万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年6月30日

引用文(林健太郎2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 15:32

引用文(林健太郎1)に続き

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

人間の歴史は地球上に人類が発生した時から始まり、最初に長い原始時代が続くが、歴史として面白くなるのは人類がいわゆる文明の段階に入ってからである。そして人類の文明はオリエントの古代文明から始まるのであるが、この時代はある意味では芸術になり難く、またある意味ではなり易い。というのはこの時代は元来近代の人には縁の遠いものであり、且つそこには魅力ある個人の活躍というものがない。それはこの時代が絶大な権力を持った専制君主の時代であって、その下に隷属していた人民の中には勿論個人の自由はないし、帝王自身も神の名において伝統と慣習に基いて統治していたのであるからそこにも本当に個性のある個人はいないのである。この時代はエジプトにおけるようにすぐれた文化を残したが、それはピラミッドのように単に専制君主の権力の象徴にすぎず、後期に現われて来る個性的な彫刻にしても作者個人の名前は記されていない。そして一般にこの時代には神話や伝説、帝王の功業表などはあっても文学というものは生れていない。この時代はいわば生きた人間がまだ出て来ないので、近代人が歴史小説の材料をここに求めることは無理なのである。しかし逆に、この現代ばなれのした怪奇と幻影の世界は、現実を離れた空想の世界に美を探究しようという人には絶好の舞台を提供する。「芸術のための芸術」を標榜した浪漫主義者ゴーティエの『ミイラ物語』などはその好適例である。しかしこれはあくまで作者の幻想の所産であって歴史小説というべきものではなく、従って歴史の勉強のためにはあまり役に立たない。

古代エジプトを題材とした特筆すべき小説は戦後出たフィンランド人ワルタリの『エジプト人』である。ただしこれは古代エジプト史の中ではかなり後期、新王国第十八王朝の異色あるファラオ、アクナートンの時代を舞台としている。このファラオはエジプト伝来の多神教を捨てて一神教を採用し、そのため神官階級と闘争した誠に個性的なファラオで、歴史家によって「最初の個人」と呼ばれている。そしてこの時代のエジプトは新興民族ヒッタイトと戦い、その他のアジア諸民族とも交渉が繁かった。それ故作者がこの王の宗教改革を中心におき、且つ主人公に広くエジプト以外のオリエント地方を遍歴させているのは巧みなやり方というべきである。作品そのものの基調はかなり通俗的で芸術的に高いものではないが、歴史の参考としてはたしかに役に立つ。シネマスコープ『エジプト人』はこの作品の映画化である。

古代オリエントが歴史文学の題材となり難いのに反比例して、映画にとってはここが絶好の稼ぎどころである。それはこの世界の持つエグゾティズムとスペクタクル性が映画に最も向いているからである。これはシネマスコープの発明以来一そう著しい。『エジプト人』は画期的な作品といわれたが、その後につくられた『ピラミッド』もエジプトが舞台である。これが扱っているのは『エジプト人』よりずっと古い古王国第四王朝のクーフー王である。この時代はファラオ権力の全盛時代で、この王は最も大きなピラミッドをつくった人であるから、この映画も正にピラミッドの造営をテーマとしている。しかしこの王の伝記などはほとんど伝わっていないから、ここに出て来る話は全くつくりごとで、この映画の味噌であるピラミッドの坑道の秘密も勿論想像にすぎない。しかしピラミッドの内部に盗人などが入ってこないようにいろいろな工夫をこらしたことは事実であるらしい。そして多数の人民を使役しナイル河を利用して遠くから石材を運んだ有様は大体あのようなものであったろう。

歴史映画ではないが今一つ『王家の谷』という映画は現代に残るエジプトの史蹟を見物する意味で大へん有益である。ここではさきにいったアクナートンとその二代後のトゥ―タンカーメン王(これはその豪奢な地下墳墓が手つかずに発掘されたことで有名)とを一緒にしたような架空のファラオの墓が出て来て、考古学者がここにモーセとのつながりを発見するという話がおちである。アクナートンの宗教改革はたしかに一神教の採用という意味で画期的であり(ただし一代だけで終わったが)、ここにキリスト教の先駆を見る学者もないではないが、それはやはり誇張であり、勿論エホバ信仰との直接の関係はない。

