万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年7月31日

三宅正樹 新谷卓 石津朋之 中島浩貴 編著 『ドイツ史と戦争  「軍事史」と「戦争史」』 (彩流社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 05:35

軍事史より広義の概念の戦争史の上に立った論文集。

第一部は、統一戦争から冷戦までの通史。

第二部は、戦争史と思想家・戦略家。

第三部は、軍組織と陸海軍概説。

第四部は、トルコ・中華民国・日本などへの世界的影響。

 

第一章。

対デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争をまとめて統一戦争と呼ぶ。

普仏戦争は最近では独仏戦争という表現が強調される。

エムス電報事件ではプロイセンだけでなく全ドイツ的憤激とナショナリズムが巻き起こった。

統一後、軍事予算審議は7年に一度だけ(七年制予算)となり、通常これは議会の敗北とされてきたが、逆に兵員数が固定化され増員が難しくなり、仏露に対して常備兵力劣勢の傾向。

また、参謀本部の役割がこれまでは強調され過ぎてきた、皇帝・軍事内局・陸軍省も重要であると書かれている。

全般的に、軍国主義=プロイセン→ナチズムという単線的な見方は本書では批判的に捉えられている。

軍の政治介入より、国家・社会で軍事的価値観を受容する普通の人々の心性こそが重要。

第一次世界大戦直前、陸軍増強を主張する小モルトケに対して、ヴィルヘルム2世と陸軍省は反対した。

なぜなら貴族や上層市民以外から将校・下士官を採らざるを得なくなり、軍が「民主化」される危険があると考えたから。

実際そうなった。

そこから極右的ナショナリズムとナチズムが生まれた。

戦争と社会的平等は親和的である。

 

第二章。

第一次および第二次大戦についての、望田幸男氏による手際よい記述だが特にノートすべき点は無し。

 

第三章。

冷戦について。

この章は『アデナウアー回顧録 Ⅰ』『同 Ⅱ』『ドイツ再軍備』のよい復習になる。

西ドイツ再軍備関連のキーパーソンとしてシュパイデル、ホイジンガー、ブランクなどの人名を軽くチェックしておく。

 

第四章。

リュヒェルとシャルンホルスト。

シャルンホルストは(ビスマルクやフリードリヒ2世と異なり)ドイツ史において常に肯定的に評価されてきた。

有名なプロイセン軍制改革の前、1806年以前の改革を主導したのがリュヒェル。

これまでクラウゼヴィッツのリュヒェルへの酷評が定着していた。

イエナ・アウエルシュテットの戦いでナポレオンに大敗したこともあって、この以前のリュヒェルの改革は全く評価されてこなかった。

しかし、シャルンホルストとリュヒェルは実は互いに評価し合っており、共通点も多い。

以下、リュヒェルの言葉。

国家を構成する者は誰にでも、それぞれの分に応じた持ち場があり、それは必要という強い法則によって守られています。各人がそれぞれの持ち場でなす功績にしたがって、全体の幸福のためには誰もがなくてはならない存在なのです。玉座からあばら屋にいたるまで。

私は今、玉座からあばら屋にいたるまでといいましたが、それは異なる階層のすべての――法則にしたがえば、それは自由ではあるが平等ではない、それどころか不平等にならざるをえない――位階を表現したいためでありまして、それらの諸階層による相互扶助によって、国家の幸福はもたらされるのです。

至極真っ当な認識だ。

こういう見識が平板な平等主義に批判・否定され、大衆社会のカオスに陥り、そこから生まれたのがナチズムだ。

シャルンホルストは無能な貴族への憤りをもちつつ、既成の諸身分と社会階層をある程度前提にした国民統合を構想。

その前提には彼のフランス革命に対する幻滅があった。

シャルンホルストとリュヒェルには確かに違いがあるが、その距離は極端に遠いものではない。

シャルンホルストはその軍制改革において、教養層に農民・下層市民の模範を求めた。

「既存の身分的隔たりに対して教養を軸にした新たな社会的隔たりを敷設する」。

こうした認識はリュヒェルの啓蒙専制主義との共通性を持っている。

 

第五章。

モルトケとシュリーフェン。

18世紀から19世紀にかけて、社会的上層部のみが主導する「官房戦争」から、ナショナリズムを通じ全国民を巻き込む「国民戦争」への移行。

フランス革命が国民戦争を生み、ウィーン体制下では官房戦争に止まるが、普仏戦争で再び国民戦争化。

官房戦争に指導力を発揮したモルトケが国民戦争に翻弄され十分な解決策を見い出せず。

「平和を脅かすものはもはや君主の野心ではなく、各国の国民の世論であり、国内状況についての不安であり、とりわけそれらの代表者である各党派の煽動である。」

モルトケがこうした透徹した認識を持っていたにも関わらず、矯激で野蛮なナショナリズムに火をつける危険性を無視して、普墺戦争でウィーン入城や普仏戦争でアルザル・ロレーヌ併合を主張したのは思慮に欠けると言わざるを得ない(前者は未遂に終わったが)。

加えて対仏予防戦争の主張も。

これがシュリーフェン、小モルトケに悪影響を与える。

そしてシュリーフェン論争について。

「シュリーフェン計画」は実在したか?

ちょっと論旨が読み取りにくい。

計画自体は存在し、第一次大戦後、ドイツ軍国主義の象徴的表れとして批判の的になった。

一方で、勝利を確実にする完璧な軍事計画だったのが、小モルトケの不手際によって骨抜きにされドイツ敗北に繋がったとする見方も事実とは言い難い。

結局、批判派も擁護派も計画の意義を過大評価しているのではないか、ということか?

 

第六章。

ルーデンドルフの戦争観。

ヒンデンブルクと並ぶ第一次大戦の「国民的英雄」。

大戦末期の軍部独裁の主導者。

大戦後には極右勢力と結び、ヒトラーのミュンヘン一揆にも参加。

1937年死去したが、最晩年にはナチスと距離を置いていたという。

その総力戦理論は戦争指導から政治的要素を放逐し、「戦争は政治の一手段」というクラウゼヴィッツの思想を倒立させてしまっていると評されている。

 

第七章。

ドイツ陸軍。

一般兵役義務と国民意識形成についての学説紹介。

 

第八章。

ドイツ海軍。

この章では19世紀末からの英独建艦競争以前の発展について。

当初の仮想敵国はデンマーク。

日清戦争での北洋艦隊主力の「定遠」「鎮遠」もドイツ建造。

ドイツの海軍と言っても、一般的に全くイメージのわかないこの時期だが、過小評価はできないと主張。

 

第九章。

イギリスから見た英独建艦競争。

この建艦競争は、イギリスにおいては、多分に「ドイツの脅威」を政治利用し世論を煽動するために起こったという側面が大きい。

急進的軍人がジャーナリズムへの暴露を繰り返し、ドイツと同じプロパガンダで「海軍恐怖」を煽った。

正直イギリスですらこうなのかと幻滅を感じた。

実際には正確な戦力把握、適切な示威行動、着実な建造(「ドレッドノート」級戦艦[1905年~])によって、1912・13年には英国が競争に勝利していた状況だった。

 

第十章。

ドイツ空軍。

1935年再軍備宣言と共に成立。

初代参謀総長ヴェーファー(用兵)、航空次官ミルヒ(造兵)。

36年ヴェーファー事故死。

ゲーリングが司令を務めたが軍で最もナチ的とは言い難い。

途中、「ユダヤ系のミルヒ」という我が目を疑う記述があった。

その他、戦略爆撃と戦術空軍の相克について。

 

第十一章。

メッケルと日本帝国陸軍。

戦時中の著作から生まれたメッケル神話の歪み。

1885~88年陸軍大学校で教鞭を取り、その功績大、本人も後々まで日本からの留学生を支援し日本に親近感を持っていた。

しかし明治十年代末から二十年代初めにかけては他のドイツ人教官も同じ位評価されており、教授内容もドイツ兵学の高度なものではなく、基礎に過ぎない、そして当時の日本陸軍のレベルは実際その程度だったと評されている。

 

第十二章。

コルマール・フォン・デア・ゴルツとオスマン帝国陸軍。

アブデュルハミト2世に招かれた軍事顧問団。

(大モルトケもかつてオスマン帝国に勤務。)

1897年希土戦争勝利への貢献。

スルタンによる改革妨害と教え子による1908年青年トルコ革命。

第一次大戦では同盟国側指揮官としてドイツ顧問活動。

 

