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2015年9月29日

坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成  「宮中」の制度化と立憲制の導入』 (講談社学術文庫)

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1991年吉川弘文館刊の文庫化。

本書で1992年サントリー学芸賞受賞とのこと。

西南戦争から憲法制定まで、明治10~22年が叙述対象。

国家意思を安定的に決定し運営するシステムとしての「内閣」を確立し、制度化するまでの伊藤博文の努力を描写する。

ただ、本書の序盤では参議を中心にした実力者の集団を「内閣」と呼称しているようで、注意を要する。

参議は廃藩置県後の太政官下の三院制(正院・左院・右院)で、正院を太政大臣・左右大臣と共に構成した役職。

薩長を中心とした実力者は、多くがこの参議に任命されており、これが最も核心的要職と思われる。

各省の卿は、その下に置かれ、行政長官としての役割で参議と兼任する者が多かった。

他の政治的プレイヤーとして、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視らの「大臣」、天皇・皇族・側近らの「宮中」が登場。

これら「内閣」、「大臣」、「宮中」の絡み合いで、明治中期の政局は展開する。

自由民権派からの藩閥政府攻撃に対する防御だけでなく、宮中の政治介入を防止することも制度化の目的。

明治国家を特殊なものとして見るのではなく、第一次世界大戦前に世界の主流であった君主制の一形態として考察。

1878年、これまで明治政府を強力に指導してきた大久保利通が暗殺される。

危機への対応として、天皇と内閣の一体化による政府強化が図られる。

しかし一方で、元田永孚(ながざね)ら宮中の侍補グループによる天皇親政運動が惹起、元田・佐佐木高行・吉井友実・土方久元ら天皇側近らは「有司専制」とは一線を画そうとする。

1879年教育令制定過程で天皇・侍補の批判が加えられ、征韓論政変で下野していた副島種臣が宮内省入りする。

この動きに伊藤・岩倉らは反発し、侍補は廃止されるが、しかし天皇との人格的関係は続き宮中派自体は存続。

同79年末、伊藤は参議と省卿分離を提案、参議中心体制の確立を目指す。

「大臣」では、三条は性格的弱さと定見の乏しさがあり、岩倉は自らの権限に固執。

参議内でも積極財政・殖産興業政策の大隈重信と緊縮財政の井上馨との対立があったが、結局1880年分離実現。

伊藤、大隈、西郷従道、寺島宗則、川村純義、山田顕義が参議専任。

黒田清隆(開拓長官)、井上馨(外務)、山県有朋(参謀長官)、大木喬任(元老院議長)らは例外的兼任とされ、新たに省卿として大山巌(陸軍)、榎本武揚(海軍)、松方正義(内務)が就任。

さらに伊藤は、参議の「内閣」会議の開催・進行の制度化を進める。

これを見た岩倉と同年左大臣に就任した有栖川宮熾仁親王ら「大臣」は宮中派と接近。

大隈が大規模外債を提案したことにより参議「内閣」内の対立が生じると、岩倉は省卿まで下問し議論を拡散、結局最終決定は宮中に持ち込まれ、外債中止。

外債慎重派だった伊藤と大隈との協力不調のため、岩倉が勝利、「大臣」の相対的優位確保と宮中派の勢力回復をもたらす。

次いで地租の部分的米納論という政策を岩倉が提起。

これには伊藤、井上、大隈が行財政の近代化に反するとして一致して反対、支持したのは薩派のみで、天皇・宮中も反対し、米納は不可とされる。

工場払下概則と農商務省設立をめぐって大隈、井上の対立は続き、黒田の離反もあって「内閣」の求心力は低下。

在野では国会期成同盟の請願があり、政府はこれに対抗して集会条例を定めたが、伊藤は自由民権運動の一方的弾圧ではなく誘導と漸進的改革を志向。

同時に元老院と華族制度改革によって宮中への参入を企図、これが華族を政治基盤とする岩倉の反発を買う。

結局、この時点での新華族創設は制限され、士族からの上昇は大久保利通、木戸孝允、広沢真臣(長州出身・1871年暗殺)の三家のみでしかも当人の死後ということになる。

明治14(1881)年初、熱海で伊藤・井上・大隈・黒田の四者会談、本来は国会尚早論で徹底強硬派の黒田を説得する場のはずが、財政論においてまたも大隈と井上の対立が顕在化(同年設立の農商務省は緊縮財政の象徴とされている。ということは1870年設立の工部省の方は殖産興業的積極財政の表れか?)。

大隈は藩閥的背景が無く、政治的孤立化を避けるため薩派から長州閥に乗り換え、表面上緊縮政策に同意しただけであり、加えて早期国会開設によって自身の政治的飛躍を遂げたいという思惑も持っていた。

ただ伊藤との決定的対立を恐れ早期国会論は表に出さず、意見書を有栖川宮に密奏、この内容を知った岩倉は驚愕し、大隈・伊藤の共謀かと恐れたが、それは事実ではなかった。

岩倉は井上毅(太政官大書記官、法制官僚)へ反駁を命じる。

井上毅は政党内閣制を猛烈に批判、それがもたらす小党分立と破滅的帰結を説き、福沢諭吉・交詢社系の英国的立憲制論者を論難、ロエスレルと協力しプロイセン・モデルを提示、岩倉も純プロイセン型の憲法早期制定論を持つ。

これに対し、伊藤は自身の漸進論が御破算になったので、大隈、岩倉(および井上毅)双方の動きに憤激。

一時伊藤・大隈間に和解の動きがあったが、岩倉が病気で調停者の役割を果たせず。

権利を極端に限定した国会を早期に開設すべきとの井上毅に対して伊藤は強い批判を持ち、この両者が井上馨と薩派の支持を争う情勢となる。

ここで北海道官有物払下げ事件発生。

肥前大隈派の払下げ反対運動。

伊藤は薩派と大隈派の二者択一を迫られるが、軍内の勢力を見れば前者の排除は不可能であり、大隈追放へ。

伊藤と井上毅との関係回復、太政官制改革と内閣制度確立では一致(ただし華族制度改革では対立)、払下げ中止と引き換えに宮中派も説得成功、国会開設論について伊藤の主導権回復。

伊藤はイギリス型、プロイセン型双方の直輸入的適用を否定、抽象的原則を一律に当てはめる議論を拒否、歴史的個別性を重視し、日本独自の立憲制を築き上げることを主張。

つまり、ここで明治国家がプロイセン・モデルに固まったという訳ではなく、「政府=プロイセン型、民間=イギリス型」という二分論的理解は適切ではないというのが著者の評価。

しかし、伊藤と山県の対立を利用して岩倉も巻き返しを図り、大臣・参議対等の内閣制度という伊藤案は否定され、岩倉の参議・省卿兼任体制復活が通る。

華族制度改革も停止、伝統的公家秩序保持を重視する岩倉と士族身分保護を意図する井上毅が共闘。

このように、明治十四年の政変で伊藤は成功したとは言えず、大隈追放という代償を払っても完全な主導権を持てず、最高指導者になったのでもない。

とは言え、財政面では松方デフレが定着し政争の焦点となることはなくなり、薩長参議の協力が進み、宮中派の介入余地もなく、黒田が実質的に政権から外れたこともあって、「内閣」の求心力は拡大した。

