万年初心者のための世界史ブックガイド

2015年1月29日

バーナード・ショー 『人と超人』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:59

戯曲とは思えぬ長さ。

表題から想像されるのとは全然異なり、女性嫌悪の男が結婚に追い込まれるという喜劇だが、途中で登場人物が入れ替わり、抽象的思想劇が挿入される。

正直、わけがわからない。

とりあえず普通に読めるが、その背後の意味を探るところまでは到底行かない。

単純なストーリー展開と生き生きした登場人物の描写以外に文学の魅力を感じ取れない私の限界からして、やはり本書も愉しく読めるという作品ではない。

古典文学をこなそうとする素人にとっては、19世紀から20世紀に入ると途端にハードルが上がる。

まあ高校世界史教科書に(本文ではなく作品一覧表にですが)載っている作品を読了したというだけで良しとしましょう。

2015年1月27日

トルストイ 『イワン・イリッチの死』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:58

平俗な生き方をしてきた裁判所判事が思い病に罹り、苦痛と死への恐怖に直面して本源的孤独を思い知らされ、死の直前遂に自省と諦観に導かれるまでを描いた中編小説。

主人公が思いかけず献身的な下男の行動に救いを見い出す描写が印象的。

これは間違いなく傑作だ。

わかりやすい上に、様々なことを考えさせてくれる。

自分自身を振り返っても、何か苦難に直面した時にしか、多少とも生き方を真剣に考えないし、何気ない日々の生活がどれほど貴重でありがたいものかもわからない。

そうした教訓を空疎な綺麗事といささかも感じさせない見事な筆力。

素晴らしい。

文学初心者にも十分良さが感じ取れる。

本書の何十倍の長さの『戦争と平和』より、深い感慨を持って読み終えた。

それはそれで問題なんでしょうが、事実だから仕方が無い。

強く、強くお勧めします。

是非お読み下さい。

2015年1月21日

山口直彦 『新版 エジプト近現代史  ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 16:45

「世界歴史叢書」というシリーズの中の一冊。

著者は日本貿易振興機構の方。

まず中東地域でエジプトという国が持つ重みについて述べる。

非西欧世界の近代化政策では明治維新に先行もしくは平行するものとしてオスマン朝のタンジマート、清朝の洋務運動、タイのチュラロンコーン改革などが挙げられるが、それらの中でエジプトのムハンマド・アリーの改革が、時期的に見れば一番早いと書いてあって、そう言われればそうかと、盲点を突かれた気になった。

ムハンマド・アリーについては、以前清水新書の伝記を紹介したことがある。

細かな経緯はさておき、アルバニア人非正規部隊副隊長から身を起こし、輸入王朝を創始したこと、事実上の独立支配権を持っていても、エジプトの(宗)主権はあくまでオスマン朝にあったことはチェック。

この前後のオスマン朝スルタンは、セリム3世(1789~1807年)、マフムト2世(1808~39年)、アブデュルメジト1世(1839~61年)。

1831年第一次シリア戦役(本書では日清戦争に例えられている)時トルコ側には顧問としてあの大モルトケがいた。

ムハンマド・アリーの長子イブラーヒームは優れた将才の持ち主で、父と異なり明確に反オスマン思想とエジプト人意識を持っていた。

アナトリア中部にまで進攻するが、ロシアに続き英仏も介入、33年に総督の資格でシリア領有を認められる。

39年アデンを英国が占領、33年ウンキャル・スケレッシ(ヒュンキャル・イスケレシ)条約でロシアのボスポラス・ダーダネルス海峡自由航行権が認められたことに英国は警戒の念を持ち、オスマン帝国保全策を取る一方、エジプトの専売制・保護貿易政策とも衝突。

この時期、イギリスは自由党内閣(30~34年グレイ、34・35~41年メルボーン)で外交はほぼパーマストンの指導下にあった。

39年第二次シリア戦役、モルトケの進言はまたも受け入れられず、オスマン軍惨敗、その最中マフムト2世死去。

(ちなみにこのマフムト2世在位中の領土喪失として「アルジェリア 1830」とあるのを見て、「これは地方支配者が事実上分離独立したとか、そういうことかな」などと考え、少し後でフランスのアルジェリア出兵の史実を忘れていたことに気付き、かなりショックを受けました。やはり苦手カテゴリで全く関連書を読まない期間を長くつくると駄目ですね。)

教科書から受けるイメージとは異なり、この二度のシリア戦争でオスマン帝国は軍事的には滅亡の瀬戸際まで追い詰められていたと本書では記されている。

もしオスマン朝が百年早く滅んでいて、中東主要地域がムハンマド・アリー朝エジプトによって統一されていたらどうなったか、というのは興味深い歴史のイフです。

しかし、実際にはエジプトは英国の虎の尾を踏んだ形になり、40年英普墺露のロンドン条約、親エジプトの仏は完全に孤立(これはエジプトにとっての日清戦争と三国干渉と例えられている)。