第十三章。

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンと中華民国陸軍。

義和団事変に従軍、1930年に退役した軍人。

ワイマール共和国時代には右翼政党、国家人民党とその関連団体鉄兜団に加入するが、両者がナチと協力するようになると脱退。

1932年8月当時国防相でヒトラーを利用しようとしていたシュライヒャーに反ナチの立場を採るよう説得。

ナチの表面的ナショナリズムに騙された保守派(ナチについてのメモ その5参照)にならずに済んだことは注目と称賛に値する。

1928年よりドイツから中華民国へ軍事顧問派遣、ファルケンハウゼンもゼークトの後任として軍事顧問に就任、日中戦争が勃発すると対日戦を指導。

(義和団事件時を例外として、ドイツの東アジア政策は[外務省・軍ともに]ほぼ常に日本より中国を重視していた。)

40年三国同盟が成立するとファルケンハウゼンの活動に日本が抗議、当時彼は私人の立場だったが、国籍剥奪までちらつかせて外相リッベントロップが帰国させる。

 

 

おしまい。

硬い論文集だが、初心者が全く読めないわけではない。

それなりに有益で面白い。

買う必要は無いが、図書館にあればどうぞ。

2015年7月29日

渡邉義浩 『関羽  神になった「三国志」の英雄』 (筑摩選書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 05:06

著者名に見覚えがあると思ったら、『儒教と中国』(講談社選書メチエ)の著者だった。

「関帝」という信仰対象になった原因についての本。

日本での定番、吉川英治『三国志』は曹操と孔明中心。

「本場」中国での毛宗崗版『三国志演義』は、「奸絶(絶=きわみ)」の曹操、「智絶」の孔明、「義絶」の関羽中心。

韓国では、壬辰の乱での明援軍によって国王に関帝廟礼拝が強要されたので、関羽よりも趙雲に人気がある。

中国以外では華人ネットワークによる信仰も広まる。

本書1章は三国志と演義概観、2・3・4章は関羽の生涯、5~8章は関帝信仰の展開。

正史『三国志』は魏正統、『演義』は蜀正統、司馬光は魏正統、朱熹は蜀正統。

『演義』をまとめた毛綸・毛宗崗父子は康煕年間の人物。

関羽の出身は山西省解県、塩池で有名。

天下の勇将だが、呂布には劣るとの評あり。

三国分立を導いた呉蜀の同盟においては呉の魯粛がキーパーソンであり、その死後呉蜀は決裂、そのあおりで関羽も死ぬ。

なお、それ以前に曹操に降伏した後、劉備の下に戻った関羽を称える文脈で「呉三桂は康熙帝に殺害されている」(79ページ)とあるが、三藩の乱を起こした直後の病死では?

関羽は唐代に仏教神として祀られ、宋代には王朝から王号・神号が与えられ、南宋では朱子学が蜀正統論を唱え、明清代には出身地の山西商人が台頭し信仰を広める。

当初道教世界の支配者として扱われていたが、清代には儒神として崇拝。

王朝側だけでなく、白蓮教・天理教・天地会など反乱者側も信仰。

海外華人の信頼協力関係確立の手段として関帝信仰が行われる。

 

特筆すべき点は無いが、読みやすい。

二日あれば十分。

前半を読むと『三国志蜀書』を読み返したくなりました。

2015年7月23日

山口洋一 『歴史物語ミャンマー 上・下』 (カナリア書房)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 23:24

副題が「独立自尊の意気盛んな自由で平等の国」。

著者は元ミャンマー大使。

ミャンマーが民族総称、その一部がビルマ族という観点から、本書ではミャンマーという呼称を使用。

(これに否定的な見解もある。)

また本書では「ペグー」→「バゴー」、「アラカン」→「ラカイン」というように慣用の語句を変えているところがある。

本文では国王の治績が一人一人叙述されていて興味深いが、さすがにここで全部メモするのはきつい。

概略の述べると、ビルマ族・モン族・シャン族の三民族が主人公。

モン族が南部、シャン族が北部に居住。

シャン≒シャムということで、タイ系民族。

タイ近くにはカレン族、中国国境のカチン族が存在、インド側のラカインは独自性あり。

地理的には、国土中央にアヴァ、マンダレー、やや西寄りにパガン、その西南にピエ、少し南に現首都ネピドー、さらに南下してタウングー(トゥングー)、海岸沿いデルタ地帯にバゴーとヤンゴン(ラングーン)。

最初の国家ピューの後、アノーラタ王がパガン朝を開く。

第三代チャンシッタ王の盛期を経て、1299年元朝の攻撃によって滅亡とされるが、シャン人実力者の下で傀儡王が継続して立てられている。

続くアヴァ朝とペグー朝の並立時代でも、アヴァ朝はビルマ族色が強く、シャン族単独王朝とは言い難いとされている。

タウングー朝がミンチェエンヨーによって創始。

二代タビンシュエティはポルトガル傭兵を活用(もう16世紀だから)。

三代バインナウン王の盛期を迎えるが、前代チャンシッタ王と共に血統的には微妙で、チャンシッタ王は庶子と考えられ、バインナウン王は義兄弟。

アウン・ゼヤがアラウンパヤ王として王朝建国。

三代シンビューシン王が清朝と対決(1763~76年)。

だるい・・・・・。

こんな断片的なことを書くのも面倒くさい。

大野徹『謎の仏教王国パガン』で書いたようなことが限界だ。

三次にわたるイギリス・ビルマ戦争の契機は相当無茶だ。

イギリス当局は時に穏健な立場を採るが、その統制に従わない商人がタチが悪い。

第一次戦でラカイン・タニンダーリ(タイ沿いの細長い部分)・アッサム割譲、第二次で下ビルマ割譲、第三次で完全滅亡。

以後英領インドの一州に。

イギリスは分割支配を意図して、インド人や非ビルマ系の少数民族を軍人雇用などで優遇。

その植民地体制を外部から覆した日本占領時の苦難と否定的側面もしっかり記している。

大東亜共栄圏の理想自体は(現実政策とのずれを認めつつ)肯定しているのに対し、こう書くのは好感が持てる。

十数年前と全く逆に、旧軍の非行と過ちを書かない、あるいはヒステリックに全否定する方がポピュリスト的で嫌悪を覚える。

独立の父アウンサン暗殺はウ・ソー単独行動ではなく、英国の反動勢力の策動もあったと記されている(ただしアトリー首相や当時の総督は無関係)。

独立後軍事政権成立までは基本、政権担当者はウーヌー一人。

議会制民主主義が 党派争いで機能せず。

よって軍事クーデタで成立したネ・ウィン体制に好意的かと思いきや、かなり厳しい評価が下されていて、意外な感がした。

しかし一方では、1988年の「民主化」運動は明確な指導理念もない現状変革願望で、一部は暴徒化して治安悪化をもたらした、少数民族が分離闘争を展開する最中にアウンサン・スーチー女史の過激で性急な軍批判は不適切であったと評されている。

結局1990年選挙を経ても軍は政権移管をしなかったが、著者はこれに理解を示す。

不充分な経済情勢と教育環境での民主化は混乱と衆愚政治を生むだけだとする著者の意見に反感を持つ人も多いでしょうが、私はそういう見方もあるだろうと思う。

欧米メディアの偏見を強く批判する記述もあり、著者も元ミャンマー大使としていろいろ不愉快なことがあったんだろうなあと推察する。

2011年テインセイン大統領を選出してからは一応民政に復帰し、国際社会での孤立も解消しつつある。

1987年の韓国はひとまず盧泰愚政権を選択して賢明だったと言うべきか。

英語のタネ本が1、2冊あって、それを適当に取捨選択して貼り合わせた本という失礼な感想を持たないではないが、それでも無知な自分にとって有益ではある。

ただ誤植が多いのが気になる。

評価は普通。

悪くはないが、初心者向けビルマ通史の決定版という感じはしません。

2015年7月10日

坂野潤治 『昭和史の決定的瞬間』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 16:04

単刀直入にいきましょう。

本書の表題である「昭和史の決定的瞬間」とは何か?