1882年、伊藤は訪欧憲法調査に出発、欧化主義との批判が自身に向けられ、留守中の政治変動への不安もあったが、あえて実行。

実際の伊藤は近視眼的欧化主義者などではなく、西欧の日本蔑視に対する正当な反発心も持ちつつ、抽象的理論・学説のみならず、行政運営の実態と慣習の吸収に努め、「立憲カリスマ」の威信を得ることに成功。

伊藤が学んだシュタインも、厳密な法律学的ローマ法的な新国法学ではない、歴史・政治学的な行政学を唱える非主流派だった。

留守中、壬午軍乱による朝鮮問題緊迫化。

1883年帰国。

岩倉が死去。

この時期、福沢諭吉は『帝室論』で皇室を政治の外に置くことを主張、井上毅のプロイセン主義を批判、福沢は幕末の天皇象徴の争奪戦再現を危惧、藩閥政府だけではなく、五箇条の御誓文を民権派が自らの武器として持ち出すことを戒め、政府・民権派双方が天皇を現実政治に巻き込もうとすることを批判した。

1884年制度取調局長官に伊藤就任、同じく宮内卿兼任、天皇・宮中の欧化反対に対処しつつ巧妙に勢力拡大。

立憲改進党の華族への浸透に危機感を持ち、安定した上院を形成するために華族改革断行を決意、伊藤は社会秩序を流動化する危険を一部冒しても、新華族創出によって政府支持拡大を追求。

84年華族令制定。

反対派へも配慮し、公侯伯子男の序列で新華族は最高でも伯爵位に留め、数も全509家中29家のみ、さらに宮中関係者を優遇し、受爵者の賢所参拝を行う(それと同時に欧風夜会を開催し、そこに天皇・皇后臨席)。

また、それまで見舞金にも事欠く状態だった皇室財産を株式を基にして充実させる。

明治天皇と伊藤との間には信頼感と共に、いまだ軋轢があった。

85年、ついに内閣制度確立、総理伊藤、外相井上馨、内相山県、蔵相松方、陸相大山、海相西郷、司法相山田、文相森有礼、農商務省谷干城、逓信相榎本武揚。

伊藤は内閣の連帯責任を主張、これを政党内閣への道を開くとして井上毅が反対したが、伊藤は退ける。

「内閣職権」制定、君主ではなく首相が能動者として政務に当たり、法律勅令は内閣で起草し首相の副署が必要と定められる。

これは首相の各大臣への統制権を定めた1810年のハルデンベルク官制がモデルとされ、同時代のプロイセンではなくすでに廃止されたものを参考にしており、あくまで外国のコピーではなく日本の現実に合った制度を作り上げるべきとの伊藤の姿勢がよく現われている。

1886年、「明治十九年の陸軍紛議」、大山と「四将軍派」の対立は前者の藩閥主流派が勝利するが、伊藤は四将軍派に近い天皇にも配慮、以後天皇の意向も尊重し信頼を得る。

「機務六条」制定、閣議への天皇臨御は首相奏請時のみとする。

皇室典範起草、皇位継承問題と皇室費への議会関与否定。

これらの措置は政治から宮中を自立させ、さらに天皇個人からも自立させるもので、「非民主的」というより皇室を政治から切り離すことを意図したもの。

皇室典範は憲法と同時に制定されたが、「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」として公布されなかったと教科書に書いてあるが、本書を読むと違ったイメージを持つようになる。

1887年、宮中儀式の洋装化。

帝国主義時代の苛酷さへの対応であり、これを現代から皮相と冷笑するだけでは済まないと著者は指摘。

井上馨の鹿鳴館外交と条約改正交渉(1882~87年)も同様。

だが当然、それへの反発も国民各層に生まれ、例えば徳富蘇峰は『国民之友』で平民的欧化主義を唱え、国粋保存主義も台頭。

増税と欧化への反発から流言飛語が流され、首相官邸での仮装舞踏会で強姦事件が発生したとか、当時幼くして亡くなった内親王は実は伊藤の子だとか、伊藤と皇太后が密通しているとか、もう滅茶苦茶。

そうしたことが堂々と反対派の新聞に載っていることに驚く。

こんな醜行を避けるために不敬罪が必要なんであって、今みたいに皇室という国の根幹を成す方々にどんな誹謗中傷も言いたい放題という方がおかしいんです。

なお、本書では伝統と洋化の調整、後宮の非政治化に努めた昭憲皇后への評価が高いのが印象的。

こうした中、元「四将軍派」や宮中・三条グループの倒閣運動発生(三条自身は消極的)。

十四年政変以来閑職にあり、欧米外遊から帰国した黒田も反政府的になり、井上馨の条約改正交渉には井上毅、小村寿太郎、ボアソナード、元田、谷、山田、松方ら多くが反対。

伊藤自身、外国人判事採用には懐疑的だったこともあり、条約改正交渉は中止。

しかし、天皇が伊藤を支持したことに力を得て、当面の内閣崩壊は回避。

内閣制度創設まもなく、運営慣行が定着せず、首相交代ルールが未確定であり、伊藤の首相辞任がいつか見通せず、黒田ら薩派など非長州系の不満が高まった。

1887年、大同団結運動と三大事件建白運動という民権派の攻勢に対し、保安条例公布と大隈を外相として入閣させることにより危機を乗り切る。

87~88年にかけて憲法制定。

伊藤は天皇ではなく首相が能動者として政略指揮することを企図し大臣輔弼の原則を強調、井上毅・ロエスレル案と対立。

(ロエスレル案では大臣は君主の顧問でしかない[ただし大臣副署は必要とされる]。)

天皇と内閣を分離し、法案提出と行政権における内閣の主体性をあくまで維持、その内閣の連帯責任を強調。

これに対し井上毅は純ドイツ型の政党内閣拒否方向。

(しかし井上も反政党だが反立憲ではなく、君主の恣意的個人支配を是認するのではなく、少数の藩閥政府に厳格な規律を課した上で存続させるという方針。)

1888年、枢密院設立。

内閣と議会の対立を調停する際、天皇を矢面に立たせないための機関。

当初は予算等紛議を直接裁定することを想定したが、権限縮小。

枢密顧問官には宮中派を多く任命、伊藤が首相を辞任し枢密院議長に就任、後任首相は黒田。

保守派への配慮から、皇室典範を憲法より上位に位置付け枢密院で先に審議、憲法案作成に当たり西欧法への絶えない参照があったことには触れず、欽定憲法であることを強調。

草案起草者である伊藤自身が恣意的に作成したものではないとして、憲法に必要な権威付けを行うためであったが、それにより明治憲法は「不磨の大典」として扱われ、首相の権限拡大など後世必要となった改正が困難になったが、これはやむを得ないか。

しかし枢密院での審議では、伊藤は君主権の制限では譲らず、内閣が天皇・(法律・予算については)議会双方に責任を持つ行政の中心とし、同時に議会の法案議決権と予算審議権を確保(ロエスレルらは「新規の収入」についてのみ)。

ここで注目した記述がある。

天皇が米国大統領のごとく法案拒否権を持つ(米国同様、議会で再度三分の二以上の賛成なら成立する)ことを提案した人物として文中に「森が・・・・・」「森が・・・・・」と出てくるんですが、「森」って森有礼しかいませんよね?