英海軍の海上封鎖圧力で41年エジプト・スーダンの総督職世襲のみが認められる。

英国はギュルハネ勅令以後のオスマン朝を保全する政策を取り、フランスはエジプトを支持。

幕末日本では英は薩長支持、仏は幕府支持で、既存体制と現状打破勢力のどちらを支持するかが、中東と日本ではちょうど逆になっている。

戦後、ムハンマド・アリーは綿花栽培奨励、工業化推進政策を進めるが、40年の譲歩でオスマン朝と同様の貿易協定や軍備制限を受け入れていたため、大きな挫折を経験、国営工場設置・近代的教育設備建設も後退する。

1848年イブラーヒーム死去、続いて49年ムハンマド・アリーも死去。

イブラーヒームの甥アッバース・ヒルミー1世即位(~54年)。

その治世下で近代化政策は後退、クリミア戦争では旧敵トルコを支援、最期は何者かによって謀殺される。

この人物について多くの史家は反啓蒙主義的で退嬰的だとして批判的だが、後に一方的欧化政策と経済的門戸開放で植民地化を招いた後継者よりも先見の明があったとも言えるとして、著者は一定の評価を与えている。

叔父ムハンマド・サイード即位(1854~63年)。

積極財政で近代化政策推進。

このサイードの元家庭教師だったのが有名なレセップス。

外交官でナポレオン3世皇后ウージェニーの縁戚。

54年スエズ運河開削権が、破格に運河会社側有利の条件でレセップスに認められる。

「ポート・サイド」という街はこのサイードに因むもの。

続いて甥イスマーイール(イブラーヒームの子)即位(1863~79年)。

67年「総督」ではなく「副王」の称号をオスマン朝に認めさせる。

40年ロンドン条約のうち、非政治的条項と軍備制限の撤回、カピチュレーションの漸進的廃止を目指す。

奴隷制廃止を大義名分として南下政策開始、ゴードンらを雇う(1876年時点でアフリカの植民地は11%のみ。教科書に載っているアフリカ分割図は19世紀末の極めて短期間に実現したものであることを頭の片隅に入れておく。)

エチオピアと交戦するが、敗北。

治世の特徴として「ムハンマド・アリーとイブラーヒームは和魂洋才、イスマーイールは脱亜入欧」と本書では評されている。

諮問的役割の議会を開設。

69年スエズ運河開通式典、ウージェニー后、墺帝フランツ・ヨーゼフ、ゾラ、イプセンらが出席。

この式典がエジプトの国力のピークとなり、以後国運は一方的な下り坂となる。

アメリカ南北戦争中、南部を代替する綿花ブームが起こったが、戦争終結でバブル崩壊。

75年、教科書でも出てくるように、エジプト政府所有の国際スエズ運河株をディズレーリ政権の英国に売却。

以後は、財政危機⇒公債暴落⇒債務不履行⇒英仏による財政管理という、お定まりのパターン。

78年には英国人が財務大臣、フランス人が公共事業大臣になる「ヨーロッパ内閣」が成立。

純然たる外国人が自国の大臣になるんですよ。

明治日本も一歩間違えればこうなっていたのかと考えると背筋が寒くなる・・・・・。

79年英仏に反抗してイスマーイールは廃位される。

その治世下にエジプトは半植民地的、従属的地位に転落してしまったが、ここで彼とイラン最後のシャー、ハーレヴィ2世との共通点が指摘される。

綿花あるいは石油輸出を担保にした外債で急激な近代化を推進しようとして失敗したことが挙げられている。

ちなみにパーレヴィの最初の妻はイスマーイールの孫ファウジア(後述ファルーク国王の妹)だそうである。

ここで、とりあえずは近代化に成功したとされる明治日本と失敗したエジプトの相違が述べられる。

まず為政者の判断ミス。

三国干渉などで難しい譲歩をあえて行った日本に対し、エジプトは40年の外交的敗北で専売制廃止と関税自主権喪失を余儀なくされた。

イスマーイールは外債依存を進めたが、日本は極めて慎重であり、国の存亡をかけた日露戦争でも十分な配慮をして外債を募集した。

また君主専制の弊で非合理的な政策決定がなされる。

ムハンマド・アリーとイブラーヒーム以外は実質的統治者として有能とは言い難いとされていて、やはり君主は明治日本のように国家統合の要として君臨し、具体的政策課題については調停的役割のみを果たすべきだったと思った。