著者によれば、それは1937(昭和12)年1月宇垣一成内閣の流産である。

昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、日本の対外政策に与えた影響・・・・それは日本の将来を「平和」から「戦争」に転換する上で、決定的な意味を持つものであった。

・・・・昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、「戦争」と「平和」、「ファシズム」と「立憲制」の対立において、事態を決定的に「戦争」と「ファシズム」の方向に進めた・・・・

まずは、その前提となる政治情勢をさかのぼって検討。

昭和戦前期における二つの大きな危機と転換点は1931・32(昭和6・7)年(満州事変および五・一五事件)と1936・37(昭和11・12)年(二・二六事件および日中戦争)。

前者の危機は「戦争」に始まって「テロ」に終わり、後者は「テロ」に始まり「戦争」に終わっている。

社会情勢としては前者の時期は大恐慌による深刻な不安が社会を覆っていた一方、後者では不況からの回復に一応成功してはいたが、その結末が対外全面戦争だった点では後者の危機の方が、日本の運命にとって決定的。

しかしこのことは、政党勢力が1931・32年には強く、1936・37年には弱かったことを意味しない。

満州事変前後の政党勢力が対外膨張と国政介入を企図する軍部に対してじりじりと後退を続けたのに対し、日中戦争直前までの政党勢力は公然と軍部に反対し、そのための内閣の樹立を目指しながら敗北したのである。

「平和と民主主義」の守りに徹して敗北した最初の危機と、その復活をめざして攻勢に転じた上で敗北した二度目の危機とを比較した場合、著者の関心は後者の昭和一一・一二年の危機の方に向かってしまうのである。

まず著者は、五・一五事件後成立した二代の挙国一致内閣、斎藤実内閣および岡田啓介内閣の性格の違いを指摘する。

この内、真の挙国一致内閣は前者の斎藤内閣のみである。

1934年7月岡田内閣が成立した頃から、青年将校叛乱、経済恐慌、対中・対米英関係の緊張という三つの危機が一応収束に向かったことにより、危機を理由に斎藤挙国一致内閣に結集していた諸勢力が自己主張を抑えられなくなってきた。

1936年2月に予定されていた総選挙に自党に近い内閣で臨みたい政友会は野党的立場を採り、民政党は事実上岡田内閣の単独与党となり、この対立に陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の対立が連動、さらに合法無産政党の進出が絡む展開となる。

1935年天皇機関説問題で政友会と陸軍皇道派が岡田内閣とそのブレーン美濃部達吉を攻撃。

衆議院第一党の政友会がこのような行為に出たことは政党政治にとって自殺行為であると言えるが、著者はここでこの時期の美濃部がすでに政党内閣制の主張を捨てていたという微妙な事実を指摘する。

美濃部は、議会多数党に基礎を置く政党内閣ではなく、政党・軍部・財界・労働者代表の円卓巨頭会議で重要問題を決定する一種の職能代表制を提唱していた。

戦前日本の憲法の下では、政府は国防と外交については議会に諮[はか]らなくていいことになっていた。美濃部の提唱に従って、さらに「財政および経済」が議会の手から奪われ直接に各界の指導者の協議に移されるならば、政党内閣制だけではなく、議会制度そのものが否認される。

したがって天皇機関説排撃と共にあくまで議会多数派に内閣の基礎を置くべきとする「憲政常道論」も掲げた政友会の態度にも一理はあるとする著者ではあるが、それでも同党(特に久原房之助派)と陸軍皇道派の連携については到底擁護できるものではない。

急進派青年将校を背後から支持し軍部の勢力拡大を目論む真崎甚三郎ら皇道派は、合法的に軍の発言権拡大を目指す統制派に対し、当時徐々に劣勢となっていた。

ここで問題なのが、軍備増強・近代化の一環として資本主義の修正を合法的に行うとする陸軍統制派の主張を、当時最大の無産政党社会大衆党(1932年結成)が「広義国防論」の名の下に支持したこと。

岡田内閣下、1935年5月に国策立案機関として「内閣調査局」が陸軍統制派と社会政策に熱心な「新官僚」主導で設立され、水面下で社会大衆党・日本労働総同盟とも連携。

さらに政友会以外の政党員・財界人・閣僚・学識経験者で構成される「内閣審議会」が設置されるが、当時議会過半数を占めていた政友会は総裁鈴木喜三郎の下、これを天皇と議会双方を軽視する「天皇機関説」が具現したものとして激しく反発。

同じ35年中には、7月真崎が教育総監を林銑十郎陸相によって罷免(後任渡辺錠太郎)、8月相沢事件で統制派中心人物の永田鉄山が斬殺されるなど、皇道派・統制派の対立はさらに激化。

・・・・昭和一〇年五月から八月にかけて、各種のエリート集団は両極に分かれていった。一方の極には陸軍皇道派、青年将校、平沼系右翼、そして過半数政党政友会が集った。他方の極には、陸軍統制派、新官僚、民政党、社会大衆党、それに「重臣」と呼ばれた天皇側近と総理大臣経験者が結集していた。このようなエリート諸集団の両極分解の中で、元老西園寺公望だけが、意図的にか、あるいは老齢のためか、その立場を鮮明にしていなかった。

ただし、政友会も一枚岩ではなく、同党離脱後も影響力を保ち続けた蔵相高橋是清は陸軍内穏健派の宇垣一成を擁立した政・民二大政党協力を構想する。

これは総選挙で雌雄を決することを求める民政党総裁町田忠治や陸軍内宇垣支持派の反対で実現しなかったが、同時に真崎と久原が目論んだ総選挙前の内閣交代も実現せず。

1936年2月20日の総選挙結果は、政友会大敗(242→171)、民政党勝利(127→205)、社会大衆党躍進(5→17)。

しかし数日後、二・二六事件勃発。

青年将校の叛乱によって国家機関は一時的に麻痺し、正常時には執行機関ではなく諮問機関に過ぎなかった軍事参議官会議や侍従武官長がにわかに発言権を持ち、前者に属する真崎、後者の本庄繁ら決起将校に近い人物が事態を把握するかと思われた。

しかし天皇は、ここからがんばった。二・二六事件について語られるとき必ず引用される、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」という天皇の言葉(二月二七日)を、この深い孤立感とあわせて読むとき、「天皇制」と「ファシズム」を組み合わせた「天皇制ファシズム」という言葉を気安く使いたくはなくなる。皇道派や青年将校の「天皇親政」の企ては、「親政天皇」のがんばりでかろうじて抑止できたのである。

しかしこの事件の後遺症は絶大で、「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を著者は極めて重視している。

二・二六事件後、陸軍皇道派は中央から排除されたものの、主導権を握った統制派は、広田弘毅内閣の下、露骨な政治介入を拡大し、軍事予算を大拡張する。

議会では民政党の斎藤隆夫が有名な「粛軍演説」を行い、陸軍に果敢な抵抗を試みるが、社会民衆党の麻生久は「広義国防論」に拠って、軍拡と共に社会政策の実現を要求する立場を採る。

これまでの日本近代史研究では、言うまでもなく斎藤隆夫が「善玉」で麻生久が「悪玉」である。斎藤は反戦で反軍であり、麻生は「好戦」とまではいわないまでも、「親軍」であったことは確かだからである。しかし、斎藤と麻生のどちらがより「民主的」であったかといえば、軍配は麻生に挙がる。

進歩的自由主義を奉ずる民政党が、労働者の生活向上の為の施策に極めて冷淡で無理解だったことは本書で度々批判的に記されている。

一方、広田内閣は36年8月「国策の基準」を策定、北進南進論を併記、陸海両軍の大拡張を是認、11月日独防共協定に調印。

さらに10月、陸軍による議会制度改革案が報道される。

これは(米国流に)行政権と立法権を完全に分離することによって政党内閣制を明示的に否定し、議会を立法・予算の審議に専念させること、議会に職能代表議員を進出させること、戸主や兵役義務経験者に選挙権を制限することなどを内容とする。

議会主義を完全に骨抜きにしかねない、この陸軍案に対し、民政党だけでなく、これまで親軍的傾向に流されがちであった政友会にも、猛然と反対機運が盛り上がる。

この二大政党の協調機運について、著者は少々驚くべき見解を述べる。

政友会と民政党の連携は「日本版人民戦線」であると。

対外的に無謀な軍事的膨張政策を回避し、国内的に議会制度擁護の一点で協力し、幅広い勢力が大同団結するという、この動きは「人民戦線」と名付けてもよいとする。

もちろん、フランスなど実際に人民戦線内閣が成立した国との違いはある。

・・・・フランスの場合には、第一に、事は共産党と社会党の間の問題であったのに対し、日本には共産党は実質上なく、社会大衆党と民政党(フランスで言えば社会党と急進党)の間での問題であった。

国民運動を伴わなかったという致命的な弱点を持つ「日本版人民戦線」は、もう一つの大きな弱点を持っていた。人民戦線の中核になるべき日本の社会党(社会民衆党)が反資本主義、反ブルジョア政党の立場を堅持したため、「日本版人民戦線」の実態は、政友会と民政党という二つのブルジョア政党の握手による反ファッショ戦線でしかなかったという点である。

本書はそれでも、昭和一二年一月の宇垣一成の組閣失敗までの数ヵ月、日本でも「人民戦線」論が盛んであったこと、宇垣一成内閣が政友会と民政党に支えられて、対ソ戦と対中戦の抑制に向かえば、「日本版人民戦線内閣」と言えないことはないという立場に立つ。保守党(政友会)と自由党(民政党)の「人民戦線」には胸は躍らないが、「平和」のためには役立つ内閣だったろうと考えるからである。時代状況によっては、「平和」が最優先である瞬間もあったのである。

上記引用文の通り、社会民衆党は二大政党との協力を既成勢力を擁護するものとして拒否し、むしろ社大党より左翼側にいた労農派マルクス主義者(日本共産党からは「異端」として排除されていた)や労農無産協議会(戦後は日本社会党左派となる加藤勘十、鈴木茂三郎ら)が軍ファシズム反対の立場から人民戦線論を唱えていた。