時代は下ってローマ時代のことになるが、ゴーティエの『ある日のクレオパトラ』やフロベールの『サランボオ』もやはりオリエントの世界を描いている。後者はカルタゴが舞台で第一次ポエニ戦争後に起った傭兵の反乱が素材となっている。フロベールはこの小説を書くために数十冊の本を読み、親しくこの地を旅行して歴史と地理を調べたといわれている。それだけあってこの古代都市とそこに出て来る人物の描写は緻密を極めており、誠に絢爛たる絵巻物を展開している。しかしこれもまたフロベールの文学の反面である現実逃避の審美主義のつくり出した空想的作品であり、厳密な意味での歴史小説の部類には入らないであろう。

(追記:引用文(林健太郎3)に続く)

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2015年6月28日

引用文(林健太郎1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 16:05

林健太郎『個性の尊重』(新潮社 1958年刊)収録

「映画と文学による歴史の勉強」より。

一般の人が教養として歴史を学ぶにはどんな本を読んだらよいか、というような質問を受ける度に、私はいつも「小説を読んで映画を御覧なさい」ということにしている。これは決して冗談でもなく逆説でもない。事実私は学校でも、いわゆる教養科目として歴史を教える時にはなるべく小説と映画の話をすることにしている。何故ならばそれが一番手っとりばやい歴史の勉強法だからである。

勿論ここでいっているのはいわゆる歴史小説と歴史映画のことである。そして歴史小説と歴史映画が歴史の勉強にとって有益であるのは、何よりも先ずそれが面白いからであって、楽しみながら歴史をおぼえられるということが悪い筈がない。しかしいうまでもなく小説や映画は芸術であるから多かれ少なかれフィクションによって成り立っている。その主人公は多く架空の人物であり、実在の人物であってもその行動には自由な変改が加えられている。それ故これらのものを通じて歴史を知るためには、その中にある創作と事実を区別することが必要である。しかし実をいうと、一般の人々が教養として歴史を知る際には、必ずしもこまかい事実が一々正しいかどうかを気にする必要はない。それらのフィクションを通じて、その時代の人々の生活や時代相、社会状態や精神状況がわかればよいのである。そしてこの点で、すぐれた芸術は専ら事実を書いた歴史書よりもより多くの真実を伝えることがある。これは自然を模した芸術が自然そのものよりもより多く自然を表現することがあるのと同様である。

このことは一般的に歴史と歴史文学や歴史映画との関係についていえることであるが、殊に日本人が西洋の歴史に対する場合には一そう芸術の効用が大きなものとなる。というのは西洋の歴史書を一々読むのはなかなか大へんであるし、日本語に訳されているものの数も文学などに比すれば甚だ少い。そして日本人の書いた歴史の本はごく一般的な概説でなければかえって極めて特殊な研究書が多く、その意味で具体的な歴史を少し立ち入って知ろうという場合にはよい参考書がほとんどない。また日本の思想界の通弊として、独断的な理論や政治的イデオロギーによって書かれた片よった歴史書が案外に多く、歴史の正しい姿を知る前に歪んだ歴史像や歴史観念を植えつけられる危険が決して少くない。歴史文学や歴史映画はこのような欠を補い且つ危険性を中和する十分な役割を果たすであろう。

