万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年1月11日

鳥海靖 『逆賊と元勲の明治』 (講談社学術文庫)

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1970年代に書かれた文章をまとめて、1982年に単行本として刊行。

それを2011年に文庫化したもの。

 

第一章「『逆賊』たちの明治」。

明治31(1898)年の西郷隆盛銅像除幕式から筆を起こす。

西南戦争で挙兵した罪を許された結果だが、その西南戦争の死者は約1万3000人、戊辰戦争は1万人以下。

これに対して、アメリカ南北戦争の戦死者は60万人以上、パリ・コミューンでの死者は約3万人。

欧米に比べ、日本では政治的変動に伴う流血の少なさと反対者への寛容が目立つ。

(以下引用、一部表記上の変更あり。)

周知のように、明治の政治家たちは、しばしばフランスを、現代風の言葉を使えば「反面教師」としてとらえていた。それは必ずしも一般に信じられているように、フランスの共和政治の原理が天皇を中心とする日本の「国体」に相容れない、と考えたばかりではない。そうした政治原理の問題としてよりも、むしろ、フランスにおける極端な専制支配と、その反動としての革命による残忍な報復的流血のくりかえしが、絶えまない政治的不安定と人民の困苦を招いたとする、フランスの歴史的現実に対する厳しい評価にもとづくものであった。

欧米視察旅行から帰ってまもない明治6(1873)年11月、大久保利通は「立憲政体に関する意見書」を起草したが、その中で彼は、「夫レ民主ノ政[共和政治]ハ天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(あま)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者」として、原理的には、民主共和政治の大きなメリットを認めていたが、同時に、「然レドモ、其弊党ヲ樹テ類ヲ結ビ、漸次土崩頽廃ノ患モ亦測カル可カラズ」と、その弊害をも指摘し、その具体的事例として、「往時仏蘭西ノ民主政治、其兇暴残虐ハ君主擅制ヨリ甚ダシト」と述べ、「名実相背ムクニ及ンデハ亦此クノ如シ、是亦至良ノ政体ト謂フ可カラズ」と、日本が民主共和政治を採用することを否定するのである。

フランスを「反面教師」とみたのは、単に政府側の政治家ばかりではない。フランス思想に強い影響を受け、急進的な自由民権論者として活躍した「東洋のルソー」中江兆民ですら、決してフランスの政治を日本が学ぶべき理想のものとは考えなかった。彼はフランスよりもむしろイギリス流の「君民共治」の政治を、日本が学ぶべき範としているのである。また、自由党総理板垣退助も、明治15~16年フランスを巡遊してその「政治社会の遅れ」を痛感し、それまで観念的に頭に描いていた「自由民権の母国」というバラ色の期待を裏切られたせいでもあろうか、それ以後は、日本の議会政治・政党政治のモデルとすべきはイギリスであって、フランスではない、ということを再三強調する。

「余は英・仏二国の近世史を読む毎に、未だ嘗て深く感慨を催さずんばあらず。夫れ反動より反動に移り、極端を去て極端に投じたるは、豈仏国の惨状を窮めし所以に非ずや。路易(ルイ)十四世より十六世に至る迄、極端の専制に反動したる民主党は大逆無道の極端に投じ、此極端に反動して奈破列翁(ナポレオン)の帝政を促し、奈破列翁一敗して査列斯(チャールズ[シャルル10世?])王の圧虐は殆んど又復讐的の極端に走り、此極端の圧虐も亦革命の反動を以て之を迎へられ、一起一仆、王党破れ、貴族敗れ、民主党亦破れずと謂ふを得ず。只此れ惨澹たる反動の禍乱は革命を以て革命に継ぎ、社会は終始極端の復讐に蹂躙せられて、民人其難に耐へざりしは実に寒心す可き一大鑒戒に非ずや。英国は之に反して、反動無きに非ずと雖も常に極端に抵(いた)らず、故に王者全敗せず、貴族全敗せず、民権亦全敗せざるの間に於て、能く数者の精神を色潤して、円滑なる立憲政体を挙ぐるに至りし者は、是れ或は偶然の結果ならんと雖も、至理の則る可きは自ら其間に存する也」(「東京日日新聞」明治二十八年十一月二十三日)