過度の欧化論者として国粋主義者に暗殺された人ですが、変なところで天皇中心主義的ですねえ。

私は純粋な民主主義自体が無条件で良いものとは全く思わないので、議会多数派の意思を絶対視しないことは何とも思わないが、選挙権拡大など個々の政治課題で議会と天皇が正面衝突するような制度は、日本と皇室にとって危険極まりない。

伊藤が猛反発したのも当然です。

この件を含め、能動的君主を想定するような意見のみは、やや強引な議事運営を行ってでも葬り去る。

諸列強および民権派へも配慮。

議会の法案提出権(議決権だけでなく)を認める。

上奏権は大臣弾劾を含めると天皇が政争に巻き込まれる恐れがあるので、それを除いて認める。

結果、中江兆民含む民権派にも受け入れられるものになった(中江の帝国憲法に対する反対は誇張されている)。

保守的観点から、天皇の立法権行使に関して、必要な国会の「承認」が「協賛」に変わったが、国会の議決が無ければ法律が成立しないという実質は変わらず。

大臣輔弼の原則のみ定めて、将来どのような内閣を形成するかは規定せず、政党内閣もありうる。

反欧化の風潮にも配慮し、国粋的文脈に憲法を位置付けたが、これは当時において憲法定着のためには批判すべきものではないのではと思える。

天皇は伊藤を深く信頼し、枢密院審議へ積極的に参加、「立憲君主」へと変化を遂げる。

伊藤は以下のように回想している。

当時院内には極端なる保守主義の暗流が存していたにも拘らず、陛下の御聖断は殆んど自由・進歩の思想に傾かせられた

山県と井上毅らは1889年「内閣官制」を制定、主任大臣副署主義を採用、首相権限は縮小され、後任の松方内閣では首相松方がリーダーシップに乏しく、元老による集団指導に政治の重点が移る。

第二次伊藤内閣で乗り切った日清戦争後には、内閣と軍部の緊張という、憲法制定時には想定し得なかった問題が発生。

伊藤は自由党と連携し、立憲政友会を設立、1907年には公式令で首相副署主義を復活させ、首相権限を強める。

明治天皇は同時代のヴィクトリア英女王よりも君主権限が制度化されていたが、議会対策や元老間対立においては貴重な調停的役割を果たし得た。

本書末尾で、尾崎行雄がかつて対立した伊藤を高く評価し、1931年牧野伸顕に政党政治への失望と藩閥政府への再評価を語っているのが印象的である。

大日本帝国憲法について、この後伊藤が意図した通りに、首相権限の拡大と(軍部大臣を含めた)閣僚任免権明確化という、必要な改正を行い得なかったのは痛恨の極みです。

それさえ可能だったならば、国民の権利関係の条項拡充など後でいくらでも出来たはず。

「天皇主権」という規定も、天皇個人ではなく、天皇が象徴する国家の歴史的伝統に最高の権威が宿ると解釈すれば、今現在生きている民衆の多数派の意思を絶対視するものと安易に解されてしまう「国民主権」より、よほど正当性があると私は考えます。

このようなことを考えると、伊藤は最も好ましいが、極めて細い道を選択してきたんだな、やはり近代日本の最優秀の政治家だというのが、本書を読んだ全体的感想です。

 

 

最後に補論で明治前半期の天皇と軍部という文章がある。

明治天皇は西郷隆盛への深い敬愛の念を持ち、西郷の下野と死去後に軍務への意欲が薄れる。

これに対して大山巌、西郷従道らが天皇と軍との結びつきを求めたのは、政府からの軍の独立性への欲求というより、天皇との一体性をもって軍を支えることが急務と見た悲観的観測からだとされている。

また明治十九年の陸軍紛議での四将軍派など陸軍非主流派への天皇の好意は、人脈的に四将軍派が宮中派と近かったこと、軍内の対抗勢力を存続させ自身の政治的裁量余地を拡大しておこうとする為政者の本能に加えて、西郷を敗死させた主流派へのわだかまりがあったからだと評されている。

紛議後、山県は諫奏を提出、軍への積極的コミットメントを天皇に求め、天皇もそれに応じ演習、式典への参加が多くなる。

その背景として、憲法発布時の大赦で西郷は名誉回復され正三位を与えられたこと、もはや陸軍主流派以外の政治的選択肢が無かったことで、天皇と藩閥政府全体との関係が改善したことがある。

またそれは山県の威信拡大を結果することにもなった。

 

 

 

非常に中身が濃く、重要な作品。

明治中期の十数年間のみにおける詳細な政治過程をたどるので、頭に入りやすい。

細かな史実を暗記する良いきっかけになる。

高校日本史を大体マスターしていれば、十分読めるレベル。

しかし漢文書き下し調の引用文が面倒で、かなり読むスピードが落ちる。

じっくり見れば意味は取れるし、それでわからなければ、とばせばよい。

少々骨が折れるが、挑戦する価値は十分ある良書。

2015年9月21日

北岡伸一 『後藤新平  外交とヴィジョン』 (中公新書)

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著者の作品では『清沢洌』『新世紀の世界と日本』を紹介済み。

本書は1988年刊。

後藤新平は首相にならなかった戦前の政治家の中では知名度がかなり高く、東日本大震災の後では、関東大震災後の復興計画主導者としても再び注目された。

本書は外交家としての面に重点を置いた伝記。

明治初期の数年を除いて外交官出身以外の外相は井上馨と大隈重信のみ。

事実上後藤が最初の非外交官出身外相。

以後も田中義一(首相兼任)、宇垣一成、野村吉三郎、豊田貞次郎のみ。

経済・文化を含む国際交流という広義の外交での貢献大。

その外交理念は、親米英主義・アジア主義・単一国家発展主義のいずれとも異なる、日中露提携論だった。

1857年岩手水沢生まれ。

同郷に高野長英、斎藤実。

高野とは遠縁にあたり、甥に自民党副総裁になった椎名悦三郎がいる。

医学校を卒業、愛知県病院長を経て内務局衛生局に入り、ドイツ留学。

有機体としての国家、歴史慣習に沿った国際関係という発想を得て、帰国後衛生局長就任。

理論の単純適用を戒め、実地に沿った応用を心掛ける。

ここで相馬事件という旧大名家の相続争いに巻き込まれ、精神異常判断にからむスキャンダル訴訟で半年間入獄するという目に合うが、結局無罪となる。

日清戦争後の復員検疫事業で児玉源太郎に起用され、再度衛生局長に。

社会政策・救貧事業に取り組むが必ずしも成功せず。

課題が明白でバックに実力者の支持がある時には成功するが、自身の政治基盤は貧弱という傾向あり。

1898年台湾総督府民政長官に就任、実質ナンバー2の役職だが、児玉総督が兼任のため事実上総督府の長となる。

旧慣尊重、ゲリラ招降策、阿片漸禁、土地調査事業、交通・衛生制度整備を遂行。

新渡戸稲造を殖産局長に起用、製糖業を育成。

多くの施策が成功を収め、日本の植民地で収益が黒字だったのは台湾だけだったとも言われる。

児玉が総督武官制を改め、その地位を後藤に譲ろうとしたが、後藤は固辞。

治安対策上の必要や、政党の容喙を避け、中央政府を有効に動かし、軍を抑えるためにあえて武官総督にこだわったものとみられる。

後藤がこの時期、桂太郎や寺内正毅に接近したのも、当時の指導的軍人が陸軍だけの狭い利益や観点に固執していなかったからである。

1900年の厦門(アモイ)事件は、政府の方針にブレと曖昧さがあったゆえに起ったことであり、児玉・後藤の独断専行による軍事的冒険ではないとの評価は、小林道彦『児玉源太郎』と同じ。