加えて、ヨーロッパに近接し、地政学的経済的重要性があったことが仇となる。

日本は「極東」にあって助かった。

トルコ・チェルケス系君主がアラブ系エジプト人の上に君臨するという輸入王朝ゆえにナショナリズムの核になり切れなかったことも大きい。

さらに1870年代初め、日本の人口は3480万人だったのに対し、エジプトは520万、この人口差が中産階級の厚みに直結したとされている。

ヨーロッパの圧迫への反抗者として、まずアフガーニーが現れる。

名とは異なりアフガン人ではなくイラン人だが、シーア派であることを隠すために名乗ったと思われる。

セポイの乱、タバコ・ボイコット運動を経験、イスラム思想家としてパリ・カイロで活動。

続いてムハンマド・アブドゥフ。

エジプト人でサラフィーヤ(サラフ=先人・祖先)と言われる復古主義者だが、ワッハーブ派のような単純な原理主義ではなく、イスラムと近代文明・合理主義の調和を主張。

イスマーイールの後、子のタウフィークが副王即位(1879~92年)。

軍内アラブ系士官のリーダーとしてアフマド・オラービー大佐が台頭。

軍内対立が深まり、内閣交代で一時沈静化、しかし英仏が副王支持を表明するとさらに急進化し民族主義政権が成立、オラービーが軍事大臣就任。

治安悪化を懸念した英仏が艦隊派遣、内閣は交代するがオラービーは留任。

偶発的衝突から反外国人暴動勃発、第二次グラッドストーン内閣による本格派兵で鎮圧、オラービーはスリランカへ流刑、エジプトは軍事占領され事実上の植民地へ。

エジプト側では、穏健立憲主義者とイスラム改革派、副王処刑と共和政を主張する急進的士官の間での分裂が顕著。

今でこそ民族主義的先駆者とされているオラービーだが、当初は英国の軍事占領を招いたとしてその評価は低かったという。

エジプト支配下スーダンではオラービーの反乱と同時にマフディーの乱勃発。

その指導者ムハンンマド・アフマドは85年死去するが、これでマフディが滅んだわけではなく、最終的な鎮圧は1898年、それを遂行したキッチナー軍と仏マルシャン遠征隊とが衝突したのがファショダ事件。

1883~1907年「総領事兼代表」の肩書きで実質クローマー卿の統治。

経済・財政立て直しでは成果を挙げるが、しかし当然工業化や教育軽視との批判も受け、エジプト軍も解体、綿花モノカルチャー化もさらに進行。

1892年タウフィーク死去、子のアッバース・ヒルミー2世即位、しかし第一次大戦で2世がトルコ・同盟国側に加担する気配を示すと、エジプトを完全に保護領化し、叔父のフセイン・カーメルをスルタンの称号で即位させ、1517年以来のオスマン朝との関係が完全に断絶する。

戦後「1919年革命」と呼ばれる民族主義の高揚を受けて、英国も譲歩、1917年即位していたカーメルの兄弟フワードに1922年国王を名乗らせ、独立を与えるが、スエズ駐留権、エジプト防衛権、スーダンの実質英国統治継続、外国権益・マイノリティ保護を留保。

独立の中心となったワフド党だが、サアド・ザグルール、ナハスらの政治指導は安定せず、専制志向の国王とワフド党の対立、ワフド党内部の党派対立、非力な非ワフド党内閣の倒壊、英国の内政介入続く。

36年、英・エジプト同盟条約でスエズ以外から英軍撤兵、ほぼ完全独立達成、フワードの子ファルーク即位、彼が実質最後の国王。

第二次大戦では親英派・親枢軸派が対立。

42年「二月四日事件」、英軍は王宮包囲、反英である以上に反独的だったナハスの首相就任を強要。

王権もワフド党も権威を失墜させる。

英大使ランプソンは一時の勝利を占めるが、しかし長い目で見て、これがエジプト革命を誘発する一因となり、スエズ動乱で大英帝国の息の根を止めることになる。

28年ムスリム同胞団、39年頃自由将校団という次代の主役になる二つの反体制団体が生まれる。

45年アラブ連盟結成、本部カイロ。

48年第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、兵器・補給の不備もあり新興国家イスラエルに惨敗、王の権威失墜。

ファルーク王はサウジのアブドゥルアジズ王、ヨルダンのアブダッラー王のように戦後の荒波を乗り切ることは出来なかった。

52年エジプト革命、ナギブ、ナセルら自由将校団による王政打倒。

亡命する王と握手してナギブが「陛下、二月四日事件まで軍は国王と王室に忠誠を誓っていました。だが、その後の状況によってこうした行動をとらざるを得なかったのです」と語ると、ファルーク王は「わかっている。あなた方の任務は困難なものだ。エジプトを統治すること、それは容易なことではない」と答えたという。

戦後の中東地域では、ひとまず君主国が穏健派、共和国が急進派と色分けできる。

で、革命で君主制が倒れる度に、その国が急進派諸国に加わる。

第一波がこの52年エジプト革命、第二波が58年イラク革命、第三波が69年リビア革命、第四波が79年イラン革命。

最後のイラン革命については、前3者がアラブ民族主義と親社会主義を指導理念とするものだったのに対し、異質なイスラム原理主義に基づく革命で、イスラム復古主義が始めて「体制」になった点でその衝撃は大きかった。

よって、後述するが、その少し前にエジプトが急進派から穏健派に変化したことは極めて大きな意味を持つことになった。

革命後、旧政治家の排除が進み、53年には名目的に在位していたフワード2世を廃し、共和政に移行、改革が急進化すると共に革命勢力の分裂が進行、ナギブは非政治的な軍を主張したが、ナセルは軍が改革を主導し政治に直接関与する体制を唱える。