ここでも板垣は、フランスにおける反対派に対する苛酷な報復的弾圧のくりかえしを、何より厳しく批判しているのである。大久保にしろ中江にしろ板垣にしろ、共和政治下の不安定極まりないフランスの政治社会を実地に観察して来た人々である。それだけに彼等のフランス批判は、書物の上だけの単なる観念的な理解を超えて説得性が大きかった。

 

明治新政府が上記のような報復的措置を避けた結果登用された旧幕臣などの「逆賊」として、榎本武揚、大鳥圭介、林董(ただす)、陸奥宗光らが挙げられる。

明治維新を西欧の市民革命と比べて「不徹底な革命」と見なす史観が(特に本書刊行時には)一般的であったが、著者はそれに疑問を呈する。

旧支配層の温存という傾向は見られるものの、フランス革命でも土地の10%ほどの所有権が移動しただけであり、しかも結果として富農とブルジョワがそれを得ただけとの研究を指摘。

別の事例として著者が挙げるのは、議会開設時に「超然主義」を掲げた黒田清隆内閣に、外相として大隈重信(改進党の事実上の党首)が、逓相として後藤象二郎(民党の大同団結派の首領)が入閣していたこと。

これはすごい盲点だ。

高校日本史教科書で別々の箇所で出てくるので気付きにくいが、大隈外相の不平等条約改正交渉は、この黒田内閣時代である。

専制的・権威主義的とのイメージがある明治政府ではあるが、隈板内閣や原敬内閣以前でも政党関係者が堂々と入閣し、政策決定に参加していた。

一方、ほぼ同時期、ビスマルク時代のドイツでは議会第一党で与党的立場の国民自由党にも閣僚ポストを一つも与えることはなかった。

ただ、本書からやや離れた余談になりますが、この時の大隈の交渉自体はあまり芳しい評価ではないようだ。

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)の記述では、外国人判事の大審院任用問題による国内からの「弱腰」批判があったが、大隈・黒田は、もし欧米各国が改正拒否の態度を取った場合には、条約の一方的破棄も辞さない強硬路線を突っ走ろうとして、冷静なリアリストの伊藤に深刻な懸念を与えるという描写だったと思う。

明治十四年の政変の経緯を考えれば、大隈と黒田は犬猿の仲でも不思議ではないと思うのだが、妙なところで意見が一致するもんです。

黒田清隆という人もよくわからない。

大久保利通亡き後、薩派の最有力者のはずだが、どうもパッとしない印象があります。

同輩で同じ元勲・元老の松方正義が、首相としてはともかく蔵相としての功績は明らかなのに比して、黒田の方はこの大隈条約改正交渉問題を始めとして何やら精彩に欠ける。

酔って妻を斬殺したなんてとんでもない噂もありますが、一度、手頃できちんとした伝記を出してもらって、人物の全体像を把握したい気がします。

話を戻すと、明治日本は天皇の権威の下、党派対立を抑制して集団指導体制を確立、反対派をも取り込む「柔構造」(坂野潤治『明治維新』参照)を持ち、近代化に伴う諸困難を乗り越えることに概ね成功したと本書では評価されている。

 

以後はメモをかなり省略。

第二章「維新の『舵』を取った指導者たち」。

大久保、西郷、木戸のいわゆる「維新の三傑」が、1871年廃藩置県を成し遂げた後、大久保、木戸は岩倉使節団に加わり、西郷は留守政府に残る。

留守政府では、井上馨、大隈重信、山県有朋ら実務的政治家によって、72年学制、太陽暦採用、国立銀行条例、73年地租改正条例、徴兵令と西洋化政策が推進。

それに違和感を持つ西郷と薩摩士族に司法予算を削られたことに反発する江藤新平が合流して征韓論政変に至る。

中短期的には内治安定を重視した大久保が正しいが、長期的には、安易な西洋化政策に没入することが国民精神に与える悪影響について西郷が持った懸念が当たっている。

 

第三章「明治の政界に君臨した両雄」。

伊藤博文と山県有朋。

山県は武断派とのイメージがあるが、第一議会では隠忍して予算を通し、衆議院解散をせず。

一方、伊藤は首相時代、三度も解散を行っている。

第二次伊藤内閣(1892~96年)は自由党と連携、以後「一枚岩の藩閥vs政党」という図式から政界の縦断的対立へ移行。

1901年桂内閣成立以後、伊藤・山県ら「元勲」が「元老」と呼ばれるようになる。

権力意志強固な山県に対し、政局上の技術では楽観的で見通しの甘い面もある伊藤。

「山県系官僚閥」は大正時代にまで影響力を持ったが、伊藤は確固とした派閥をつくることが出来ず、井上馨・陸奥宗光・西園寺公望・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・末松謙澄ら配下・盟友にも強固な団結は無かった。

