万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年9月12日

土井健司 『キリスト教は戦争好きか  キリスト教的思考入門』 (朝日選書)

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クリスチャンで神学部教授の著者が、タイトルに代表されるようなキリスト教へのマイナスイメージに答える本。

第一部は五世紀半ばくらいまでのキリスト教の歴史、第二部で一神教、戦争、貧困、生命についての論考を記す。

第一部は阿刀田高『新約聖書を知っていますか』より簡略だが、なかなか良好。

三位一体説は多神論はもちろん様態論(父・子・聖霊は一つの神の三つの側面)でもない。

アウグスティヌスは、ドナトゥス派の棄教者復帰拒否を批判して、秘蹟における人効論否定、事効論採用。

教会の聖性は、それに属する者が聖なのではなく(属する者はあくまで罪深き人間に過ぎない)、教会全体が聖霊に導かれていることの由来するもの。

(この辺の話については堀米庸三『正統と異端』が非常に興味深いので一読を薦める。)

ペラギウス派との論争では、人間は自らの行為によってではなく、神の恵みで救われる、原罪のため自力での救済は不可能と主張。

第二部ではまず一神教の問題について。

よく言われるように唯一神の観念は偏狭で排他的なものなのか?

一神教より多神教を寛容さに勝るがゆえに善しとする人々がいるが、多神教はあくまで、ある同一宗教内における多神であって、外部の神を認めるものではないはずと著者は指摘。

それと本書にあることではないが、多神教内部でも最高神や神々の序列はあるのとの文章も読んだことがあり、一神教と多神教を峻別して後者の優位を説くような言説には違和感を感じる。

はっきり言えば、塩野七生『ローマ人の物語』におけるような一神教・キリスト教批判は、今となっては全く共感できるところが無い。

また、多神教的日本の宗教的寛容を自画自賛するような薄っぺらなナショナリズムにも、もはやついて行けません。

今の日本を見ると、厳格な宗教意識が無い日本人の「欠陥」をあげつらうという、かつてあれほど忌み嫌っていた言説にも一理はあるとすら思えてくる。

続いて戦争について。

キリスト教は好戦的か?

ローマ帝国による公認を経て、キリスト教会は信者の軍務従事を容認するようになった。

そして、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは精緻な論考でキリスト教的正戦論を組み立てた。

これに対し著者は絶対平和主義こそ真にキリスト教的考えであるとしているが、個人的には、歴史家ホイジンガが『朝の影のなかに』で、キリスト教的正戦論を守りながら、ナチの適者生存・生存闘争説、侵略戦争の美化・自己目的化に対し、満身の怒りを込めて火の出るような批判を加えていることに、深い感銘を覚える。

また著者自身も以下のように記している。

そもそも宗教というものにはどこか極端なところがあります。その極端な部分が現実の世界で利用され、大きな悲劇を生むことがありました。そのためキリスト者としては絶対的平和主義を支持するのですが、この社会のなかでそれを押し通してよいのかどうかは躊躇します。もしかすると古代のキリスト教会はそうした危険性を知っていたのかもしれません。四世紀まで見られる[軍事についての]曖昧さは古代教会の知恵であった可能性もあります。ただそれでも、戦争は反キリスト教的であること、そして戦争の悲惨さは訴えていかねばならないという思いに変わりはありません。

富について。

キリスト教が社会の主流になるにつれ、富者批判が後退していくが、これも軍務と同様、現実に即した対応と言え、個人的にはほとんど悪いイメージを持たない。

同時に古代以来、教会は救貧活動も活発に行い、その例として(背教者ユリアヌス帝の論敵としても有名な)ナジアンゾスのグレゴリウスによるハンセン病患者治療活動を挙げている。

一方、近代のピューリタニズムは貧困を単に怠惰の印と見る傾向が強く、それが現代アメリカの格差社会の背景を成している。

生命について。

キリスト教は人格的相互関係性を第一に尊重。

これはヴァイタリズム(生命至上主義)とは異なる。

また同時に個人の内在的能力のみを重視したクォリティ・オブ・ライフでもない。

そういう観点から、著者は脳死・臓器移植に懐疑的な見方を示している。

 

 

面白い。

とても良い。

共感できる点が多々あった。

私はクリスチャンでも何でもないが、皮相な一神教・キリスト教批判には距離を感じるし、むしろ(特にカトリックなど伝統的な)キリスト教に対する好意的関心は高まっているくらいなので。

皆様にもお勧めします。

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