私は、昭和一一年の二・二六事件から一二年七月の蘆溝橋事件までの時期においては、「反資本主義」よりも「反戦」が重要であり、「反既成政党」よりも「反陸軍」の方が優先課題であったという立場に立っている。しかし当時の社会大衆党員や労働総同盟の身になってみれば、反ファッショのために資本家や政友会や民政党と手を握れと言われた時の彼らの反発も、よく理解できる。

しかし、二・二六以降の陸軍主流・新統制派が対ソ戦の為の本格的軍拡に乗り出すと、社大党が「広義国防論」の名の下に期待した軍拡と社会生活改善の両立が困難となってくる。

この頃から流行りだした「狭義国防」という言葉は、すでに紹介したように、当初は社会大衆党の麻生久が衆議院における同党の代表質問で、陸軍の軍拡至上主義を批判して使った言葉である。しかし、陸軍が本気で対ソ戦準備の大軍拡を始め出したとき、陸軍や財界にとって、同じ言葉が肯定語として使われ出す。対ソ戦準備のための財源と、飛行機や戦車の製造に必要な重工業の育成ができるならば、陸軍は国内の政治経済体制の変革までは要求しないという意味で、「狭義国防」という言葉が使われ始めたのである。

1937(昭和12)年1月、政友・民政二大政党は、有名な浜田国松の「割腹問答」で陸相寺内寿一を攻撃、広田内閣を退陣に追い込む。

宇垣一成に大命は降下し、政友・民政大連立の上に宇垣内閣と思われたが、よく知られているように石原莞爾ら陸軍中堅層による妨害があり、二・二六事件でのテロの後遺症から内大臣湯浅倉平ら宮中側近らも宇垣支持を貫き通すことができず、宇垣内閣は流産。

この失敗した宇垣政権構想の長期的意味を著者は以下のように考察。

・・・・五・一五事件から二・二六事件にかけての中心的な政権構想はは、「立憲独裁」と「憲政常道」であり、どちらも一長一短のものであった。

斎藤・岡田両挙国一致内閣は、衆議院の過半数政党と陸軍内の極右勢力という二方面からの抵抗を乗り切るために、形式的には議会軽視の統治方針を採った。議会はもちろん、場合によっては内閣すらも形骸化させかねない内閣審議会・調査会は、形式的には非民主的なことは否定できないものだった。

行政学者蠟山政道は、岡田内閣の統治方針を「立憲独裁」と名付けたが、自由主義者石橋湛山は手続き民主主義重視の立場からこれを批判し、あくまで議会多数党が内閣を組織する「憲政常道論」を主張した。

しかし他方で、形式ではなく政策内容に重点を置いてみれば、過半数政党政友会と陸軍皇道派の組み合わせは最悪であった。・・・・・両者の接近は、昭和六年末の犬養毅内閣成立の時から連綿とつづいてきたものであった。将来における陸軍皇道派の内閣をめざす陸軍青年将校やその理論的指導者北一輝らは、その第一段階として、昭和六年一二月の犬養政友会内閣の樹立を支持していたのである。

この問題は、本書が対象とする昭和の第二の危機とは直接には関係しない第一の危機の問題ではあるが、それがわからないと、石橋湛山の筋の通った批判にもかかわらず、「立憲独裁」にはそれなりの存在理由があったことが理解しにくい。・・・・・形式上は正当な「憲政の常道」が、内容的には「平和」も「民主主義」も損ねかねなかった・・・・・

陸軍青年将校は犬養内閣を一先ず容認したが、それに飽き足らない海軍将校らが五・一五事件で犬養首相を暗殺。

だが上記の通り、「戦前最後の政党内閣」犬養政友会政権に対する著者の評価は著しく低い。

これまでの通説的理解では、五・一五事件により政党内閣時代が終焉させられたとするものである。単純な事実においてはそうであるが、海軍青年将校が倒した政友会内閣は、その成立以来、後の陸軍皇道派と深い関係にあり、満州事変に対しても強い支持を表明していた内閣であった。

もちろん、どんな内閣であろうと現役の海軍将校などが武力でこれを倒すことは許されない暴挙であるが、軍人テロの非業さが、倒された内閣の正当性を証明するわけではない。五・一五事件で内閣の座を追われた立憲政友会は、これ以後昭和一一年二月の総選挙までの約四年間、衆議院の過半数を占め、それを根拠に「憲政の常道」による政党内閣の復活を要求しつづけるが、同じ期間一貫して陸軍内復古派の「皇道派」と近い政策を唱えていた・・・・・

著者の総括的結論は以下の通りである。

「立憲独裁」は政策内容においては「平和」重視のゆえに評価できても、議会と政党を軽視するために、政治体制としての非民主性は否めない。反対に、衆議院に過半数を占める政友会に政権をよこせという「憲政常道論」を、手続き民主主義の観点から否定することは不可能だが、陸軍皇道派に支持された政友会が政権に就けば、対外的にも対内的にも、何をするかわからない。昭和七年の五・一五事件から昭和一一年の二・二六事件までの四年弱の日本の政治は、政策内容と政権形式の矛盾に悩まされたのである。

そのような中で、形式と内容の双方において相対的に問題の少ない政権構想が、いつもその裏に宇垣一成の顔が見える「協力内閣」構想である・・・・・

「協力内閣」は「挙国一致内閣」とも「立憲独裁」とも違って、政友会と民政党という二大政党の連立内閣構想である。この二大政党が連立してしまえば、衆議院においては競争原理が働かなくから、政党内閣時代ならば政権選択の自由が失われるというマイナスが目立つ。しかし、軍部や官僚が突出してくる危機の時代においては、両党の連立内閣は少なくとも民意にもとづいた政権であり、手続き民主主義というハードルは最低限越えることができる。

1931年満州事変直後にも二大政党大連立の動きがあり、当時宇垣は朝鮮総督で、宇垣派直系であった陸相南次郎、参謀総長金谷範三が事変不拡大に努めていた。

昭和六年の場合には、九月の満州事変と、一〇月の未遂に終わった陸軍のクー・デタ計画とにより、英米協調と民政党内閣とが同時に危機に瀕していた。昭和一二年初頭の場合は、前年二月の総選挙で復活の勢いを示した民政党が、二・二六事件と日中戦争の危険に直面していた。内政、外交両面における陸軍支配の増大が「協力内閣論」台頭の一因であるが、どちらの場合にも二大政党の中で民政党が政友会に対して優勢であった。

・・・・・・

昭和七年以来、過半数政党政友会が唱えてきた「憲政常道論」は、昭和一一年二月二〇日の総選挙での同党の敗北により意味を失った。過半数を大きく割り、第二党に転落した政友会は、もはや「憲政の常道」によっては政権に就けなくなったからである。

他方、岡田内閣に典型的に表われた、天皇側近、陸軍統制派、新官僚、財界、民政党、社会大衆党などが議会を迂回して政治を行う「立憲独裁」も、二重の意味で継続が困難になってきた。一方では二月二〇日の総選挙で第一党の地位を回復した民政党や、この総選挙で大躍進した社会大衆党には、議会を迂回する必要がなくなった。他方では「立憲独裁」を支えてきた天皇側近は、二月二六日の青年将校のクー・デタの直接的な攻撃目標とされたことで、以後の政治的影響力をいちじるしく縮小させられた。

「憲政常道」も「立憲独裁」も機能しなくなった昭和一一年三月以降に残されたのは、二大政党の支持を得た「協力内閣」か、その反対の文字通りの「軍部独裁」であった。昭和一二年一月に宇垣一成に組閣の大命が下ったのは、その意味では当然の成行きであり、また宇垣の組閣を挫折させたのが石原莞爾ら陸軍の中堅であったことも、同じように当然の成行きであった。

昭和一二年二月に成立した文字通りの「軍部独裁」内閣たる林銑十郎内閣は、昭和七年の五・一五事件以後、政治秩序の安定化をめざして試みられてきた三つの政権構想(憲政常道、立憲独裁、協力内閣)が、対外危機の増大と陸軍の国内政治への発言力の増大とにより、すべて挫折したことを象徴するものであった。

 

1937年2月、「軍部独裁」の林銑十郎内閣が成立した。

では、この内閣が最低最悪の政権であったのかというと、著者の評価はそれともやや違う。

林銑十郎自体、満州事変時朝鮮軍司令官としての独断「越境」の悪名だけが有名で、それすら忘れ去られる存在であるが、皇道派の真崎甚三郎を罷免したのも陸相だった林である。

