万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年6月19日

小林道彦 『児玉源太郎  そこから旅順港は見えるか』 (ミネルヴァ日本評伝選)

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司馬遼太郎『坂の上の雲』では秋山兄弟に次ぐヒーローとして描かれている陸軍軍人。

しかし、瀧井一博『伊藤博文』伊藤之雄『山県有朋』での記述を読むと、ややマイナスイメージも抱いてしまう。

1852年徳山藩士として生まれる。

長州は本藩が萩、支藩が徳山と長府。

翌年ペリー来航、尊攘論を唱えた父は閉門の上憤死、義兄も斬殺。

この経験から政治的イデオロギーから距離を置くようになる。

戊辰戦争に従軍、上官はのちに準元勲となった山田顕義、明治3年陸軍任官、桂太郎、寺内正毅と共に昇進。

明治7(1874)年佐賀の乱鎮圧に加わり、重傷を負う。

明治9(1876)年神風連の乱、熊本鎮台兵を建て直し鎮圧に成功。

翌年西南戦争、熊本城籠城戦。

この時の鎮台スタッフは錚々たるもので、司令谷干城をはじめ、樺山資紀、川上操六、奥保鞏(おくやすかた)、大迫尚敏、品川弥二郎、児玉らがいた。

戦後、千葉佐倉で連隊長を務めてから、明治18(1885)年参謀本部に出仕。

この際、軍制における「フランス派」の谷と「ドイツ派」の児玉の対立という図式を立てる論者が多いが、これは成り立たない、この時期の児玉は「遅れてきたフランス派」だったと書かれている。

だが、同年ドイツ軍人メッケルが陸軍大学校に招聘されると児玉もドイツ派へと傾斜、フランス派のエース寺内も転向、これにより山県有朋・桂・児玉・寺内という陸軍主流派が形成され、谷干城、曾我祐準(そがすけのり)、三浦梧楼、鳥尾小弥太ら非主流派(いわゆる「四将軍派」)と対立する情勢となる。

主流派は山県と大山巌を頂点に陸軍省を中心とした藩閥であるのに対し、四将軍派は参謀本部を強化し藩閥を解体することを目論む。

四将軍派は、自らの意向が陸軍人事に反映されないことに不満を持つ壮年の明治天皇と宮中勢力を抱き込み、参謀次長の川上操六を更迭し、代わりに曾我を就任させることに成功。

しかし、主流派は児玉と桂が連携し巻き返す。

四将軍派は、児玉は山田顕義配下の人材で、山田は自派加入を説得可能だと誤認していたが、児玉はすでに山県に傾斜しており、山田自身も四将軍派とは距離を置く。

四将軍派の「陸主海従」路線に反発する海軍も山県派に合流、初代首相となっていた伊藤博文も主流派を支持、結局四将軍ら非主流派は追放される(「明治十九年の陸軍紛議」)。

児玉が主流派に与したのは、陸軍の政治的中立性を重視したゆえであり、四将軍派が明治十四年の政変で官有物払い下げ中止と憲法制定を求める行動を起こしたことへの批判を持っていたためだと本書では評されている。

日本では、朝廷の存在そのものを原理的に否定する政治思想はそれまで事実上存在しなかった。幕末維新の政治的激動は、「玉」(天皇)の争奪戦を経て、最終的には「王政復古」を建前として収拾されていったし、神風連も自由党左派も、西郷隆盛も板垣退助も、いずれも天皇の存在を自明の前提として、その行動原理を決定していた。政治がいかに変化しようとも、天皇という「普遍的・超越的存在」に軍隊を直結させておけば、軍隊の政治化には一定の歯止めがかかるに相違ない。開国進取の国是を定めた今日、もはや尊王論の暴走はあり得ないし、天皇の存在が「革命原理」となることはない。児玉はそう考えていたのである。

しかしながら、1917年(大正6)のロシア革命をきっかけに、君主制の存在を真っ向から否定する一連の「危険思想」が、内外で大きな影響力を振るうようになると、児玉の構想した枠組み全体が大きく動揺し始める。そして、「赤化」の脅威=国体そのものの危機は、国体論の急進化を引き起こし、ひいては軍内に鬼胎を、児玉があれほどその存在を厭わしく思っていた「政治的運動」そのものを、産み落とすことになるのである。

天皇を親裁君主ではなく、調停的君主として捉えた上で、(現在では悪名高き)「統帥権の独立」をあえて唱えたのは以上のような観点から。

これは私にとっては十分得心できる考えだ。

井上寿一『山県有朋と明治国家』の記事でも書いたように、戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走であって、統帥権の独立はむしろそれを防ぐために構想されたものである。

それが、「多数派国民の意思の正しさ」という虚偽の前提から、むしろ諸悪の根源扱いされてしまっている。

結果として統帥権の独立が軍の暴走をもたらしたことは間違いない。

だがそれは軍が排外主義と現状革新志向の過激で愚劣な世論に影響されたからだという、最も重要な事実は完全に無視されてしまっている。

結果的に明治の指導者が作り上げた防御手段が想定通りに機能しなかったからといって、それに悲劇の責任を負わせて、煽動による多数派国民の衆愚への転落という真の原因には頬かむりである。

