万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年8月20日

トニー・ジャット 『失われた二〇世紀 上』 (NTT出版)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:14

『荒廃する世界のなかで』と同じ著者。

イギリス生まれのユダヤ人で、一時左派シオニズムに惹かれイスラエルに移住、しかし1967年第三次中東戦争後のイスラエルに幻滅し、アメリカで活動、2010年死去。

本書は史的エッセイと書評集。

この上巻は知識人論。

アーサー・ケストラー、プリーモ・レーヴィ、ハンナ・アーレント、アルベール・カミュ、ルイ・アルチュセール、エリック・ホブズボーム、エドワード・サイードらが扱われている。

個人的には、名前と若干の著作名と大雑把な政治的立場しか知らない人々だ。

加えて、元教皇ヨハネ・パウロ2世の章もある。

まず序章で現在の世界についての著者の解釈が述べられる。

現代を前例の無い特別な時代として、過去の歴史を学ぶことで得られる教訓は大して益が無い、それに囚われず我々は前進できるという考えが蔓延している。

歴史への拘りがあっても、それはある集団の受苦を強調し、被害者としての立場を独断的に主張するもの。

それに対し、「古い国民的物語」には様々な偏りや欠点があっても、国民全体に過去を参照させ経験を認識させる利点があった。

だが現在の対立する個別的関心事からのみ過去を参照する態度が余りに普遍的になってしまった。

断片化された情報が氾濫し、人々の立場は極端に分裂・多様化・分極化した。

20世紀の戦争と革命を経て、ヨーロッパは自省的態度に導かれたが、米国は「勝利」の記憶が強調され過ぎている。

そうした心情から、国家機能の縮減と公共部門後退が金貨玉条視され、経済中心主義の弊害が放置されている。

それに対抗するはずの批判的知識人もほぼ消滅した。

マルクス主義のドグマを否定するのは当然だが、そのために自由市場を絶対視する必要はないはず。

政治的課題の語り口そのものを放棄していると言わざるを得ない。

一方、「悪」を単純化し、歴史に学ばず、現状を前例の無いものとして極端な対応を(「イスラム・ファシスト」などという言説を用いて)採る傾向が瀰漫している。

実際には20世紀にもグローバリゼーションやテロの経験はあった。

昨日の左翼と今日の右翼が、とりわけ、過去の経験が現在の問題に深くかかわっていることを否定するという、自信過剰の傾向を共有している。

例えば、戦後ヨーロッパの福祉国家は社会民主主義者だけでなく、保守的なキリスト教民主主義者によっても主導されたものであり、超党派的コンセンサスの下に築かれた、それは1930年代の恐るべきカオスへの回帰を避けるためであった、この重大な歴史の教訓をネオリベは忘れている、と著者は述べる。

ファシストと共産主義者もまた、明確に国家の支配的役割を追求したという事実それ自体は、自由社会における公的セクターの突出した地位を否定する根拠とはならないし、共産主義の崩壊が、自由と効率との最適のバランスの問題に、統制なき市場という解決を与えたわけでもない。

このことは、北欧の社会民主主義国を訪れた者なら、だれでも認めうることである。前世紀の歴史がいやというほど証明しているように、国家には得手不得手というものがあるのだ。民間セクターもしくは市場にまかせたほうがうまくいく事柄もあれば、それではまったくうまくいかないこともある。

わたしたちは、西洋の冷戦の勝利に酔いしれた余波のうちに身につけてしまった国家に対する偏見から自由になって、ふたたび「国家を思い描く」ことができるようになる必要がある。わたしたちは、国家の欠点を認め、それと同時に、国家をなんのうしろめたさもなく弁護する方法を学ばねばならない。・・・・・

わたしたちは、二〇世紀の終わりにあたって、国家が重すぎる、という場合もあることを知っている。しかし、である。国家が軽すぎる、という可能性もあることを忘れてはならないのだ。

非政治的な時代には、経済的にものを考え、語る政治家には大いに価値がある。というのも結局、経済的なものというのは、現代のほとんどの人々が自分たちの生活機会や利害を思い描く際の視点なのであり、この真実をみすごした公共政策は、たした成功をおさめることはできないだろう。

しかし、それは今の物事のあり方にすぎない。物事はずっとこのように見えてきたわけではないし、未来にもそのように見えるだろうと想定する正当な根拠はない。真空を嫌うのは自然だけではない。・・・・・とるべき重要な政治的選択肢のない民主主義国家、本当に重要なのは経済政策のみであり、さらには経済政策の大部分が非政治的アクター(中央銀行、国際機関、多国籍企業)によって決定されるような民主主義国家は、民主主義国家として機能するのをやめてしまうか、ふたたび不満の政治を、ポピュリズム的ルサンチマンの政治を呼びこむだろう。

最後に故ヨハネ・パウロ2世について、以下の文章を引用。

この教皇のなかでポーランド人と神秘主義者が混ざりあっていることは、彼がなぜこれほどまでに「西洋の物質主義と個人主義」に対して、またそれゆえ現代の資本主義の大部分に対して攻撃的であるのかを説明してくれるかもしれない。もちろん、物質主義的偶像や傲慢の罪を批判するのはカトリック教会の仕事である。しかしカロル・ヴォイティワ[教皇の本名]は、さらにその先へと進んでいる。彼が教皇になる三年前の1975年、ヴァチカンでの四旬節の儀式において、彼は消費主義と迫害という教会にとっての二つの脅威のうち、前者がはるかに危険なものであり、より大きな敵であると明確に述べた。

事実、思想のシステムとしての、そして政治的実践としてのマルクス主義への彼の批判は、物資的進歩、資本主義的利益、世俗的な放縦の崇拝に対する彼のより広い非難に由来している。ヴァーツラフ・ハヴェルやほかの1970年代から80年代の反コミュニストたちと同様に、近代・現代性こそが、そして信仰を失った現代の西欧こそが、わたしたちの現在の危機の源なのであると彼は信じていた。コミュニズムとそれに付随する悪は、環境汚染も含め、二次的な徴候にすぎず、いずれにせよ西側の源から東側にむかって輸出されたのである。

著者はこれに続けて、教義の保守性、教会の自由化拒否、「解放の神学」など社会進歩的勢力への冷淡さなどを批判的に記すのだが、私は以前から漠然と持っていたヨハネ・パウロ2世への敬意がさらに強く増した。

なぜなら上記の認識は正しいとしか思えないから。

共産主義と自由民主主義は近代主義の派生形態であるという意味では同根である(服部龍二『日中国交正常化』)。

私は、著者による市場原理主義批判には満腔の賛意を示したいが、それがより広く民主主義・近代主義批判として展開されていればより説得力のあるものになったのにと思えてならない。

下巻も読んでますので、また記事にするつもりです。

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