しかし以上のような歴史芸術の有益性は、勿論その反面にそれ自身の危険性をも持っている。その危険性は結局事実でないものを事実らしく見せるところから起るのであるが、それは必ずしも事件や局面のフィクションの中にあるのではなく、人物やその行動に対する作者の解釈の中に生ずるものである。芸術家が創作をする際には、対象の中に自分自身や自分の好む人物を描き出すものであるから、そこに描かれた人物がその時代を離れて不当に現代化されたり畸形化されたりすることが大いにあり得るわけである。もっとも人が意識的に「歴史小説」を書こうとする場合にはむしろこのような不当な現代化を努めて避け、過去をそのものとして再現しようとすることに苦心するであろう。しかし小説家は時には単に自己の創作の効果をあげるために歴史を借用する場合があるし(その意味で芥川竜之介の歴史小説や谷崎潤一郎の歴史物はすぐれた文学ではあっても真の歴史文学ではない)、また一般に通俗的作品においては歴史を扱いながら歴史を調べる努力がなされない場合が多い。これは映画の場合一層顕著であって、良心的な作品であれば風俗や風景の時代考証は綿密に行われるが、その中に出て来る人物は端的に観客にアピールするように極度に現代化される傾きがある。

しかしこのような欠点を十分認めた上で、文学や映画は何といっても甚だ有効な歴史認識の手段である。過去をさながら現代のように眼前に彷彿させ、歴史上の人物と共に喜び且つ悲しむということは人を歴史に親しませる最良の方法である。そこで有名な歴史文学や最近の歴史映画を通じて西洋の歴史を概観し、また西洋の歴史を知るのに役に立つ小説や映画について一応の解説を加えるのがこの拙稿の目的である。(以下にあげる文学作品は特にことわったものを除きすべて邦訳がある。そしてその多くは文庫本や全集ものの中にあるから、読者はそれらの目録を見てさがして頂きたい。)

(以下続く  追記:

引用文(林健太郎2)

引用文(林健太郎3)

引用文(林健太郎4)

引用文(林健太郎5)

引用文(林健太郎6)

 

2015年6月27日

アレクサンドル・デュマ 『王妃マルゴ  上・下』 (河出文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 09:33

フランス・ロマン派のベストセラー作家。

ただし、高校世界史では名前が出るか出ないか、微妙な所。

『モンテ・クリスト伯』が代表作なんでしょうが、岩波文庫で全7冊と長過ぎる。

『三銃士』はそれより短いが全く興味が持てないので、より史実に密着した歴史小説である本書を選んだ。

『モンテ・クリスト伯』を、大長編でも『レ・ミゼラブル』『戦争と平和』と同じ価値がある作品なので読むべきだ、という人はまさかいないでしょうし。

16世紀後半のフランス、ユグノー戦争を背景にした作品。

絢爛豪華なルネサンス君主フランソワ1世の後をアンリ2世が継ぐが、不慮の死を遂げ、アンリとカトリーヌ・ド・メディシスとの子、フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世、さらに末弟アランソン公フランソワが残される。

本書で描かれるのはシャルル9世時代で、アンリ3世は当時アンジュー公、さらに一時(1573~74年)ポーランド王にもなっている。

1572年、彼らの妹マルグリット(マルゴ)と新教徒のナヴァール王アンリ(のちのブルボン朝創始者アンリ4世)との政略結婚から物語は始まる。

ナヴァール王アンリは、母はフランソワ1世の姉の子ジャンヌ・ダルブレ、父はルイ9世の一子から出たブルボン家出身。

その結婚時、有名なサン・バルテルミの虐殺が勃発、ユグノー指導者のコリニー提督らが殺害される。

ナヴァール王とマルゴは男女の愛情は無くとも、共に協力し信頼しあうパートナーとして結ばれ、マルゴは、執拗に娘婿を亡き者にせんと企む母カトリーヌからナヴァール王を守ろうとする。

(なお、ルイ13世はアンリ4世と別の妃との子で、マルゴの子ではない。)

他に、気まぐれで不安定な性格で、ユグノーを残酷に弾圧すると思いきや、一転ナヴァール王に好意的にもなるシャルル9世、王位をうかがう弟のアンジュー公アンリとアランソン公フランソワが入り乱れて話が展開していく。

ただ旧教徒の首領として有名なギーズ公アンリは途中からほとんど登場しなくなる。

アンリ・ド・ナヴァールが韜晦と忍耐でどうにか宮中での危地を逃れる様が描かれる。

サイド・ストーリーとしては、一時憎しみ合い剣を交えた新・旧教徒の二人の貴族の友情も。

 

