万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年7月2日

引用文(林健太郎3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 15:56

引用文(林健太郎2)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

オリエントの次には、ギリシア、ローマのいわゆる古典古代の時代が来る。この時代は古代オリエントと顕著な対照を示し、始めて個人意識の生まれた時代、真の意味における西洋文明の始まった時代である。そしてギリシア文明の母胎となったものはギリシア人の神話であるから、西洋文明を理解するためにはどうしてもギリシア神話の知識を欠くことは出来ない。ところが手っとり早くギリシアの神話を知るのに大へんよい本がある。それはブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』であって、まともに読むといささか退屈であるが、座右において随時参照すれば大へん有益である。更に進んでギリシア文明そのものに接しようと思えば、彼等の残した文学作品を直接読むに如くはない。先ず古典中の古典、ホーマー(ホメロス)の『イリアス』(『イリアッド』)と『オデュッセイア』(『オディッセイ』『ユリシーズ』)。ともに邦訳があるから読むことが出来るが、これも相当時間と気持の余裕を必要としよう。そこでここでも映画が便利な代用品になる。イタリア映画『ユリシーズ』はかなり忠実な原作の模写であり、作品としてもすぐれたものであったが、シネマスコープ『トロイのヘレン』となると、パリスとヘレンがハリウッド式恋愛の主人公になっており、勿論『イリアス』の風韻を伝うべくもない。しかし風俗考証などは相当綿密であるし、トロイ戦争の物語の大要を知るには極めて好都合である。

ギリシアのポリス生活が発展してアテネの民主主義と市民文化が高潮期に達する過程には、ペルシア戦争や文化人政治家ペリクレスの生涯のように小説や映画の題材となってしかるべきものが少くないが、何故かそういう作品はあまりないようである。

ギリシアのポリスが没落した後マケドニアから出てアジア・アフリカに亘る大帝国を建てたアレキサンダー大王の伝記映画はつまらないものであったが歴史の参考にはなるであろう。

ギリシアが西洋文明の精神的父であるのに対して、ローマはより多く近代ヨーロッパと実質的なつながりを持っている。そういう意味でローマ共和政体の発達やその異民族征服の過程などヨーロッパ人の間にはなじみの深い話が多いが、文学作品として我々に与えられているものは案外少い。ローマの民主主義が堕落して社会が混乱に陥った時、その救済者として現れた英雄シーザーについては、先ずシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』があり、その他『シーザーとクレオパトラ』『アントニーとクレオパトラ』もある。これらのシェークスピアの史劇はプルターク『英雄伝』に忠実に則っている。勿論史実そのままではないが、大体この位のことを知っているだけでも常識としては差支えない。これは度々映画にもなっているし、殊に最近来た『ジュリアス・シーザー』はなかなかの出来であったと思う。ローマ共和制没落期の社会相、殊にローマの町に集った流民の群とその浮薄な動向などがよく出ている。またやはり最近来た『シーザーとクレオパトラ』はバーナード・ショーの同名の戯曲を映画化したものである。その他十八世紀フランスの誇る古典作家ラシーヌにはローマの武将を扱った史劇が多くあり、日本にもいくつか訳されているが、これはいささか退屈である。

ローマの歴史が後世芸術化されるのはキリスト教に関係する面が多い。ここには歴史小説の傑作シエンキエヴィッチの『クォ・ヴァディス』がある。有名な暴君ネロのキリスト教徒迫害とローマ焼打が中心テーマであるから、通俗的な面白さも十分であり、映画としてもいつも成功を収めている。しかし単にこのようなスペクタクル的な興味ばかりでなく、この時代の精神史としてもこれはなかなかすぐれている。即ちペトロニウスに代表されるエピクロス哲学、セネカのストア哲学がともに人々の悩みを救うことが出来ず、キリスト教が最後の救済者として現われるという過程はこの時代の雰囲気をよく表わしている。もっともこれはあくまでキリスト教の立場から書かれているから、その意味での誇張は免れない。しかしともかく『クォ・ヴァディス』は西洋史を学ぶものの必読かつ必見の作である。この少し後に起ったヴェスビアス火山の噴火によるポンペイの滅亡はリットン卿の『ポンペイ最後の日』の材料になったが、これはやや程度の低い通俗小説である。

メレジュコフスキーの小説『神々の死』は「背教者ジュリアン」といわれるローマ皇帝ユリアヌスの生涯を描いている。この皇帝は伯父コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認した後、キリスト教から転向してギリシアの神々の復興に努め、自ら文筆によってキリスト教と闘争した。しかし彼の努力も効なく、ペルシア征討の陣中に戦死した時、「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」といったと伝えられている。イプセンの戯曲『皇帝とガリラヤ人』もこの皇帝を扱ったものである。

キリスト教はギリシア思想と並んで西洋文明の二大支柱である。このことはマシュー・アーノルド以来「ヘレニズムとヘブライイズム」という言葉で人口に膾炙している。そしてキリスト教はヨーロッパ人の思想や生活に深い根を下ろしているから、キリスト教を知ることは先ず絶対の条件である。そのためにはやはり『聖書』を読むことが必要であるが、手っとり早く聖書の話を知るにはヴァン・ルーン『聖書物語』はよい本である。しかしここでもやはり映画が一番簡単であろう。幸いアメリカにはC・B・デミルなどという大がかりな聖書映画をつくることのすきな監督がいて、現在その代表作『十戒』が公開されている。一般にシネマスコープの登場以来キリスト教ものが益々盛んになったが、こういう式の映画を見るならばなるべく聖書の話を忠実に映画化したものがよい。というのは我々の目的は西洋史の勉強のために聖書を読むことの代りにしようというのであるから、単なる説教じみた映画やキリスト教に名を借りて見世物を見せようとする映画はあまり意味がない。『十戒』なども、聖書の話から外れたところはばかばかしいものであって、むしろエジプト史を冒瀆しているとも云える。

ローマ帝国の末期ゲルマン諸族を征服してローマに迫ったフン族の酋長アッティラを主題にした映画『異教徒の旗印』もキリスト教臭の強いものであるが、一応当時の史実に立脚している。似た題材を扱ったものに『侵略者』という映画もあった。

(追記:引用文(林健太郎4)に続く)

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