結局ナギブは権力闘争に敗れ、56年ナセルが実に99.9%の得票で大統領就任。

これをどう解釈するか。

数年前、「アラブの春」と言われた民主化運動が最高潮に達していた時期に、湾岸産油国についてのメモ その2の記事で、私は以下のように書きました。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

実際、本書の記述を読んでも、これはナセルら軍部が国民投票で賛成を強要したというより、国民自身が王政打倒革命の興奮に流されたとの印象がどうしても拭えない。

ナセル政権は、55年バグダード条約機構への参加拒否、同年バンドン会議に参加、徐々に反西側路線に傾斜、56年スエズ運河国有化、第二次中東戦争に(政治的に)勝利、アラブ民族主義の雄としてその威信は絶頂に達し、58年にはシリアと合邦、国名を「アラブ連合共和国」とする。

しかし、61年にはシリア脱退、62年イエメン内戦介入も失敗、産業国有化政策による経済困難も加わる。

私は新自由主義的な市場主義イデオロギーには根本的疑問を持っているが、硬直した社会主義的政策にはやはり問題があったと言わざるを得ない。

67年第三次中東戦争で惨敗、失意のうちに死去、70年サダトが大統領就任。

このサダトは、本書での紹介紙数は少ないが、個人的にはナセルよりはるかに偉大な存在に思える。

71年政権内親ソ派を排除、続いてソ連軍事顧問団も追放、その上で73年第四次中東戦争で善戦、そしてさらに偉大なことに77年アラブの宿敵イスラエルを訪問し、和解への第一歩を印す。

不幸にして81年サダトは暗殺され、ムバラクが大統領になり、2011年民衆デモで打倒されるまで政権を維持することになります。

その後、ムスリム同胞団系の大統領が罷免され、軍部が主導して秩序回復に乗り出しているようですが、これを「軍が民主主義を再び抑圧している」と見なすのは皮相な見解に思えてならない。

正確には、「自由を得て、ありとあらゆる方向に分裂した民意が相互に激しい党派対立を引き起こし、収拾がつかなくなって、(少なからぬ民衆の支持を得た)軍が乗り出した」と言うべきではないでしょうか。

さすがの私も「ムバラク政権があのまま何の変化も無く続くことがベストだったんだ」とは言いません。

しかし急進的な民主化を無条件で善として、その急激な変化をただ無邪気に歓迎するなんていう態度はどうしても取れません。

ましてや、外部からの軍事力を含む圧力で民主化を慫慂するなんて、ろくでもない事態になるに決まっている。

米国によるイラク戦争と中東民主化構想が十年余りを経て、一体何をもたらしたか。

大量破壊兵器開発を実は放棄していたサダム・フセイン政権を打倒した結果、凄まじい内戦で恐るべき数の死者を出した挙句、安定した体制はできず、宗派対立は激化する一方。

その暴力と無秩序の中から生まれた超過激派が国土の多くを占拠。

あの「イスラム国」の野蛮と暴虐は、イラン・ヒズボラ・ハマス・タリバンなどこれまで存在したイスラム原理主義の体制・組織も顔色なからしめる程だ。

私が上記リンク記事で、ひとまずは肯定的に捉えたカダフィ政権崩壊後のリビアですら、収拾のつかない内戦の瀬戸際にいるようだ。

状況はイラク戦争後に根本的に悪化している。

私は、イラク戦争後、以前は持っていた「アメリカの保守派への漠然たる敬意」を完全に捨て去りました。

というか、むしろあんな国に真の保守派など存在しないと確信するようになりました。

そしてその米国の政策を支持した日本も同様だと考えます。

 

 

400ページほどもあるが、読みやすく、量的には負担に感じない。

(しかしメモを取るのはきつかった。メモからこの記事を作成する際にもだるくなって少し省略しました。)

日本や他国の事例との比較・比喩が多く、理解を助ける。

登場人物の個性を的確に描写し、事件を十分整理された形で叙述しており、マイナー国の通史にありがちな、データ羅列的で退屈な記述の弊を免れている。

ただ、定価5040円は高い。

個人で買うのは躊躇する。

図書館で在庫があれば借りて下さい。

巻末の広告で本書と同シリーズの『バングラデシュの歴史』『レバノンの歴史』『ネパール全史』『南アフリカの歴史』が載っているが、特に前二者は機会があれば何とか読んでみたいと思いました。

2015年1月18日

レッシング 『賢人ナータン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 13:02

著者はゲーテ、シラーより一世代年長で、生没年は1729~1781年。

古典主義文学の代表者の一人。

これは史劇。

十字軍時代のイェルサレムを舞台に、イスラム史上屈指の名君サラディンと、富裕で寛仁・賢明なユダヤ商人ナータンと、テンプル騎士団員でサラディンの捕虜となったキリスト教徒騎士の三者を主要登場人物として、宗教的寛容の重要性を説いた作品。

