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2015年7月10日

坂野潤治 『昭和史の決定的瞬間』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 16:04

単刀直入にいきましょう。

本書の表題である「昭和史の決定的瞬間」とは何か?

著者によれば、それは1937(昭和12)年1月宇垣一成内閣の流産である。

昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、日本の対外政策に与えた影響・・・・それは日本の将来を「平和」から「戦争」に転換する上で、決定的な意味を持つものであった。

・・・・昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、「戦争」と「平和」、「ファシズム」と「立憲制」の対立において、事態を決定的に「戦争」と「ファシズム」の方向に進めた・・・・

まずは、その前提となる政治情勢をさかのぼって検討。

昭和戦前期における二つの大きな危機と転換点は1931・32(昭和6・7)年(満州事変および五・一五事件)と1936・37(昭和11・12)年(二・二六事件および日中戦争)。

前者の危機は「戦争」に始まって「テロ」に終わり、後者は「テロ」に始まり「戦争」に終わっている。

社会情勢としては前者の時期は大恐慌による深刻な不安が社会を覆っていた一方、後者では不況からの回復に一応成功してはいたが、その結末が対外全面戦争だった点では後者の危機の方が、日本の運命にとって決定的。

しかしこのことは、政党勢力が1931・32年には強く、1936・37年には弱かったことを意味しない。

満州事変前後の政党勢力が対外膨張と国政介入を企図する軍部に対してじりじりと後退を続けたのに対し、日中戦争直前までの政党勢力は公然と軍部に反対し、そのための内閣の樹立を目指しながら敗北したのである。

「平和と民主主義」の守りに徹して敗北した最初の危機と、その復活をめざして攻勢に転じた上で敗北した二度目の危機とを比較した場合、著者の関心は後者の昭和一一・一二年の危機の方に向かってしまうのである。

まず著者は、五・一五事件後成立した二代の挙国一致内閣、斎藤実内閣および岡田啓介内閣の性格の違いを指摘する。

この内、真の挙国一致内閣は前者の斎藤内閣のみである。

1934年7月岡田内閣が成立した頃から、青年将校叛乱、経済恐慌、対中・対米英関係の緊張という三つの危機が一応収束に向かったことにより、危機を理由に斎藤挙国一致内閣に結集していた諸勢力が自己主張を抑えられなくなってきた。

1936年2月に予定されていた総選挙に自党に近い内閣で臨みたい政友会は野党的立場を採り、民政党は事実上岡田内閣の単独与党となり、この対立に陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の対立が連動、さらに合法無産政党の進出が絡む展開となる。

1935年天皇機関説問題で政友会と陸軍皇道派が岡田内閣とそのブレーン美濃部達吉を攻撃。

衆議院第一党の政友会がこのような行為に出たことは政党政治にとって自殺行為であると言えるが、著者はここでこの時期の美濃部がすでに政党内閣制の主張を捨てていたという微妙な事実を指摘する。

美濃部は、議会多数党に基礎を置く政党内閣ではなく、政党・軍部・財界・労働者代表の円卓巨頭会議で重要問題を決定する一種の職能代表制を提唱していた。

戦前日本の憲法の下では、政府は国防と外交については議会に諮[はか]らなくていいことになっていた。美濃部の提唱に従って、さらに「財政および経済」が議会の手から奪われ直接に各界の指導者の協議に移されるならば、政党内閣制だけではなく、議会制度そのものが否認される。

したがって天皇機関説排撃と共にあくまで議会多数派に内閣の基礎を置くべきとする「憲政常道論」も掲げた政友会の態度にも一理はあるとする著者ではあるが、それでも同党(特に久原房之助派)と陸軍皇道派の連携については到底擁護できるものではない。

急進派青年将校を背後から支持し軍部の勢力拡大を目論む真崎甚三郎ら皇道派は、合法的に軍の発言権拡大を目指す統制派に対し、当時徐々に劣勢となっていた。

ここで問題なのが、軍備増強・近代化の一環として資本主義の修正を合法的に行うとする陸軍統制派の主張を、当時最大の無産政党社会大衆党(1932年結成)が「広義国防論」の名の下に支持したこと。