物語の展開の速さと巧みさは特筆もの。

同じフランス・ロマン派のユーゴーにも匹敵する。

素晴らしく面白い。

ラストはアンリ4世の即位まで行かず、ややあっけない印象だが、それを差し引いても最高。

読んで良かった。

2015年6月19日

小林道彦 『児玉源太郎  そこから旅順港は見えるか』 (ミネルヴァ日本評伝選)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 03:28

司馬遼太郎『坂の上の雲』では秋山兄弟に次ぐヒーローとして描かれている陸軍軍人。

しかし、瀧井一博『伊藤博文』伊藤之雄『山県有朋』での記述を読むと、ややマイナスイメージも抱いてしまう。

1852年徳山藩士として生まれる。

長州は本藩が萩、支藩が徳山と長府。

翌年ペリー来航、尊攘論を唱えた父は閉門の上憤死、義兄も斬殺。

この経験から政治的イデオロギーから距離を置くようになる。

戊辰戦争に従軍、上官はのちに準元勲となった山田顕義、明治3年陸軍任官、桂太郎、寺内正毅と共に昇進。

明治7(1874)年佐賀の乱鎮圧に加わり、重傷を負う。

明治9(1876)年神風連の乱、熊本鎮台兵を建て直し鎮圧に成功。

翌年西南戦争、熊本城籠城戦。

この時の鎮台スタッフは錚々たるもので、司令谷干城をはじめ、樺山資紀、川上操六、奥保鞏(おくやすかた)、大迫尚敏、品川弥二郎、児玉らがいた。

戦後、千葉佐倉で連隊長を務めてから、明治18(1885)年参謀本部に出仕。

この際、軍制における「フランス派」の谷と「ドイツ派」の児玉の対立という図式を立てる論者が多いが、これは成り立たない、この時期の児玉は「遅れてきたフランス派」だったと書かれている。

だが、同年ドイツ軍人メッケルが陸軍大学校に招聘されると児玉もドイツ派へと傾斜、フランス派のエース寺内も転向、これにより山県有朋・桂・児玉・寺内という陸軍主流派が形成され、谷干城、曾我祐準(そがすけのり)、三浦梧楼、鳥尾小弥太ら非主流派(いわゆる「四将軍派」)と対立する情勢となる。

主流派は山県と大山巌を頂点に陸軍省を中心とした藩閥であるのに対し、四将軍派は参謀本部を強化し藩閥を解体することを目論む。

四将軍派は、自らの意向が陸軍人事に反映されないことに不満を持つ壮年の明治天皇と宮中勢力を抱き込み、参謀次長の川上操六を更迭し、代わりに曾我を就任させることに成功。

しかし、主流派は児玉と桂が連携し巻き返す。

四将軍派は、児玉は山田顕義配下の人材で、山田は自派加入を説得可能だと誤認していたが、児玉はすでに山県に傾斜しており、山田自身も四将軍派とは距離を置く。

四将軍派の「陸主海従」路線に反発する海軍も山県派に合流、初代首相となっていた伊藤博文も主流派を支持、結局四将軍ら非主流派は追放される(「明治十九年の陸軍紛議」)。

児玉が主流派に与したのは、陸軍の政治的中立性を重視したゆえであり、四将軍派が明治十四年の政変で官有物払い下げ中止と憲法制定を求める行動を起こしたことへの批判を持っていたためだと本書では評されている。

日本では、朝廷の存在そのものを原理的に否定する政治思想はそれまで事実上存在しなかった。幕末維新の政治的激動は、「玉」(天皇)の争奪戦を経て、最終的には「王政復古」を建前として収拾されていったし、神風連も自由党左派も、西郷隆盛も板垣退助も、いずれも天皇の存在を自明の前提として、その行動原理を決定していた。政治がいかに変化しようとも、天皇という「普遍的・超越的存在」に軍隊を直結させておけば、軍隊の政治化には一定の歯止めがかかるに相違ない。開国進取の国是を定めた今日、もはや尊王論の暴走はあり得ないし、天皇の存在が「革命原理」となることはない。児玉はそう考えていたのである。

