮中を自立させ、さらに天皇個人からも自立させるもので、「非民主的」というより皇室を政治から切り離すことを意図したもの。

皇室典範は憲法と同時に制定されたが、「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」として公布されなかったと教科書に書いてあるが、本書を読むと違ったイメージを持つようになる。

1887年、宮中儀式の洋装化。

帝国主義時代の苛酷さへの対応であり、これを現代から皮相と冷笑するだけでは済まないと著者は指摘。

井上馨の鹿鳴館外交と条約改正交渉(1882~87年)も同様。

だが当然、それへの反発も国民各層に生まれ、例えば徳富蘇峰は『国民之友』で平民的欧化主義を唱え、国粋保存主義も台頭。

増税と欧化への反発から流言飛語が流され、首相官邸での仮装舞踏会で強姦事件が発生したとか、当時幼くして亡くなった内親王は実は伊藤の子だとか、伊藤と皇太后が密通しているとか、もう滅茶苦茶。

そうしたことが堂々と反対派の新聞に載っていることに驚く。

こんな醜行を避けるために不敬罪が必要なんであって、今みたいに皇室という国の根幹を成す方々にどんな誹謗中傷も言いたい放題という方がおかしいんです。

なお、本書では伝統と洋化の調整、後宮の非政治化に努めた昭憲皇后への評価が高いのが印象的。

こうした中、元「四将軍派」や宮中・三条グループの倒閣運動発生(三条自身は消極的)。

十四年政変以来閑職にあり、欧米外遊から帰国した黒田も反政府的になり、井上馨の条約改正交渉には井上毅、小村寿太郎、ボアソナード、元田、谷、山田、松方ら多くが反対。

伊藤自身、外国人判事採用には懐疑的だったこともあり、条約改正交渉は中止。

しかし、天皇が伊藤を支持したことに力を得て、当面の内閣崩壊は回避。

内閣制度創設まもなく、運営慣行が定着せず、首相交代ルールが未確定であり、伊藤の首相辞任がいつか見通せず、黒田ら薩派など非長州系の不満が高まった。

1887年、大同団結運動と三大事件建白運動という民権派の攻勢に対し、保安条例公布と大隈を外相として入閣させることにより危機を乗り切る。

87~88年にかけて憲法制定。

伊藤は天皇ではなく首相が能動者として政略指揮することを企図し大臣輔弼の原則を強調、井上毅・ロエスレル案と対立。

(ロエスレル案では大臣は君主の顧問でしかない[ただし大臣副署は必要とされる]。)

天皇と内閣を分離し、法案提出と行政権における内閣の主体性をあくまで維持、その内閣の連帯責任を強調。

これに対し井上毅は純ドイツ型の政党内閣拒否方向。

(しかし井上も反政党だが反立憲ではなく、君主の恣意的個人支配を是認するのではなく、少数の藩閥政府に厳格な規律を課した上で存続させるという方針。)

1888年、枢密院設立。

内閣と議会の対立を調停する際、天皇を矢面に立たせないための機関。

当初は予算等紛議を直接裁定することを想定したが、権限縮小。

枢密顧問官には宮中派を多く任命、伊藤が首相を辞任し枢密院議長に就任、後任首相は黒田。

保守派への配慮から、皇室典範を憲法より上位に位置付け枢密院で先に審議、憲法案作成に当たり西欧法への絶えない参照があったことには触れず、欽定憲法であることを強調。

草案起草者である伊藤自身が恣意的に作成したものではないとして、憲法に必要な権威付けを行うためであったが、それにより明治憲法は「不磨の大典」として扱われ、首相の権限拡大など後世必要となった改正が困難になったが、これはやむを得ないか。

しかし枢密院での審議では、伊藤は君主権の制限では譲らず、内閣が天皇・(法律・予算については)議会双方に責任を持つ行政の中心とし、同時に議会の法案議決権と予算審議権を確保(ロエスレルらは「新規の収入」についてのみ)。

ここで注目した記述がある。

天皇が米国大統領のごとく法案拒否権を持つ(米国同様、議会で再度三分の二以上の賛成なら成立する)ことを提案した人物として文中に「森が・・・・・」「森が・・・・・」と出てくるんですが、「森」って森有礼しかいませんよね?

