万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年6月13日

引用文(西部邁13)

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西部邁『昔、言葉は思想であった』(時事通信社)より。

民間(private sector)

「官(政府部門)を排して民に就け」というのが、この列島における平成時代の経済標語でした。いえ、その標語は、ナイト・ウォッチング・ステート(夜警政府、night-watching-state)とからかわれてきた自由主義的な経済政策において、言い換えると自由放任の無政策国家において、一貫してつかわれていたといってさしつかえありません。プライヴェート・セクターを大きくしてパブリック・セクター(政府部門、public sector)を小さくする、それが自由主義の基本線です。つまり、国内に向けての警察署・税務署と国外に向けての外交・軍事、それらだけを見回る夜警がおれば十分という意味で、スモール・ガヴァメント(小さな政府、small government)を勧めるのが経済学的な思惟の常套なのです。

ここでは、そのことの是非を直接に論じるのではなく、まず、プライヴェート(私的、private)という言葉につきまとう卑俗な意味について、経済関係者たちがまったく配慮しないことに注意を促しておきましょう。プライヴァシー(私的な事柄、privacy)が秘匿されるべきであるのは、主として、そこに偽悪醜としかよびようのない事物の臭いが多少とも漂っているからです。「為すことは許してもらいたいが、他人には見聞きされたくはない」、それがプライヴァシーの本質です。漢語や日本語で「私的」というのも、「私物化」とか「私商[わたくしあきない]」という言葉に典型的にみられるように、どちらかというと公開できない類の我欲の振る舞いをさします。そういう振る舞いに深くかかわる部門を大きくせよ、経済はプライヴェート・エンタプライズ(私企業、private enterprise)にまかせよ、といいつのる言語感覚のうらに、経済関係者における不徳の心理をのぞくことができます。

同じことの裏側ですが、政府部門をパブリック・セクターとよぶアメリカの習わしも、少々狂っています。パブリック(公共)の部門をすべて政府が担当するというのは、逆にいうとパブリック(公衆)がパブリック・マインド(公心、public mind)を持っていない(もしくは公心の発揚をすべて政府に委託する)ということです。もちろん、そういう似非公衆でも法律という公共規範に従うわけですが、コムプライアンス(遵法、compliance)のほかには、公心を行為で表そうとはしません。さらに、その遵法においてすら、彼らは私益を追求すべく訴訟を打って出ようと構えております。そういう者たちが政府(のみ)を公共部門[パブリック・セクター]とよんで平然としている次第です。

公共規範には(道徳にかかわる)習律もあります。習律は、とくに集団的・組織的な行為において、その行為への参加者たちが否応もなく、秘匿せずに公表して、勘案しなければならないものです。少なくともイデオロギーにあって、集団や組織は参加者たち個人の自発的な契約関係として形成されるととらえるアメリカ流儀にあっては、習律の入り込む余地はあまりありません。それゆえ、民間部門は私的で政府部門は公的、という両断が罷り通るということになります。

アメリカは、今もなお人々の公共精神にもとづく「寄附」(donation)やヴォランティーア・アクティヴィティ(義勇の自発的活動、volunteer activity)の強いところです。しかしそれらは、あくまで個人の倫理観に発することとされ、経済制度の部門としては定着させられてはいません。

我が国のいわゆる日本的経営には、そうした習律が内蔵されておりました。しかし、この平成時代に加速度的に進められた「民営化」は、実のところ、「私人化」つまりプライヴァタイゼーション(privatization)だったのです。さらには、私人化に居直ることすらやって、秘匿すべき科白の最たるものを、つまり「カネで買えないものはない」という文句を、吐き散らかす御仁までもが社会の表面に出てくる始末です。しかも、政府部門にかかわる役人たちのプライヴァシーについては、それを暴き立ててスキャンダルの種にしようというのですから、似非公衆としての大衆の我欲には切りがないといわずにはおれません。

もし民衆[ピープル]にして、公心を抱懐する公衆[パブリック]であったなら、「政府は国民の公心の代表なり」(福澤諭吉)と理解するでしょう。そのことを踏まえて、民間部門[プライヴェート・セクター]とよばれているものを公衆部門[パブリック・セクター]とよび替え、公共部門[パブリック・セクター]とよばれているものを政府部門[ガヴァメンタル・セクター]と言い換えるでしょう。いずれにせよ、「公心が民間の経済行為においていかに表現されるか」というのが肝心要の点です。前項でみたように「市場」とは「公平な価格で取引が行われる場所」のことです。また、後段の「賃金」や「価格」の項目でみるように、市場取引は慣習によって安定化させられ、そして慣習のうちに公衆の公心が含まれております。だから、民間部門の中心をなすマーケットの内実について深く洞察できないエコノミストが、経済界を私的民間部門と公的政府部門の両極端に分解した、そして後者を極小化せんとする市場教条主義に耽ってきた、といってさしつかえありません。

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