しかしながら、1917年(大正6)のロシア革命をきっかけに、君主制の存在を真っ向から否定する一連の「危険思想」が、内外で大きな影響力を振るうようになると、児玉の構想した枠組み全体が大きく動揺し始める。そして、「赤化」の脅威=国体そのものの危機は、国体論の急進化を引き起こし、ひいては軍内に鬼胎を、児玉があれほどその存在を厭わしく思っていた「政治的運動」そのものを、産み落とすことになるのである。

天皇を親裁君主ではなく、調停的君主として捉えた上で、(現在では悪名高き)「統帥権の独立」をあえて唱えたのは以上のような観点から。

これは私にとっては十分得心できる考えだ。

井上寿一『山県有朋と明治国家』の記事でも書いたように、戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走であって、統帥権の独立はむしろそれを防ぐために構想されたものである。

それが、「多数派国民の意思の正しさ」という虚偽の前提から、むしろ諸悪の根源扱いされてしまっている。

結果として統帥権の独立が軍の暴走をもたらしたことは間違いない。

だがそれは軍が排外主義と現状革新志向の過激で愚劣な世論に影響されたからだという、最も重要な事実は完全に無視されてしまっている。

結果的に明治の指導者が作り上げた防御手段が想定通りに機能しなかったからといって、それに悲劇の責任を負わせて、煽動による多数派国民の衆愚への転落という真の原因には頬かむりである。

上の引用文で言えば、「危険思想」に易々と影響され社会不安を造成して国家を脅かし、その反動で逆の極端に走り極右的国家改造運動を熱狂的に支持した民衆世論に対する根底的批判も無しに、「戦前の明治憲法体制の非民主性」などあげつらうのは、途方も無い欺瞞に思える(戦後、馬鹿気た左翼的観念の蔓延にろくに抵抗を示さなかったくせに、ここ十年来また極端から極端に走り、排外的民族主義と右派的ポピュリズムに明け暮れる今現在の見下げ果てた大衆がそうするのはさらに醜悪です)。

1891年からの洋行留学でブーランジェ事件の顛末を知り、嫌悪感を持ち、軍の政治的中立性維持への確信をさらに強める。

この時期問題になったのが、大山巌陸相による帷幄上奏権の恣意的拡張。

1889年内閣官制を山県が制定、首相権限を弱めるが、児玉はそれに批判的。

何やら大山に悪いイメージを持ってしまうが、ただ『坂の上の雲』のように一つの本だけである人物に善玉イメージを持ったり、逆に走ったりすることが愚かなのかもしれません。

