万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年6月28日

引用文(林健太郎1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 16:05

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

一般の人が教養として歴史を学ぶにはどんな本を読んだらよいか、というような質問を受ける度に、私はいつも「小説を読んで映画を御覧なさい」ということにしている。これは決して冗談でもなく逆説でもない。事実私は学校でも、いわゆる教養科目として歴史を教える時にはなるべく小説と映画の話をすることにしている。何故ならばそれが一番手っとりばやい歴史の勉強法だからである。

勿論ここでいっているのはいわゆる歴史小説と歴史映画のことである。そして歴史小説と歴史映画が歴史の勉強にとって有益であるのは、何よりも先ずそれが面白いからであって、楽しみながら歴史をおぼえられるということが悪い筈がない。しかしいうまでもなく小説や映画は芸術であるから多かれ少なかれフィクションによって成り立っている。その主人公は多く架空の人物であり、実在の人物であってもその行動には自由な変改が加えられている。それ故これらのものを通じて歴史を知るためには、その中にある創作と事実を区別することが必要である。しかし実をいうと、一般の人々が教養として歴史を知る際には、必ずしもこまかい事実が一々正しいかどうかを気にする必要はない。それらのフィクションを通じて、その時代の人々の生活や時代相、社会状態や精神状況がわかればよいのである。そしてこの点で、すぐれた芸術は専ら事実を書いた歴史書よりもより多くの真実を伝えることがある。これは自然を模した芸術が自然そのものよりもより多く自然を表現することがあるのと同様である。

このことは一般的に歴史と歴史文学や歴史映画との関係についていえることであるが、殊に日本人が西洋の歴史に対する場合には一そう芸術の効用が大きなものとなる。というのは西洋の歴史書を一々読むのはなかなか大へんであるし、日本語に訳されているものの数も文学などに比すれば甚だ少い。そして日本人の書いた歴史の本はごく一般的な概説でなければかえって極めて特殊な研究書が多く、その意味で具体的な歴史を少し立ち入って知ろうという場合にはよい参考書がほとんどない。また日本の思想界の通弊として、独断的な理論や政治的イデオロギーによって書かれた片よった歴史書が案外に多く、歴史の正しい姿を知る前に歪んだ歴史像や歴史観念を植えつけられる危険が決して少くない。歴史文学や歴史映画はこのような欠を補い且つ危険性を中和する十分な役割を果たすであろう。

しかし以上のような歴史芸術の有益性は、勿論その反面にそれ自身の危険性をも持っている。その危険性は結局事実でないものを事実らしく見せるところから起るのであるが、それは必ずしも事件や局面のフィクションの中にあるのではなく、人物やその行動に対する作者の解釈の中に生ずるものである。芸術家が創作をする際には、対象の中に自分自身や自分の好む人物を描き出すものであるから、そこに描かれた人物がその時代を離れて不当に現代化されたり畸形化されたりすることが大いにあり得るわけである。もっとも人が意識的に「歴史小説」を書こうとする場合にはむしろこのような不当な現代化を努めて避け、過去をそのものとして再現しようとすることに苦心するであろう。しかし小説家は時には単に自己の創作の効果をあげるために歴史を借用する場合があるし(その意味で芥川竜之介の歴史小説や谷崎潤一郎の歴史物はすぐれた文学ではあっても真の歴史文学ではない)、また一般に通俗的作品においては歴史を扱いながら歴史を調べる努力がなされない場合が多い。これは映画の場合一層顕著であって、良心的な作品であれば風俗や風景の時代考証は綿密に行われるが、その中に出て来る人物は端的に観客にアピールするように極度に現代化される傾きがある。

しかしこのような欠点を十分認めた上で、文学や映画は何といっても甚だ有効な歴史認識の手段である。過去をさながら現代のように眼前に彷彿させ、歴史上の人物と共に喜び且つ悲しむということは人を歴史に親しませる最良の方法である。そこで有名な歴史文学や最近の歴史映画を通じて西洋の歴史を概観し、また西洋の歴史を知るのに役に立つ小説や映画について一応の解説を加えるのがこの拙稿の目的である。(以下にあげる文学作品は特にことわったものを除きすべて邦訳がある。そしてその多くは文庫本や全集ものの中にあるから、読者はそれらの目録を見てさがして頂きたい。)

(以下続く  追記:

引用文(林健太郎2)

引用文(林健太郎3)

引用文(林健太郎4)

引用文(林健太郎5)

引用文(林健太郎6)

 

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