上の引用文で言えば、「危険思想」に易々と影響され社会不安を造成して国家を脅かし、その反動で逆の極端に走り極右的国家改造運動を熱狂的に支持した民衆世論に対する根底的批判も無しに、「戦前の明治憲法体制の非民主性」などあげつらうのは、途方も無い欺瞞に思える(戦後、馬鹿気た左翼的観念の蔓延にろくに抵抗を示さなかったくせに、ここ十年来また極端から極端に走り、排外的民族主義と右派的ポピュリズムに明け暮れる今現在の見下げ果てた大衆がそうするのはさらに醜悪です)。

1891年からの洋行留学でブーランジェ事件の顛末を知り、嫌悪感を持ち、軍の政治的中立性維持への確信をさらに強める。

この時期問題になったのが、大山巌陸相による帷幄上奏権の恣意的拡張。

1889年内閣官制を山県が制定、首相権限を弱めるが、児玉はそれに批判的。

何やら大山に悪いイメージを持ってしまうが、ただ『坂の上の雲』のように一つの本だけである人物に善玉イメージを持ったり、逆に走ったりすることが愚かなのかもしれません。

1892年第2次伊藤内閣で陸軍次官に就任、上奏権の縮小を目指すが、大山陸相が阻止。

日清戦争では山県・大山が出征したため、事実上児玉が陸相の任をこなす。

明治二十年代を通じて、山県を頂点とする陸軍長州閥が形成、桂・児玉・寺内・田中義一ら。

それが日清戦争後には郷党の違いを超えて政党勢力に対抗する「山県系官僚閥」に変化。

一方、西郷隆盛亡き後の薩派は、黒田清隆・大山・西郷従道・高島鞆之助(とものすけ)らによる集団的指導下にあり、制度的統制力に欠けた。

薩派陸軍の実務的トップが参謀本部の川上操六。

長州系が欧米協調を重視し自由党系と連携したのに対し、薩派はアジア主義的で改進党系と連携する傾向があった。

児玉は、阪谷芳郎(のち第1次西園寺内閣蔵相)との交流で、国家財政についての広い視野を得て、軍拡一本槍の軍人にはならず。

思想的にもドイツ一辺倒ではなく、英米流知識人とも交流。

日清戦争復員兵の検疫で後藤新平を起用。

ここで大山が下士官・文官の給与という純行政的事項を上奏で決定し、閣議に諮る。

さらに伊藤の警告を無視して平時編制もまた事後報告にしたため、伊藤は激怒した。

児玉は大山に同意したわけでなく、当時療養中のため諫止できなかった。

明治31(1898)年台湾総督就任、後藤新平を民政長官にし、新渡戸稲造を招聘。

立見尚文ら武断派を抑え、フィリピン独立運動への軽率な関与を理由に左遷。

同年日本国内の憲政党政権(隈板内閣)の崩壊を横目で見ながら、軍が政治闘争から超越していることの重要性を噛みしめる。

ここで私が最も著者の見解を知りたい厦門(アモイ)事件の記述が出てくる。

義和団事件で各国が清に出兵、第2次山県内閣の訓令があいまいだったこともあり、児玉は台湾から厦門に出兵するが、指示を受け撤退。

この時期の児玉は来るべき日露戦を想定せず(ロシア軍の満州占拠は義和団事件がきっかけなんだからそりゃそうでしょうが)、再度の混乱時に南清への出兵を企図していたという。

だが著者は、後の石原莞爾と違い独断専行ではなく、政府による正規命令に則った行動であり、

厦門事件は、関東軍の独走の「小さな雛型」などではないのである。

と強調している。

1900年第4次伊藤内閣に桂の後任として児玉が陸相として入閣。

伊藤と山県の板挟みになった上での決断。

児玉は政党内閣論者ではないが、伊藤が結成した政友会は挙国一致の観点より好意的。

翌1901年桂の組閣に奔走し、陸相留任。

八甲田山遭難事件を適切に処理。

山本権兵衛海相と協力し文民権限を拡大する軍制改革を構想。

だが帷幄上奏権の制限問題でまたも大山と衝突、陸相辞任。

この問題で優柔不断な態度を示した桂と一時距離ができるが、急速に関係を回復、寺内陸相とのトライアングルで陸軍を把握。

一方、政友会の実状を見て批判的になり、伊藤とはやや疎遠な関係になる。

日本外交の一大転機となった日英同盟締結だが、それを推進した桂・児玉・小村も当初は日露必戦とは想定せず。

児玉は内相兼文相として再入閣するが、田村怡与造参謀次長死去後の後任という降格人事を受け入れる(1903年)。

来るべき対露開戦に向け、陸軍の増強と海軍の攻撃時期を調整。

これについて、ドイツのシュリーフェン・プランに比してより外交に配慮された柔軟なものだったと著者は評価している。

開戦となるや、児玉は大本営の戦地派遣計画と人事権および旅順攻撃の第三軍を直接指揮する強力な外征軍司令部を置くことを大山と共に主張し、山県・桂・寺内の反対を受ける。