1892年第2次伊藤内閣で陸軍次官に就任、上奏権の縮小を目指すが、大山陸相が阻止。

日清戦争では山県・大山が出征したため、事実上児玉が陸相の任をこなす。

明治二十年代を通じて、山県を頂点とする陸軍長州閥が形成、桂・児玉・寺内・田中義一ら。

それが日清戦争後には郷党の違いを超えて政党勢力に対抗する「山県系官僚閥」に変化。

一方、西郷隆盛亡き後の薩派は、黒田清隆・大山・西郷従道・高島鞆之助(とものすけ)らによる集団的指導下にあり、制度的統制力に欠けた。

薩派陸軍の実務的トップが参謀本部の川上操六。

長州系が欧米協調を重視し自由党系と連携したのに対し、薩派はアジア主義的で改進党系と連携する傾向があった。

児玉は、阪谷芳郎(のち第1次西園寺内閣蔵相)との交流で、国家財政についての広い視野を得て、軍拡一本槍の軍人にはならず。

思想的にもドイツ一辺倒ではなく、英米流知識人とも交流。

日清戦争復員兵の検疫で後藤新平を起用。

ここで大山が下士官・文官の給与という純行政的事項を上奏で決定し、閣議に諮る。

さらに伊藤の警告を無視して平時編制もまた事後報告にしたため、伊藤は激怒した。

児玉は大山に同意したわけでなく、当時療養中のため諫止できなかった。

明治31(1898)年台湾総督就任、後藤新平を民政長官にし、新渡戸稲造を招聘。

立見尚文ら武断派を抑え、フィリピン独立運動への軽率な関与を理由に左遷。

同年日本国内の憲政党政権(隈板内閣)の崩壊を横目で見ながら、軍が政治闘争から超越していることの重要性を噛みしめる。

ここで私が最も著者の見解を知りたい厦門(アモイ)事件の記述が出てくる。

義和団事件で各国が清に出兵、第2次山県内閣の訓令があいまいだったこともあり、児玉は台湾から厦門に出兵するが、指示を受け撤退。

この時期の児玉は来るべき日露戦を想定せず(ロシア軍の満州占拠は義和団事件がきっかけなんだからそりゃそうでしょうが)、再度の混乱時に南清への出兵を企図していたという。

だが著者は、後の石原莞爾と違い独断専行ではなく、政府による正規命令に則った行動であり、

厦門事件は、関東軍の独走の「小さな雛型」などではないのである。

と強調している。

1900年第4次伊藤内閣に桂の後任として児玉が陸相として入閣。

伊藤と山県の板挟みになった上での決断。

児玉は政党内閣論者ではないが、伊藤が結成した政友会は挙国一致の観点より好意的。

翌1901年桂の組閣に奔走し、陸相留任。

八甲田山遭難事件を適切に処理。

山本権兵衛海相と協力し文民権限を拡大する軍制改革を構想。

だが帷幄上奏権の制限問題でまたも大山と衝突、陸相辞任。

この問題で優柔不断な態度を示した桂と一時距離ができるが、急速に関係を回復、寺内陸相とのトライアングルで陸軍を把握。

一方、政友会の実状を見て批判的になり、伊藤とはやや疎遠な関係になる。

日本外交の一大転機となった日英同盟締結だが、それを推進した桂・児玉・小村も当初は日露必戦とは想定せず。

児玉は内相兼文相として再入閣するが、田村怡与造参謀次長死去後の後任という降格人事を受け入れる(1903年)。

来るべき対露開戦に向け、陸軍の増強と海軍の攻撃時期を調整。

これについて、ドイツのシュリーフェン・プランに比してより外交に配慮された柔軟なものだったと著者は評価している。

開戦となるや、児玉は大本営の戦地派遣計画と人事権および旅順攻撃の第三軍を直接指揮する強力な外征軍司令部を置くことを大山と共に主張し、山県・桂・寺内の反対を受ける。

これは統帥権独立の主張ではなく、首相・陸相との十分な意思疎通の上で戦時に限り強大な権限の外征軍を置くべきとの考えで、平時は全く別で、児玉は大山に抗して、むしろ軍への統制強化を目指す伊藤に同意していたのは上述の通り。

結局、満州軍総司令部が設立され、第一軍から第四軍までの人事権を寺内陸相経由で実質的に行使することになり、留守は山県が参謀総長として預かる体制となる。

大きな犠牲を出した旅順攻防戦について、正面攻撃を主張したのは乃木希典、伊地知幸介(大山の姻戚)だけでなく大山・児玉も同様だった。

要塞攻撃についての楽観論は陸軍内すべてに共通していたことで、乃木指揮下の第三軍も肉弾白兵主義一本槍ではなく砲火の集中による攻略を企図したが、弾薬不足で果たせず、しかも海軍がバルチック艦隊の襲来時期を誤認しており、そのプレッシャーが一層無理な攻撃を繰り返す要因になってしまったと書かれている。

以上の通り、旅順要塞での苦戦をすべて乃木司令部の資質に求めることはできないと思われるが、乃木はほぼ不眠不休を続け、スタッフもそれにつれ疲労の度を深くしたと書かれているのをみると、個人としては称賛に値しても、やはり乃木は近代戦の指揮官としてはどうなのかと思わざるを得ない。