また、林内閣外相の佐藤尚武は外務省内で当時稀なほどの対中融和派だった。

さらに、蔵相結城豊太郎は広田内閣で膨張する一方だった軍事費にひとまずは歯止めをかけ、財界重鎮で日銀総裁に就任した池田成彬と共に経済安定に努力した。

教科書で「軍財抱合」と呼ばれる陸軍と財界の接近は、陸軍の「狭義国防論」への転換によってもたらされた。

長期的な対ソ戦準備の為の工業化を最優先とし、そのために財界等既成勢力と協力、陸軍による急進的な国政改革は手控え、対外的にも対ソ以外の多正面戦争と米英の介入を避けるために中国に対しては慎重策をもって臨むという路線。

政治評論家馬場恒吾はこれを国内政治正常化の一歩として歓迎し、いずれ軍部は財界だけでなく政党にも妥協的姿勢を取り政党政治復活の芽も出てくるであろうと予測した。

なお当時の雑誌に見られる論調では、陸軍の軍拡路線を日本の産業構造を転換し重工業化を進めるとして歓迎する経済アナリストが多数派だったが、それが戦争の危機を生み、すべてを失わせる可能性を見なかったのは、エコノミストの視野の狭さを物語っていると著者は述べているが、これはかなり示唆的である。

また極めて問題なのが、慎重な対中政策が陸軍全てで共有されていたわけではなく、参謀本部の石原莞爾らはそれを支持したものの、出先の東条英機ら関東軍実力者の間では1935年頃からの華北分離政策をさらに推し進めようとの動きがあり、これが結果的に破滅的な事態をもたらすことになる。

そして、馬場の予想と期待に反して林内閣は二大政党との協調には向かわず、各方面に人気の高い近衛文麿および政友会でも非主流派の前田米蔵、中島知久平、民政党非主流派の永井柳太郎らと連携し、国会解散に打って出る。

1937(昭和12)年4月総選挙の結果は、民政党減(204→179)、政友会微増(171→175)、政府与党の小三会派たる昭和会・国民同盟・東方会は減、社会大衆党再躍進(20→36)。

この選挙でも社大党は政・民二大既成政党批判の姿勢を崩さず、「人民戦線論」に与しなかったが、陸軍が財界と組んで国民生活改善より軍備拡張を最優先する「狭義国防論」に転換していた当時、社大党の「広義国防論」は(党指導部の意図を超え)かつてとは逆に反軍的色彩のスローガンとなっており、国民が支持を与えたのはこの反軍的姿勢だ、この選挙が戦前日本の民主化の最高潮と見なすべきだと著者は判断している。

だが、わずか数ヵ月後に盧溝橋事件が勃発、近衛内閣は事態を泥沼化させ、総力戦体制を整備、議会政治は戦後まで圧殺されることになる。

 

 

かなり詳しく本書の内容をなぞってみたが、やや不満に思うのが、政党だけでなく陸軍もまた世論の支持によって浮沈を繰り返す政治的プレイヤーに過ぎないという視点が無いのではないかと思えること。

表面的には国内の実力組織である軍部が直接的暴力行使やその威嚇で民主的な議会政治を破壊したように見えても、「政党政治の腐敗・堕落」に憤りその破壊を是とする過激な世論の支持が必ずあったはずである。

そもそも、満州事変を熱狂的に支持し、1932年総選挙で親軍的傾向の政友会を圧勝させ、五・一五事件の実行犯たちへの減刑嘆願を殺到させる国民心理が無ければ、本書が描く1935年における政治集団の両極化で、青年将校の潜在的テロと皇道派の圧力を避ける為に天皇側近と民政党が陸軍統制派に接近せざるを得なくなることも無かったはずである。

皇道派排除後にますます増長し国政に介入する統制派の支配を振り払う為に、政党勢力と宮中が成立を目指した、幻の宇垣内閣が「人民戦線内閣」だったと言っても、それを潰したものまた人民(の少なからぬ部分が支持した陸軍)だ。

最終的に議会政治の息の根を止めた日中戦争も、「暴支膺懲」という感情論に流されて大衆ヒステリーに陥った国民の多数派が支持したからこそ生じたものである。

著者は、東条英機を中心とする関東軍の対中強硬姿勢をあまり明らかに出来なかったので、日中戦争が「天災」のように降りかかって戦前の民主主義を押し潰したような感を与えたことを本書の短所と認めているが、それにも長年の惰性と化した対中蔑視・対中敵視の衆愚的世論による支持があったことは間違い無い。

その民衆世論こそが悪しき主導者であり、結局民主主義自体を根底から疑う姿勢を持たない限り歴史の真相は見えてこないと思えてならない。

とは言え、読み終えての評価はやはり「素晴らしい」の一言に尽きます。

坂野氏の本を読むたび思いますが、歴史解釈の鋭利さに本当に圧倒されます。

本書は2004年刊で、存在は知っていたのに、十年以上放置していた自分は怠惰にも程があると反省しました。

坂野氏が同じちくま新書で書かれている『日本近代史』も絶対に読むべき本だと確信しました。

このブログで記事にできるのはいつになるかわかりませんが、皆様は即座に取り組まれることを強くお勧めしておきます。

2015年7月8日

引用文(林健太郎6)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 15:36

引用文(林健太郎5)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

フランス革命を題材にした文学はすこぶる多いが、ディッケンズの『二都物語』は先ず代表的なものであろう。波乱に富んだメロドラマ風のものであるが、カーライルの『フランス革命史』の強い影響を受けており、革命前の貴族の腐敗と暴逆を描いて革命を必然としながら、ジャコバンのテロリズムを神意に背く悪と見なす作者の立場が一貫して流れている。これも曾て映画になり、最近また新しい映画がつくられた。アナトール・フランスの『神々は渇く』はジャコバンのテロリズムの最高潮期におけるパリの一段面を描いた傑作である。ロベスピエールに魅せられた一青年が一身を革命に捧げて、やがて断頭台に身を滅す姿は甚だ印象的である。

ロマン・ローランは晩年コミュニズムの同伴者になった人であるが、その以前に書かれた一連の革命劇(『愛と死の戯れ』『獅子座の流星群』他全部で八篇あり)は権力闘争の空しさを説いたヒューマニズムの香り高い作品である。ユーゴーの『九十三年』はこの革命中ヴァンデー地方に起った王党派の反革命の内乱を題材にしている。作者の同情は革命の側にあるが、王党派の貴族も魅力的に書かれている。彼はいかなる立場でも主義のために身を捧げる人物の中に高貴さを見たのである。このヴァンデーの叛乱の余燼ともいうべき同じ地方の木莵[みみずく]党の叛乱を描いたのがバルザックの出世作『木莵党』である。ここでも王党派の貴族が赫かしく描かれ、それに反して共和派の指揮官がすこぶる凡庸な人物にされているが、これは王党派であったバルザックの政治意識と関係がなくはないであろう。

この革命で処刑された悲劇の女王マリ・アントアネットに関してはシュテファン・ツヴァイクの詳細な伝記『マリ・アントアネット』がある。映画『マリ・アントアネット』は原作はちがうが、やはり彼女の生涯を知るに便利である。ツヴァイクはまた、この時代ジャコバン党員から転身して政府の変わる毎に次々に転向しナポレオンの下で警視総監を勤めた驚くべき保身術の大家フーシェの伝記『ジョゼフ・フーシェ』を書いている。

この他ドイツ人の作家では、十九世紀の前半に急進的な革命思想家として活躍しドイツ近代劇の創始者ともいわれるゲオルク・ビューヒナーが戯曲『ダントンの死』を残している。十九世紀末に出た耽美主義者シュニッツラーにフランス革命に取材した『緑の鸚鵡』というすこぶる面白い戯曲があるが、これは全く作者の奔放な空想の作品で歴史とは何の関係もない。

ゲーテが彼の体験したフランス革命をいくつかの作品に表わしていることは有名である。フランスに近いドイツの村で無知な農民をだますにせジャコバン党員を書いた戯曲『市民将軍』は革命に熱狂する同国人を戒めたもので、彼の革命に対する気持を最も明瞭に表わしている。最も愛誦される彼の小説『ヘルマンとドロテア』には、革命軍の侵入によって家を追われたラインラントの田舎町の避難民の姿が描かれ、その中に彼の革命観が示されている。彼の対仏戦争の従軍記『対仏陣中記』と『マインツの攻囲』とは彼自身の体験記としてばかりでなくこの戦争の実情を知るのにも役立つ。革命軍がヴァルミーで始めて勝った時、敵側の陣中にいたゲーテがいった有名な言葉「ここに新しい歴史が始まる」は前者の中にあり、またよく引用される言葉「暴行が行われるよりは不正が行われる方がよい」は後者の中にある。

