万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年9月21日

北岡伸一 『後藤新平  外交とヴィジョン』 (中公新書)

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著者の作品では『清沢洌』『新世紀の世界と日本』を紹介済み。

本書は1988年刊。

後藤新平は首相にならなかった戦前の政治家の中では知名度がかなり高く、東日本大震災の後では、関東大震災後の復興計画主導者としても再び注目された。

本書は外交家としての面に重点を置いた伝記。

明治初期の数年を除いて外交官出身以外の外相は井上馨と大隈重信のみ。

事実上後藤が最初の非外交官出身外相。

以後も田中義一(首相兼任)、宇垣一成、野村吉三郎、豊田貞次郎のみ。

経済・文化を含む国際交流という広義の外交での貢献大。

その外交理念は、親米英主義・アジア主義・単一国家発展主義のいずれとも異なる、日中露提携論だった。

1857年岩手水沢生まれ。

同郷に高野長英、斎藤実。

高野とは遠縁にあたり、甥に自民党副総裁になった椎名悦三郎がいる。

医学校を卒業、愛知県病院長を経て内務局衛生局に入り、ドイツ留学。

有機体としての国家、歴史慣習に沿った国際関係という発想を得て、帰国後衛生局長就任。

理論の単純適用を戒め、実地に沿った応用を心掛ける。

ここで相馬事件という旧大名家の相続争いに巻き込まれ、精神異常判断にからむスキャンダル訴訟で半年間入獄するという目に合うが、結局無罪となる。

日清戦争後の復員検疫事業で児玉源太郎に起用され、再度衛生局長に。

社会政策・救貧事業に取り組むが必ずしも成功せず。

課題が明白でバックに実力者の支持がある時には成功するが、自身の政治基盤は貧弱という傾向あり。

1898年台湾総督府民政長官に就任、実質ナンバー2の役職だが、児玉総督が兼任のため事実上総督府の長となる。

旧慣尊重、ゲリラ招降策、阿片漸禁、土地調査事業、交通・衛生制度整備を遂行。

新渡戸稲造を殖産局長に起用、製糖業を育成。

多くの施策が成功を収め、日本の植民地で収益が黒字だったのは台湾だけだったとも言われる。

児玉が総督武官制を改め、その地位を後藤に譲ろうとしたが、後藤は固辞。

治安対策上の必要や、政党の容喙を避け、中央政府を有効に動かし、軍を抑えるためにあえて武官総督にこだわったものとみられる。

後藤がこの時期、桂太郎や寺内正毅に接近したのも、当時の指導的軍人が陸軍だけの狭い利益や観点に固執していなかったからである。

1900年の厦門(アモイ)事件は、政府の方針にブレと曖昧さがあったゆえに起ったことであり、児玉・後藤の独断専行による軍事的冒険ではないとの評価は、小林道彦『児玉源太郎』と同じ。

後藤は対外膨張論者だが、経済力を背景に持たない武断的進出は否定している。

日本の台湾領有とほぼ同時期にフィリピンを占領し、門戸開放宣言で日本の対中進出を牽制したアメリカへの対抗を、後藤は主張したが、それは米国を不倶戴天の敵と見なすのではなく、同一原理の上にある競争者としての対応であり、そのための日中露の提携も、米国との対立を相互利益の共有に変えてゆくとの見通しがあってこその手段と考えていた。

帝国主義全盛時代においても国際政治をゼロサム的ゲームとして見ずに、国益の妥協点を探る努力を惜しまない後藤の姿勢は珍しい美質と思われると、著者は評している。

日露戦争では早期講和を支持、戦後1906年南満州鉄道株式会社初代総裁に。

日露戦後、朝鮮よりの第三国勢力の排除が達成されたが、それゆえに戦略自明性が消失、元老の調整力の低下と相まって(桂太郎と西園寺公望は「作られた元老」であって、明治国家を作った元勲たちとは違う)、国家機構の官僚化と国家目標の合意形成が困難になる。

日露再戦への恐れと共に、日清・日米・日英関係も徐々に悪化するが、その中で軍部の反対を押さえ込み満州軍政を断固として廃止させた伊藤博文の見事なリーダーシップが光る。

ここで満鉄について概観。

1897年シベリア鉄道より清国領を通ってウラジオストックに至る東清鉄道会社設立。

1898年旅順・大連が租借され、ハルピンより両地に至る南部支線が出来るが、むしろこちらが本線のような形勢になる。

ポーツマス条約で日本が得たのは、この東清鉄道南部支線の4分の3、長春から旅順まで。

朝鮮の安東から奉天までも清から獲得。

満鉄は単なる鉄道会社ではなく、東インド会社のような植民地経営組織。

児玉の死後、第一次西園寺内閣の下での総裁就任。

陸軍の関東都督府、外務省領事館、満鉄の三頭政治の中で主導権確保に努力。

これまでの中心的海港である営口よりも大連を中心とした発展を企図。

この時期の後藤が抱いていたのが「文装的武備」との考え。

租借地・植民地経営において、軍備増強と軍の発言権拡大ではなく、鉄道中心の経済発展が軍事的効果の面でも有効であって、現地住民の支持も得られ、清国の反発も抑えられるとする主張。