 

第四章「草創期の政党指導者たち」。

藩閥の中でも、長州閥が比較的まとまりがあったのに対し、薩摩は大久保暗殺後結束力が乏しく、普通「薩摩閥」ではなく「薩派」呼ばれる(佐々木隆『明治人の力量』参照)。

大久保死後の伊藤博文・井上馨・大隈重信ら開明派三人組が明治十四年の政変で分裂。

下野した大隈の改進党の一派が犬養毅・尾崎行雄。

日本の近代政党史においては、1955年の保守合同・自由民主党結成まで、ずーっと自由党=政友会系と改進党=民政党系の二つの流れがあった。

犬養は、五・一五事件で暗殺された時は政友会政権の首相だったが、キャリアから言えばほぼ常に改進党系だったことをチェック。

(改進党→1896年進歩党→98年憲政党→同年憲政本党→1910年立憲国民党《→13年桂太郎・加藤高明らの立憲同志会に参加せず》→22年革新倶楽部と来て、25年政友会に合流。)

一方、自由党の派閥としては、土佐派=板垣退助・片岡健吉・植木枝盛、関東派=大井憲太郎・星亨、東北派=河野広中、九州派=松田正久。

自由党の「破壊党」から「為政党」への脱皮を星亨が主導。

星は腐敗政治家の典型のように言われることもあるし、それも事実無根とまでは言えないんでしょうが、自由党を責任政党として、日本の政党政治を確立した業績は正当に評価されるべきなんでしょうね。

 

第五章「明治天皇の元勲たち」。

肯定的あるいは否定的な天皇制研究に対して、著者は天皇個人の言動研究の重要性を指摘。

後に深い信頼関係で結ばれた明治帝と伊藤博文だが、明治初年伊藤が急進的開明派のように見られていた時期には、明治帝は伊藤にかなりの反感を抱いていた。

森有礼や陸奥宗光など欧化政策の主張者に対しても同様。

これも、西郷と同様に、長い目で見れば天皇の懸念が当たっていると思える。

で、この章のタイトルの元勲・元老はすべて憶えましょう。

長州の伊藤博文・山県有朋・井上馨、薩摩の黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌、プラス桂太郎と西園寺公望。

明治の首相は第一次大隈内閣の4ヵ月間を除けば、西郷・大山以外の上記7人からすべて選ばれた。

 

第六章「隠された日露開戦反対論」。

山県の日露開戦慎重論を紹介した後、非現実的煽動によって動かされ、主戦論一色となった世論をそれと対比。

外交問題をめぐる論議では、おおむね政府側が、国際社会における日本の立場をよくわきまえて、慎重で列国協調的な姿勢を示すのに対し、反政府派・野党側が、「自主外交」や「国民外交」を唱えて政府の「弱腰」を攻撃し、新聞などジャーナリズムがこれに同調して対外強硬の主張をもって国民を煽り立てる、というのが、日本の近代史にあらわれるお定まりのパターンのようである。

こういう視点もなく、「民主主義が未成熟だったから、戦前日本は戦争を防げなかった」などという固定観念で歴史を読んでも、何一つ得るところは無いでしょう。

 

付章「長老たちと『危機の時代』」。

政治家の若返り待望論への疑問と、老人支配、「老害」批判の一面性について述べる。

これらの主張者がよく引き合いに出す、明治指導者の若さだが、当時の寿命の短さや、彼らが幕末以来得てきた重厚な経験を考えると、「若さ」からくる活力が明治指導者の成功要因とは考えられないと指摘。

昭和期に入ると、政治腐敗が糾弾され革新願望が高まり、そうした世論に動かされて、少壮幕僚・青年将校・革新官僚ら若年層が既存指導者を突き上げ、政策決定を歪め、日本は戦争への道を突き進むことになった。

危機の時代にこそ、威勢のいい若年政治家ではなく、老練な利害調整型リーダーが必要とされるはずだ、と著者は主張。

 

 

あまり期待していなかったが、かなり面白い。

視点が実に興味深いし、通史的知識の確認にも使える。

良書です。

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