表現・形式と主張・内容とも非常にわかりやすく、読みやすい。

ストーリー展開もてきぱきしており全く退屈せず、分量的にも一日で読める。

18世紀の作品だが、現代人でも全く抵抗無く読了でき、物語にすぐさま入り込むことができる。

予想していたよりも、かなり良かった。

初心者でも十分読みこなせる良作。

2015年1月14日

ゴーリキイ 『どん底』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:38

世界文学の一つの頂点たる19世紀ロシア文学に続けて、この人の名が昔の教科書では出てました。

その代表作がこれ。

下層社会の悲惨な実情を描いた戯曲。

登場人物が多く、一貫した筋に乏しいので雑然とした印象が拭えない。

第三幕の終わりの流れには迫力があり、末尾第四幕ラストシーンは衝撃的ではある。

学生時代以来の再読ですが、当時と同じく、今読んでもさして面白いものではない。

巡礼者でルカという名の人物が印象的かつ好意的に描かれているような気もするが、一方で信仰に捕らわれない自由な人間を礼賛するような科白もある。

しかしそのような幻覚に身を任せた結果、ツァーリズムとは及びもつかないほど恐ろしい抑圧が人民の名の下にロシアに加えられ、それによって作者自身も破滅させられたわけです。

政治的なことに引き付けて文学作品の価値を決定するのは基本的に馬鹿げてますし、大昔の「ソヴィエト文壇の巨匠」という評価の反動で、逆に一顧だにしなくなるのも間違いでしょうが、現在必読の古典と言えるかは躊躇する。

「面白くなくてもネームバリューだけで読んでおくべき本」もあるが、本書はもはやそれに当てはまらないかなという気がします。

2015年1月11日

鳥海靖 『逆賊と元勲の明治』 (講談社学術文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:49

1970年代に書かれた文章をまとめて、1982年に単行本として刊行。

それを2011年に文庫化したもの。

 

第一章「『逆賊』たちの明治」。

明治31(1898)年の西郷隆盛銅像除幕式から筆を起こす。

西南戦争で挙兵した罪を許された結果だが、その西南戦争の死者は約1万3000人、戊辰戦争は1万人以下。

これに対して、アメリカ南北戦争の戦死者は60万人以上、パリ・コミューンでの死者は約3万人。

欧米に比べ、日本では政治的変動に伴う流血の少なさと反対者への寛容が目立つ。

(以下引用、一部表記上の変更あり。)

周知のように、明治の政治家たちは、しばしばフランスを、現代風の言葉を使えば「反面教師」としてとらえていた。それは必ずしも一般に信じられているように、フランスの共和政治の原理が天皇を中心とする日本の「国体」に相容れない、と考えたばかりではない。そうした政治原理の問題としてよりも、むしろ、フランスにおける極端な専制支配と、その反動としての革命による残忍な報復的流血のくりかえしが、絶えまない政治的不安定と人民の困苦を招いたとする、フランスの歴史的現実に対する厳しい評価にもとづくものであった。

欧米視察旅行から帰ってまもない明治6(1873)年11月、大久保利通は「立憲政体に関する意見書」を起草したが、その中で彼は、「夫レ民主ノ政[共和政治]ハ天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(あま)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者」として、原理的には、民主共和政治の大きなメリットを認めていたが、同時に、「然レドモ、其弊党ヲ樹テ類ヲ結ビ、漸次土崩頽廃ノ患モ亦測カル可カラズ」と、その弊害をも指摘し、その具体的事例として、「往時仏蘭西ノ民主政治、其兇暴残虐ハ君主擅制ヨリ甚ダシト」と述べ、「名実相背ムクニ及ンデハ亦此クノ如シ、是亦至良ノ政体ト謂フ可カラズ」と、日本が民主共和政治を採用することを否定するのである。

フランスを「反面教師」とみたのは、単に政府側の政治家ばかりではない。フランス思想に強い影響を受け、急進的な自由民権論者として活躍した「東洋のルソー」中江兆民ですら、決してフランスの政治を日本が学ぶべき理想のものとは考えなかった。彼はフランスよりもむしろイギリス流の「君民共治」の政治を、日本が学ぶべき範としているのである。また、自由党総理板垣退助も、明治15~16年フランスを巡遊してその「政治社会の遅れ」を痛感し、それまで観念的に頭に描いていた「自由民権の母国」というバラ色の期待を裏切られたせいでもあろうか、それ以後は、日本の議会政治・政党政治のモデルとすべきはイギリスであって、フランスではない、ということを再三強調する。

