万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年12月5日

君塚直隆 『ジョージ五世  大衆民主政治時代の君主』 (日経プレミアシリーズ)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 08:03

『ヴィクトリア女王』(中公新書)と同じ著者。

イギリスの君主名は、高校世界史では中国王朝の皇帝名と並んで、かなりの数が出てくるが、それでもジョージ1世のハノーヴァー朝成立以後は、(ジョージ3世と?)ヴィクトリア女王を例外にして消えてしまう。

立憲君主制(議院内閣制)が定着し、政治的実権が失われていくからでしょう。

本書の主人公ジョージ5世も高校世界史では全く触れられない人物。

ヴィクトリア女王の孫で、第一次世界大戦前夜から戦間期にかけて(1910~1936年)在位した英国王。

皇太子アルバート・エドワードの次男として1865年誕生。

兄の死で王位継承者第二位に。

ヴィクトリア女王の長女がドイツ皇帝フリードリヒ3世(ヴィルヘルム1世の子)と結婚、その両者との間に生まれたのが有名なヴィルヘルム2世。

すなわち、ジョージ5世とはいとこの関係。

別のいとこが露ニコライ2世と西アルフォンソ13世に嫁いでいる。

ジョージ5世自身の第一子はエドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドリュー・パトリック・デイヴィッドと名付けられ、愛称は末尾の「デイヴィッド」。

次男はアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージで愛称「バーティ」。

青年時代にバジョット『イギリス国制(憲政)論』を学び、自由党党首グラッドストンに親しむが、双方ともヴィクトリア女王自身は気に入らないものだったという。

語学と外交には苦手意識を持つ。

1901年ヴィクトリア女王崩御、ジョージの父エドワード7世即位。

王朝名を女王の夫でエドワード7世の父であるアルバート公の実家ザクセン・コーブルク・ゴータの英語名サックス・コーバーク・ゴータに変更。

ウィンザー朝への改名は高校教科書にも出てくるが、この時点での変更は無視されている。

似た事例として、マリア・テレジア女帝以降のオーストリアも、単なるハプスブルク家から、夫の出身を加えた、ハプスブルク・ロートリンゲン家に変わったはず。

エドワード7世は、即位同年に自治領となったオーストラリアを訪問、同時にニュージーランド、カナダへも立ち寄る。

1905年インドも訪問し、人種偏見に囚われない立場から現地住民との融和を模索する。

(ヴィクトリア女王は自身の即位50周年記念式典で、ハワイのリリウオカラーニ王女をエスコートすることを拒もうとした従弟のベルギー王レオポルド2世[コンゴでの圧制で国際的非難を受けた]を叱責し、エドワード7世もヴィルヘルム2世の人種的発言に不快感を持っていたという。)

完全独立には反対だが、インドにも自治権を与えるべきとの考えを抱いたという。

1905年ノルウェーがスウェーデンより平和的に独立、初代国王ホーコン7世と末の妹が結婚。

1910年ポルトガル共和革命、マヌエル2世は英国に亡命。

第一次世界大戦前には、ヨーロッパにおいても共和国は、スイス・フランスとこのポルトガルの3ヶ国のみである。

(サンマリノのようなミニ国家を除く。オランダは独立時にはネーデルラント連邦共和国だがオラニエ家が総督として君臨、ウィーン会議後は正式に立憲王国になっている。)

二度の世界大戦を経て、君主制を維持している国家は激減しましたが、これを「進歩」と呼ぶべきなのか、個人的には全く疑問です。

現在も立憲君主国家である、英・北欧・ベネルクス諸国と共和制になった大陸国家の歩みを比較すれば、そう考えざるを得ない。

英国の政権は、1895~1902年第三次ソールズベリー保守党内閣の長期政権の後、1902~05年バルフォア(保守)、1905~08年キャンベル=バナマン(自由)、1905~16年アスキス(自由・15年以降は挙国一致)、1916~22年ロイド=ジョージと変遷。

1906年労働党が結成され、議会にも進出。

1908年アスキス自由党内閣、ロイド=ジョージが蔵相、チャーチルが内相。

(チャーチルは1900年保守党員として政界入り、1904年自由党に移り、1924年保守党復帰。)

1909年不動産の相続税を増税する、いわゆる「人民予算」を提出。

煽情的な臭いのある内容に、地主貴族だけでなく、中産階級にも反対少なからず。

国王エドワードとジョージも不快感を持つ。

1910年総選挙で、自由党275議席、保守党273。

「人民予算」自体は貴族院を通過。

同年、再度の総選挙で自由・保守両党とも272で同数、労働党42、アイルランド国民党84の支持で自由党政権存続。

さらに1911年議会法(議院法)が成立。

予算・課税法案は下院通過のみで成立、それ以外の法案でも下院で三会期通過すれば成立すると規定。

加えて下院の任期を7年から5年に短縮。

下院の貴族院に対する優位を定めた歴史的な法と言える。

1910年政界混乱のさなかエドワード7世死去、ジョージ5世即位。

死の前、エドワード7世は保守党党首バルフォア、貴族院の保守党指導者ランズダウンに慎重な対応を促しており、これが翌年の議会法成立に大きく影響した。

著者はこれを極めて賢明な妥協と政治的調停であるとし、それによって貴族制は完全な破壊を免れたと評価している。

私は、政治に民意を(特に直接的に)反映させることが無条件で善であるという考えを一切持たないので、この辺の歴史を読んで、「下院の優位」が確定して民主化が進展したので目出度し目出度し、などとは全く思わないのだが、まあとりあえずは著者の言う通りなんでしょう。