後藤は対外膨張論者だが、経済力を背景に持たない武断的進出は否定している。

日本の台湾領有とほぼ同時期にフィリピンを占領し、門戸開放宣言で日本の対中進出を牽制したアメリカへの対抗を、後藤は主張したが、それは米国を不倶戴天の敵と見なすのではなく、同一原理の上にある競争者としての対応であり、そのための日中露の提携も、米国との対立を相互利益の共有に変えてゆくとの見通しがあってこその手段と考えていた。

帝国主義全盛時代においても国際政治をゼロサム的ゲームとして見ずに、国益の妥協点を探る努力を惜しまない後藤の姿勢は珍しい美質と思われると、著者は評している。

日露戦争では早期講和を支持、戦後1906年南満州鉄道株式会社初代総裁に。

日露戦後、朝鮮よりの第三国勢力の排除が達成されたが、それゆえに戦略自明性が消失、元老の調整力の低下と相まって(桂太郎と西園寺公望は「作られた元老」であって、明治国家を作った元勲たちとは違う)、国家機構の官僚化と国家目標の合意形成が困難になる。

日露再戦への恐れと共に、日清・日米・日英関係も徐々に悪化するが、その中で軍部の反対を押さえ込み満州軍政を断固として廃止させた伊藤博文の見事なリーダーシップが光る。

ここで満鉄について概観。

1897年シベリア鉄道より清国領を通ってウラジオストックに至る東清鉄道会社設立。

1898年旅順・大連が租借され、ハルピンより両地に至る南部支線が出来るが、むしろこちらが本線のような形勢になる。

ポーツマス条約で日本が得たのは、この東清鉄道南部支線の4分の3、長春から旅順まで。

朝鮮の安東から奉天までも清から獲得。

満鉄は単なる鉄道会社ではなく、東インド会社のような植民地経営組織。

児玉の死後、第一次西園寺内閣の下での総裁就任。

陸軍の関東都督府、外務省領事館、満鉄の三頭政治の中で主導権確保に努力。

これまでの中心的海港である営口よりも大連を中心とした発展を企図。

この時期の後藤が抱いていたのが「文装的武備」との考え。

租借地・植民地経営において、軍備増強と軍の発言権拡大ではなく、鉄道中心の経済発展が軍事的効果の面でも有効であって、現地住民の支持も得られ、清国の反発も抑えられるとする主張。

広義の安全保障の意味はあるが、狭い軍事的色彩は薄い。

利益の共有による対立の解消という視点は後藤において一貫している。

日中露と米国を念頭にした、「新旧大陸対峙論」という構想もその流れ。

1907年英露協商および日露・日仏協約により、東アジアで日英仏露が結びつき、清米の主張を退け、独墺と対立する情勢が生まれる。

満鉄併行線問題では米清連携排除だけでなく、満鉄株式を清国にも保有させる、満鉄の貨車・客車を米国から購入するなど、一方的圧迫ではなく利益誘導に重点を置く。

1908年高平・ルート協定(太平洋現状維持、中国領土保全と機会均等、ただ満州での日本の特殊権益は暗に承認)によって、日米対立は一段落する。

この手の日米協定では、他に1905年桂・タフト協定(韓国とフィリピンの支配を相互承認)、1917年石井・ランシング協定(中国本土の領土保全・機会均等という原則と日本の中国での特殊権益承認)があるが、高平・ルート協定は一番知名度が低いか。

満鉄経営と日本の対外公債支払の順調さを示し、日米関係を安定化させた。

後藤と原敬は対米関係重視で一致、しかし原はイデオロギーと世論が国際政治で大きな力を得つつあることも認識し、対米協調を第一に考慮したが、後藤は対中露連携の上で日米関係の調整を考えた。

1908年第二次桂内閣に逓信大臣として入閣、電気事業と電話普及を拡大。

西園寺前内閣で1906年出された鉄道国有法に基き、鉄道院が新設されるとその総裁も兼任。

セオドア・ルーズヴェルト政権は、高平・ルート協定に見られるように満州での対日強硬論を抑えたが、1909年タフト政権になると満鉄と東清鉄道を米国が貸与した資金で清国に買収させる満鉄中立化計画を主張するようになる。

これに対して日露はさらに接近、1910年第二次日露協約で対抗、この締結にも後藤は貢献。

なお韓国について、後藤は、外交権をすでに収めた以上、国王や官僚による悪政があったとしても内政には不干渉を貫く方針でよいと主張していた。

1911年第二次西園寺内閣が成立すると退任し在野へ。

同年辛亥革命。

後藤は辛亥革命に際して清朝支持を主張、これは利権や出兵目的ではなく、内紛回避と日清連携継続のため、以後の大陸の動乱でもある勢力を特に支持することはなかったという。

この時期の内政は桂園時代と呼ばれ、桂・寺内ら長州閥と政友会の二大勢力による対立と部分的連携が中心。

第二次西園寺内閣はより政党内閣色が濃い。

政友会の勢力伸張は、第二党の憲政本党(1910年以降は立憲国民党)が藩閥への非妥協的抵抗姿勢を崩さなかったため。

しかし徐々に、薩派と海軍が政友会に接近、それらと陸軍長州閥および国民党改革派が対立する情勢となる。

大陸への関与では前者が漸進的、後者が積極的。

この変化の背景には、政友会に融和的な桂・寺内に対して、陸軍中堅層と長老山県有朋の双方が不満を募らせていたことがある。

1912年桂が内大臣・侍従長に就任。

著者はこれを大きな失敗と見なす。

桂の個人的キャリアの上だけではなく、有力な政治家を当時の日本が失うことになったので。

直後の陸軍二個師団増設問題は、桂が黒幕ではない、桂は陸軍強硬派に同意せず、田中義一など中堅層はむしろ桂を批判していた、実は桂は軍拡延期と軍部大臣現役武官制廃止、植民地総督武官制廃止など大胆な改革を準備して世論にアピールし政党に対抗する意図だった、しかし新党結成準備が政友会を刺激、盟友西園寺とは妥協の見込みがあったが、西園寺も党下部よりの突き上げで身動きが取れず、議会外での大衆的反対運動も政友会がコントロール不能な程高まっており、結局大正政変に至った、と書かれている。

このような記述を読むと「第一次護憲運動の噛ませ犬」のイメージしかない第三次桂内閣のイメージが変わりますし、大衆運動がどんな政治勢力も制御できない程激化したと述べられていると、大正政変が「輝かしい民主主義の一里塚」ではなく非常に不吉なものに思えてくる。

新党、立憲同志会は、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸など錚々たる面々と国民党の過半(大石正巳や河野広中ら)と中央倶楽部(大浦兼武ら)を含んで結成。

人材第一主義で必ずしも政党内閣論者ではなかった後藤は、同志会を党利党略に囚われざるを得ない通常の政党ではなく、政治的国民教育機関を目指すべきであるとして、党内で孤立、脱党。