過度の欧化論者として国粋主義者に暗殺された人ですが、変なところで天皇中心主義的ですねえ。

私は純粋な民主主義自体が無条件で良いものとは全く思わないので、議会多数派の意思を絶対視しないことは何とも思わないが、選挙権拡大など個々の政治課題で議会と天皇が正面衝突するような制度は、日本と皇室にとって危険極まりない。

伊藤が猛反発したのも当然です。

この件を含め、能動的君主を想定するような意見のみは、やや強引な議事運営を行ってでも葬り去る。

諸列強および民権派へも配慮。

議会の法案提出権(議決権だけでなく)を認める。

上奏権は大臣弾劾を含めると天皇が政争に巻き込まれる恐れがあるので、それを除いて認める。

結果、中江兆民含む民権派にも受け入れられるものになった(中江の帝国憲法に対する反対は誇張されている)。

保守的観点から、天皇の立法権行使に関して、必要な国会の「承認」が「協賛」に変わったが、国会の議決が無ければ法律が成立しないという実質は変わらず。

大臣輔弼の原則のみ定めて、将来どのような内閣を形成するかは規定せず、政党内閣もありうる。

反欧化の風潮にも配慮し、国粋的文脈に憲法を位置付けたが、これは当時において憲法定着のためには批判すべきものではないのではと思える。

天皇は伊藤を深く信頼し、枢密院審議へ積極的に参加、「立憲君主」へと変化を遂げる。

伊藤は以下のように回想している。

当時院内には極端なる保守主義の暗流が存していたにも拘らず、陛下の御聖断は殆んど自由・進歩の思想に傾かせられた

山県と井上毅らは1889年「内閣官制」を制定、主任大臣副署主義を採用、首相権限は縮小され、後任の松方内閣では首相松方がリーダーシップに乏しく、元老による集団指導に政治の重点が移る。

第二次伊藤内閣で乗り切った日清戦争後には、内閣と軍部の緊張という、憲法制定時には想定し得なかった問題が発生。

伊藤は自由党と連携し、立憲政友会を設立、1907年には公式令で首相副署主義を復活させ、首相権限を強める。

明治天皇は同時代のヴィクトリア英女王よりも君主権限が制度化されていたが、議会対策や元老間対立においては貴重な調停的役割を果たし得た。

本書末尾で、尾崎行雄がかつて対立した伊藤を高く評価し、1931年牧野伸顕に政党政治への失望と藩閥政府への再評価を語っているのが印象的である。

大日本帝国憲法について、この後伊藤が意図した通りに、首相権限の拡大と(軍部大臣を含めた)閣僚任免権明確化という、必要な改正を行い得なかったのは痛恨の極みです。

それさえ可能だったならば、国民の権利関係の条項拡充など後でいくらでも出来たはず。

「天皇主権」という規定も、天皇個人ではなく、天皇が象徴する国家の歴史的伝統に最高の権威が宿ると解釈すれば、今現在生きている民衆の多数派の意思を絶対視するものと安易に解されてしまう「国民主権」より、よほど正当性があると私は考えます。

このようなことを考えると、伊藤は最も好ましいが、極めて細い道を選択してきたんだな、やはり近代日本の最優秀の政治家だというのが、本書を読んだ全体的感想です。

 

 

最後に補論で明治前半期の天皇と軍部という文章がある。

明治天皇は西郷隆盛への深い敬愛の念を持ち、西郷の下野と死去後に軍務への意欲が薄れる。

これに対して大山巌、西郷従道らが天皇と軍との結びつきを求めたのは、政府からの軍の独立性への欲求というより、天皇との一体性をもって軍を支えることが急務と見た悲観的観測からだとされている。

また明治十九年の陸軍紛議での四将軍派など陸軍非主流派への天皇の好意は、人脈的に四将軍派が宮中派と近かったこと、軍内の対抗勢力を存続させ自身の政治的裁量余地を拡大しておこうとする為政者の本能に加えて、西郷を敗死させた主流派へのわだかまりがあったからだと評されている。

紛議後、山県は諫奏を提出、軍への積極的コミットメントを天皇に求め、天皇もそれに応じ演習、式典への参加が多くなる。

その背景として、憲法発布時の大赦で西郷は名誉回復され正三位を与えられたこと、もはや陸軍主流派以外の政治的選択肢が無かったことで、天皇と藩閥政府全体との関係が改善したことがある。

またそれは山県の威信拡大を結果することにもなった。

 

 

 

非常に中身が濃く、重要な作品。

明治中期の十数年間のみにおける詳細な政治過程をたどるので、頭に入りやすい。

細かな史実を暗記する良いきっかけになる。

高校日本史を大体マスターしていれば、十分読めるレベル。

しかし漢文書き下し調の引用文が面倒で、かなり読むスピードが落ちる。

じっくり見れば意味は取れるし、それでわからなければ、とばせばよい。

少々骨が折れるが、挑戦する価値は十分ある良書。

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