万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年1月21日

山口直彦 『新版 エジプト近現代史  ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 16:45

「世界歴史叢書」というシリーズの中の一冊。

著者は日本貿易振興機構の方。

まず中東地域でエジプトという国が持つ重みについて述べる。

非西欧世界の近代化政策では明治維新に先行もしくは平行するものとしてオスマン朝のタンジマート、清朝の洋務運動、タイのチュラロンコーン改革などが挙げられるが、それらの中でエジプトのムハンマド・アリーの改革が、時期的に見れば一番早いと書いてあって、そう言われればそうかと、盲点を突かれた気になった。

ムハンマド・アリーについては、以前清水新書の伝記を紹介したことがある。

細かな経緯はさておき、アルバニア人非正規部隊副隊長から身を起こし、輸入王朝を創始したこと、事実上の独立支配権を持っていても、エジプトの(宗)主権はあくまでオスマン朝にあったことはチェック。

この前後のオスマン朝スルタンは、セリム3世(1789~1807年)、マフムト2世(1808~39年)、アブデュルメジト1世(1839~61年)。

1831年第一次シリア戦役(本書では日清戦争に例えられている)時トルコ側には顧問としてあの大モルトケがいた。

ムハンマド・アリーの長子イブラーヒームは優れた将才の持ち主で、父と異なり明確に反オスマン思想とエジプト人意識を持っていた。

アナトリア中部にまで進攻するが、ロシアに続き英仏も介入、33年に総督の資格でシリア領有を認められる。

39年アデンを英国が占領、33年ウンキャル・スケレッシ(ヒュンキャル・イスケレシ)条約でロシアのボスポラス・ダーダネルス海峡自由航行権が認められたことに英国は警戒の念を持ち、オスマン帝国保全策を取る一方、エジプトの専売制・保護貿易政策とも衝突。

この時期、イギリスは自由党内閣(30~34年グレイ、34・35~41年メルボーン)で外交はほぼパーマストンの指導下にあった。

39年第二次シリア戦役、モルトケの進言はまたも受け入れられず、オスマン軍惨敗、その最中マフムト2世死去。

(ちなみにこのマフムト2世在位中の領土喪失として「アルジェリア 1830」とあるのを見て、「これは地方支配者が事実上分離独立したとか、そういうことかな」などと考え、少し後でフランスのアルジェリア出兵の史実を忘れていたことに気付き、かなりショックを受けました。やはり苦手カテゴリで全く関連書を読まない期間を長くつくると駄目ですね。)

教科書から受けるイメージとは異なり、この二度のシリア戦争でオスマン帝国は軍事的には滅亡の瀬戸際まで追い詰められていたと本書では記されている。

もしオスマン朝が百年早く滅んでいて、中東主要地域がムハンマド・アリー朝エジプトによって統一されていたらどうなったか、というのは興味深い歴史のイフです。

しかし、実際にはエジプトは英国の虎の尾を踏んだ形になり、40年英普墺露のロンドン条約、親エジプトの仏は完全に孤立(これはエジプトにとっての日清戦争と三国干渉と例えられている)。

英海軍の海上封鎖圧力で41年エジプト・スーダンの総督職世襲のみが認められる。

英国はギュルハネ勅令以後のオスマン朝を保全する政策を取り、フランスはエジプトを支持。

幕末日本では英は薩長支持、仏は幕府支持で、既存体制と現状打破勢力のどちらを支持するかが、中東と日本ではちょうど逆になっている。

戦後、ムハンマド・アリーは綿花栽培奨励、工業化推進政策を進めるが、40年の譲歩でオスマン朝と同様の貿易協定や軍備制限を受け入れていたため、大きな挫折を経験、国営工場設置・近代的教育設備建設も後退する。

1848年イブラーヒーム死去、続いて49年ムハンマド・アリーも死去。

イブラーヒームの甥アッバース・ヒルミー1世即位(~54年)。

その治世下で近代化政策は後退、クリミア戦争では旧敵トルコを支援、最期は何者かによって謀殺される。

この人物について多くの史家は反啓蒙主義的で退嬰的だとして批判的だが、後に一方的欧化政策と経済的門戸開放で植民地化を招いた後継者よりも先見の明があったとも言えるとして、著者は一定の評価を与えている。