薩派・海軍・政友会が支持する第一次山本権兵衛内閣で、原敬は満鉄をも例外にしない官吏政党化を目指すが、後藤は党利党略への懸念からそれに反対。

シーメンス事件での倒閣の後、反政友会の思惑から井上馨主導で、立憲同志会・長州閥・陸軍が支持する大隈重信内閣成立(明治の隈板内閣があるから、これは第二次だ)。

後藤も同内閣をひとまず支持するが、同志会との軋轢は続く。

第一次大戦勃発にあたって、大隈内閣を誕生させた山県・井上・寺内らは、内閣の中国政策がいかなるものになるのか、大戦を国民支持獲得に利用していないかとの懸念を抱く。

元老らは日英仏露同盟緊密化と中国への特使派遣を要求するが、加藤高明外相は拒否。

1914年末総選挙で同志会が圧勝すると、大隈政権は、15年二十一カ条要求という最悪の愚行を為す。

元老と寺内・後藤はこれを強く批判、加藤外相更迭も検討されるが、政友会復活を恐れる元老は決断できず。

だが山県系官僚は反政府側にまわる。

1916年には袁世凱打倒が計画され、そのために清朝復興派と革命派の双方に援助を与える冒険主義的政策を大隈内閣は採用するが、これに対して著者が、二十一カ条要求よりも強い批判的筆致を取っているのが面白い。

山県系・寺内・後藤はいよいよ倒閣運動に乗り出す。

その中で、大隈後の加藤後継は拒否するが、同志会との協力は維持し政友会に対抗すべきとの意見が(山県も含め)あったが、中国政策の転換を最重要視する後藤は断固反対。

大隈辞任後、山県・大山巌・松方正義・西園寺の(この時点でもう四人しかしない)元老が協議して、結局寺内を総理に推薦。

後藤の意見通り、超然内閣として組閣、後藤自身は内相就任(戦前日本では内相は首相の幕僚で副首相格)、外相は親露仏派の本野一郎。

1916年立憲同志会は憲政会となる。

寺内内閣は、同志会結成に加わらなかった犬養毅の国民党を与党化し、政友会とも部分的に連携し、17年総選挙で憲政会を大敗させる。

外交調査会を設置、有力者を国務大臣待遇で参加させるが、加藤高明は除外。

満蒙・山東の特殊権益拡張を目指すと同時に、中国の領土保全と内政不干渉を尊重する政策に転換、日中協力を推進するが一方で黄禍論を招かないように列国協調も同時に追求。

前内閣とは逆に中国の対独参戦を推進、ただ段祺瑞内閣への西原借款は内政不干渉という後藤の主張に反する面があり、後藤も途中から反対にまわる。

米国とも石井・ランシング協定で中国での特殊権益を認めさせるという成果を挙げる。

この寺内内閣も教科書的には「米騒動を引き起こして倒れた、原敬政党内閣の露払いの非民主的超然内閣」というイメージしかないが、本書の記述を読むと、実際には大隈前内閣よりもはるかにまともな施策を取ってますよ。

日中・日米関係を修復することに成功したが、そこでロシア革命という驚天動地の出来事が起る。

失敗に終わった干渉戦争は、当初は1918年ブレスト・リトフスク講和以後、ロシアの穏健派を政権の座に就け、対独戦線を再構築する意図からなされた。

本野が病気で、後藤が外相に就任、寺内も病に罹っていたので、後藤が後継首相になる可能性もあった。

反ボリシェヴィキ勢力を過大評価して積極的出兵論を主張した後藤だが、原敬は対米関係も考慮して慎重。

結果としては、イデオロギー対立と内戦という時代を正確に見抜き、有効に対処したのは、後藤ではなく原だった。

寺内辞職、原内閣成立、後藤は欧米旅行に出かけ、米国台頭と欧州没落、ウィルソン主義敗北と厳しい国際対立、ヴェルサイユ体制の脆弱性を目撃。

帰国後、1920~23年4月まで(月まで書いたのは、要は関東大震災の前だと言うこと)東京市長を務める。

戦後のアジア・太平洋地域はワシントン体制下に置かれたが、その弱点として(1)列強の権益維持と中国ナショナリズム抑圧、(2)中国内部の不統一と内乱、(3)ソ連の不参加と反対傾向、がある。

しかし、後藤によれば、ワシントン体制は戦前の国際関係を否定する消極的なもので、積極的に列強協調で何をするかが明確でなく具体策がない、日中露連携を持論とする後藤からすれば米英と組み中ソを抑えるワシントン体制は倒錯したものに映った。

1919・20年のカラハン宣言を皮切りに、ソ連は中国ナショナリズムに訴えようとしており、日米英vs中ソの状況が固まれば、(たとえ米英の支持があった場合でも)日本にとって最も重要な満州の権益が危うい、ネップ採用後のソ連は(かつての帝政ロシアと同様)冷静な交渉を通じた連携可能な相手と後藤は見た。

1923年ソ連からヨッフェを招請、会談を行い、これが日ソ非公式協議の契機になり、25年日ソ国交樹立。

ワシントン体制と中ソの反帝国主義が正面衝突するような情勢を避け、既得の満州利権だけは承認するような、反帝国主義的でない緩やかな日中ソ結合を後藤は目指し、米英と共に中国に圧力をかけるというワシントン体制内の方法を採らず。

ここでもゼロサム的思考法をしない後藤の特質が現われている。

孫文が死の直前に日本で行った大アジア主義演説も、著者によれば日本のあらゆる権益を否定するものというより、ワシントン体制からの離脱を呼びかける現実的な意味合いがあったという。

23年8月加藤友三郎首相が死去、政友会は分裂気味で憲政会も弱体、山県閥のような強力な非政党勢力も無く、第二次山本権兵衛内閣成立、政友会・憲政会・革新倶楽部の三党から入閣予定、後藤内相、田中義一陸相、犬養毅逓信相、だが直後に関東大震災発生。

後藤は復興院総裁としても活動。

政友会勢力を打破するために普通選挙導入を支持するが、虎の門事件で内閣総辞職、同事件で懲戒免職となった元内務省警務部長の正力松太郎に資金を与え、正力は読売新聞経営に乗り出すことになる。

政党政治・多数政治批判と政治の倫理化を政党内閣時代にも説き続ける。

1925年北京関税会議が失敗、日米英主導のワシントン体制下での中国発展は困難との印象を深めた中国国民党は前年からの国共合作を継続し翌26年には北伐を開始、革命外交を展開し列強の諸権益の一方的回収に向かう。

ワシントン体制が中ソによって崩され、少なからぬ権益を破壊された米英は一時中国と不和になるが、後に関係を改善し逆に中国の歓心を買うような態度を見せ、一方満州で米英よりもはるかに重要な権益を持つ日本が抜き差しならぬ日中対立に追い込まれ孤立化するというその後の歴史の展開は、後藤が懸念した通りだと言えないこともない。

1927年訪ソした後藤は、スターリンの現実主義をある意味信頼し、一貫してイデオロギーを過大視せず、ソ連とコミンテルンの活動を区別していた、と書かれているのを見ると、少し甘いのでは?との疑念も持たないではない。

だが陸軍、特に関東軍のソ連への過剰警戒が満州事変やその後の華北分離政策に繋がり、それが結果として大日本帝国を破滅させたことを思えば、もし日ソ関係が現実主義的な相互了解によって安定していれば、無謀な対外膨張が試みられることもなかったかもしれない、日ソ関係の不安定が戦前の安保上の弱点であったことは事実なのだから、と本書では記されている(もちろん異常なイデオロギー国家であるソ連との正常で安定した外交関係はどこの国にとっても難しく、一方的に日本の責任では決してありえないにしても)。