民主主義の進展は(私の考えでは、本当に残念ながら)歴史の必然でしょうから、それに真正面から反対してぶつかるより、妥協と譲歩で、救えるものは救った方がまだマシです。

英国は今でも世襲と勅選による上院を(おそらく世界で唯一)維持してるんだから、それだけでも大したもんです。

日本でも数年前まで衆参両院の多数政党が異なることから生じる、「ねじれ国会の弊害」がよく言及されていました。

その時私が密かに思っていたのは、「いやそんな問題より、そもそも二院制の起源は、君主の下に貴族の代表である上院と庶民の代表である下院が集って、正当な議論と妥協によって政治を運営することが最も賢明だと経験的に知ったことでしょう、そもそも両院とも民衆の選挙で選ぶんなら二院制の意味が無い、下院は人口比例で、上院は州や県ごとで選ぶというのも本質から外れてる、実現可能性はゼロでも本当なら華族身分を復活させて、その世襲議員と勲功によって勅選される議員から上院を形成し、それを国民が選ぶ下院と並立・均衡させるべきなんですよ」ということでした。

まあ自由や民主主義が疑いの無い絶対的正義とされて、それに関する議論が一切許されない世の中では、狂人扱いされるのがオチですから、このブログ以外では何も言いませんがね。

外交面では、エドワード7世は1903年フランスを訪問、これが翌1904年英仏協商の露払いの役を果たす。

アスキス内閣外相グレイは、ジョージ5世にも仏訪問を進言。

国王自身は「共和国ごとき」に気を遣う必要は無いとして反対。

しかし即位翌年1911年第二次モロッコ事件で英仏はさらに接近。

1914年4月、最初の公式訪問はやはりパリとなった。

3ヵ月後にはサラエボ事件が起こり、偶然とは言え、この訪問は英仏間の結束を固めるのに重要な意味を持つことになった。

大戦中には、海相チャーチルと衝突、国王が懸念を持った1915年ガリポリ作戦は失敗し、その不安は的中する。

アスキスは優れた内政家ではあるが、外交・軍事面では指導力が無く、自党のロイド=ジョージ派とも決裂。

1916年、国王は、アスキスとロイド=ジョージ、ボナ=ロウとバルフォア(保守党)、ヘンダーソン(労働党)間を調停、そしてロイド=ジョージ挙国一致内閣が成立する。

1917年ロシア革命、ニコライ2世の亡命について、世論の反応を懸念したジョージ5世は反対、昔はロイド=ジョージが反対したと考えられていたが、最近の研究では逆だという。

1918年第四回選挙法改正で男子普選実現(女性は30歳以上、28年第五回で男女同権)。

大戦後、米国が圧倒的力を現わしてくるが、ジョージ5世は「アメリカの世紀」への嫌悪感を持ち、ウィルソンについて「あの男には我慢ならん。なんて冷徹な教授様なんだ。鼻持ちならん!」と語り、「粗野なアメリカ人(ヤンキー)」が大嫌いだったという。

二度の大戦を乗り切る為にはやむを得ない部分が多々あったとは言え、米国との国柄の違いを無視し、自国を同じ「民主主義国」と定義し、両国間の「特別な関係」を誇るようになってから、英国の本格的衰退が始まったと思えるのは、たぶん私の気のせいではないはずです。

1922年ボナ=ロウ保守党内閣、総選挙では労働党が野党第一党となり、アスキス派・ロイド=ジョージ派に分裂した自由党の没落が始まる。

1923年ロウが健康問題から辞任すると、国王は保守党内の対立を表面化させず、カーズンではなくボールドウィンに大命降下。

1924年マクドナルド率いる労働党内閣成立にも冷静に対処、意外にも国王とマクドナルドとは厚い信頼関係に結ばれるようになった。

ただしソ連承認問題では対立し、いわゆるジノヴィエフ書簡事件によって第二次ボールドウィン内閣成立(1924~29年)。

このボールドウィンというのは何か「合間の人」という印象ですね。

マクドナルドやネヴィル・チェンバレンという著名政治家の間に組閣しており、イメージがすぐ思い浮かばない。

実際さしたる手腕を発揮した人ではないそうですが。

マクドナルドと違い、個人的関係ではジョージ5世とボールドウィンはしっくりいかなかったが、1925年外相オースティン・チェンバレンが締結したロカルノ条約には満足の意を表明。