岡田内閣下、1935年5月に国策立案機関として「内閣調査局」が陸軍統制派と社会政策に熱心な「新官僚」主導で設立され、水面下で社会大衆党・日本労働総同盟とも連携。

さらに政友会以外の政党員・財界人・閣僚・学識経験者で構成される「内閣審議会」が設置されるが、当時議会過半数を占めていた政友会は総裁鈴木喜三郎の下、これを天皇と議会双方を軽視する「天皇機関説」が具現したものとして激しく反発。

同じ35年中には、7月真崎が教育総監を林銑十郎陸相によって罷免(後任渡辺錠太郎)、8月相沢事件で統制派中心人物の永田鉄山が斬殺されるなど、皇道派・統制派の対立はさらに激化。

・・・・昭和一〇年五月から八月にかけて、各種のエリート集団は両極に分かれていった。一方の極には陸軍皇道派、青年将校、平沼系右翼、そして過半数政党政友会が集った。他方の極には、陸軍統制派、新官僚、民政党、社会大衆党、それに「重臣」と呼ばれた天皇側近と総理大臣経験者が結集していた。このようなエリート諸集団の両極分解の中で、元老西園寺公望だけが、意図的にか、あるいは老齢のためか、その立場を鮮明にしていなかった。

ただし、政友会も一枚岩ではなく、同党離脱後も影響力を保ち続けた蔵相高橋是清は陸軍内穏健派の宇垣一成を擁立した政・民二大政党協力を構想する。

これは総選挙で雌雄を決することを求める民政党総裁町田忠治や陸軍内宇垣支持派の反対で実現しなかったが、同時に真崎と久原が目論んだ総選挙前の内閣交代も実現せず。

1936年2月20日の総選挙結果は、政友会大敗(242→171)、民政党勝利(127→205)、社会大衆党躍進(5→17)。

しかし数日後、二・二六事件勃発。

青年将校の叛乱によって国家機関は一時的に麻痺し、正常時には執行機関ではなく諮問機関に過ぎなかった軍事参議官会議や侍従武官長がにわかに発言権を持ち、前者に属する真崎、後者の本庄繁ら決起将校に近い人物が事態を把握するかと思われた。

しかし天皇は、ここからがんばった。二・二六事件について語られるとき必ず引用される、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」という天皇の言葉(二月二七日)を、この深い孤立感とあわせて読むとき、「天皇制」と「ファシズム」を組み合わせた「天皇制ファシズム」という言葉を気安く使いたくはなくなる。皇道派や青年将校の「天皇親政」の企ては、「親政天皇」のがんばりでかろうじて抑止できたのである。

しかしこの事件の後遺症は絶大で、「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を著者は極めて重視している。

二・二六事件後、陸軍皇道派は中央から排除されたものの、主導権を握った統制派は、広田弘毅内閣の下、露骨な政治介入を拡大し、軍事予算を大拡張する。

議会では民政党の斎藤隆夫が有名な「粛軍演説」を行い、陸軍に果敢な抵抗を試みるが、社会民衆党の麻生久は「広義国防論」に拠って、軍拡と共に社会政策の実現を要求する立場を採る。

これまでの日本近代史研究では、言うまでもなく斎藤隆夫が「善玉」で麻生久が「悪玉」である。斎藤は反戦で反軍であり、麻生は「好戦」とまではいわないまでも、「親軍」であったことは確かだからである。しかし、斎藤と麻生のどちらがより「民主的」であったかといえば、軍配は麻生に挙がる。

進歩的自由主義を奉ずる民政党が、労働者の生活向上の為の施策に極めて冷淡で無理解だったことは本書で度々批判的に記されている。

一方、広田内閣は36年8月「国策の基準」を策定、北進南進論を併記、陸海両軍の大拡張を是認、11月日独防共協定に調印。

さらに10月、陸軍による議会制度改革案が報道される。

これは(米国流に)行政権と立法権を完全に分離することによって政党内閣制を明示的に否定し、議会を立法・予算の審議に専念させること、議会に職能代表議員を進出させること、戸主や兵役義務経験者に選挙権を制限することなどを内容とする。

