万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年4月17日

アンドレ・モロワ 『ドイツ史』 (論創社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 09:03

2013年刊。

これを行きつけの大型書店の棚で見つけた時は、誇張でなく本当に衝撃を受けた。

モンタネッリ『物語ギリシャ人の歴史』の場合は、『ローマの歴史』および『ルネサンスの歴史』以外のイタリア史シリーズの翻訳が出ていないと思っていただけで、原著の存在は知っていたのですが、本書についてはこんなものが存在すること自体全く知らなかったので。

『英国史』『フランス史』『アメリカ史』のいわゆる自由主義諸国三部作の良さについてはこのブログで度々申し上げていますが、まさかモロワの手に成るドイツ史が存在していたとは・・・・・。

訳者によると、原著は1965年刊で、モロワは67年に没、文章量としては三部作の約半分くらいだそうだ。

以下、ざっと本文を眺めてみる。

 

まずゲルマン人時代。

アッティラをカタラウヌムの戦いで撃退した「最後のローマ人」アエティウスのおかけで西欧は救われた。

(やはり普通「最後のローマ人」というとスティリコではなくアエティウスを指すと思うのですが・・・・・[塩野七生『ローマ世界の終焉』]。)

フランク・ブルグンド・ゴート諸族のローマへの敬意が、ガロ・ローマ人との協力を生み出す。

クローヴィス死後のメロヴィング朝は、本書でも簡略に済まされている(この時代、まともに取り上げるには複雑過ぎです)。

カール大帝による統一、ゲルマン・ローマ・キリスト教の三要素の合体。

大帝は、ランゴバルド・ザクセン・バイエルン・アヴァールを征服、ハルン・アッラシードと使節交換。

ルートヴィヒ1世後、分割相続で東フランクがドイツとなる。

フランス語でドイツを「アルマーニュ」と言うが、これは「アラマン人の国」の意。

一方、ドイツ語で自国を指す「ドイッチュラント」は「人民の国」の意。

西フランク王シャルル2世と東フランク(ルートヴィヒ2世の子)カール3世肥満王による一時的統一回復があったものの、カールの甥アルヌルフを経て、その子ルートヴィヒ4世幼童王の死によってカロリング朝断絶。

フランケン公コンラート1世を挟んで、ザクセン朝ハインリヒ1世即位、その子がオットー大帝。

カール大帝によるザクセン征服と改宗から百年ほどであり、驚くべきことと著者は評している。

続いて「イタリア政策」の功罪に言及。

彼が力を入れたドイツとイタリアの間のこの緊密な関係は、これら二つの国民の利益に合致していたろうか?多くのドイツ人は、自分たちの国に秩序を回復し、東方蛮族の侵略から西欧を守り、教皇を支えている君主を誇りに思ったし、ローマ教会がこの君主を支える堅固な保障になってくれるのを期待した。しかし、なかには、王がイタリア問題に関わり、ローマから種々の影響がもたらされることによって自分たち本来のドイツ的性格が損なわれることを危惧する人々もいた。事実、フランスやイギリスでは、世襲制が王国の安定的堅固さを保障していったのに対し、ドイツでは、皇帝が選挙で決められることが不安定さをもたらしていった。

ザクセン朝が断絶すると、フランケンのコンラート2世選出、サリイ系フランクなのでザリエル朝と呼ばれる。

その孫ハインリヒ4世時に有名な叙任権闘争が最高潮を迎える。

だが著者は、この華々しい事件の陰で同時期に行われた東方植民こそ、中世ドイツの最も重要な事績だったとしている。

文化面では、トマス・アクィナスの師アルベルトゥス・マグヌス、神秘思想家エックハルトなどの名を挙げている。

次いでホーエンシュタウフェン朝コンラート3世即位。

第二回十字軍参加とギベリン党形成。

これに対抗するのが、バイエルンのヴェルフェン家で、「ヴェルフェン」から訛ってゲルフ党という名が生まれる。

注意すべきなのは、このギベリン、ゲルフというのは、ドイツ国内でのことではなく、イタリアでの党派を指す言葉だということ。

そして普通、ギベリンが皇帝派、ゲルフが教皇派ということになっているが、あくまで具体的な政治闘争での色分けなので、必ずしもそれぞれが理念的に皇帝・教皇を無条件に支持し続けるというわけでもない。