ナポレオンは多くの作品の中に姿を現わしているが、彼をめぐる歴史小説としてはトルストイの『戦争と平和』に及ぶものはない。この作品についての説明は不要であろう。ナポレオン時代の秘密警察を暴いたバルザックの『暗黒事件』も有益である。文学者によるナポレオンの伝記としてはエミール・ルードヴィヒのものがあるが、メレジュコフスキーの小説『ナポレオン』は普通の伝記を読むよりも面白い。バーナード・ショーの『運命の人』も彼の断面を鋭く描き出している。

十九世紀以降になると、文学者が同時代人であることが多いので、いわゆる歴史小説ではなく自分自身の時代や社会をよく描いた小説が今日から見て歴史のよい材料となる。イギリスではサッカレーの『虚栄の市』が十九世紀初の貴族社会を、ディッケンズの『オリヴァ・トゥイスト』『デイヴィド・コパフィールド』『ハード・タイムズ』等の諸作が下層社会を示すよい史料である。なお十九世紀中葉にイギリスの黄金時代を現出したヴィクトリア女王にはリットン・ストレイチーの伝記があり、その治下の大政治家ディズレイリにはアンドレ・モーロアの伝記がある。

フランスではバルザックという写実主義の大作家がいるので、彼の小説を読むと復古王朝から七月王朝にかけてのフランスの社会が実によくわかる。もしもこの意味での代表作をあげれば、地方都市の生活を描いた『ウージェニー・グランデ』パリを描いた『セザール・ビロドー』農民を描いた『農民』であろう。スタンダールの『赤と黒』は主人公ジュリアン・ソレルの性格が魅力であるが、やはりこの時代をよく表わしている。最近来た映画はソレルの描き方は足りない代りに、当時の風物はよく写している。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は写実とは縁遠い小説であるが、その中にはさまれたワーテルローの戦や七月革命の描写は面白い。二月革命、特にその後の六月の労働者暴動及びそれをめぐるフランス知識人の精神状態はフロベールの『感情教育』の中に古典的な表現を見出した。

ロシアでは、ゴーゴリ、トルストイ、ドストイェフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフなどの文豪を始めとして文学全体に社会性が豊かであり、絶好の社会の鏡を提供しているが、特にツルゲーネフの小説を『猟人日記』から『処女地』まで順に読むことは十九世紀ロシア社会史のよい勉強になる。ゴーゴリの『死せる魂』『検察官』も必読である。

ドイツにおいてはこのような役割を果すインメルマン、フライタークなどの作家が他の国の作家ほど有名でなくまた面白くもないので訳されていない。ただハウプトマンの『織工』が一八四四年のシュレジエン(シレシア)の有名な織工の一揆を描いており、歴史の著作にもよく引用される。

イタリアについてはナポレオン没落後メッテルニヒの支配下に行われた反動政治が、スタンダールの『パルムの僧院』によく出ている。そしてこの反動政治への反抗として起った革命党カルボナリの運動は同じくスタンダールの短篇『ヴァニナ・ヴァニニ』に描かれている。歌劇(映画にもなった)『トスカ』も同じようなテーマを扱っている。

アメリカについていえばホーソン『緋文字』が、植民時代、十七世紀のニュー・イングランドの社会の雰囲気を伝えたすぐれた歴史小説であるが、アメリカの歴史小説家としてはスコットに比肩するジェームズ・フェニモア・クーパーがあって独立戦争や西部の開拓を描いたいくつかのすぐれた小説を書いている。しかしこれらは日本語に訳されていない。(但し一番有名な『モヒカン族の最後』は子供の読物になっている。)同時代を写した小説としては黒人奴隷の悲惨な運命を描いて奴隷解放の精神的源泉となったストウ夫人の『アンクル・トムス・ケビン』を見落とすことは出来ない。なお南北戦争を舞台としたミッチェルの『風と共に去りぬ』はアメリカにおける『アンクル・トムス・ケビン』以来のベスト・セラーといわれているが、歴史小説としても有数のものであろう。なお続々輸入されるアメリカ映画にはそれぞれ何等かの史実を背景とするものが多いが、それらをここで一々解説するわけにはゆかない。

十九世紀後半に入ると小説の数は益々多く、歴史の参考として利用し得るものもおびただしい数に上る。そこでこれまでのような調子で解説を続けて行くことは不可能なので、ここで一先ず筆をおくことにする。
(拙著「歴史と人間像」三一年四月より、但し増補)

2015年7月6日

引用文(林健太郎5)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 16:17

引用文(林健太郎4)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

近代の始まりをなすイタリアのルネサンスに関しては、メレジュコフスキーの『神々の復活』という必読の小説がある。これはレオナルド・ダヴィンチの生涯を中心とし、彼をめぐってサヴォナローラ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロ、マキアヴェリなど当代一流の人物が縦横に活躍し、当時のイタリアの政治情勢もよく描き出され、誠に歴史小説の傑作である。但しモナ・リザの微笑の謎をレオナルドとジョコンダ夫人との間の微妙な愛情から説明しているような、レオナルドの多くの逸話は作者の創作であって事実ではない。

ルネサンスのイタリアは当時の芸術作品だけ見ていると誠に美しい世界のように見えるが、現実には甚だ混沌とした陰鬱な世界で、殊に群雄割拠の小君主達の間には権謀術数の政治外交が発達した。マキアヴェリが『君主論』を捧げたボルジア家のツェザレはその代表的なものであるが、映画『ボルジア家の毒薬』は彼と彼の妹ルクレチアを描いて彼等をめぐる時代相をよく表わしている。

この時代はまたいわゆる地理上の発見時代にも当たっているが、『ジャンヌ・ダーク』をつくったと同じ監督の映画『コロンブス』はコロンブスの生涯を忠実に描いていて有益なものであった。

ルネサンス時代の次には宗教改革及び宗教戦争の時代が来る。この宗教改革の創始者ルター自身を劇化したものにストリンドベリーの戯曲『ルター』がある。北欧においてはこの宗教改革はルネサンスの必然的発展であったが、しかもルネサンスの人文主義を深く呼吸したものにとってはこの荒々しい破壊事業はそのままには是認し得ぬものであった。この点に北欧ルネサンスの最大の代表者でルターの先導者であったエラスムスの悲劇がある。シュテファン・ツヴァイクの『エラスムスの勝利と悲劇』はこの偉大な自由思想家の悩みを描いたすぐれた伝記文学であり、革命と個人の自由、革新勢力と寛容の問題等、今日に通ずる問題を我々に提出している。

宗教改革に伴う騎士と農民の叛乱に関しては先ずゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』とシラーの『群盗』がある。後者は創作であるが、前者はとにかく実在の人物を扱っている。クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』はこの時代のドイツに実際起った事件の記録を基にして書かれたすぐれた社会小説である。下って十七世紀の三十年戦争になると、シラーの史劇『ヴァレンシュタイン』がある。これはさすが彼の史劇の最大の傑作だけあって、その迫力はすばらしいものがあり、やはり必読の歴史文学に属する。しかしここに表われたヴァレンシュタインの解釈は勿論シラー自身のものである。

カトリックのスペインに対する新教徒のオランダの独立戦争に関してもゲーテの『エグモント』とシラーの『ドン・カルロス』とが並び立っている。どちらも実在の人物を扱っているが史実とは大分異っている。殊に後者に描かれた王子ドン・カルロスは甚だ理想化されており、父フィリップ二世の後妻との恋愛は事実でない。

スイスはツヴィングリ、カルヴィンの両宗教改革によってドイツと並ぶ宗教改革の中心地となったが、ケラーの『狂える花(ウルズラー)』はこの宗教騒乱を背景にした小説である。

宗教改革はフランスにおいても多年に亘る血なまぐさい内乱をひき起したが、この時代はいくつかのすぐれた小説の材料となっている。ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』はアンリ二世(一五四七~五九)の時代を舞台にしているが、これは優雅なルイ十四世時代の宮廷生活をこの時代に移し植えたもので、当時の殺伐な時代相を全然表わしていない。これに反してメリメの『シャルル九世年代記』は聖バルテルミー(バーソロミュー)祭日の大虐殺を含むこの王の治世(一五六〇~七四)をよく描き出している。同じくこの時代を扱ったデューマの『マルゴ』は訳されていないが、その代り『バルテルミーの大虐殺』という題で映画になった。

イギリスではヘンリー八世からエリザベス一世に至る時代が宗教改革、即ち、カトリックから独立したイギリス国教会の確立の時代である。映画『悲恋のエリザベス』はつまらない映画であったが、この時代の宮廷の様相が一寸出ていた。リットン・ストレイチー『エリザベスとエセックス』はこのイギリスの有名な伝記作家の一番の傑作である。エリザベスの対抗馬として旧教派にかつがれ処刑されたメアリ・ステュアートの生涯はよく芸術化される。古くはシラーの『マリア・ステュアルト』があり、新しくはシュテファン・ツヴァイクの『マリア・ステュアルト』がある。後者は正確な史実に基いている。