28年大病を患い、死の淵から生還。

29年第二次マクドナルド労働党内閣、この年もちろん世界恐慌。

31年失業手当削減をめぐって内閣危機、国王はマクドナルドを励まし、挙国一致内閣成立をサポートする。

この国王の行動について、学者のラスキらは、国制違反との疑義を呈したが、著者によると、国王は独断で首相を決定したのではなく、主要三政党指導層との会談を経ているし、時機を見て総選挙を行うことも決めていたという。

その総選挙で挙国一致派与党が圧勝、この結果に国王は歓喜した。

同じ年、31年に日本は満州事変という危機に直面していた。

細かな点を見れば状況は全く違うし、単純比較はもちろんできないが、表面的に見れば日本では政友会・民政党の大連立政権構想が挫折し、軍部を抑制することが以後著しく困難となった。

この場合、日本とイギリスの運命を分けたのは、イギリスが日本より「民主的」だったからではなく、逆に、平時においては庶民が従順どころか上層指導層に徹底的に不満をぶつけ反抗しても、危機においては象徴的国王の下に国民全体が一致団結する傾向を何とか維持したことによるのではないかと思える。

31年ウェストミンスター憲章、英連邦(コモンウェルス)成立、32年オタワ会議、スターリング・ブロック形成、35年ボールドウィン挙国一致内閣。

36年1月ジョージ5世崩御。

長男デイヴィッドがエドワード8世として即位するが、離婚歴のあるアメリカ人女性シンプソン夫人と結婚しようとしたため、退位、次男ジョージ6世が即位(1936~52年)。

「デイヴィッド」なのに「エドワード8世」になったのは上で記した長い本名から。

かなり前の新聞のベタ記事で、チャールズ現皇太子が「チャールズ3世」という名では即位したくない(1世・2世のイメージが良くないので)と書かれていましたが、これも長い本名があるのかな。

エドワード8世は謹厳実直なジョージ5世とは正反対の性格で、しかももっと悪いことに親独派の傾向があったので、結果としてはこれで良かったんでしょう。

ジョージ6世が第二次世界大戦を乗り切り、娘のエリザベス2世現国王が在位60年以上になります。

ハロルド・ニコルソン(『外交』の著者)が書いた『ジョオジ五世伝』を小泉信三が今上陛下に献上し、立憲君主の手本として共に読まれたそうです。

本書の第一次大戦前の王室外交の叙述を見ると、古き良き時代への郷愁に囚われる。

私は一般論として、立憲君主制の方が共和制より優れた政治制度だと確信している。

なぜなら君主や貴族が存在し、非民主的な国家の方が、「真の共和国」には近いと考えるから(『レ・ミゼラブル』の記事参照)。

もちろん君主の中にはヴィルヘルム2世のような暗君もいる。

この従兄弟がジョージ5世に比して思慮分別に欠け、国を誤ったことは間違い無い。

しかしヴィルヘルム2世の何が悪かったのかと言えば、統一後ドイツに蔓延する低俗・軽薄で夜郎自大のナショナリズムを抑制するどころか、その尻馬に乗って攻撃的な外交を繰り広げ、自国を孤立させたからだ。

このナショナリズムの主動者は下層民衆を含めた社会全体であり、ごく一部の指導者がドイツの国政を歪め、破滅に導いたとは絶対に言えないはずだ(『ドイツ史を考える』『ナチズム』等参照)。

大所高所に立ち、しばしば世論に逆らっても必要な措置を取ることこそ必要だった。

それをしなかったヴィルヘルム2世は非民主的だったのではなく、民主的だったとしか言いようが無い。

父のフリードリヒ3世の治世が長く続いていればとも言われるが、君主の主体的行動の余地がますます狭まり、世論に逆らうことがほとんど不可能になった近代社会で、果たして何ができたか・・・・・。
日本も似たようなものだったじゃないですか(古川隆久『昭和天皇』)。

 

あるドイツ人記者が「ドイツは第一次世界大戦で君主制の時代を乗り越えたが、日本はまだその段階にある」と発言したのを読んだことがあります(別の人物が書いた文章で知ったことなので、正確ではないかもしれませんが)。

それを読んで、言うを憚る感情に囚われたのを覚えています。

1913年のドイツ帝国と1949年の連邦共和国を比べて、「少なくともカイザーはいなくなったんだから、間違いなくそれだけは進歩だ」というのは、私には異常な歴史観に思える。

二度の大戦もホロコーストも赤軍の暴虐も東半分の共産化も、そのための試行錯誤だとでも言うつもりか。

ナチズムを含め、近現代の世界を滅亡寸前まで追い込んだ邪悪と狂信は、前近代的な支配層の中からではなく、すべて大衆の真っ只中から生まれたものである。

私ならば、ナチズムの起源は1862年(ビスマルク)でも1871年(ドイツ帝国)でも、1517年(ルター)でもなく、1793年(ジャコバン独裁)と1871年(パリ・コミューン)だ、我々の祖先はそれを否認し鎮圧する誇り高い立場だったんだと言うでしょう。

 

 

『ヴィクトリア女王』に比べるとやや物足りない気もするが、標準的で手頃な伝記。

初心者が読むテキストとしては十分。

お勧めします。

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