「余は英・仏二国の近世史を読む毎に、未だ嘗て深く感慨を催さずんばあらず。夫れ反動より反動に移り、極端を去て極端に投じたるは、豈仏国の惨状を窮めし所以に非ずや。路易(ルイ)十四世より十六世に至る迄、極端の専制に反動したる民主党は大逆無道の極端に投じ、此極端に反動して奈破列翁(ナポレオン)の帝政を促し、奈破列翁一敗して査列斯(チャールズ[シャルル10世?])王の圧虐は殆んど又復讐的の極端に走り、此極端の圧虐も亦革命の反動を以て之を迎へられ、一起一仆、王党破れ、貴族敗れ、民主党亦破れずと謂ふを得ず。只此れ惨澹たる反動の禍乱は革命を以て革命に継ぎ、社会は終始極端の復讐に蹂躙せられて、民人其難に耐へざりしは実に寒心す可き一大鑒戒に非ずや。英国は之に反して、反動無きに非ずと雖も常に極端に抵(いた)らず、故に王者全敗せず、貴族全敗せず、民権亦全敗せざるの間に於て、能く数者の精神を色潤して、円滑なる立憲政体を挙ぐるに至りし者は、是れ或は偶然の結果ならんと雖も、至理の則る可きは自ら其間に存する也」(「東京日日新聞」明治二十八年十一月二十三日)

ここでも板垣は、フランスにおける反対派に対する苛酷な報復的弾圧のくりかえしを、何より厳しく批判しているのである。大久保にしろ中江にしろ板垣にしろ、共和政治下の不安定極まりないフランスの政治社会を実地に観察して来た人々である。それだけに彼等のフランス批判は、書物の上だけの単なる観念的な理解を超えて説得性が大きかった。

 

明治新政府が上記のような報復的措置を避けた結果登用された旧幕臣などの「逆賊」として、榎本武揚、大鳥圭介、林董(ただす)、陸奥宗光らが挙げられる。

明治維新を西欧の市民革命と比べて「不徹底な革命」と見なす史観が(特に本書刊行時には)一般的であったが、著者はそれに疑問を呈する。

旧支配層の温存という傾向は見られるものの、フランス革命でも土地の10%ほどの所有権が移動しただけであり、しかも結果として富農とブルジョワがそれを得ただけとの研究を指摘。

別の事例として著者が挙げるのは、議会開設時に「超然主義」を掲げた黒田清隆内閣に、外相として大隈重信(改進党の事実上の党首)が、逓相として後藤象二郎(民党の大同団結派の首領)が入閣していたこと。

これはすごい盲点だ。

高校日本史教科書で別々の箇所で出てくるので気付きにくいが、大隈外相の不平等条約改正交渉は、この黒田内閣時代である。

専制的・権威主義的とのイメージがある明治政府ではあるが、隈板内閣や原敬内閣以前でも政党関係者が堂々と入閣し、政策決定に参加していた。

一方、ほぼ同時期、ビスマルク時代のドイツでは議会第一党で与党的立場の国民自由党にも閣僚ポストを一つも与えることはなかった。

ただ、本書からやや離れた余談になりますが、この時の大隈の交渉自体はあまり芳しい評価ではないようだ。

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)の記述では、外国人判事の大審院任用問題による国内からの「弱腰」批判があったが、大隈・黒田は、もし欧米各国が改正拒否の態度を取った場合には、条約の一方的破棄も辞さない強硬路線を突っ走ろうとして、冷静なリアリストの伊藤に深刻な懸念を与えるという描写だったと思う。

明治十四年の政変の経緯を考えれば、大隈と黒田は犬猿の仲でも不思議ではないと思うのだが、妙なところで意見が一致するもんです。

黒田清隆という人もよくわからない。

大久保利通亡き後、薩派の最有力者のはずだが、どうもパッとしない印象があります。

同輩で同じ元勲・元老の松方正義が、首相としてはともかく蔵相としての功績は明らかなのに比して、黒田の方はこの大隈条約改正交渉問題を始めとして何やら精彩に欠ける。

酔って妻を斬殺したなんてとんでもない噂もありますが、一度、手頃できちんとした伝記を出してもらって、人物の全体像を把握したい気がします。

話を戻すと、明治日本は天皇の権威の下、党派対立を抑制して集団指導体制を確立、反対派をも取り込む「柔構造」(坂野潤治『明治維新』参照)を持ち、近代化に伴う諸困難を乗り越えることに概ね成功したと本書では評価されている。

 

以後はメモをかなり省略。

第二章「維新の『舵』を取った指導者たち」。

大久保、西郷、木戸のいわゆる「維新の三傑」が、1871年廃藩置県を成し遂げた後、大久保、木戸は岩倉使節団に加わり、西郷は留守政府に残る。

留守政府では、井上馨、大隈重信、山県有朋ら実務的政治家によって、72年学制、太陽暦採用、国立銀行条例、73年地租改正条例、徴兵令と西洋化政策が推進。

それに違和感を持つ西郷と薩摩士族に司法予算を削られたことに反発する江藤新平が合流して征韓論政変に至る。

中短期的には内治安定を重視した大久保が正しいが、長期的には、安易な西洋化政策に没入することが国民精神に与える悪影響について西郷が持った懸念が当たっている。

 