十七世紀のイギリスは清教徒革命、王政復古、名誉革命を経て立憲政治が確立するが、この時代に題材をとったデュ・モーリア『愛すればこそ』(原題『王の将軍』)はイギリスでベスト・セラーになり、日本にも訳された。名誉革命後亡命したステュアート家のいわゆる「僭称王」とそれを支持する「ジャコバイト」の陰謀は十八世紀まで続き、これがイギリスではよく小説の材料になる。スコットの代表作もここにあるが、これは訳されていない。訳されているものではスティーヴンソンの『バラントレイ卿』がこの事実を背景にしている。十七世紀のフランスはルイ十三世とリシュリューの時代がよく小説化される。ヴィニーの唯一の歴史小説『サン・マル』は訳されていないが、ゴーティエの『キャピテン・フラカス』は訳が出た。デューマの『三銃士』はあまりにも有名である。いずれもこの時代が舞台であるが、ゴーティエはあまりに浪漫的、デューマは通俗的で歴史の参考とはなり難い。これは『三銃士』の続編でルイ十四世時代を舞台とする『鉄仮面』も同様である。これに反して十八世紀の代表的な経済学者兼実業家ケネーを扱ったアンドレ・モーロアの伝記『ベルナール・ケネー』は極めて有益な歴史の参考書である。

ドイツとイタリアは分裂状態が続き、小国の宮廷は専制と陰謀の舞台であった。古く森鷗外が『折薔薇』という題で訳したレッシングの『エミリア・ガロッティ』はイタリアの小国が舞台にとられてはいるが、十八世紀のドイツの現状に対するプロテストであり、しかも非常な傑作である。この作の影響の大きいシラーの『たくみと恋』は名はあげてないがドイツ内の一国が舞台であり、そこに展開される貴族の策略とその犠牲となる平民の姿を描いている。この作品には特定のモデルはないがやはり十八世紀ドイツの小宮廷の実状を写しており、特に君主が自己の人民を、アメリカ独立革命鎮圧のための傭兵としてイギリスに売却する事件はヘッセン・カッセル国で実際に行われたことである。

南ドイツの諸宮廷がこのような頽廃の中に陥っている間に、北方プロイセンが強国として擡頭してやがて後のドイツ統一の中心勢力となる。フリードリヒ大王に指導されるプロイセンのミリタリズムは当時の文学者や後世の自由主義者の性に合わぬものであったが、当時のドイツの救済者はこのプロイセン以外には見出すことが出来なかった。レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』はプロイセンの軍人と彼の生国ザクセンの婦人との結婚を扱っており、彼のプロイセンへの期待を示すものといわれているが、メーリング以下のマルクス主義者ははげしくこれに反対している。レッシングがフリードリヒ大王の崇拝者でなかったことはたしかであるが、彼がプロイセン軍人の誠実な義務観念の中に美徳を見ていたこともたしかである。半世紀後ナポレオンとの闘争時代に熱心なプロイセンの愛国者であったクライストは、戯曲『ホンブルクの公子』を書いてプロイセン国家の基を礎いた十七世紀のブランデンブルク選挙侯フリードリヒ・ウィルヘルム(大選挙侯)を賛美した。

イタリアに関してはシラーが『群盗』に次ぐ第二作『フィエスコの叛乱』で、十六世紀のジェノアに起った専制主義に対する共和主義者の叛乱を扱っている。フィエスコは実在の人物であるが、勿論事実とは大分異っている。スタンダールの『カストロの尼』も十六世紀のイタリアを舞台とし、その社会を我々の前に生々と現出させてくれる名作である。

イタリアには、スコット、ユーゴーと肩を並べるに足る浪漫主義の大作家マンゾーニがあるが、これまで日本に紹介されることが少かった。しかし最近その代表作『婚約者』が訳されたことは喜ばしいことである。これは十七世紀のロンバルディアを舞台にした雄大な歴史小説で、長篇であるが面白く読めるものである。

十八世紀にはピーター(ピョートル)大帝の力によってロシアが急速にヨーロッパの惑星として登場したが、このピーター大帝は大いに文学の題材にされている。先ずプーシュキンに短篇ながら名作『ピョートル大帝の黒奴』があり、革命後随一の歴史小説家ア・トルストイに未完の長篇『ピョートル一世』がある。メレジュコフスキーにはピョートルとその息子との相剋を扱った長篇『ピョートルとアレクセイ』があるが、これは訳されていないようである。この皇帝以前を扱ったものにア・カ・トルストイ(前掲ア・トルストイとは別人で十九世紀の作家)の『白銀公爵』と『皇帝フョードル』がある。前者は十六世紀の有名なイワン雷帝の治世を描き、後者は弱気なその子を扱った性格悲劇である。この戯曲は『イワン雷帝の死』及び『ボリス・ゴドノフ』とともに三部作をなしているが、他の二作の邦訳があるかどうかは知らない。ボリス・ゴドノフはフョードルの義兄で実権を握り、フョードル死後皇帝となった人であるが、これと帝位を争ってその死後帝位についた「偽ドミートリ」はメリメの興味をひき、歴史物語『偽ドミートリ』を生んだ。十七世紀のコサックを描いたゴーゴリの『タラス・ブーリバ』(『隊長ブーリバ』)もここにあげておく必要があろう。プーシュキンの歴史小説の代表作『大尉の娘』は、十八世紀後半の女帝カザリン二世治下の有名なプガチョフの叛乱を描いている。

(追記:引用文(林健太郎6)へ続く)

2015年7月4日

引用文(林健太郎4)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 16:00

引用文(林健太郎3)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

中世の西ヨーロッパは封建制度とキリスト教の時代である。その初期はいわゆる暗黒時代で文化的にも政治的にも余り今日の芸術の材料になりそうなものは少いが、現代のヨーロッパ諸国民の直接の起源がここにあるだけに、各民族にはそれぞれ民族伝説があってそれらの説話は深く人人の中に入り込んでいる。これらの説話の中で最も有名なのはアーサー王物語、ニーベルンゲン物語、カール大帝の武将ローランの物語などである。しかし特別の興味を持つものの外はそれらのものを直接読むのはいささか厄介であるから、やはりブルフィンチの『中世騎士物語』を読むか、あるいは映画『円卓の騎士』でアーサー王物語を知る程度で結構である。『ニーベルンゲン物語』も昔『ジークフリード』『クリームヒルデの復讐』などという映画があったし、今後もつくられることは疑いない。

西ヨーロッパがまだ暗黒時代の中にあった頃、東ヨーロッパでは東ローマにユスティニアヌス大帝が出て赫々たる治績をあげた。この皇帝の皇后で大帝の功業に与って力のあった異色の女性テオドラを主人公にした映画『テオドラ』は甚だ通俗的なものであったが、彼女が猛獣使いの子でいかがわしい踊子の出身であったことは事実であり、首府コンスタンティノープルにおける戦車競争や青党と緑党との争いなども当時の史実を伝えている。

東ローマとともに中世ヨーロッパに異色ある文化をつけ加えているイベリア半島のサラセン文化については、アーヴィングの『アランブラ物語』が一応の参考になる。このサラセン人と戦ったキリスト教側の英雄ル・シッドをテーマとしたのがコルネイユの代表作『ル・シッド』である。

八世紀から十世紀にかけて北欧の海上を荒しまわったノルマン人の海賊については、映画『ヴァイキング』が正確な風俗考証で大いに参考になる。

中世を代表する最も華やかな、そして最も中世らしい事件は十字軍であるが、その中でも最も大規模なのはイギリス、ドイツ、フランス三国の王の参加した第三回十字軍である。これは大分前に『十字軍』という映画になったことがあるが、近頃また『獅子王リチャード』によって映画化された。この映画の原作はスコットの『護符』(邦訳はないが子供向の読物になっている)である。「獅子の心を持つ」といわれたイギリス王リチャード一世はこの十字軍の立役者であり、イギリス騎士道の華と謳われて多くの逸話を残しているが、その中には事実でないことが多い。彼と対抗した回教徒のサラディンは実際にすぐれた人物でキリスト教徒を寛容に扱ったことで名高い。彼はレッシングが宗教的寛容を説いた『賢人ナータン』の主役でもある。(イタリア映画『大遠征軍』は第一回十字軍を扱っているが、これは問題にならぬ愚作である。)

リチャードの弟が「マグナ・カルタ」を発布させられたジョン王であるが、シェークスピアに史劇『ジョン王』がある。その他シェークスピアは『リチャード二世』『ヘンリー四世』以下いくつかの史劇を書いている。あまり面白くもなく史実に忠実でもないが、百年戦争や薔薇戦争当時のイギリスを知るのに役立つ。『ヘンリー六世』には当時の有名な農民一揆ジャック・ケードの乱が出て来て、よく社会史家に引用される。『ヘンリー五世』『リチャード三世』は映画化されて非常な好評を博した。