通説とは異なり、攻撃目標を二〇三高地に転換すべきと主張したのは児玉よりも、本国にいた山県や寺内の方が早かった。

旅順攻略の戦略目標は港内ロシア艦隊の無力化だったが、実はロシア軍艦の備砲の多くが取り外されて陸上用に転用されていたという。

結局、第三軍は本国の大本営に任せた方が良かったと評されている。

シベリア鉄道によってロシア軍が日々増強されるのを見て早期開戦論を唱えた児玉だったが、同時に日本の国力の限界を強く認識し、妥協的な早期講和論を主張する徹底したリアリストでもあった。

日比谷焼き打ち事件にあって、「多数愚民に臨むには相応の政策」がいるとの言葉を残している。

政府と国家上層部が現実を見つめ講和を決断したのに対し、多数の下層民衆が蜂起したこの日比谷事件は、昭和軍国主義の真因は何だったのか、四十年後大日本帝国を滅ぼしたのは誰だったのかを考える上で非常に示唆的だと思います。

日露戦後、児玉は、首相権限拡張によって軍への統制を強化しようとする伊藤の大宰相主義復活のパートナーとなる(1907年公式令制定)。

他に、参謀本部縮小、文民である(韓国)統監の軍隊指揮権制定など。

これらの改革は寺内も支持(寺内は初代朝鮮総督にもなる)。

本書の記述を読むと、大正時代超然内閣を組織した印象しかない寺内正毅という人物の別の好ましい一面が浮かび上がってきます。

ロシアとの再戦を必然視する山県の大軍拡路線にも児玉は反対。

立憲主義的軍人の代表として立ち表れた児玉は桂首相の後継首班にも擬せられた。

なお、しばしば問題となる満州軍政継続をめぐる児玉と伊藤との対立だが、これは満州経営への積極性と消極性の差。

伊藤は清の排外主義的民衆運動を強く危惧したのに対し、児玉は「土着的社会」への浸透ができれば清朝崩壊後も権益保全は可能とみた。

そして満鉄をイギリス東インド会社のような植民会社に見立てた上で、後藤新平を満鉄初代総裁に就任させる。

伊藤と児玉は満州問題では対立したが、明治憲法体制改革では両者は協力し、山県に対抗する立場だった。

いずれ伊藤・児玉が山県系官僚閥と正面衝突する事態も予想されたが、その前に児玉は1906年7月死去。

50代半ばとは、いかにも若い。

明治末年か大正期に首相になって、昭和期に元老になっていても全然おかしくない。

あまりにも残念。

1931年、即位まもない昭和天皇を元老として補佐して、満州事変の危機を巧みに収拾する79歳の児玉(と75歳の原敬)が見たかった。

そうであれば、我々は今も大日本帝国に暮らしていたでしょう。

私はその方が、少なくとも今のこの国よりはるかに良かったと考えます。

 

 

非常に良い。

様々な面での知識の追加、穴埋めが期待できる。

末尾のシリーズリストを見ると、既刊で伊藤之雄『明治天皇』、室山義正『松方正義』、小林道彦(本書と同著者)『桂太郎』、小林惟司『犬養毅』、川田稔『浜口雄幸』といくらでも読むべき本がありますね。

少しずつでもこなしていきたいもんです。

2015年6月13日

引用文(西部邁13)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:37

西部邁『昔、言葉は思想であった』(時事通信社)より。

民間(private sector)

「官(政府部門)を排して民に就け」というのが、この列島における平成時代の経済標語でした。いえ、その標語は、ナイト・ウォッチング・ステート(夜警政府、night-watching-state)とからかわれてきた自由主義的な経済政策において、言い換えると自由放任の無政策国家において、一貫してつかわれていたといってさしつかえありません。プライヴェート・セクターを大きくしてパブリック・セクター(政府部門、public sector)を小さくする、それが自由主義の基本線です。つまり、国内に向けての警察署・税務署と国外に向けての外交・軍事、それらだけを見回る夜警がおれば十分という意味で、スモール・ガヴァメント(小さな政府、small government)を勧めるのが経済学的な思惟の常套なのです。

