万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年2月23日

西部邁 『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』 (時事通信社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:49

単独で記事にしたことは今まで無かったが、すでに他の記事の中で本書の記述からは頻繁に引用しています。

『ローマ人の物語』最終巻ではローマ帝政の民主的性格とその評価について、木崎喜代治『幻想としての自由と民主主義』では「知性に適用された平等理論」と多数決制の欺瞞について、ユーゴー『レ・ミゼラブル』では「共和政」の真の意味について、引用文10では保守主義者にとってのケインズとハイエクへの評価について。

著者の思想全般が平明に述べられているだけでなく、表現はますます研ぎ澄まされており、具体的な史実や人物への言及が多いのも長所。

私が引用しなかった部分でも、メディア論・大衆論・総力戦論・近代論・天皇論について貴重な知見に満ちています。

出来れば手元に置いて、じっくり読み込むのが望ましい。

それだけの価値は間違いなくある良書です。

 

ピープル(民衆)の健全さをそのコモンマン(庶民)としての性質に見出すなら、民「主」とか、それをさらに「主義」にまで昇格させて民主「主義」とか言い表すのは、いかにも異常だというほかありません。

民衆「主権」というのは「民衆を大事にする」という一般的な姿勢の誇張した表現だ、というのはわかります。民主「主義」というのも、強い意味ではなく、態度の一般的方向を強調するための誇張だというのもわからぬではないのです。しかし、現代日本で民主主義というと、ほとんどイムペラティヴ(命令的)であり、民主主義という言葉は政治言語の世界におけるイムペリアリスト(帝国主義者)のように我が物顔なのです。

デモクラシー(民衆政治あるいは民衆支配)はあくまで「多数参加と多数決」という政治の「制度」としてとらえるべきです。その制度が価値として肯定されるについては、民衆が庶民の常識を手放してはいない、という条件がなければなりません。その条件があれば、経験知・実践知という人間にとって最も質の高い精神のはたらきにおいて、民衆はいわばアリストス(貴族つまり最優等の者たち)になります。

誇張を恐れずにいうと、民衆政治を礼賛できるのは、「民衆という貴族」の存在を想定できる場合に限られます。精神のアリストクラシー(貴族政治)だというのなら、民衆政治に異を唱えることなどできる相談ではありません。それを民「主主義」としてもてはやすのは当然だ、ということになるかもしれません。

しかし、自分らは主権者だ、だから自分らの主権を政治の「主義」(イデオロギー)とするのは当たり前だ、といいつのることそれ自体が、すでにして常識を逸脱しております。

それは、民衆がみずからをオムニッシェント(全知)ととらえるという意味で、アロガンス(傲慢)の咎に当たります。アリストクラシーつまり貴族政治が失敗したのも、たかだか「財産と地位」を持っているだけのことで、自分らを「アリストス」(最優等)とみなす「カキストス」(最劣等)の振る舞いをしたからです。「財産と地位」をすら持たぬ民衆が最優等者を自称するのは、まさに烏滸[おこ]の沙汰という以外に表現が見当たりません。

そういう愚行をなすことをデモクラティズム(民主主義)と名づけ、デモクラシーと一線を画すべきだと思われます。第二次欧州大戦の覇者ウィンストン・チャーチルは、民衆政治への信と疑の両方を込めて、「デモクラシーは最悪のものより少しよい政治制度にすぎない」といいました。しかし、それとて曖昧にすぎる言い方です。民衆政治にかんする制度論がデモクラティズムという価値論になってしまえば、最劣等の政治がもたらされるかもしれないのです。

それは、単に、民主主義が民衆の傲慢の咎ゆえにオクロクラシー(衆愚政治)やモボクラシー(暴民政治)をもたらす、というにとどまりません。すでに・・・・・[帝政ローマやフランス革命において――引用者註]みたように、衆愚や暴民がみずから進んで民主主義を独裁主義に転化させたという事例に、世界の政治史は事欠かないのです。

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