イギリスの歴史文学といえば何といってもスコットに止めをさす。スコットの歴史小説は極めて数が多く、イギリス人の間ではシェークスピアに続いて人気がある。しかし何分日本人にはなじみが少く、訳されているのは『アイヴァンホー』ぐらいのものである。この小説は彼の最大の傑作といってよく、ノルマン征服以後のノルマン貴族とサクソン人の対立を舞台として、騎士道を体現した人物アイヴァンホーが盛んに活躍する。主人公は架空であるが、中世騎士道の世界をよく描き出している。この小説の中にはリチャード一世やジョン王、またイギリス人の伝説的英雄ロビン・フッドも巧みにとり入れられている。映画にも度々なったが、戦後に来たものはエリザベス・テイラーが美しいユダヤ人の娘に扮した。

『宝島』で名高いスティーヴンソンには薔薇戦争時代に取材した『黒い矢(二つの薔薇)』がある。いささか通俗的な冒険談であるが、ここに出て来る多くの社会事実が当時の史料によっていることは歴史家トレヴェリアンが証言している。

ドイツでは十九世紀初頭の浪漫派の詩人たちが好んで中世を題材としたが、彼等はただ城や騎士の世界を幻想的に歌ったことが多く、あまり歴史の参考になるものはない。ただ同じ浪漫派で中世を描いても、ホフマンは貴族の城郭よりも都市の生活を好み『親方マルティンと徒弟たち』などは中世の職人生活を我々に知らせてくれる。

フランス史で一番人気があるのはジャンヌ・ダークで、芸術化されることも極めて多い。シラーの『オルレアンの少女』は余り浪漫的で歴史的ではなく、今日の我々の感覚にも合わないが、バーナード・ショーの『聖女ジョーン』は歴史学的に見ても誠に立派なものである。ジャンヌ・ダークを政治家にあやつられた傀儡と見、しかも彼女の強みを彼女を支持したフランス農民の間に芽生えつつあった愛国心の中に見ているのは正しい歴史的態度である。いくつかつくられた映画もいずれも良心的なもので、最近のバーグマンの扮したものもかなり史実に忠実であった。

イギリスのスコットと並ぶフランスの歴史小説の雄ユーゴーの『パリのノートルダム』は十五世紀ルイ十一世治下のパリの生活を彷彿とさせる傑作であり、しばしば映画化されたが戦後のフランス映画は最も原作に忠実なものであった。同じ十五世紀のパリで放蕩無頼の数奇な生活を送った詩人フランソア・ヴィヨンの生涯は『放浪の王者』『我もし王者なりせば』などの名でこれも度々映画化された。

(追記:引用文(林健太郎5)に続く)

2015年7月2日

引用文(林健太郎3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 15:56

引用文(林健太郎2)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

オリエントの次には、ギリシア、ローマのいわゆる古典古代の時代が来る。この時代は古代オリエントと顕著な対照を示し、始めて個人意識の生まれた時代、真の意味における西洋文明の始まった時代である。そしてギリシア文明の母胎となったものはギリシア人の神話であるから、西洋文明を理解するためにはどうしてもギリシア神話の知識を欠くことは出来ない。ところが手っとり早くギリシアの神話を知るのに大へんよい本がある。それはブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』であって、まともに読むといささか退屈であるが、座右において随時参照すれば大へん有益である。更に進んでギリシア文明そのものに接しようと思えば、彼等の残した文学作品を直接読むに如くはない。先ず古典中の古典、ホーマー(ホメロス)の『イリアス』(『イリアッド』)と『オデュッセイア』(『オディッセイ』『ユリシーズ』)。ともに邦訳があるから読むことが出来るが、これも相当時間と気持の余裕を必要としよう。そこでここでも映画が便利な代用品になる。イタリア映画『ユリシーズ』はかなり忠実な原作の模写であり、作品としてもすぐれたものであったが、シネマスコープ『トロイのヘレン』となると、パリスとヘレンがハリウッド式恋愛の主人公になっており、勿論『イリアス』の風韻を伝うべくもない。しかし風俗考証などは相当綿密であるし、トロイ戦争の物語の大要を知るには極めて好都合である。

ギリシアのポリス生活が発展してアテネの民主主義と市民文化が高潮期に達する過程には、ペルシア戦争や文化人政治家ペリクレスの生涯のように小説や映画の題材となってしかるべきものが少くないが、何故かそういう作品はあまりないようである。

ギリシアのポリスが没落した後マケドニアから出てアジア・アフリカに亘る大帝国を建てたアレキサンダー大王の伝記映画はつまらないものであったが歴史の参考にはなるであろう。

ギリシアが西洋文明の精神的父であるのに対して、ローマはより多く近代ヨーロッパと実質的なつながりを持っている。そういう意味でローマ共和政体の発達やその異民族征服の過程などヨーロッパ人の間にはなじみの深い話が多いが、文学作品として我々に与えられているものは案外少い。ローマの民主主義が堕落して社会が混乱に陥った時、その救済者として現れた英雄シーザーについては、先ずシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』があり、その他『シーザーとクレオパトラ』『アントニーとクレオパトラ』もある。これらのシェークスピアの史劇はプルターク『英雄伝』に忠実に則っている。勿論史実そのままではないが、大体この位のことを知っているだけでも常識としては差支えない。これは度々映画にもなっているし、殊に最近来た『ジュリアス・シーザー』はなかなかの出来であったと思う。ローマ共和制没落期の社会相、殊にローマの町に集った流民の群とその浮薄な動向などがよく出ている。またやはり最近来た『シーザーとクレオパトラ』はバーナード・ショーの同名の戯曲を映画化したものである。その他十八世紀フランスの誇る古典作家ラシーヌにはローマの武将を扱った史劇が多くあり、日本にもいくつか訳されているが、これはいささか退屈である。

ローマの歴史が後世芸術化されるのはキリスト教に関係する面が多い。ここには歴史小説の傑作シエンキエヴィッチの『クォ・ヴァディス』がある。有名な暴君ネロのキリスト教徒迫害とローマ焼打が中心テーマであるから、通俗的な面白さも十分であり、映画としてもいつも成功を収めている。しかし単にこのようなスペクタクル的な興味ばかりでなく、この時代の精神史としてもこれはなかなかすぐれている。即ちペトロニウスに代表されるエピクロス哲学、セネカのストア哲学がともに人々の悩みを救うことが出来ず、キリスト教が最後の救済者として現われるという過程はこの時代の雰囲気をよく表わしている。もっともこれはあくまでキリスト教の立場から書かれているから、その意味での誇張は免れない。しかしともかく『クォ・ヴァディス』は西洋史を学ぶものの必読かつ必見の作である。この少し後に起ったヴェスビアス火山の噴火によるポンペイの滅亡はリットン卿の『ポンペイ最後の日』の材料になったが、これはやや程度の低い通俗小説である。

メレジュコフスキーの小説『神々の死』は「背教者ジュリアン」といわれるローマ皇帝ユリアヌスの生涯を描いている。この皇帝は伯父コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認した後、キリスト教から転向してギリシアの神々の復興に努め、自ら文筆によってキリスト教と闘争した。しかし彼の努力も効なく、ペルシア征討の陣中に戦死した時、「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」といったと伝えられている。イプセンの戯曲『皇帝とガリラヤ人』もこの皇帝を扱ったものである。

キリスト教はギリシア思想と並んで西洋文明の二大支柱である。このことはマシュー・アーノルド以来「ヘレニズムとヘブライイズム」という言葉で人口に膾炙している。そしてキリスト教はヨーロッパ人の思想や生活に深い根を下ろしているから、キリスト教を知ることは先ず絶対の条件である。そのためにはやはり『聖書』を読むことが必要であるが、手っとり早く聖書の話を知るにはヴァン・ルーン『聖書物語』はよい本である。しかしここでもやはり映画が一番簡単であろう。幸いアメリカにはC・B・デミルなどという大がかりな聖書映画をつくることのすきな監督がいて、現在その代表作『十戒』が公開されている。一般にシネマスコープの登場以来キリスト教ものが益々盛んになったが、こういう式の映画を見るならばなるべく聖書の話を忠実に映画化したものがよい。というのは我々の目的は西洋史の勉強のために聖書を読むことの代りにしようというのであるから、単なる説教じみた映画やキリスト教に名を借りて見世物を見せようとする映画はあまり意味がない。『十戒』なども、聖書の話から外れたところはばかばかしいものであって、むしろエジプト史を冒瀆しているとも云える。

ローマ帝国の末期ゲルマン諸族を征服してローマに迫ったフン族の酋長アッティラを主題にした映画『異教徒の旗印』もキリスト教臭の強いものであるが、一応当時の史実に立脚している。似た題材を扱ったものに『侵略者』という映画もあった。

(追記:引用文(林健太郎4)に続く)

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。