叔父ムハンマド・サイード即位(1854~63年)。

積極財政で近代化政策推進。

このサイードの元家庭教師だったのが有名なレセップス。

外交官でナポレオン3世皇后ウージェニーの縁戚。

54年スエズ運河開削権が、破格に運河会社側有利の条件でレセップスに認められる。

「ポート・サイド」という街はこのサイードに因むもの。

続いて甥イスマーイール(イブラーヒームの子)即位(1863~79年)。

67年「総督」ではなく「副王」の称号をオスマン朝に認めさせる。

40年ロンドン条約のうち、非政治的条項と軍備制限の撤回、カピチュレーションの漸進的廃止を目指す。

奴隷制廃止を大義名分として南下政策開始、ゴードンらを雇う(1876年時点でアフリカの植民地は11%のみ。教科書に載っているアフリカ分割図は19世紀末の極めて短期間に実現したものであることを頭の片隅に入れておく。)

エチオピアと交戦するが、敗北。

治世の特徴として「ムハンマド・アリーとイブラーヒームは和魂洋才、イスマーイールは脱亜入欧」と本書では評されている。

諮問的役割の議会を開設。

69年スエズ運河開通式典、ウージェニー后、墺帝フランツ・ヨーゼフ、ゾラ、イプセンらが出席。

この式典がエジプトの国力のピークとなり、以後国運は一方的な下り坂となる。

アメリカ南北戦争中、南部を代替する綿花ブームが起こったが、戦争終結でバブル崩壊。

75年、教科書でも出てくるように、エジプト政府所有の国際スエズ運河株をディズレーリ政権の英国に売却。

以後は、財政危機⇒公債暴落⇒債務不履行⇒英仏による財政管理という、お定まりのパターン。

78年には英国人が財務大臣、フランス人が公共事業大臣になる「ヨーロッパ内閣」が成立。

純然たる外国人が自国の大臣になるんですよ。

明治日本も一歩間違えればこうなっていたのかと考えると背筋が寒くなる・・・・・。

79年英仏に反抗してイスマーイールは廃位される。

その治世下にエジプトは半植民地的、従属的地位に転落してしまったが、ここで彼とイラン最後のシャー、ハーレヴィ2世との共通点が指摘される。

綿花あるいは石油輸出を担保にした外債で急激な近代化を推進しようとして失敗したことが挙げられている。

ちなみにパーレヴィの最初の妻はイスマーイールの孫ファウジア(後述ファルーク国王の妹)だそうである。

ここで、とりあえずは近代化に成功したとされる明治日本と失敗したエジプトの相違が述べられる。

まず為政者の判断ミス。

三国干渉などで難しい譲歩をあえて行った日本に対し、エジプトは40年の外交的敗北で専売制廃止と関税自主権喪失を余儀なくされた。

イスマーイールは外債依存を進めたが、日本は極めて慎重であり、国の存亡をかけた日露戦争でも十分な配慮をして外債を募集した。

また君主専制の弊で非合理的な政策決定がなされる。

ムハンマド・アリーとイブラーヒーム以外は実質的統治者として有能とは言い難いとされていて、やはり君主は明治日本のように国家統合の要として君臨し、具体的政策課題については調停的役割のみを果たすべきだったと思った。