議会主義を完全に骨抜きにしかねない、この陸軍案に対し、民政党だけでなく、これまで親軍的傾向に流されがちであった政友会にも、猛然と反対機運が盛り上がる。

この二大政党の協調機運について、著者は少々驚くべき見解を述べる。

政友会と民政党の連携は「日本版人民戦線」であると。

対外的に無謀な軍事的膨張政策を回避し、国内的に議会制度擁護の一点で協力し、幅広い勢力が大同団結するという、この動きは「人民戦線」と名付けてもよいとする。

もちろん、フランスなど実際に人民戦線内閣が成立した国との違いはある。

・・・・フランスの場合には、第一に、事は共産党と社会党の間の問題であったのに対し、日本には共産党は実質上なく、社会大衆党と民政党(フランスで言えば社会党と急進党)の間での問題であった。

国民運動を伴わなかったという致命的な弱点を持つ「日本版人民戦線」は、もう一つの大きな弱点を持っていた。人民戦線の中核になるべき日本の社会党(社会民衆党)が反資本主義、反ブルジョア政党の立場を堅持したため、「日本版人民戦線」の実態は、政友会と民政党という二つのブルジョア政党の握手による反ファッショ戦線でしかなかったという点である。

本書はそれでも、昭和一二年一月の宇垣一成の組閣失敗までの数ヵ月、日本でも「人民戦線」論が盛んであったこと、宇垣一成内閣が政友会と民政党に支えられて、対ソ戦と対中戦の抑制に向かえば、「日本版人民戦線内閣」と言えないことはないという立場に立つ。保守党(政友会)と自由党(民政党)の「人民戦線」には胸は躍らないが、「平和」のためには役立つ内閣だったろうと考えるからである。時代状況によっては、「平和」が最優先である瞬間もあったのである。

上記引用文の通り、社会民衆党は二大政党との協力を既成勢力を擁護するものとして拒否し、むしろ社大党より左翼側にいた労農派マルクス主義者(日本共産党からは「異端」として排除されていた)や労農無産協議会(戦後は日本社会党左派となる加藤勘十、鈴木茂三郎ら)が軍ファシズム反対の立場から人民戦線論を唱えていた。

私は、昭和一一年の二・二六事件から一二年七月の蘆溝橋事件までの時期においては、「反資本主義」よりも「反戦」が重要であり、「反既成政党」よりも「反陸軍」の方が優先課題であったという立場に立っている。しかし当時の社会大衆党員や労働総同盟の身になってみれば、反ファッショのために資本家や政友会や民政党と手を握れと言われた時の彼らの反発も、よく理解できる。

しかし、二・二六以降の陸軍主流・新統制派が対ソ戦の為の本格的軍拡に乗り出すと、社大党が「広義国防論」の名の下に期待した軍拡と社会生活改善の両立が困難となってくる。

この頃から流行りだした「狭義国防」という言葉は、すでに紹介したように、当初は社会大衆党の麻生久が衆議院における同党の代表質問で、陸軍の軍拡至上主義を批判して使った言葉である。しかし、陸軍が本気で対ソ戦準備の大軍拡を始め出したとき、陸軍や財界にとって、同じ言葉が肯定語として使われ出す。対ソ戦準備のための財源と、飛行機や戦車の製造に必要な重工業の育成ができるならば、陸軍は国内の政治経済体制の変革までは要求しないという意味で、「狭義国防」という言葉が使われ始めたのである。

1937(昭和12)年1月、政友・民政二大政党は、有名な浜田国松の「割腹問答」で陸相寺内寿一を攻撃、広田内閣を退陣に追い込む。

宇垣一成に大命は降下し、政友・民政大連立の上に宇垣内閣と思われたが、よく知られているように石原莞爾ら陸軍中堅層による妨害があり、二・二六事件でのテロの後遺症から内大臣湯浅倉平ら宮中側近らも宇垣支持を貫き通すことができず、宇垣内閣は流産。