それに繰り返し強調されるように、後藤の旧大陸協調論は米国との全面対立ではなく最終的には両者の利益の統合・共有を目指すものであり、

松岡洋右の三国同盟プラス日ソ中立条約を、後藤の新旧大陸対峙論の新版と見ることは、その意味で誤りである。

最後に著者は「防衛主義的積極主義」という言葉を取り上げ、日本本土、朝鮮半島、満州、華北、中国全土と、正当な防衛意識から出発したはずが、近接する領土への懸念から防衛線をどこまでも拡大してかえって自らへの脅威を増してしまう誤りを指摘している。

まして、特に20世紀以降、交通・運輸技術と兵器の発達によって、どの国にとっても「無条件生存可能性」は消滅したのに、実現不可能な「絶対不敗国防圏」を作ろうとして、中国ナショナリズム、ソ連軍事力、米経済力のすべてを敵に回した、実際にはその三者に一切脅かされない体制など現実にはあり得ない、過剰警戒とゼロサム的発想で国策を決定したために、とてつもなく悲惨な結果がもたらされた、それを考えれば、後藤の外交ヴィジョンにも現在学ぶところがあるとされている。

 

 

 

サブテキストのつもりで読んだが、背景説明が非常に有益。

異様に詳しいメモを取ったが、それだけの価値はある。

ご一読をお勧めしておきます。

2015年9月14日

八木谷涼子 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 08:56

キリスト教内の各教派を解説した本。

翻訳者・作家向けアドバイスというのが各項にある。

以下、内容抜き書き。

単性論=イエスの神性のみを強調。エジプトのコプト正教会、アルメニア・エチオピア・シリアの正教会の教義。人性強調のアリウス派の反対。

教会政治の形態=中央集権化されている順に、監督制・長老制・会衆制(組合制)。カトリック教会の位階制は監督制よりもさらに上か。

東方正教会=コンスタンティノープル総主教は名誉上のトップで、ローマ教皇のような存在ではない、実態は国家の管轄地域ごとの自治制で、ロシア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア等の正教会が存在。なお「東方教会」と言う場合、上記単性論派教会を含むことがある。

西欧最大の教会はもちろんローマ・カトリック、他にルター派(ルーテル教会)、聖公会(アングリカン教会、英国教会)、改革派・長老派(カルヴァン派)など。

会衆派・組合派という教派は独立派とも呼ばれるが、これはピューリタン革命における政治党派であると同時に教派か?

メイフラワー号で北米に渡ったのも、この会衆派。

以下、近世宗教改革が一段落した後に生まれた教派の中でよく名を聞くものを紹介。

バプテスト=17世紀に生まれた大衆的プロテスタント。幼児洗礼を否定。属する有名人はキング牧師、カーター、クリントンなど。

メソジスト=18世紀ウェスリー(ウェスレー)によってイギリス国教会より分離。自由意志による救済を強調。蒋介石、サッチャー、ブッシュなど。

メノナイト系=再洗礼派からの分離(? メモが曖昧で自信が無い)。その一派が独自の生活習慣を守り通していることで有名なアーミッシュ。

クェーカー=17世紀に生まれたプロテスタントの一派だが、予定説とは逆に万人の救済を主張、非戦・社会改革にも熱心な教派。リカード、フーヴァー、ニクソン、新渡戸稲造など。

ユニテリアン(ユニヴァーサリスト)=三位一体やイエスの神性、奇跡や聖書の無謬性を認めない、アリウス派的な自由主義神学。ここまでくるとこの教派をキリスト教外のものとする説も強い。だが代表人はすごい面々が揃う。ニュートン、フランクリン、スティーヴンソン、エマーソン、ホーソーン、メルヴィル、ダーウィン、ナイティンゲール、政治家ではジェファソン、アダムス父子、タフト、ネヴィル・チェンバレンとくる。

福音派=元々この言葉はルター派を意味したが、現在では主に米国のキリスト教右派・原理主義者を指す。その意味で教派を縦断した概念であり、非宗教的進歩派リベラルと共にカトリック教徒をも敵視しているのが特徴。

モルモン教=米国でジョセフ・スミスとブリガム・ヤングが創始。『モルモン書』という文書を「発見」したことで生まれた新興教派。ユタ州ソルトレイクシティが中心。かつて一夫多妻を実践していたことも含め、異端視されることが多い。元大統領候補ロムニーら。

 

 

世界史を学んだり、国際ニュースを知る上での、一般常識を提供してくれるのが良い。

飛ばし読みでも可。

一度目を通すことを薦める。

2015年9月12日

土井健司 『キリスト教は戦争好きか  キリスト教的思考入門』 (朝日選書)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 01:56

クリスチャンで神学部教授の著者が、タイトルに代表されるようなキリスト教へのマイナスイメージに答える本。

第一部は五世紀半ばくらいまでのキリスト教の歴史、第二部で一神教、戦争、貧困、生命についての論考を記す。

第一部は阿刀田高『新約聖書を知っていますか』より簡略だが、なかなか良好。

三位一体説は多神論はもちろん様態論(父・子・聖霊は一つの神の三つの側面)でもない。

アウグスティヌスは、ドナトゥス派の棄教者復帰拒否を批判して、秘蹟における人効論否定、事効論採用。

教会の聖性は、それに属する者が聖なのではなく(属する者はあくまで罪深き人間に過ぎない)、教会全体が聖霊に導かれていることの由来するもの。

(この辺の話については堀米庸三『正統と異端』が非常に興味深いので一読を薦める。)

ペラギウス派との論争では、人間は自らの行為によってではなく、神の恵みで救われる、原罪のため自力での救済は不可能と主張。

第二部ではまず一神教の問題について。

よく言われるように唯一神の観念は偏狭で排他的なものなのか?

一神教より多神教を寛容さに勝るがゆえに善しとする人々がいるが、多神教はあくまで、ある同一宗教内における多神であって、外部の神を認めるものではないはずと著者は指摘。

それと本書にあることではないが、多神教内部でも最高神や神々の序列はあるのとの文章も読んだことがあり、一神教と多神教を峻別して後者の優位を説くような言説には違和感を感じる。

はっきり言えば、塩野七生『ローマ人の物語』におけるような一神教・キリスト教批判は、今となっては全く共感できるところが無い。

また、多神教的日本の宗教的寛容を自画自賛するような薄っぺらなナショナリズムにも、もはやついて行けません。

今の日本を見ると、厳格な宗教意識が無い日本人の「欠陥」をあげつらうという、かつてあれほど忌み嫌っていた言説にも一理はあるとすら思えてくる。

続いて戦争について。

キリスト教は好戦的か?