加えて、ヨーロッパに近接し、地政学的経済的重要性があったことが仇となる。

日本は「極東」にあって助かった。

トルコ・チェルケス系君主がアラブ系エジプト人の上に君臨するという輸入王朝ゆえにナショナリズムの核になり切れなかったことも大きい。

さらに1870年代初め、日本の人口は3480万人だったのに対し、エジプトは520万、この人口差が中産階級の厚みに直結したとされている。

ヨーロッパの圧迫への反抗者として、まずアフガーニーが現れる。

名とは異なりアフガン人ではなくイラン人だが、シーア派であることを隠すために名乗ったと思われる。

セポイの乱、タバコ・ボイコット運動を経験、イスラム思想家としてパリ・カイロで活動。

続いてムハンマド・アブドゥフ。

エジプト人でサラフィーヤ(サラフ=先人・祖先)と言われる復古主義者だが、ワッハーブ派のような単純な原理主義ではなく、イスラムと近代文明・合理主義の調和を主張。

イスマーイールの後、子のタウフィークが副王即位(1879~92年)。

軍内アラブ系士官のリーダーとしてアフマド・オラービー大佐が台頭。

軍内対立が深まり、内閣交代で一時沈静化、しかし英仏が副王支持を表明するとさらに急進化し民族主義政権が成立、オラービーが軍事大臣就任。

治安悪化を懸念した英仏が艦隊派遣、内閣は交代するがオラービーは留任。

偶発的衝突から反外国人暴動勃発、第二次グラッドストーン内閣による本格派兵で鎮圧、オラービーはスリランカへ流刑、エジプトは軍事占領され事実上の植民地へ。

エジプト側では、穏健立憲主義者とイスラム改革派、副王処刑と共和政を主張する急進的士官の間での分裂が顕著。

今でこそ民族主義的先駆者とされているオラービーだが、当初は英国の軍事占領を招いたとしてその評価は低かったという。

エジプト支配下スーダンではオラービーの反乱と同時にマフディーの乱勃発。

その指導者ムハンンマド・アフマドは85年死去するが、これでマフディが滅んだわけではなく、最終的な鎮圧は1898年、それを遂行したキッチナー軍と仏マルシャン遠征隊とが衝突したのがファショダ事件。

1883~1907年「総領事兼代表」の肩書きで実質クローマー卿の統治。

経済・財政立て直しでは成果を挙げるが、しかし当然工業化や教育軽視との批判も受け、エジプト軍も解体、綿花モノカルチャー化もさらに進行。

1892年タウフィーク死去、子のアッバース・ヒルミー2世即位、しかし第一次大戦で2世がトルコ・同盟国側に加担する気配を示すと、エジプトを完全に保護領化し、叔父のフセイン・カーメルをスルタンの称号で即位させ、1517年以来のオスマン朝との関係が完全に断絶する。

戦後「1919年革命」と呼ばれる民族主義の高揚を受けて、英国も譲歩、1917年即位していたカーメルの兄弟フワードに1922年国王を名乗らせ、独立を与えるが、スエズ駐留権、エジプト防衛権、スーダンの実質英国統治継続、外国権益・マイノリティ保護を留保。

独立の中心となったワフド党だが、サアド・ザグルール、ナハスらの政治指導は安定せず、専制志向の国王とワフド党の対立、ワフド党内部の党派対立、非力な非ワフド党内閣の倒壊、英国の内政介入続く。

36年、英・エジプト同盟条約でスエズ以外から英軍撤兵、ほぼ完全独立達成、フワードの子ファルーク即位、彼が実質最後の国王。

第二次大戦では親英派・親枢軸派が対立。

42年「二月四日事件」、英軍は王宮包囲、反英である以上に反独的だったナハスの首相就任を強要。

王権もワフド党も権威を失墜させる。

英大使ランプソンは一時の勝利を占めるが、しかし長い目で見て、これがエジプト革命を誘発する一因となり、スエズ動乱で大英帝国の息の根を止めることになる。

28年ムスリム同胞団、39年頃自由将校団という次代の主役になる二つの反体制団体が生まれる。

45年アラブ連盟結成、本部カイロ。

48年第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、兵器・補給の不備もあり新興国家イスラエルに惨敗、王の権威失墜。

ファルーク王はサウジのアブドゥルアジズ王、ヨルダンのアブダッラー王のように戦後の荒波を乗り切ることは出来なかった。

52年エジプト革命、ナギブ、ナセルら自由将校団による王政打倒。

亡命する王と握手してナギブが「陛下、二月四日事件まで軍は国王と王室に忠誠を誓っていました。だが、その後の状況によってこうした行動をとらざるを得なかったのです」と語ると、ファルーク王は「わかっている。あなた方の任務は困難なものだ。エジプトを統治すること、それは容易なことではない」と答えたという。

戦後の中東地域では、ひとまず君主国が穏健派、共和国が急進派と色分けできる。

で、革命で君主制が倒れる度に、その国が急進派諸国に加わる。

第一波がこの52年エジプト革命、第二波が58年イラク革命、第三波が69年リビア革命、第四波が79年イラン革命。

最後のイラン革命については、前3者がアラブ民族主義と親社会主義を指導理念とするものだったのに対し、異質なイスラム原理主義に基づく革命で、イスラム復古主義が始めて「体制」になった点でその衝撃は大きかった。

よって、後述するが、その少し前にエジプトが急進派から穏健派に変化したことは極めて大きな意味を持つことになった。

革命後、旧政治家の排除が進み、53年には名目的に在位していたフワード2世を廃し、共和政に移行、改革が急進化すると共に革命勢力の分裂が進行、ナギブは非政治的な軍を主張したが、ナセルは軍が改革を主導し政治に直接関与する体制を唱える。