これは統帥権独立の主張ではなく、首相・陸相との十分な意思疎通の上で戦時に限り強大な権限の外征軍を置くべきとの考えで、平時は全く別で、児玉は大山に抗して、むしろ軍への統制強化を目指す伊藤に同意していたのは上述の通り。

結局、満州軍総司令部が設立され、第一軍から第四軍までの人事権を寺内陸相経由で実質的に行使することになり、留守は山県が参謀総長として預かる体制となる。

大きな犠牲を出した旅順攻防戦について、正面攻撃を主張したのは乃木希典、伊地知幸介(大山の姻戚)だけでなく大山・児玉も同様だった。

要塞攻撃についての楽観論は陸軍内すべてに共通していたことで、乃木指揮下の第三軍も肉弾白兵主義一本槍ではなく砲火の集中による攻略を企図したが、弾薬不足で果たせず、しかも海軍がバルチック艦隊の襲来時期を誤認しており、そのプレッシャーが一層無理な攻撃を繰り返す要因になってしまったと書かれている。

以上の通り、旅順要塞での苦戦をすべて乃木司令部の資質に求めることはできないと思われるが、乃木はほぼ不眠不休を続け、スタッフもそれにつれ疲労の度を深くしたと書かれているのをみると、個人としては称賛に値しても、やはり乃木は近代戦の指揮官としてはどうなのかと思わざるを得ない。

通説とは異なり、攻撃目標を二〇三高地に転換すべきと主張したのは児玉よりも、本国にいた山県や寺内の方が早かった。

旅順攻略の戦略目標は港内ロシア艦隊の無力化だったが、実はロシア軍艦の備砲の多くが取り外されて陸上用に転用されていたという。

結局、第三軍は本国の大本営に任せた方が良かったと評されている。

シベリア鉄道によってロシア軍が日々増強されるのを見て早期開戦論を唱えた児玉だったが、同時に日本の国力の限界を強く認識し、妥協的な早期講和論を主張する徹底したリアリストでもあった。

日比谷焼き打ち事件にあって、「多数愚民に臨むには相応の政策」がいるとの言葉を残している。

政府と国家上層部が現実を見つめ講和を決断したのに対し、多数の下層民衆が蜂起したこの日比谷事件は、昭和軍国主義の真因は何だったのか、四十年後大日本帝国を滅ぼしたのは誰だったのかを考える上で非常に示唆的だと思います。

日露戦後、児玉は、首相権限拡張によって軍への統制を強化しようとする伊藤の大宰相主義復活のパートナーとなる(1907年公式令制定)。

他に、参謀本部縮小、文民である(韓国)統監の軍隊指揮権制定など。

これらの改革は寺内も支持(寺内は初代朝鮮総督にもなる)。

本書の記述を読むと、大正時代超然内閣を組織した印象しかない寺内正毅という人物の別の好ましい一面が浮かび上がってきます。

ロシアとの再戦を必然視する山県の大軍拡路線にも児玉は反対。

立憲主義的軍人の代表として立ち表れた児玉は桂首相の後継首班にも擬せられた。

なお、しばしば問題となる満州軍政継続をめぐる児玉と伊藤との対立だが、これは満州経営への積極性と消極性の差。

伊藤は清の排外主義的民衆運動を強く危惧したのに対し、児玉は「土着的社会」への浸透ができれば清朝崩壊後も権益保全は可能とみた。

そして満鉄をイギリス東インド会社のような植民会社に見立てた上で、後藤新平を満鉄初代総裁に就任させる。

伊藤と児玉は満州問題では対立したが、明治憲法体制改革では両者は協力し、山県に対抗する立場だった。

いずれ伊藤・児玉が山県系官僚閥と正面衝突する事態も予想されたが、その前に児玉は1906年7月死去。

50代半ばとは、いかにも若い。

明治末年か大正期に首相になって、昭和期に元老になっていても全然おかしくない。

あまりにも残念。

1931年、即位まもない昭和天皇を元老として補佐して、満州事変の危機を巧みに収拾する79歳の児玉(と75歳の原敬)が見たかった。

そうであれば、我々は今も大日本帝国に暮らしていたでしょう。

私はその方が、少なくとも今のこの国よりはるかに良かったと考えます。

 

 

非常に良い。

様々な面での知識の追加、穴埋めが期待できる。

末尾のシリーズリストを見ると、既刊で伊藤之雄『明治天皇』、室山義正『松方正義』、小林道彦(本書と同著者)『桂太郎』、小林惟司『犬養毅』、川田稔『浜口雄幸』といくらでも読むべき本がありますね。

少しずつでもこなしていきたいもんです。

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