万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年8月14日

冨田浩司 『危機の指導者 チャーチル』 (新潮選書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:23

著者は現役外交官の方。

時系列的な通常の伝記ではないが、通読すると大体チャーチルの生涯が見通せるようになっている。

しかし、前半はひたすらだるい。

知っていることが多くて退屈。

スペイン継承戦争の英雄マールバラ公ジョン・チャーチルを始祖に持ち、父ランドルフ・チャーチルは、自由党から転じたジョゼフ・チェンバレンと並ぶ保守党のホープで、蔵相まで務めた。

ランドルフと米国人の妻との間に、1874年ウィンストン・チャーチル誕生。

インド、スーダン(マフディの乱鎮圧)、ボーア戦争での従軍と冒険を体験し、妻クレメンティーンとは仲睦まじい理想的な夫婦関係を築く。

1900年保守党下院議員となるが、1904年には自由党に移籍。

貴族院たる上院だけでなく、下院も支配階級の子弟が無償奉仕する場となっており、19世紀末では下院議員は無給、結局議会政治の最先進国イギリスでは200程度の貴族の名家が社会を動かしていた。

(これが決して否定的に見るべきものではないことはユーゴー『レ・ミゼラブル』の記事参照。)

ロイド・ジョージと協力し、1911年海相就任。

第一次大戦中、1915年ダーダネルス海峡作戦失敗で海相更迭(ただしその後の上陸作戦での多大の犠牲はチャーチルの失敗ではないとされている)。

1917年ロイド・ジョージ挙国一致内閣で軍需相に就任するが、戦後1922年には落選の憂き目を見、1924年保守党に復党。

ボールドウィン内閣蔵相として金本位制復帰を断行するが、この政策は失敗というしかない。

ナチス・ドイツ台頭にあってはイーデン、ダフ・クーパーらと宥和政策に反対。

1939年9月開戦とともに海相として入閣。

当時のチャーチルの主張は排他的なほど空軍力増強に集中すべきだとするもので、軍事戦略的には大陸での決戦ではなくイギリス本土防衛に重点を置いた孤立主義的アプローチ。

戦略爆撃の威力を強調することは、チャーチルの意図とは逆に、宥和主義を助長した面もある。

チャーチルの主張通り、実際に空軍力だけでドイツを抑止できたかは疑問だとされている。

また、1938年ミュンヘン会談時点での戦略的優位は英仏と独のどちらにあったのか、という宥和政策の賛否に関わる重大問題がある。

一時的宥和によって稼いだ時間によって、新型戦闘機「ハリケーン」および「スピットファイア」を1940年のバトル・オブ・ブリテンに投入することが可能になり、それがイギリス本土防空戦の勝利をもたらしたことは事実である。

しかし、その間ドイツの軍拡ペースも向上していた、ミュンヘン協定破棄によってチェコのスコダ軍需工場もドイツは手に入れた、バトル・オブ・ブリテンはそもそも英仏海峡対岸をドイツが支配しなければ戦う必要が無かったものだ、という三点がチャーチルの宥和反対の論拠。

本書によれば、最新の研究でも結論は出ていないとのこと。

チャーチルの外交方針について、日本とイタリアに対しては宥和的姿勢を見せており、反ナチではあるが一貫して反ファシズムとは言い切れない、ただしドイツに対してはヒトラー政権成立以前から厳しい態度を示していた。

米英ソの「大連合」を基本的に楽観していたが、スターリンの判断には不透明な面があり、東欧諸国はミュンヘン以後でも反独より反ソ政策を優先する可能性があった。

一方、ネヴィル・チェンバレンの外交について。

チェンバレンは彼以前の戦略的曖昧さを放棄して、「戦略的宥和政策」から「確信的宥和政策」に転換したと評されている。

これはヒトラーを合理的取り引き可能な相手と見なすもの。

しかし、ズデーテン危機に当っては従来の「戦略的宥和政策」に則って、チェコと同盟関係にあったフランスに対応を一任し、仏独開戦の場合におけるイギリスの態度は事前に明言しない、という行動を採った方が、ヒトラーを抑止できたとの説を著者は紹介している。

もし「確信的宥和政策」を採るのなら、ミュンヘンで不可侵条約、軍縮交渉開始などより明確な代償をチェンバレンはヒトラーに要求すべきだった。

それは、イギリスの軍備の不充分さを考慮して弁護できるとしても、ミュンヘン以後もさらに宥和に拘ったのは明らかに不適切(最終的な開戦理由となったポーランドへの保障も、「ポーランドの独立」に対してのものであって「領土の一体性」ではなかった)。

チェンバレンは大英帝国の全般的地位低下を視野に入れ、最大限妥協して平和的環境を手に入れることを重視し、世論もそれを支持したが、ヒトラーは余りにも異常すぎた。

開戦後、ドイツは加担したソ連と共にポーランドを粉砕するが、西部戦線は「奇妙な戦争」と呼ばれる小康状態を保つ。

イギリスには、対外拡張抜きのナチズムの反共防波堤的性格を評価する向きがあり、ドイツ国内での軍クーデタによるヒトラー排除への期待感も持ちつつ、得られた貴重な時間で空軍力拡張を着々と進める。

1940年5月、ドイツ軍がノルウェー侵攻、西部戦線での大攻勢が始まる。

ここで(ミュンヘン協定には反対したものの)宥和派に近いと見られていた外相ハリファックスではなく、チャーチルが首相に就任したことは決定的意味を持つことになった。

ハリファックス自身が辞退したことと、国王ジョージ6世の任命が誠に当を得ていた。

機甲師団を中心に電撃戦を展開するドイツにフランスが惨敗する状況の中、まだ未参戦だったイタリアへ参戦阻止のメッセージが送られ、対独交渉自体にもハリファックスは含みを残すが、チャーチルは断固拒否。

実際、この瞬間ヒトラーは最も勝利に近づいていたかもしれない。

なぜなら当時ヒトラーが提出したであろう講和条件はイギリスにとって(少なくとも表面的に)破滅的とまでは言えないから。

ヨーロッパ大陸のドイツ、西半球のアメリカ、海洋帝国のイギリスで世界を三分する構想で、イギリスが海空軍力を制限し、親独的政権を樹立するなら、イギリスの独立自体は認めたはず。

しかし、チャーチルはこのような講和を断固拒否し、国民的団結を固めることに成功。

戦争指導について。

バルカンから攻め入る「地中海戦略」はあくまで限定的攻勢を目指したものであり、戦後のソ連の脅威も想定して東欧に米英軍を入れることを重視したとの考えは過大評価であり、あくまで当時の状況への対応に過ぎないとされている。

武器貸与法と第二戦線問題でルーズヴェルトと協調、スターリンへの「宥和」とフランスへの肩入れを持ち前の雄弁を振るって遂行。

1942年、戦後の福祉国家路線を敷いたベヴァリッジ報告を支持。

45年7月十年振りに行われた総選挙で敗北、退陣、51~55年に第二次政権を率いた後、65年死去。

前半と最後がややだるいが、中盤の外交論は面白い。

この記事でもそこを主にメモした。

予想よりは良かったが、しかしまずは(かなり古いが)河合秀和『チャーチル』(中公新書)を読んだ方がいいかもしれない。

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