結局ナギブは権力闘争に敗れ、56年ナセルが実に99.9%の得票で大統領就任。

これをどう解釈するか。

数年前、「アラブの春」と言われた民主化運動が最高潮に達していた時期に、湾岸産油国についてのメモ その2の記事で、私は以下のように書きました。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

実際、本書の記述を読んでも、これはナセルら軍部が国民投票で賛成を強要したというより、国民自身が王政打倒革命の興奮に流されたとの印象がどうしても拭えない。

ナセル政権は、55年バグダード条約機構への参加拒否、同年バンドン会議に参加、徐々に反西側路線に傾斜、56年スエズ運河国有化、第二次中東戦争に(政治的に)勝利、アラブ民族主義の雄としてその威信は絶頂に達し、58年にはシリアと合邦、国名を「アラブ連合共和国」とする。

しかし、61年にはシリア脱退、62年イエメン内戦介入も失敗、産業国有化政策による経済困難も加わる。

私は新自由主義的な市場主義イデオロギーには根本的疑問を持っているが、硬直した社会主義的政策にはやはり問題があったと言わざるを得ない。

67年第三次中東戦争で惨敗、失意のうちに死去、70年サダトが大統領就任。

このサダトは、本書での紹介紙数は少ないが、個人的にはナセルよりはるかに偉大な存在に思える。

71年政権内親ソ派を排除、続いてソ連軍事顧問団も追放、その上で73年第四次中東戦争で善戦、そしてさらに偉大なことに77年アラブの宿敵イスラエルを訪問し、和解への第一歩を印す。

不幸にして81年サダトは暗殺され、ムバラクが大統領になり、2011年民衆デモで打倒されるまで政権を維持することになります。

その後、ムスリム同胞団系の大統領が罷免され、軍部が主導して秩序回復に乗り出しているようですが、これを「軍が民主主義を再び抑圧している」と見なすのは皮相な見解に思えてならない。

正確には、「自由を得て、ありとあらゆる方向に分裂した民意が相互に激しい党派対立を引き起こし、収拾がつかなくなって、(少なからぬ民衆の支持を得た)軍が乗り出した」と言うべきではないでしょうか。

さすがの私も「ムバラク政権があのまま何の変化も無く続くことがベストだったんだ」とは言いません。

しかし急進的な民主化を無条件で善として、その急激な変化をただ無邪気に歓迎するなんていう態度はどうしても取れません。

ましてや、外部からの軍事力を含む圧力で民主化を慫慂するなんて、ろくでもない事態になるに決まっている。

米国によるイラク戦争と中東民主化構想が十年余りを経て、一体何をもたらしたか。

大量破壊兵器開発を実は放棄していたサダム・フセイン政権を打倒した結果、凄まじい内戦で恐るべき数の死者を出した挙句、安定した体制はできず、宗派対立は激化する一方。

その暴力と無秩序の中から生まれた超過激派が国土の多くを占拠。

あの「イスラム国」の野蛮と暴虐は、イラン・ヒズボラ・ハマス・タリバンなどこれまで存在したイスラム原理主義の体制・組織も顔色なからしめる程だ。

私が上記リンク記事で、ひとまずは肯定的に捉えたカダフィ政権崩壊後のリビアですら、収拾のつかない内戦の瀬戸際にいるようだ。

状況はイラク戦争後に根本的に悪化している。

私は、イラク戦争後、以前は持っていた「アメリカの保守派への漠然たる敬意」を完全に捨て去りました。

というか、むしろあんな国に真の保守派など存在しないと確信するようになりました。

そしてその米国の政策を支持した日本も同様だと考えます。

 

 

400ページほどもあるが、読みやすく、量的には負担に感じない。

(しかしメモを取るのはきつかった。メモからこの記事を作成する際にもだるくなって少し省略しました。)

日本や他国の事例との比較・比喩が多く、理解を助ける。

登場人物の個性を的確に描写し、事件を十分整理された形で叙述しており、マイナー国の通史にありがちな、データ羅列的で退屈な記述の弊を免れている。

ただ、定価5040円は高い。

個人で買うのは躊躇する。

図書館で在庫があれば借りて下さい。

巻末の広告で本書と同シリーズの『バングラデシュの歴史』『レバノンの歴史』『ネパール全史』『南アフリカの歴史』が載っているが、特に前二者は機会があれば何とか読んでみたいと思いました。

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