この失敗した宇垣政権構想の長期的意味を著者は以下のように考察。

・・・・五・一五事件から二・二六事件にかけての中心的な政権構想はは、「立憲独裁」と「憲政常道」であり、どちらも一長一短のものであった。

斎藤・岡田両挙国一致内閣は、衆議院の過半数政党と陸軍内の極右勢力という二方面からの抵抗を乗り切るために、形式的には議会軽視の統治方針を採った。議会はもちろん、場合によっては内閣すらも形骸化させかねない内閣審議会・調査会は、形式的には非民主的なことは否定できないものだった。

行政学者蠟山政道は、岡田内閣の統治方針を「立憲独裁」と名付けたが、自由主義者石橋湛山は手続き民主主義重視の立場からこれを批判し、あくまで議会多数党が内閣を組織する「憲政常道論」を主張した。

しかし他方で、形式ではなく政策内容に重点を置いてみれば、過半数政党政友会と陸軍皇道派の組み合わせは最悪であった。・・・・・両者の接近は、昭和六年末の犬養毅内閣成立の時から連綿とつづいてきたものであった。将来における陸軍皇道派の内閣をめざす陸軍青年将校やその理論的指導者北一輝らは、その第一段階として、昭和六年一二月の犬養政友会内閣の樹立を支持していたのである。

この問題は、本書が対象とする昭和の第二の危機とは直接には関係しない第一の危機の問題ではあるが、それがわからないと、石橋湛山の筋の通った批判にもかかわらず、「立憲独裁」にはそれなりの存在理由があったことが理解しにくい。・・・・・形式上は正当な「憲政の常道」が、内容的には「平和」も「民主主義」も損ねかねなかった・・・・・

陸軍青年将校は犬養内閣を一先ず容認したが、それに飽き足らない海軍将校らが五・一五事件で犬養首相を暗殺。

だが上記の通り、「戦前最後の政党内閣」犬養政友会政権に対する著者の評価は著しく低い。

これまでの通説的理解では、五・一五事件により政党内閣時代が終焉させられたとするものである。単純な事実においてはそうであるが、海軍青年将校が倒した政友会内閣は、その成立以来、後の陸軍皇道派と深い関係にあり、満州事変に対しても強い支持を表明していた内閣であった。

もちろん、どんな内閣であろうと現役の海軍将校などが武力でこれを倒すことは許されない暴挙であるが、軍人テロの非業さが、倒された内閣の正当性を証明するわけではない。五・一五事件で内閣の座を追われた立憲政友会は、これ以後昭和一一年二月の総選挙までの約四年間、衆議院の過半数を占め、それを根拠に「憲政の常道」による政党内閣の復活を要求しつづけるが、同じ期間一貫して陸軍内復古派の「皇道派」と近い政策を唱えていた・・・・・

著者の総括的結論は以下の通りである。

「立憲独裁」は政策内容においては「平和」重視のゆえに評価できても、議会と政党を軽視するために、政治体制としての非民主性は否めない。反対に、衆議院に過半数を占める政友会に政権をよこせという「憲政常道論」を、手続き民主主義の観点から否定することは不可能だが、陸軍皇道派に支持された政友会が政権に就けば、対外的にも対内的にも、何をするかわからない。昭和七年の五・一五事件から昭和一一年の二・二六事件までの四年弱の日本の政治は、政策内容と政権形式の矛盾に悩まされたのである。

そのような中で、形式と内容の双方において相対的に問題の少ない政権構想が、いつもその裏に宇垣一成の顔が見える「協力内閣」構想である・・・・・

「協力内閣」は「挙国一致内閣」とも「立憲独裁」とも違って、政友会と民政党という二大政党の連立内閣構想である。この二大政党が連立してしまえば、衆議院においては競争原理が働かなくから、政党内閣時代ならば政権選択の自由が失われるというマイナスが目立つ。しかし、軍部や官僚が突出してくる危機の時代においては、両党の連立内閣は少なくとも民意にもとづいた政権であり、手続き民主主義というハードルは最低限越えることができる。