ローマ帝国による公認を経て、キリスト教会は信者の軍務従事を容認するようになった。

そして、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは精緻な論考でキリスト教的正戦論を組み立てた。

これに対し著者は絶対平和主義こそ真にキリスト教的考えであるとしているが、個人的には、歴史家ホイジンガが『朝の影のなかに』で、キリスト教的正戦論を守りながら、ナチの適者生存・生存闘争説、侵略戦争の美化・自己目的化に対し、満身の怒りを込めて火の出るような批判を加えていることに、深い感銘を覚える。

また著者自身も以下のように記している。

そもそも宗教というものにはどこか極端なところがあります。その極端な部分が現実の世界で利用され、大きな悲劇を生むことがありました。そのためキリスト者としては絶対的平和主義を支持するのですが、この社会のなかでそれを押し通してよいのかどうかは躊躇します。もしかすると古代のキリスト教会はそうした危険性を知っていたのかもしれません。四世紀まで見られる[軍事についての]曖昧さは古代教会の知恵であった可能性もあります。ただそれでも、戦争は反キリスト教的であること、そして戦争の悲惨さは訴えていかねばならないという思いに変わりはありません。

富について。

キリスト教が社会の主流になるにつれ、富者批判が後退していくが、これも軍務と同様、現実に即した対応と言え、個人的にはほとんど悪いイメージを持たない。

同時に古代以来、教会は救貧活動も活発に行い、その例として(背教者ユリアヌス帝の論敵としても有名な)ナジアンゾスのグレゴリウスによるハンセン病患者治療活動を挙げている。

一方、近代のピューリタニズムは貧困を単に怠惰の印と見る傾向が強く、それが現代アメリカの格差社会の背景を成している。

生命について。

キリスト教は人格的相互関係性を第一に尊重。

これはヴァイタリズム(生命至上主義)とは異なる。

また同時に個人の内在的能力のみを重視したクォリティ・オブ・ライフでもない。

そういう観点から、著者は脳死・臓器移植に懐疑的な見方を示している。

 

 

面白い。

とても良い。

共感できる点が多々あった。

私はクリスチャンでも何でもないが、皮相な一神教・キリスト教批判には距離を感じるし、むしろ(特にカトリックなど伝統的な)キリスト教に対する好意的関心は高まっているくらいなので。

皆様にもお勧めします。

2015年9月9日

野口雅弘 『官僚制批判の論理と心理  デモクラシーの友と敵』 (中公新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:04

行政学ではなく、政治思想史的アプローチの官僚制批判の研究。

近代官僚制は絶対王政以降に該当する概念。

しかし実際は、支配者の恣意性と選好に依存する、前近代の家産的官僚制との差は相対的なもの。

近代官僚制への批判者としては、カール・フライヘル・シュタイン、ノヴァーリス、そして何よりも「鉄の檻」という比喩で知られる、マックス・ウェーバーがいる。

しかし中にはロベルト・ミヘルスのような存在もいる。

「寡頭支配の鉄則」で有名なミヘルスは、社会民主党員として出発し、「鉄則」も党官僚の非民主性への批判的観察から生まれたものだったが、のちにはムッソリーニ支持者に行き着いてしまった。

なぜ、こんなことが起り得たのか。

ウェーバーは官僚制とデモクラシーを単純な対立関係とは捉えなかった。

トクヴィルによれば、近代において格差・特権への憎悪が中央権力による平等的画一的行政への支持へと向かい、それが官僚制の整備に繋がる。

しかしジョン・ステュアート・ミルの指摘では、官僚制下の平凡な日常業務の繰り返しが内外の不満を生み、それが粗雑で突飛な非合理的提案を行う強引なリーダーを出現させる危険を孕むことになる。

それを防ぐために、市場原理という形式合理性でなく、格差是正・国益実現など実質合理性が必要であり、その手段としての官僚制も必要不可欠である。

そうした実質合理性達成のためには、複雑な調整や議論が必要なのだが、新自由主義者はそれが醸成する不平不満につけ込み、市場原理という単純・明確な方針だけを掲げ、強い姿勢を演出し、官僚制を批判する。

実際には現在の官僚制はすでに「鉄の檻」というメタファーで理解できる強固なものではなくなっているのに、それを打ち破るカリスマ的リーダーの期待がネオリベ勢力によって煽り立てられており、そのような煽動世論は暴走しかねない。

ウェーバーのバランスの取れた官僚制論は、現在では新自由主義とグローバリズムへの防壁として読むことができる。

結語で内容を極めて簡略・的確に要約してくれているのが助かる。

コメント付きの文献案内も有益(私の場合、それを次々読むという感じにはならないが)。

150ページほどですぐ読めるのも長所。

ここ二十年ばかり繰り返されてきた感情的な官僚バッシングと品性下劣なネオリベ言説への解毒剤としてどうぞ。

2015年9月7日

齋藤健 『増補 転落の歴史に何を見るか』 (ちくま文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:49

2002年ちくま新書刊、2011年文庫化。

著者は経済産業省(旧通産省)官僚出身で、現自民党衆議院議員だという。

1905年奉天会戦から1939年ノモンハン事件までの34年間の転落を、統帥権の独立という(明治にもあった)制度の弊害とだけ説明するのではなく、他の要因を探るもの。

 

 

一章、ジェネラリスト的政治家の消滅。

専門的軍事教育のみで作られたスペシャリストが台頭。

陸軍大学校出身の軍令系統の軍人が陸軍省の軍政分野に進出し、それを牛耳る。

それを統御すべき政治家の中で格段に優秀だったのが原敬。

原が不幸にして暗殺されたのが1921年、その翌年には山県有朋が死去。

著者はここに大きな転換点を見る。

武士道精神が衰退し、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)という感覚が失われていった。

以後の社会では、見通しの甘い希望的観測の蔓延、硬直した主義への執着、大勢への抵抗力の弱さが目立つようになる。

危機において自然と有為な人材が出るというのは幻想であり、必要な準備が無ければずるずると破滅に向かうしかなくなる。

 

 

二章、組織論。

合理性より仲間意識の尊重、「間柄」重視の日本的集団主義。

しかも「個々人が摩擦回避の精神に浸っているうちに、やがて声が大きく精力的な『ボス』と呼ばれる人間が登場し、リンチなどの有形・無形の暴力的行為によって属人的な組織支配を確立する・・・・・その結果、合理性の追求とか本質的な議論の展開とか人権の尊重といったことが、二の次、三の次とされるようになる」。

異分子排除と独創性軽視、日常の自転、縦割り主義のセクショナリズム、お題目主義、甘い人事処分、適材適所の人材抜擢が行われず、中堅層の下剋上が跋扈、戦略研究の基礎となるはずの戦史の不正確さ。

 

 

三章、現在について。

政か官かの二元論を否定、それ以前にエリートの存在の重要性を強調。

まあ平凡だが、理解できる考えではある。

しかし一箇所、新自由主義的構造改革を支持するような文章があり、そこには心底ゲンナリした。

次いで情報マネジメントと原敬についての小論、福田和也との対談、秦郁彦と寺島実郎との鼎談があって終わり。

 

 

全く期待していなかったが、そこそこ面白い。

あっという間に読める。

2015年9月3日

姜在彦 『朝鮮儒教の二千年』 (講談社学術文庫)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:43

2001年朝日選書で出たものを2012年文庫化。

『歴史物語朝鮮半島』と同じ著者。

かなり分厚いので迷ったが、思い切って手に取ってみる。

古朝鮮・三国・統一新羅・高麗までは比較的簡略で、李氏朝鮮以後は割と詳しい。

一般的史実に触れながら叙述が進むので、「文化史が詳しい李朝史」といった趣きになっている。

適当に内容をピックアップすると、高麗は仏教立国と言われるが、儒教が排斥されたわけではなく、6代目成宗の頃から儒教を主とするような修正の動きが見られ、高麗末期には朱子学が流入する。