ここでは、そのことの是非を直接に論じるのではなく、まず、プライヴェート(私的、private)という言葉につきまとう卑俗な意味について、経済関係者たちがまったく配慮しないことに注意を促しておきましょう。プライヴァシー(私的な事柄、privacy)が秘匿されるべきであるのは、主として、そこに偽悪醜としかよびようのない事物の臭いが多少とも漂っているからです。「為すことは許してもらいたいが、他人には見聞きされたくはない」、それがプライヴァシーの本質です。漢語や日本語で「私的」というのも、「私物化」とか「私商[わたくしあきない]」という言葉に典型的にみられるように、どちらかというと公開できない類の我欲の振る舞いをさします。そういう振る舞いに深くかかわる部門を大きくせよ、経済はプライヴェート・エンタプライズ(私企業、private enterprise)にまかせよ、といいつのる言語感覚のうらに、経済関係者における不徳の心理をのぞくことができます。

同じことの裏側ですが、政府部門をパブリック・セクターとよぶアメリカの習わしも、少々狂っています。パブリック(公共)の部門をすべて政府が担当するというのは、逆にいうとパブリック(公衆)がパブリック・マインド(公心、public mind)を持っていない(もしくは公心の発揚をすべて政府に委託する)ということです。もちろん、そういう似非公衆でも法律という公共規範に従うわけですが、コムプライアンス(遵法、compliance)のほかには、公心を行為で表そうとはしません。さらに、その遵法においてすら、彼らは私益を追求すべく訴訟を打って出ようと構えております。そういう者たちが政府(のみ)を公共部門[パブリック・セクター]とよんで平然としている次第です。

公共規範には(道徳にかかわる)習律もあります。習律は、とくに集団的・組織的な行為において、その行為への参加者たちが否応もなく、秘匿せずに公表して、勘案しなければならないものです。少なくともイデオロギーにあって、集団や組織は参加者たち個人の自発的な契約関係として形成されるととらえるアメリカ流儀にあっては、習律の入り込む余地はあまりありません。それゆえ、民間部門は私的で政府部門は公的、という両断が罷り通るということになります。

アメリカは、今もなお人々の公共精神にもとづく「寄附」(donation)やヴォランティーア・アクティヴィティ(義勇の自発的活動、volunteer activity)の強いところです。しかしそれらは、あくまで個人の倫理観に発することとされ、経済制度の部門としては定着させられてはいません。

我が国のいわゆる日本的経営には、そうした習律が内蔵されておりました。しかし、この平成時代に加速度的に進められた「民営化」は、実のところ、「私人化」つまりプライヴァタイゼーション(privatization)だったのです。さらには、私人化に居直ることすらやって、秘匿すべき科白の最たるものを、つまり「カネで買えないものはない」という文句を、吐き散らかす御仁までもが社会の表面に出てくる始末です。しかも、政府部門にかかわる役人たちのプライヴァシーについては、それを暴き立ててスキャンダルの種にしようというのですから、似非公衆としての大衆の我欲には切りがないといわずにはおれません。

もし民衆[ピープル]にして、公心を抱懐する公衆[パブリック]であったなら、「政府は国民の公心の代表なり」(福澤諭吉)と理解するでしょう。そのことを踏まえて、民間部門[プライヴェート・セクター]とよばれているものを公衆部門[パブリック・セクター]とよび替え、公共部門[パブリック・セクター]とよばれているものを政府部門[ガヴァメンタル・セクター]と言い換えるでしょう。いずれにせよ、「公心が民間の経済行為においていかに表現されるか」というのが肝心要の点です。前項でみたように「市場」とは「公平な価格で取引が行われる場所」のことです。また、後段の「賃金」や「価格」の項目でみるように、市場取引は慣習によって安定化させられ、そして慣習のうちに公衆の公心が含まれております。だから、民間部門の中心をなすマーケットの内実について深く洞察できないエコノミストが、経済界を私的民間部門と公的政府部門の両極端に分解した、そして後者を極小化せんとする市場教条主義に耽ってきた、といってさしつかえありません。

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