1931年満州事変直後にも二大政党大連立の動きがあり、当時宇垣は朝鮮総督で、宇垣派直系であった陸相南次郎、参謀総長金谷範三が事変不拡大に努めていた。

昭和六年の場合には、九月の満州事変と、一〇月の未遂に終わった陸軍のクー・デタ計画とにより、英米協調と民政党内閣とが同時に危機に瀕していた。昭和一二年初頭の場合は、前年二月の総選挙で復活の勢いを示した民政党が、二・二六事件と日中戦争の危険に直面していた。内政、外交両面における陸軍支配の増大が「協力内閣論」台頭の一因であるが、どちらの場合にも二大政党の中で民政党が政友会に対して優勢であった。

・・・・・・

昭和七年以来、過半数政党政友会が唱えてきた「憲政常道論」は、昭和一一年二月二〇日の総選挙での同党の敗北により意味を失った。過半数を大きく割り、第二党に転落した政友会は、もはや「憲政の常道」によっては政権に就けなくなったからである。

他方、岡田内閣に典型的に表われた、天皇側近、陸軍統制派、新官僚、財界、民政党、社会大衆党などが議会を迂回して政治を行う「立憲独裁」も、二重の意味で継続が困難になってきた。一方では二月二〇日の総選挙で第一党の地位を回復した民政党や、この総選挙で大躍進した社会大衆党には、議会を迂回する必要がなくなった。他方では「立憲独裁」を支えてきた天皇側近は、二月二六日の青年将校のクー・デタの直接的な攻撃目標とされたことで、以後の政治的影響力をいちじるしく縮小させられた。

「憲政常道」も「立憲独裁」も機能しなくなった昭和一一年三月以降に残されたのは、二大政党の支持を得た「協力内閣」か、その反対の文字通りの「軍部独裁」であった。昭和一二年一月に宇垣一成に組閣の大命が下ったのは、その意味では当然の成行きであり、また宇垣の組閣を挫折させたのが石原莞爾ら陸軍の中堅であったことも、同じように当然の成行きであった。

昭和一二年二月に成立した文字通りの「軍部独裁」内閣たる林銑十郎内閣は、昭和七年の五・一五事件以後、政治秩序の安定化をめざして試みられてきた三つの政権構想(憲政常道、立憲独裁、協力内閣)が、対外危機の増大と陸軍の国内政治への発言力の増大とにより、すべて挫折したことを象徴するものであった。

 

1937年2月、「軍部独裁」の林銑十郎内閣が成立した。

では、この内閣が最低最悪の政権であったのかというと、著者の評価はそれともやや違う。

林銑十郎自体、満州事変時朝鮮軍司令官としての独断「越境」の悪名だけが有名で、それすら忘れ去られる存在であるが、皇道派の真崎甚三郎を罷免したのも陸相だった林である。

また、林内閣外相の佐藤尚武は外務省内で当時稀なほどの対中融和派だった。

さらに、蔵相結城豊太郎は広田内閣で膨張する一方だった軍事費にひとまずは歯止めをかけ、財界重鎮で日銀総裁に就任した池田成彬と共に経済安定に努力した。

教科書で「軍財抱合」と呼ばれる陸軍と財界の接近は、陸軍の「狭義国防論」への転換によってもたらされた。

長期的な対ソ戦準備の為の工業化を最優先とし、そのために財界等既成勢力と協力、陸軍による急進的な国政改革は手控え、対外的にも対ソ以外の多正面戦争と米英の介入を避けるために中国に対しては慎重策をもって臨むという路線。

政治評論家馬場恒吾はこれを国内政治正常化の一歩として歓迎し、いずれ軍部は財界だけでなく政党にも妥協的姿勢を取り政党政治復活の芽も出てくるであろうと予測した。

なお当時の雑誌に見られる論調では、陸軍の軍拡路線を日本の産業構造を転換し重工業化を進めるとして歓迎する経済アナリストが多数派だったが、それが戦争の危機を生み、すべてを失わせる可能性を見なかったのは、エコノミストの視野の狭さを物語っていると著者は述べているが、これはかなり示唆的である。