シュタウフェン朝フリードリヒ1世がバイエルンのハインリヒ獅子公と対立、第三回十字軍参加、レニャーノの戦いでロンバルディア都市同盟に敗北。

続くハインリヒ6世は、英国王リチャード1世が十字軍帰路捕らわれたのを利用、シチリア王国獲得。

その死後、獅子公の息子オットー4世が即位するが、教皇インノケンティウス3世と対立、英国王ジョンと同盟してブーヴィーヌの戦いで仏国王フィリップ2世に大敗、失意のうちに死去。

帝位はシュタウフェン朝に戻り、フリードリヒ2世即位。

近代的な官僚制統治の萌芽を見せるが、その死でシュタウフェン朝は終わり、ドイツの統一的傾向は衰退、ハンザ同盟の繁栄はあったものの、分裂期に入り、大空位時代を迎える。

その後、いよいよハプスブルク家のルドルフ1世が即位。

高校世界史だと、ハプスブルク=オーストリアのイメージだが、本拠はもともとスイス、アルザス、シュヴァルツヴァルトとかなり西の方。

それがボヘミア王オタカル2世を敗死させオーストリアを領有することになったが、アルブレヒト1世が身内に暗殺されてしまい、以後一時帝位から離れる。

ボヘミアを領有するルクセンブルク家ハインリヒ7世が即位。

その死後はハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家バイエルンのルートヴィヒ4世が対立。

モルガルテンの戦いでスイス独立、ハプスブルク家は発祥の地を失う。

ルクセンブルク朝が復位し、カール4世は金印勅書発布。

そこで定められた選帝侯はケルン・マインツ・トリール・ボヘミア・ファルツ(ライン宮中伯)・ザクセン・ブランデンブルクの七つ(これは全く不変のものというわけではなく、後世バイエルンなどは追加でその地位を得ている。ただ以下引用文の通りオーストリア・ハプスブルク家自身は最後まで選帝侯ではない)。

『金印勅書』においては、オーストリアのハプスブルク家は選挙人ですらない。彼らは、これを修正させようとしたが、実現はできなかった。逆に、彼らは、新しいタイプの地方的君主制を世襲的君主制として整備することになるのだが、そのプロセスはゆっくりしており、オーストリア王家は、まだ長い間、兄弟間の分割の原則によっていくので、その力は弱体化し続ける。しかしながら、1291年から1437年まで皇帝の座から遠ざかったことが、逆に彼らに益した。この時間的ゆとりのおかげで広大な領土を形成し、帝冠が自分たちのもとに戻ってきたとき、これを一門のなかに永く維持できる力を養うことができたのであった。

ジギスムント帝がフス戦争によって自領を荒廃させて死去した後、ハプスブルク家のアルブレヒト2世即位、以後ハプスブルク家が安定的に帝位世襲。

続くフリードリヒ3世の時代、プロイセンがポーランドの宗主権下に入ったり、シュレスヴィヒ・ホルシュタインがデンマーク領になったり、スイス独立を事実上承認するなど、強力な君主とは言い難いが、その婚姻政策は大成功を収め、息子マクシミリアンとブルゴーニュ公女との結婚でヨーロッパ屈指の経済先進地域ネーデルラントを得て、さらに孫の結婚で新大陸を領有するスペイン王位まで手に入れる。

だが16世紀、宗教改革という驚天動地の出来事が発生。

一時はドイツ全体がプロテスタント国家になるかと思われたが、そうはならなかった。その理由の一部は、ジュネーヴに本拠を置く別の形のプロテスタント信仰である《カルヴィニズム》がルター主義と折り合わず、選帝侯ライン宮中伯が自分の都ハイデルベルクをドイツにおけるカルヴィニズムのセンターとしたこと、他方、カトリシズムが予想外の抵抗力と回復力を示したことである。

17世紀、宗教改革による国内分裂が極限に達し、三十年戦争が勃発、第一期はベーメン(ボヘミア)反乱とファルツ選帝侯の戦い敗北、第二期はデンマークが新教側に加わるが撃退、第三期スウェーデン王グスタフ・アドルフが参戦するが、ヴァレンシュタインと共倒れ、1635年フランス参戦で、1648年ヴェストファーレン条約。

