万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年2月6日

吉次公介 『日米同盟はいかに作られたか  「安保体制」の転換点 1951―1964』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 04:40

池田勇人内閣期(1960~64年)に重点を置いた日米同盟史。

まず著者は、「改憲・復古」志向で強硬な「反共」姿勢の岸信介首相が60年安保で退陣、その後継の池田は「寛容と忍耐」を唱えて「所得倍増計画」を掲げ、「吉田ドクトリン」と「経済中心主義」を戦後日本の基本路線として再定着させた、との一般的対比イメージは適切ではないと指摘。

1950年4月吉田茂内閣蔵相の池田が訪米、独立後の米軍駐留を認める意向を伝える。

6月朝鮮戦争勃発、8月警察予備隊発足。

当時の日米交渉の過程で、米国は基地の自由使用を主張しながら日本防衛義務を明確にせず、日本の再軍備加速を求める。

敗戦国の立場を考えれば独立時の吉田の言動も理解できるが、在日米軍の存在が「恩恵」で、日本はそれに「貢献」するという論理が日米安保体制に埋め込まれたことは問題だと、著者は指摘。

日米の力関係の格差、米側ダレスの巧みな交渉術、先の池田ミッションの悪影響もあり、講和と独立は促進したものの、日米安保の交渉では不利にはたらく。

51年サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約。

以後も、特に陸上兵力拡充を求める米国に対し、日本は抵抗。

52年保安隊発足(海上は警備隊)。

53年アイゼンハワー政権成立、国務長官ダレス就任。

同年池田・ロバートソン会談が行われ、米側が求めた30万人ではなく18万規模の再軍備が約束される。

これは通説では、米側の急速な再軍備要求をかわして経済立国主義を貫いた吉田路線の成功例とされてきたが、本書ではむしろ米国が当面の目標と考えた18万人規模を日本が呑まされたと評価されている。

だたし吉田も漸進的再軍備が真の独立達成のために必要であるとは認識。

54年自衛隊発足、吉田内閣退陣、鳩山一郎政権成立。

55年自由民主党結党、左右社会党再統一、「55年体制」成立。

重光葵外相はより対等な立場に向けた安保改定を米側に提議するが、ダレスは拒否。

「ニュールック戦略」「大量報復理論」を掲げるダレスは、米国の核戦力を補完するものとして、むしろ日本を含む同盟国の通常戦力増強を求め、国外の米地上軍撤退を志向。

56年石橋湛山内閣に続き、57年岸内閣、安保改定には成功するが、60年安保反対運動で退陣。

後任の池田内閣は、防衛・安保問題でのタカ派イメージを避けつつ中立主義的外交路線の主張を排し、総選挙に勝利。

基地反対運動の高まりに直面したマッカーサー2世(元帥の甥)駐日アメリカ大使は本国に妥協的対応を進言。

61年成立したケネディ政権は日米関係について「イコール・パートナーシップ」と「負担分担」を掲げ、エドウィン・ライシャワーを駐日大使に任命。

それに応えた池田自身にも「大国」意識があり、日米欧の自由世界の三本柱論を唱える。

米国一辺倒だった日本外交の地平を広げるため、西欧との関係を強化、欧州を歴訪しアデナウアー、ド・ゴール、マクミラン、ファンファーニ(伊)の各国首脳と会談。

国内では第二次防衛力整備計画を策定。

国際政治上の軍事力の決定的性格および自主防衛への志向は、「経済中心主義外交」の池田にも実は共有されていたが、米国の圧力と財政的制約、国内革新勢力の反発という三者の板挟みとなって、防衛力の漸進的増強路線に落ち着く。

62年の(第二次)中印国境紛争によって中国脅威論がアジアの自由主義陣営に広まるが、日本は中国の軍事力を過大評価せず、近接する東南アジアにおいて軍事的対応ではなく経済開発支援で対抗すべきと主張。

これはヴェトナムでの悲劇と米国の大失敗を考えれば、今見ても米国より正しい見解だ。

同年日中間のLT貿易開始。

アメリカはこの決定に反発するが、日本側としては国内の過度の中国ブームを冷ます必要もあった。

大局的に見れば、中国封じ込め政策を継続しても共産政権を打倒する見込みは無く、中国を国際社会に取り込んでその内外政策の穏健化を促すしかない。

71年以降の米国のそうした政策を当時の日本は先取りしていた。

池田は日米間の「核密約」を確認し、自国の軍備強化の他に対外援助を拡大、アジアにおいて(軍事的対応を優先しない)柔軟な反共外交を展開。

隣国韓国とも62年「金・大平メモ」を交わし、65年の国交正常化の道筋をつける。

ケネディ政権は東南アジア・南アジアにおいて地域大国のインドを最重視したが、日本は必ずしもそれに同意せず、ビルマ重視路線を取る。

62年クーデタ以後のビルマ軍事政権は中立と社会主義を掲げ米と疎遠になったが、共産主義とははっきり一線を画しており、日本はビルマと友好関係を維持、タイやラオスへも積極的に援助。

多くが独立から間もなく、中立志向の強い東南アジア諸国に対し、経済協力によって自由世界に引き付け、その過激化を柔軟な形で阻止することが当時の日本の外交政策だった。

ここで問題になったのがインドネシア。

スカルノ政権が内外政策を急進化させ、中国に接近、63年には反マレーシア外交を展開し、日本の仲介も功を奏せず。

しかし日本の行動も無意義ではなく、65年スカルノ失墜後のインドネシアの安定に寄与した。

また南ヴェトナムでは情勢が悪過ぎ、長期的にみて共産化は必至であったが、米国の要請で人道・民生援助は行った。

このように概観すると、アジアの冷戦には池田政権下の日本も明白に関与しており、ただその「戦い方」で日米の違いがあったに過ぎない。

結論として著者は、冷戦期における日本の貢献を列挙し、「空想的平和主義と国内革新勢力の圧力で日本は過去安全保障面でアメリカに全面的に依存していた」というような一方的な負い目を持つ必要は無い、と主張する。

昨今の日本が外交的にますます対米従属路線を深め、その軍備増強と法整備が、自主防衛力強化という真っ当な方向ではなく、米国の独善と利権のための戦争に協力する目的で行われ、そのことへの反対が「反日」「左翼」などという下賤なレッテル貼りとデマゴギーで沈黙させられているのを見る時、本書の主張はより一層貴重で有益なものになるでしょう。

 

面白い。

対象を思い切って池田政権時代に絞っているのが良い。

その分、かなり細かな史実が叙述されているが、それはそれで非常に興味深いものがある。

最後の外交論の部分は特に面白い。

堅実で役に立つ良書。

お勧めします。

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