広義の安全保障の意味はあるが、狭い軍事的色彩は薄い。

利益の共有による対立の解消という視点は後藤において一貫している。

日中露と米国を念頭にした、「新旧大陸対峙論」という構想もその流れ。

1907年英露協商および日露・日仏協約により、東アジアで日英仏露が結びつき、清米の主張を退け、独墺と対立する情勢が生まれる。

満鉄併行線問題では米清連携排除だけでなく、満鉄株式を清国にも保有させる、満鉄の貨車・客車を米国から購入するなど、一方的圧迫ではなく利益誘導に重点を置く。

1908年高平・ルート協定(太平洋現状維持、中国領土保全と機会均等、ただ満州での日本の特殊権益は暗に承認)によって、日米対立は一段落する。

この手の日米協定では、他に1905年桂・タフト協定(韓国とフィリピンの支配を相互承認)、1917年石井・ランシング協定(中国本土の領土保全・機会均等という原則と日本の中国での特殊権益承認)があるが、高平・ルート協定は一番知名度が低いか。

満鉄経営と日本の対外公債支払の順調さを示し、日米関係を安定化させた。

後藤と原敬は対米関係重視で一致、しかし原はイデオロギーと世論が国際政治で大きな力を得つつあることも認識し、対米協調を第一に考慮したが、後藤は対中露連携の上で日米関係の調整を考えた。

1908年第二次桂内閣に逓信大臣として入閣、電気事業と電話普及を拡大。

西園寺前内閣で1906年出された鉄道国有法に基き、鉄道院が新設されるとその総裁も兼任。

セオドア・ルーズヴェルト政権は、高平・ルート協定に見られるように満州での対日強硬論を抑えたが、1909年タフト政権になると満鉄と東清鉄道を米国が貸与した資金で清国に買収させる満鉄中立化計画を主張するようになる。

これに対して日露はさらに接近、1910年第二次日露協約で対抗、この締結にも後藤は貢献。

なお韓国について、後藤は、外交権をすでに収めた以上、国王や官僚による悪政があったとしても内政には不干渉を貫く方針でよいと主張していた。

1911年第二次西園寺内閣が成立すると退任し在野へ。

同年辛亥革命。

後藤は辛亥革命に際して清朝支持を主張、これは利権や出兵目的ではなく、内紛回避と日清連携継続のため、以後の大陸の動乱でもある勢力を特に支持することはなかったという。

この時期の内政は桂園時代と呼ばれ、桂・寺内ら長州閥と政友会の二大勢力による対立と部分的連携が中心。

第二次西園寺内閣はより政党内閣色が濃い。

政友会の勢力伸張は、第二党の憲政本党(1910年以降は立憲国民党)が藩閥への非妥協的抵抗姿勢を崩さなかったため。

しかし徐々に、薩派と海軍が政友会に接近、それらと陸軍長州閥および国民党改革派が対立する情勢となる。

大陸への関与では前者が漸進的、後者が積極的。

この変化の背景には、政友会に融和的な桂・寺内に対して、陸軍中堅層と長老山県有朋の双方が不満を募らせていたことがある。

1912年桂が内大臣・侍従長に就任。

著者はこれを大きな失敗と見なす。

桂の個人的キャリアの上だけではなく、有力な政治家を当時の日本が失うことになったので。

直後の陸軍二個師団増設問題は、桂が黒幕ではない、桂は陸軍強硬派に同意せず、田中義一など中堅層はむしろ桂を批判していた、実は桂は軍拡延期と軍部大臣現役武官制廃止、植民地総督武官制廃止など大胆な改革を準備して世論にアピールし政党に対抗する意図だった、しかし新党結成準備が政友会を刺激、盟友西園寺とは妥協の見込みがあったが、西園寺も党下部よりの突き上げで身動きが取れず、議会外での大衆的反対運動も政友会がコントロール不能な程高まっており、結局大正政変に至った、と書かれている。

このような記述を読むと「第一次護憲運動の噛ませ犬」のイメージしかない第三次桂内閣のイメージが変わりますし、大衆運動がどんな政治勢力も制御できない程激化したと述べられていると、大正政変が「輝かしい民主主義の一里塚」ではなく非常に不吉なものに思えてくる。