なお、本書では崔氏武臣政権への評価が高いのが印象的。

崔氏によるモンゴルへの抵抗が無ければこの時点で王朝自体が消滅していたとする。

確かに、西夏・ホラズム・アッバース朝・カラ=キタイ(間接的に)・金・南宋・大理国・パガン朝、と屍体累々といった感があるのに、高麗は属国化されたものの曲がりなりにも存続したのが不思議である。

後世の儒者によって「暗黒時代」と評された武臣政権だが、著者の評価は逆。

朱子学廃仏派として二人の学者を紹介。

鄭夢周と鄭道伝。

鄭夢周は李朝の易姓革命に反対し殺されるが、後に士林派によって追悼・崇拝の対象となる。

鄭道伝は対照的に李朝に仕え、現実的経世思想に立った宰相中心政治を進めたが、これも結局太宗によって殺害された。

太祖李成桂は生前に譲位、王子の叛乱が起り、定宗が引退し太宗即位。

同時期、明でも靖難の変あり。

永楽帝の冊封を受けるが、著者は「事大」は実質的な従属ではないと強調する。

訓民正音制定で有名な4代目世宗の後、文宗が短い在位で死去、端宗が位を継ぐが、叔父の首陽大君が簒奪を行い、世祖として即位。

これに反対した成三問ら「死六臣」が士林派の源流。

それに対し、世祖支持派は勲旧派と呼ばれる。

勲旧派は儒教一辺倒と事大主義の行き過ぎ是正を目指す現実派であり、経世済民志向の実用主義を特徴とする。

その意味で、あくまで君主中心政治を主張する点以外では、鄭道伝との共通性もある。

一方、士林派は性理学と道学政治を絶対視し、仏教を極端に排斥し、儒教でも朱子学以外の陽明学・考証学を弾圧し、実学を軽視・抑圧するといった具合で、著者の評価は甚だ低い。

四大士禍(士林派への弾圧)を経て、宣祖(1567~1608年)の頃には士林派政治が確立。

朱子学大家として有名な李滉(李退渓)と李珥(李栗谷)が現われるが、それぞれが東人派と西人派の祖となる。

しかしこの対立はあくまで党人が両者を担いだものであり、李珥は国の分裂を戒め、回避しようとしていた。

だが不幸にして、以後党争に歯止めがかからない状態となってしまう。

東人派が北人と南人に分かれ、北人が大北・小北に、西人が老論派と少論派に分裂、老論派が僻派と時派に分かれるという具合で、それぞれの分裂に具体的政治情勢が絡まるが、とてもじゃないがいちいち記憶できないでしょう。

清に服属した際、北京で李朝の使者とアダム・シャールとの交流が持たれるが、それが実際的思考を生むことは無かった。

それどころか、よりによって康熙帝治世の清朝全盛期に、宋時烈の「北伐論」のような非現実的考えが広がる。

18世紀英祖(1724~76年)、正祖(1776~1800年)時代の党争緩和策も成功せず。

一方、実学派がこの時期形成。

李瀷(李星湖)、丁若鏞、朴趾源ら。

キリスト教に入信し、弾圧された者もいる。

19世紀に入ると、外戚による「勢道政治」が蔓延り国政が乱れる。

面白いのが、これを断ち切った大院君に対する著者の評価が悪くないこと。

党派均衡策の巧みさも指摘されており、大院君が開化派と協力できていれば、とのifが語られている。

しかし、崔益鉉らの「衛正斥邪派」は反侵略的ではあるが、未来への展望はなく、「武」の欠落した攘夷思想であるとされて、やや評価が低い。

結局1884年甲申事変から1894年甲午改革までの改革事業不発があまりに重大で、朝鮮にとって致命的結果をもたらしたとされている。

なお、それ以前の福沢諭吉の李朝改革派支援も正当に評価されている。

最後の方で、崔益鉉の「棄信背義」という日本批判を引用しているが、これをより広く、近代化への警告として個人的には読みたいと思う。

本書の全体的感想を言うと、著者の実学志向がやや平板に感じられ、あまり説得的ではない。

では他の評価の仕方があるのかと問われると言葉に詰まるが、何かしっくりいかないものを感じる。

形式的にも、570ページ超の分量はきつい。

読みやすくはあるし、通史として使えないこともないが・・・・・。

評価しにくい本。

強いては薦めない。

気になる方は、一度図書館でご覧下さい。

2015年9月1日

工藤美知尋 『海軍良識派の研究  日本海軍のリーダーたち』 (光人社NF文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:14

このレーベルを記事にするのは初めてかな。

以前光人社NF文庫の戦記物を読むだけで数年かかると書きましたが、数十年とした方がいいかもしれませんね。

明治初期、1872年に兵部省が陸・海軍省に分離、78年参謀本部、93年海軍軍令部設立。

帝国海軍では、陸軍とは異なり軍令に対して軍政が統制を明確に及ぼし、軍令部に対する海軍省の優位が確立していた。

本書での海軍良識派とは、海軍省派、条約派、国際協調派である。

勝海舟、西郷従道を創設者として、以後帝国海軍を担った山本権兵衛、斎藤実、八代六郎、加藤友三郎、岡田啓介らの経歴を紹介。

昭和期に入ると、軍縮条約をめぐり艦隊派と条約派が対立、加藤寛治・末次信正ら艦隊派の横槍に対して、財部彪海相は指導力に欠け、33年大角(岑生海相)人事で山梨勝之進・堀悌吉・左近司政三ら条約派が予備役編入。

32年に艦隊派は伏見宮博恭王を担いで軍令部部長とし、翌33年軍令部の長を「総長」とし、権限を拡大、海相に対する独立性を強める。

この際、これに反対した井上成美軍務局第一課長に、南雲忠一が怒鳴り込んできたというエピソードが記されている。

「ミッドウェーの敗将」というマイナスイメージが染み込んでいるのは気の毒だが、南雲へのそうした同情もやや失せてしまう。

以後の海相にも、吉田善吾・及川古志郎・嶋田繁太郎ら識見を欠く人物が多く、石川信吾ら中堅層の「第一委員会」という親独強硬派の跳梁を許し、戦争への道を止められず。

この時期の良識派と言える米内光政・山本五十六・井上成美らは三国同盟に反対したが、一方で米内の第二次上海事変拡大とトラウトマン工作打ち切り支持、山本の過去の艦隊派的言動について本書で触れられていないのは不満である。

井上成美は日米開戦直前に新軍備計画論を打ち出し、海軍の航空化を提案、それも航空母艦ではなく陸上基地の航空隊整備に海軍も重点を置くべきとの大胆な主張で、さらに艦隊決戦よりも上陸・防御戦を重視、海上交通路確保と潜水艦戦に重点を置いた軍備を構想した。

終戦時には米内海相を支え、1975年没。

あと、終戦実現の為に開戦以来の嶋田繁太郎海相更迭に努力し、東条首相暗殺も計画した高木惣吉に触れている。

ちょっとごちゃごちゃしていて読みにくい。

一般の通史であまり触れられない海軍の役職名をチェックしながら読んでいけば、それなりには有益か。

サブテキストとして読む分にはいいのかも。

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