万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年5月10日

プラトン 『メノン  徳について』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:32

テッサリア出身でゴルギアスの弁論術を学んだ若者メノンが、前402年ごろソクラテスと対談したという設定の著作。

メノンはこの直後、ペルシア帝国の皇位争いに加わったギリシア傭兵の撤退戦である「アナバシス」で敗死したという。

一応内容をノートしてあるんですが、自分で書いていながら読み返すとよくわからない部分がある。

「解読」に苦労しながら、たぶんこういうことだろう、こうすれば何とか意味が通る、と考えてこの記事を書く。

いつもの如く、私が書く内容紹介はあまり信頼せず、ご自身でお読みになる際の参考に止めて下さい。

 

本書はまず徳について三種の考え方を提示。

(1)伝統的人々=優れた人のあり方を示す徳という言葉に当てはまる慣習に従うだけで、それ以上突き詰めて考えようとしない。

(2)ソフィスト=人々を支配し統率する力が徳、知恵を教える賢者と自らを規定(ゴルギアスにはやや慎重な部分があるが)。

(3)ソクラテス=徳は単に有益なものではなく探求の対象、無知の知の自覚の重要性、徳はソフィストが主張するように職業的に教えられるようなものではない、しかし広い意味での教育は重視する。

(1)の立場にはアニュトスがいて、この人物はペロポネソス戦争での敗北後アテネに成立した「三十人僭主」政権が打倒された後、前399年民主派政治家としてソクラテス裁判を主導する。

対談では、まずメノンが、徳は教えられるか?と尋ね、それに対しソクラテスは、それ以前に徳とは何なのかと問い返す。

メノン:男・女・子・年長者・自由人・奴隷にそれぞれの立場に応じた徳(アレテー=卓越性)がある。

ソクラテス:それらに共通する徳があるはず、また単なる卓越性でなく正義と節度といった条件もまた付く必要がある、その条件も徳である。

メノン:美しい立派なものを欲し、それを獲得する力があることが徳。

ソクラテス:「美しい立派な」ものはそれを「よい」と思うから欲するのであって、逆に悪いものを欲する人間も本人はそれを「よい」ものと思っているから欲している、「悪いものを欲する人」はいない、「よい」「悪い」を真に識別する知こそが重要、またそれを獲得する能力に問題を移せば、例えば富や要職を不正に手に入れるのは悪徳だ、正義や節度といったアレテーの「部分」が伴わねば不徳に陥る、しかしそう考えると「部分」が伴っているか否かで徳・不徳が決定されることになり、部分で全体を定義している矛盾に陥る、もっとも自分も徳そのものが何であるかを知ってはいない。

メノン:「探求のパラドクス」を提示。すでに知っていることを人は探求しようとはしない、一方知らないことはこれから何を探求するかさえ知らないので探求できない、という考え方。

ソクラテス:怠惰および論争のための論争の口実となるこのパラドクスを否定、魂の不死という立場から、「学習」とは実は「想起」であるとの説を提示。適切な問答で正しいドクサ(ここでは考え・判断・思惑・推測)に達し、自分で自分の中の知識を「再獲得」するのが学びだ。そして徳とは何かに戻って、それは教えられるものなのか、知識なのかを考察。徳はよい、有益なものだが、健康・強さ・美・富という有益なものも正しい使用が無ければ有害、勇気も単にある種の「元気」に過ぎなければしばしば有害、節度やものわかりの良さも同じ、これらすべては知によって導かれる限り有益で幸福、したがって徳は知であると言えるが、しかしこの「知」は果たして教えられるような知識か?、と疑問を呈する。

ここでアニュトスが登場(この対話は明らかに架空で事実ではないとのこと)。

アニュトス:ソフィストを批判。

ソクラテス:自身もソフィストに批判的だが、しかし何も知ろうとせずに非難することをたしなめる。

アニュトス:立派で優れたアテネ人に付き、教えを受けさえすれば立派な人間になれる。

ソクラテス:テミストクレス・アリステイデス・ペリクレスという偉人の息子たちが優れた人物になれなかった、もし徳が教えられるようなものなら、彼らがあえて自分の息子に教えないということがあり得るだろうか?

(アニュトスは怒って退場。)

ソクラテス:具体的行為の正しさについては知が導かなくても「正しい考え(ドクサ)」があればよい。ただし「正しい考え」は魂に長期間留まらないことが多く、原因の推論を行う知のように安定的に持続するものではない、アニュトスが挙げたような人々は知恵ある賢者ではなくドクサによって政治的統率を行っているだけ、だから他者を教え諭し自身と同様の優れた者にできない、彼らは知の点では託宣者・預言者と何ら変らない、彼らに対する称賛の言葉「神のごとき人」とは実は「神懸かりの人」とでも解釈すべき。もちろんソフィストも徳の教師ではない。結局徳そのものが何であるかは、無知の知の自覚に基づく徹底した自己探求によって知るしかない。

 

 

短いので読みやすい。

訳者解説が半分を占める。

『プロタゴラス』と同様、初心者も気後れせず読了していけばいいかと思います。

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