また極めて問題なのが、慎重な対中政策が陸軍全てで共有されていたわけではなく、参謀本部の石原莞爾らはそれを支持したものの、出先の東条英機ら関東軍実力者の間では1935年頃からの華北分離政策をさらに推し進めようとの動きがあり、これが結果的に破滅的な事態をもたらすことになる。

そして、馬場の予想と期待に反して林内閣は二大政党との協調には向かわず、各方面に人気の高い近衛文麿および政友会でも非主流派の前田米蔵、中島知久平、民政党非主流派の永井柳太郎らと連携し、国会解散に打って出る。

1937(昭和12)年4月総選挙の結果は、民政党減(204→179)、政友会微増(171→175)、政府与党の小三会派たる昭和会・国民同盟・東方会は減、社会大衆党再躍進(20→36)。

この選挙でも社大党は政・民二大既成政党批判の姿勢を崩さず、「人民戦線論」に与しなかったが、陸軍が財界と組んで国民生活改善より軍備拡張を最優先する「狭義国防論」に転換していた当時、社大党の「広義国防論」は(党指導部の意図を超え)かつてとは逆に反軍的色彩のスローガンとなっており、国民が支持を与えたのはこの反軍的姿勢だ、この選挙が戦前日本の民主化の最高潮と見なすべきだと著者は判断している。

だが、わずか数ヵ月後に盧溝橋事件が勃発、近衛内閣は事態を泥沼化させ、総力戦体制を整備、議会政治は戦後まで圧殺されることになる。

 

 

かなり詳しく本書の内容をなぞってみたが、やや不満に思うのが、政党だけでなく陸軍もまた世論の支持によって浮沈を繰り返す政治的プレイヤーに過ぎないという視点が無いのではないかと思えること。

表面的には国内の実力組織である軍部が直接的暴力行使やその威嚇で民主的な議会政治を破壊したように見えても、「政党政治の腐敗・堕落」に憤りその破壊を是とする過激な世論の支持が必ずあったはずである。

そもそも、満州事変を熱狂的に支持し、1932年総選挙で親軍的傾向の政友会を圧勝させ、五・一五事件の実行犯たちへの減刑嘆願を殺到させる国民心理が無ければ、本書が描く1935年における政治集団の両極化で、青年将校の潜在的テロと皇道派の圧力を避ける為に天皇側近と民政党が陸軍統制派に接近せざるを得なくなることも無かったはずである。

皇道派排除後にますます増長し国政に介入する統制派の支配を振り払う為に、政党勢力と宮中が成立を目指した、幻の宇垣内閣が「人民戦線内閣」だったと言っても、それを潰したものまた人民(の少なからぬ部分が支持した陸軍)だ。

最終的に議会政治の息の根を止めた日中戦争も、「暴支膺懲」という感情論に流されて大衆ヒステリーに陥った国民の多数派が支持したからこそ生じたものである。

著者は、東条英機を中心とする関東軍の対中強硬姿勢をあまり明らかに出来なかったので、日中戦争が「天災」のように降りかかって戦前の民主主義を押し潰したような感を与えたことを本書の短所と認めているが、それにも長年の惰性と化した対中蔑視・対中敵視の衆愚的世論による支持があったことは間違い無い。

その民衆世論こそが悪しき主導者であり、結局民主主義自体を根底から疑う姿勢を持たない限り歴史の真相は見えてこないと思えてならない。

とは言え、読み終えての評価はやはり「素晴らしい」の一言に尽きます。

坂野氏の本を読むたび思いますが、歴史解釈の鋭利さに本当に圧倒されます。

本書は2004年刊で、存在は知っていたのに、十年以上放置していた自分は怠惰にも程があると反省しました。

坂野氏が同じちくま新書で書かれている『日本近代史』も絶対に読むべき本だと確信しました。

このブログで記事にできるのはいつになるかわかりませんが、皆様は即座に取り組まれることを強くお勧めしておきます。

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