新党、立憲同志会は、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸など錚々たる面々と国民党の過半(大石正巳や河野広中ら)と中央倶楽部(大浦兼武ら)を含んで結成。

人材第一主義で必ずしも政党内閣論者ではなかった後藤は、同志会を党利党略に囚われざるを得ない通常の政党ではなく、政治的国民教育機関を目指すべきであるとして、党内で孤立、脱党。

薩派・海軍・政友会が支持する第一次山本権兵衛内閣で、原敬は満鉄をも例外にしない官吏政党化を目指すが、後藤は党利党略への懸念からそれに反対。

シーメンス事件での倒閣の後、反政友会の思惑から井上馨主導で、立憲同志会・長州閥・陸軍が支持する大隈重信内閣成立(明治の隈板内閣があるから、これは第二次だ)。

後藤も同内閣をひとまず支持するが、同志会との軋轢は続く。

第一次大戦勃発にあたって、大隈内閣を誕生させた山県・井上・寺内らは、内閣の中国政策がいかなるものになるのか、大戦を国民支持獲得に利用していないかとの懸念を抱く。

元老らは日英仏露同盟緊密化と中国への特使派遣を要求するが、加藤高明外相は拒否。

1914年末総選挙で同志会が圧勝すると、大隈政権は、15年二十一カ条要求という最悪の愚行を為す。

元老と寺内・後藤はこれを強く批判、加藤外相更迭も検討されるが、政友会復活を恐れる元老は決断できず。

だが山県系官僚は反政府側にまわる。

1916年には袁世凱打倒が計画され、そのために清朝復興派と革命派の双方に援助を与える冒険主義的政策を大隈内閣は採用するが、これに対して著者が、二十一カ条要求よりも強い批判的筆致を取っているのが面白い。

山県系・寺内・後藤はいよいよ倒閣運動に乗り出す。

その中で、大隈後の加藤後継は拒否するが、同志会との協力は維持し政友会に対抗すべきとの意見が(山県も含め)あったが、中国政策の転換を最重要視する後藤は断固反対。

大隈辞任後、山県・大山巌・松方正義・西園寺の(この時点でもう四人しかしない)元老が協議して、結局寺内を総理に推薦。

後藤の意見通り、超然内閣として組閣、後藤自身は内相就任(戦前日本では内相は首相の幕僚で副首相格)、外相は親露仏派の本野一郎。

1916年立憲同志会は憲政会となる。

寺内内閣は、同志会結成に加わらなかった犬養毅の国民党を与党化し、政友会とも部分的に連携し、17年総選挙で憲政会を大敗させる。

外交調査会を設置、有力者を国務大臣待遇で参加させるが、加藤高明は除外。

満蒙・山東の特殊権益拡張を目指すと同時に、中国の領土保全と内政不干渉を尊重する政策に転換、日中協力を推進するが一方で黄禍論を招かないように列国協調も同時に追求。

前内閣とは逆に中国の対独参戦を推進、ただ段祺瑞内閣への西原借款は内政不干渉という後藤の主張に反する面があり、後藤も途中から反対にまわる。

米国とも石井・ランシング協定で中国での特殊権益を認めさせるという成果を挙げる。

この寺内内閣も教科書的には「米騒動を引き起こして倒れた、原敬政党内閣の露払いの非民主的超然内閣」というイメージしかないが、本書の記述を読むと、実際には大隈前内閣よりもはるかにまともな施策を取ってますよ。

日中・日米関係を修復することに成功したが、そこでロシア革命という驚天動地の出来事が起る。

失敗に終わった干渉戦争は、当初は1918年ブレスト・リトフスク講和以後、ロシアの穏健派を政権の座に就け、対独戦線を再構築する意図からなされた。

本野が病気で、後藤が外相に就任、寺内も病に罹っていたので、後藤が後継首相になる可能性もあった。

反ボリシェヴィキ勢力を過大評価して積極的出兵論を主張した後藤だが、原敬は対米関係も考慮して慎重。

結果としては、イデオロギー対立と内戦という時代を正確に見抜き、有効に対処したのは、後藤ではなく原だった。

寺内辞職、原内閣成立、後藤は欧米旅行に出かけ、米国台頭と欧州没落、ウィルソン主義敗北と厳しい国際対立、ヴェルサイユ体制の脆弱性を目撃。

帰国後、1920~23年4月まで(月まで書いたのは、要は関東大震災の前だと言うこと)東京市長を務める。

戦後のアジア・太平洋地域はワシントン体制下に置かれたが、その弱点として(1)列強の権益維持と中国ナショナリズム抑圧、(2)中国内部の不統一と内乱、(3)ソ連の不参加と反対傾向、がある。