本書では、この戦争によってドイツの途方も無い荒廃と近代化の遅れがもたらされたという伝統的見方を取っている。

この時期、徐々にプロイセンが台頭。

国名は「プロイセン」だが、そもそも、ベルリンなど中心的地域はブランデンブルク辺境伯領。

ホーエンツォレルン家も元はシュヴァーベンのニュルンベルク城伯に過ぎず、それが15世紀より辺境伯となり、さらにドイツ騎士団領が世俗化しプロイセン公国になった際の団長がたまたまホーエンツォレルン家出身者だったということもあって、後に両者が合体することになった(両地域を隔てる西プロイセンは1772年ポーランド分割で併合)。

イタリア統一の主力となったサルディニア王国の中心がサルディニア島では全くなく、トリノであり、王家発祥の地のサヴォイはフランスに譲渡されたのと、奇妙に似てますね。

18世紀はドイツ文化の黄金期とされ、確かにライプニッツ、カント、レッシング、ゲーテ、シラー、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンと並べられると、納得です。

19世紀、ナポレオン戦争がもたらす激動へ突入、その過程では各国のナポレオンとの個別講和が目立ち、それがナポレオンを利したイメージを強く持つ。

ナポレオン支配下で領邦が多数併合・簡略化され、結果としてそれがドイツ統一につながりやすくなった。

以後の近現代史の叙述は、この種の通史的概説書にありがちではあるが、あまり得るところがない。

多少とも印象に残った断片的記述だけをメモ。

ドイツを「確固たる国境も一つの安定した中心もない『中央の帝国』」と定義。

ビスマルクがいなければドイツは自由主義国になっていただろう、1862年のプロイセン自由主義者たちの敗北が西欧の没落とヨーロッパの兵営化を告げるものとなったとの著者の見解は、あまりに定型的で凡庸に思えて感心しない。

ニーチェについて、

この精神の貴族は、自分の哲学が後世にはゆがめられて、彼が間違いなく「我慢ならない凡俗性」と軽蔑したような人々、彼が責めた大衆運動を組織している連中に利用されるのを見たら衝撃を受けたであろう。

としていますが、ゴーロ・マンも全く同じことを書いてました。

著者は、ワーグナー、トライチュケの偏狭さにも触れつつ、それでもコッホ、ヘルムホルツ、レントゲン、ダイムラーなどの自然科学上の大成果を挙げ、諸国民の第一級であり得たドイツが汎ゲルマン主義によって災厄のどん底に引きずり込まれた、と書いている。

第一次世界大戦は集団的な狂気による自殺行為であり、低俗なナショナリズムだけが幅を利かせ、知性と和解と良識の声に耳を貸す人間が余りに少なかったと嘆いているが、多数者による決定ではそれが必然なのでは?とも思えてくる。

最後に全くの豆知識。

ワイマール共和国初期に起こったカップ一揆のカップは、父が1848年革命でアメリカに亡命し、息子が1900年帰国、その後反共和制反乱を起こしたそうです。

 

 

訳者あとがき。

モロワは歴史の専門学者ではない広汎な著述家、本書もドイツ史を専門的に学ぶ人にはあまり参考にならないかもしれないが、一般読者には役に立つ。

訳者も三部作を愛読し、本書を二十年ほど前に知り、邦訳を志したそうである。

その眼力と見識には脱帽します。

ただ本体価格5800円は高い。

内容的にも、分量がやはり少なめで三部作ほどの効用は期待できない。

地図がほとんど無いのも欠点。

30冊で読む世界史で挙げた坂井栄八郎『ドイツ史10講』(岩波新書)の代わりに定番として採用することはやはり難しいか。

とは言え、三部作と共通する良質さを持っている。

政治史を基本に物語性を保ちつつ、人物の個性描写も放棄せず、時代順に叙述を行い、なおかつ経済史・社会史・文化史の項目を適時挿入して内容の豊富さを確保し、複雑な歴史の総体を垣間見せてくれる。

三部作は、一国の通史としては私の知る限り、最も完成度が高い。

邦訳は1950年代新潮文庫で刊行、それが1993~94年に復刊され、私が買ったのもこれ。

何とか再復刊するか、出来れば中央公論新社あたりが新訳を出して頂けないでしょうか。

最近、新刊情報について記事で触れることはしていませんでしたが、いくつかの名著が復刊しています。

野田宣雄『ヒトラーの時代』西部邁『大衆への反逆』が文春学芸ライブラリーで、福田恆存『私の英国史』が中公文庫で復刊され、宮崎市定『中国史』も近々岩波文庫に入るようです。

アンドレ・モロワの著作も淡い期待を持って、見守っていきたいです。

 

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