第三章「明治の政界に君臨した両雄」。

伊藤博文と山県有朋。

山県は武断派とのイメージがあるが、第一議会では隠忍して予算を通し、衆議院解散をせず。

一方、伊藤は首相時代、三度も解散を行っている。

第二次伊藤内閣(1892~96年)は自由党と連携、以後「一枚岩の藩閥vs政党」という図式から政界の縦断的対立へ移行。

1901年桂内閣成立以後、伊藤・山県ら「元勲」が「元老」と呼ばれるようになる。

権力意志強固な山県に対し、政局上の技術では楽観的で見通しの甘い面もある伊藤。

「山県系官僚閥」は大正時代にまで影響力を持ったが、伊藤は確固とした派閥をつくることが出来ず、井上馨・陸奥宗光・西園寺公望・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・末松謙澄ら配下・盟友にも強固な団結は無かった。

 

第四章「草創期の政党指導者たち」。

藩閥の中でも、長州閥が比較的まとまりがあったのに対し、薩摩は大久保暗殺後結束力が乏しく、普通「薩摩閥」ではなく「薩派」呼ばれる(佐々木隆『明治人の力量』参照)。

大久保死後の伊藤博文・井上馨・大隈重信ら開明派三人組が明治十四年の政変で分裂。

下野した大隈の改進党の一派が犬養毅・尾崎行雄。

日本の近代政党史においては、1955年の保守合同・自由民主党結成まで、ずーっと自由党=政友会系と改進党=民政党系の二つの流れがあった。

犬養は、五・一五事件で暗殺された時は政友会政権の首相だったが、キャリアから言えばほぼ常に改進党系だったことをチェック。

(改進党→1896年進歩党→98年憲政党→同年憲政本党→1910年立憲国民党《→13年桂太郎・加藤高明らの立憲同志会に参加せず》→22年革新倶楽部と来て、25年政友会に合流。)

一方、自由党の派閥としては、土佐派=板垣退助・片岡健吉・植木枝盛、関東派=大井憲太郎・星亨、東北派=河野広中、九州派=松田正久。

自由党の「破壊党」から「為政党」への脱皮を星亨が主導。

星は腐敗政治家の典型のように言われることもあるし、それも事実無根とまでは言えないんでしょうが、自由党を責任政党として、日本の政党政治を確立した業績は正当に評価されるべきなんでしょうね。

 

第五章「明治天皇の元勲たち」。

肯定的あるいは否定的な天皇制研究に対して、著者は天皇個人の言動研究の重要性を指摘。

後に深い信頼関係で結ばれた明治帝と伊藤博文だが、明治初年伊藤が急進的開明派のように見られていた時期には、明治帝は伊藤にかなりの反感を抱いていた。

森有礼や陸奥宗光など欧化政策の主張者に対しても同様。

これも、西郷と同様に、長い目で見れば天皇の懸念が当たっていると思える。

で、この章のタイトルの元勲・元老はすべて憶えましょう。

長州の伊藤博文・山県有朋・井上馨、薩摩の黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌、プラス桂太郎と西園寺公望。

明治の首相は第一次大隈内閣の4ヵ月間を除けば、西郷・大山以外の上記7人からすべて選ばれた。

 

第六章「隠された日露開戦反対論」。

山県の日露開戦慎重論を紹介した後、非現実的煽動によって動かされ、主戦論一色となった世論をそれと対比。

外交問題をめぐる論議では、おおむね政府側が、国際社会における日本の立場をよくわきまえて、慎重で列国協調的な姿勢を示すのに対し、反政府派・野党側が、「自主外交」や「国民外交」を唱えて政府の「弱腰」を攻撃し、新聞などジャーナリズムがこれに同調して対外強硬の主張をもって国民を煽り立てる、というのが、日本の近代史にあらわれるお定まりのパターンのようである。

こういう視点もなく、「民主主義が未成熟だったから、戦前日本は戦争を防げなかった」などという固定観念で歴史を読んでも、何一つ得るところは無いでしょう。

 

付章「長老たちと『危機の時代』」。

政治家の若返り待望論への疑問と、老人支配、「老害」批判の一面性について述べる。

これらの主張者がよく引き合いに出す、明治指導者の若さだが、当時の寿命の短さや、彼らが幕末以来得てきた重厚な経験を考えると、「若さ」からくる活力が明治指導者の成功要因とは考えられないと指摘。

昭和期に入ると、政治腐敗が糾弾され革新願望が高まり、そうした世論に動かされて、少壮幕僚・青年将校・革新官僚ら若年層が既存指導者を突き上げ、政策決定を歪め、日本は戦争への道を突き進むことになった。

危機の時代にこそ、威勢のいい若年政治家ではなく、老練な利害調整型リーダーが必要とされるはずだ、と著者は主張。

 

 

