万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年8月12日

池田清 『海軍と日本』 (中公新書)

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1981年刊。

著者はJ・ジョル『ヨーロッパ百年史』の訳者。

1925年生まれで、重巡洋艦「摩耶」および戦艦「武蔵」の元乗組員。

第一部海軍と戦争。

言い尽くされたことだが、「大艦巨砲主義」への固執と航空主兵論への転換の遅れ、艦隊決戦を想定した「海戦要務令」の聖典視、国力の相対的劣勢から採用された個艦優秀主義・少数精鋭主義への過度の傾斜などを指摘。

「物量作戦に敗れた」というのは一面的であって、人的ミスの要因も大。

大いに喧伝された帝国海軍の砲術技量も実際には低調。

さらに旧軍においてあれだけ突撃精神が強調されたにも関わらず、実際の戦場では攻撃の不徹底と戦果拡大の失敗という現象が、第一次ソロモン海戦、レイテ沖海戦で見られた(しかし珊瑚海海戦での井上成美司令をその例として挙げるのは、空母艦載機の残存機数からすると当っていない気がする)。

大局的戦争指導も不統一であり、戦争終結への見通し無し、開戦時の英米可分論は無理であり、フィリピンを攻撃せずマレーと蘭印にのみ攻め込んでも無駄だったろうとされている。

第二部海軍と政治。

ワシントン会議で加藤友三郎が見事なリーダーシップを発揮したが、加藤寛治はそれに反対。

ロンドン軍縮会議では加藤寛治が軍令部長となり、末次信正次長と共に条約に反対。

それに対峙したのが海相財部彪(たけし)、次官山梨勝之進、軍務局長堀悌吉、軍事参議官岡田啓介だが、海相の財部は決断力を欠き、加藤・末次らは海軍長老の東郷平八郎元帥と伏見宮博恭王を担ぎ出し、条約反対派(「艦隊派」)への支持を煽り立てる。

1933年大角岑生(みねお)海相の下、大角人事で条約派の多くが予備役に編入、陸軍の下剋上状態と共に軍の国政専断の原因となる。

対外的には中国認識の貧弱さから二度の上海事変を引き起こし、陸軍を掣肘するどころか共に日中関係を袋小路に追い込む役割を果たしてしまった。

特に第二次上海事変は盧溝橋事件を日中全面戦争に拡大するきっかけになったものであり、その際良識派のはずの海相米内光政の責任は大きい。

石川信吾、神重徳ら親独的中堅層が推進した海軍の南進政策の致命的悪影響も指摘。

39年2月海南島占領、40年9月北部仏印進駐、同月三国同盟、41年7月南部仏印進駐。

「山海関[満州と中国本土との境界]を越えたゆえに支那事変となった。鎮南関(中国・仏印国境の町)を超えたがゆえに大東亜戦争がおきた」との言葉を紹介し、日米戦争は中国政策のみではなく、欧州での第二次大戦勃発後に日本が行った武力南進と東南アジアをめぐる帝国主義国同士の対立で起ったとしている。

第三部海軍の体質。

「根なし草の国際主義」との指摘。

陸軍のような露骨な政治介入はないものの、その代償としての政治力の欠如も。

「デモクラティックな陸軍」と「リベラルな海軍」という対比。

(旧陸軍のどこがデモクラティックかとおっしゃる向きがあるかもしれませんが、昭和陸軍青年将校らの下剋上と統制拒否こそ、まさに「民主的」現象です。)

海軍は志願兵の多さとエリート集団としての自意識から陸軍のような暴走には至らず、合理性を重視していたが、学校秀才タイプのみが集まり、臨機応変の才に乏しく、陸軍とは逆の極端に陥ってしまった。

昭和期の海軍トップであった岡田啓介は惜しくも加藤友三郎の力量には及ばず、国運を転回させる程の存在感を示せなかった。

その少し前、大正期に山本権兵衛、斎藤実は海相八代六郎の決断によりシーメンス事件で現役を退く。

東郷元帥の反対を押し切ってこの措置を断行した八代の見識を評価して著者は本書を締め括っている。

暇潰しのつもりで読んだが、それほど悪くはなかった。

200ページ余りですぐ読めるのも良い。

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