しかし、後藤によれば、ワシントン体制は戦前の国際関係を否定する消極的なもので、積極的に列強協調で何をするかが明確でなく具体策がない、日中露連携を持論とする後藤からすれば米英と組み中ソを抑えるワシントン体制は倒錯したものに映った。

1919・20年のカラハン宣言を皮切りに、ソ連は中国ナショナリズムに訴えようとしており、日米英vs中ソの状況が固まれば、(たとえ米英の支持があった場合でも)日本にとって最も重要な満州の権益が危うい、ネップ採用後のソ連は(かつての帝政ロシアと同様)冷静な交渉を通じた連携可能な相手と後藤は見た。

1923年ソ連からヨッフェを招請、会談を行い、これが日ソ非公式協議の契機になり、25年日ソ国交樹立。

ワシントン体制と中ソの反帝国主義が正面衝突するような情勢を避け、既得の満州利権だけは承認するような、反帝国主義的でない緩やかな日中ソ結合を後藤は目指し、米英と共に中国に圧力をかけるというワシントン体制内の方法を採らず。

ここでもゼロサム的思考法をしない後藤の特質が現われている。

孫文が死の直前に日本で行った大アジア主義演説も、著者によれば日本のあらゆる権益を否定するものというより、ワシントン体制からの離脱を呼びかける現実的な意味合いがあったという。

23年8月加藤友三郎首相が死去、政友会は分裂気味で憲政会も弱体、山県閥のような強力な非政党勢力も無く、第二次山本権兵衛内閣成立、政友会・憲政会・革新倶楽部の三党から入閣予定、後藤内相、田中義一陸相、犬養毅逓信相、だが直後に関東大震災発生。

後藤は復興院総裁としても活動。

政友会勢力を打破するために普通選挙導入を支持するが、虎の門事件で内閣総辞職、同事件で懲戒免職となった元内務省警務部長の正力松太郎に資金を与え、正力は読売新聞経営に乗り出すことになる。

政党政治・多数政治批判と政治の倫理化を政党内閣時代にも説き続ける。

1925年北京関税会議が失敗、日米英主導のワシントン体制下での中国発展は困難との印象を深めた中国国民党は前年からの国共合作を継続し翌26年には北伐を開始、革命外交を展開し列強の諸権益の一方的回収に向かう。

ワシントン体制が中ソによって崩され、少なからぬ権益を破壊された米英は一時中国と不和になるが、後に関係を改善し逆に中国の歓心を買うような態度を見せ、一方満州で米英よりもはるかに重要な権益を持つ日本が抜き差しならぬ日中対立に追い込まれ孤立化するというその後の歴史の展開は、後藤が懸念した通りだと言えないこともない。

1927年訪ソした後藤は、スターリンの現実主義をある意味信頼し、一貫してイデオロギーを過大視せず、ソ連とコミンテルンの活動を区別していた、と書かれているのを見ると、少し甘いのでは?との疑念も持たないではない。

だが陸軍、特に関東軍のソ連への過剰警戒が満州事変やその後の華北分離政策に繋がり、それが結果として大日本帝国を破滅させたことを思えば、もし日ソ関係が現実主義的な相互了解によって安定していれば、無謀な対外膨張が試みられることもなかったかもしれない、日ソ関係の不安定が戦前の安保上の弱点であったことは事実なのだから、と本書では記されている(もちろん異常なイデオロギー国家であるソ連との正常で安定した外交関係はどこの国にとっても難しく、一方的に日本の責任では決してありえないにしても)。

それに繰り返し強調されるように、後藤の旧大陸協調論は米国との全面対立ではなく最終的には両者の利益の統合・共有を目指すものであり、

松岡洋右の三国同盟プラス日ソ中立条約を、後藤の新旧大陸対峙論の新版と見ることは、その意味で誤りである。

最後に著者は「防衛主義的積極主義」という言葉を取り上げ、日本本土、朝鮮半島、満州、華北、中国全土と、正当な防衛意識から出発したはずが、近接する領土への懸念から防衛線をどこまでも拡大してかえって自らへの脅威を増してしまう誤りを指摘している。

まして、特に20世紀以降、交通・運輸技術と兵器の発達によって、どの国にとっても「無条件生存可能性」は消滅したのに、実現不可能な「絶対不敗国防圏」を作ろうとして、中国ナショナリズム、ソ連軍事力、米経済力のすべてを敵に回した、実際にはその三者に一切脅かされない体制など現実にはあり得ない、過剰警戒とゼロサム的発想で国策を決定したために、とてつもなく悲惨な結果がもたらされた、それを考えれば、後藤の外交ヴィジョンにも現在学ぶところがあるとされている。

 

 

 

サブテキストのつもりで読んだが、背景説明が非常に有益。

異様に詳しいメモを取ったが、それだけの価値はある。

ご一読をお勧めしておきます。

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