あまり期待していなかったが、かなり面白い。

視点が実に興味深いし、通史的知識の確認にも使える。

良書です。

2015年1月8日

ジョイス 『ダブリンの市民』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:27

『ユリシーズ』はまず読めないし、『フィネガンズ・ウェイク』は読むと発狂するだろうから、ひとまずこれを手に取ってみた。

どんな難解な内容かと身構えたが、これはとりあえず普通に読めます。

しかし、面白いかどうかは・・・・・・。

ダブリンにおける、様々な人々の人生の断片を描写した連作集。

それぞれの物語が何を意味し示唆しているのかは、訳者解題を読んでもすっきりしない。

アイルランド独立運動、階級社会、カトリック・プロテスタント間の宗教紛争、男女差別などの問題がほの見えるが、私を含む素人は大体の雰囲気を感じるのが精一杯か。

これもとりあえず著名作家のジョイスを一冊こなしたという事実を作るだけで終わります。

私程度ではそれで十分。

2015年1月6日

片野次雄 『世宗大王のコリア史  ハングル創製と李朝文化』 (彩流社)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 16:33

韓流時代物ドラマの影響からか、ちょっと前まで雑学風の韓国史が雨後の筍の如く出ていた。

一般論として隣国の歴史を知ることは悪くないと思うが、あまり読みたいものはない。

これはその種の本とは違って、やや本格的なもので、著者は他に『戦乱三国のコリア史』『善隣友好のコリア史』『李朝滅亡』『日韓併合』などの通史物もあるが、あまり食指が動かないのは同様。

朝鮮史の人物についての単独の伝記は少ないので、これを読んでみた。

まずタイトルで、廟号に「大王」と付けるのに、すごい違和感あり。

韓国では普通の言い方らしいですが。

内容自体は特にどうということもない。

在位1418~1450年。

中国では明の永楽帝が在位、日本では室町幕府が安定期から動揺期に移り、ヨーロッパでは百年戦争など中世末期の混乱とルネサンスの始まりという時期。

世宗は太祖李成桂、2代定宗、3代太宗を継ぐ4代目。

この人は高校世界史でも名が出る。

と言うか、初代李成桂以外では、末期の高宗を除けば、出てくるのはこの人だけか。

教えられるのは訓民正音の制定者としてだが、他にも農業振興、天文学支援、銅活字作製、火砲改良の治績がある。

対外的には女真族を攻撃し北方国境を拡張、1419年には倭寇鎮圧を目的として対馬を襲撃(応永の外寇)。

応永と言えば、高校日本史で出てくる1399年の応永の乱もありますね。

この乱で敗死した大内義弘も朝鮮との交易で勢力を蓄えた。

日朝貿易は乃而[ないじ]浦(薺[せい]浦)・富山浦(釜山)・塩浦(蔚山)の三浦[さんぽ]で盛んに行われたが、1510年三浦の乱で衰える。

世宗の死後、子の文宗、孫の端宗が相次いで即位するが、文宗の弟世祖が端宗から位を奪う混乱があった。

 

 

ごく平凡な出来。

やや違和感を与えるトーンの記述もあり、特に読むべき本とも思えない。

2015年1月5日

モリエール 『守銭奴』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:52

吝嗇極まるアルパゴンと息子・娘の恋を絡めた喜劇。

テンポよくスッと読めて、現代日本人でも十分に面白さは味わえるはず。

ただ、ラストはやや拍子抜けの感があるか。

誰でも理解できる傑作とは言わないが、素人でも十分読むに値する名作です。

ただ、『人間ぎらい』ほどの深みは無いかも。

まあ数をこなしただけ良しとします。

2015年1月4日

チェーホフ 『退屈な話  六号病室』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:25

意識してチェーホフを一作でも多く読もうとしていた時があって、これもそれで手に取った。

だがこれに関しては相当苦しかった。

眠気を堪えて何とか読み通したが、何の印象も受けなかった。

まあこちらが悪いんでしょうが。

今は改訳された版が収録されているようなので、いつか再読しなければと思っているところです。

2015年1月3日

コレット 『牝猫』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 13:03

『青い麦』の後で、確か読んだ。

うん、間違いない。

読んだ、読んだ。

それだけ。

何にも書くことが無い。

世界文学全集の類によく収録されている作家だし、何も記憶に残ってなくても、読んだのは無駄ではなかったと信じたい。

2015年1月1日

トルストイ 『クロイツェル・ソナタ』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:26

『戦争と平和』の通読がきつ過ぎたので、もっと手軽にトルストイの作風に触れることのできる本はないかと考え、これを手に取った。

嫉妬のために妻を殺害した夫の独白を通じて、性的ストイシズムの思想を展開した作品。

とても短いので読むのは楽。

ごく気軽な感想を言えば、作者の主張があまりに一本調子で面食らってしまい、こういう問題はもう少しユーモアやペーソスを交えた微妙な言い回しを用いてくれないものかなあ、そうじゃないと説得力も生まれないんじゃないかなあ、と思ってしまった。

しかし一方で、自分自身徳義漢ぶるつもりは全くなく、そんな資格は微塵もないのだが、広義の性の商品化と恋愛至上主義が、こうまで営利目的で組織的に完備されてしまった現代社会では、こういう極論も貴重なのかなとも感じたことも事実である。

文章の密度は高く、一気に読ませる筆力はさすが文豪と、翻訳を通じても十分感じられる。

トルストイ入門としては非常に良いのでは。

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