万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年11月14日

引用文(西部邁12)

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西部邁『獅子たりえぬ超大国』(日本実業出版社)より。

 

いったい自由権とは何のことだろうか。たとえば私に、何かをなす自由の権利があるとすれば、これは相手にも、第三者にもある。となれば、人びとの自由が衝突する可能性が生じるのは明白である。
そこで、イギリスの自由主義者ジョン・スチュワート・ミルは、「他者危害の原則」を守るべきだという原理を打ち出した。他人に危害を与えないかぎり自由は許されるべきだというわけである。実は、この「他者危害の原則」こそがいまのアメリカ人が主張する自由権にたいする唯一の制限なのである。

これはいまやアメリカだけでなくて、現代人類に広く広まっている考え方で、「他人に迷惑をかけないかぎり、何をやってもいい」というわけである。・・・・・多くのビジネスマンが市場取引の自由をいい、他人に迷惑をかけるものでないかぎり、どんなものを売ろうがいいんだといっている。

そこで問題が起こる。迷惑あるいは危害とは何のことか。一つの例を挙げてみよう。たとえば十五歳の少女が渋谷の街角で中年男性相手に援助交際つまり少女買春をしているとする。この場合、いったい誰に迷惑をかけているか。体を売って小遣い銭を稼ぎたい少女はカネが入ったんだから満足、中年男は性的欲求不満をロリコン趣味も交えて満たしたので満足、ということで誰にも迷惑をかけていないようにみえる。

少女売春のような露骨な例でなくても、たとえばエログロの週刊誌でもマンガでも、あるいはテレビ番組でもいい。そういう商品を売りたい人が売って、買いたい人が買う。売った人は儲けが上がって満足、買った人は快楽を得て満足ということになってしまう。

ここでも諭吉の話を紹介すると、彼は卓抜なことをいった。「他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由とは何事だ、自分たちの子孫のことも考えてみよ。目の前にいる他人に迷惑をかけないからといって、自由や権利の名において勝手気ままをやっていたら、一〇年、二〇年、あるいは五〇年後に、社会がきわめて不道徳な状態になってしまう。すると、自分たちの子孫は不道徳の環境のなかでしか生まれ育てないし、死んでもゆけない」。道徳を守ってこその自由だと諭吉はいったのである。

他者危害の原則でもいいのだが、その他者には、いま生きている人間だけでなく、これから生まれるであろう人びとも含めなければならない。自分の行いが未来の人びとに悪影響を及ぼしはしないか、と考えてみるためには、過去を振り返り、どんなことを先祖が行ったときに、その時間的な影響として、自分がどういう状態におかれているのかについても検証しなければならない。このように、他者に未来の子孫を入れ、またそうするために過去の先祖たちのことも振り返るという歴史的な展望に立ってはじめて、自由についても論じることができる。

アメリカは、歴史感覚が乏しいから、そのことがわからない。したがって、アメリカの自由というものは、自分の儲けや快楽を目指すとき、その時間的な視野が現在に限定されたものになっている。それがアメリカの個人的自由主義の実情である。

・・・・・

自由論は民主主義論にも関係してくる。どういうルールを決めれば他者に迷惑をかけないですむかを問題にする場合、ではルールをいかに決めるかが問題になる。本来、歴史感覚のある国民であれば、「ルールの根本は歴史によってプレスクライブ(予め処方)される」と考えるのだが、アメリカは歴史という精神の土壌に欠けるため、結局は現在生きている人びとのあいだの多数決で事を決めざるをえなくなった。トックビルが「多数者のティラニー(専制政治)」とよんだのがそれである。アメリカでは多数決が社会ルールの唯一の決定基準になっているわけだ。

多数決とは何か。投票ということの意味を社会全般に及ぼせば、まさしく世論にほかならない。多数派の意見が反映されて、ある特定の多数決になり、世論が最高の基準だということになるわけである。そのことをトックビルは心配したのだが、自由主義者ジョン・スチュワート・ミルですら、トックビルの影響を受けてこういった。「アメリカでは“世論による支配”が行われている。これにイギリスも気をつけねばならない」と。

・・・・・

これは本当は恐ろしいことである。人びとがいったいどんな価値観を抱いているのか、どんな道徳をもっているのか、あるいは自分たちの価値観、規範が未来にどういう影響を及ぼすのか、他国からどういう評価、反応を受けるのか。そんなことにかかわりなく、多数決方式の決定を安定させることだけが国家の秩序の原則になったわけだから。

・・・・・

「自由」という日本語は(自由と訳したのは西周だが)なかなかおもしろい。英語でフリーダムとかリバティというが、それと日本語の自由が同じだと思ってはならない。自由とは読んで字のごとく、自らに由(ワケ)があるということだ。自分に根拠があるということである。

だとしたら、問題は自分とは何かということである。

二種類の自分がいたとしよう。一方の自分は、先祖の歴史の英知、伝統の精神に思いを馳せ、未来の子孫に何を残し得るか、伝えられるかを考えている自分。他方の自分は、過去も未来も考える気がなく、その場その場の欲望に身を任せる自分。常識というものがあれば、自分にワケがあるといっても、前者のワケでなければならない。

・・・・・厄介な抑圧から解き放たれることは人間にとって望ましいことだが、何のために解き放たれるのかというと、一言でいえば、真っ当な理想や目標、目的へ向けて進むために現在の制約から解き放たれるわけである。そうであるなら、どんな理想や価値観、あるいは目的を持つかを論じなければ、自由論が成り立つはずもない。

もちろん、この目的や目標は、けっして特定の指導者が設定するものであってはならない。かつてヒットラーやムッソリーニやスターリンが、そしていま金正日やブッシュや小泉が目的や目標をあれこれ掲げたが、それはとんでもない顛末になったし、今後もなるであろう。

重要なのは、「自由をいうときには、その目的や目標が本当に納得できる道徳にもとづいているのかを議論したり確認したりしなければならない」ということである。道徳といって言い過ぎならば、コモンセンス(常識)にもとづいているのかどうか、フランス語でいえば、ボンサンス(良識)に裏づけられているのかを、人びとが自分のなかで、また他人との交流のなかで、思索しなければならない。議論したり確認したりするプロセスがなければ、自由そのものは子孫のみならず、自分自身にも深刻な害を及ぼしかねない。

人は行動するとき、たいていはいくつかの選択肢のなかで迷っているものである。そのとき、Aを選ぶかBを選ぶかという選択のなかで、AとBのいずれが優れているか、いずれが劣っているかを判定しなければならない。仮にその判定を人間の欲望に任せるにしても、Aを選ぶ欲望の下劣さ、Bを選ぶ欲望の高貴さなどにかんして、真っ当な欲望が何であるのかを議論しなければならない。

そして、この議論の根拠は、またしても歴史へ差し戻される。・・・・・十九世紀までのアメリカには、歴史が浅いことにたいする彼らなりに劣等感があった。ヨーロッパにたいして、あるいは天皇制を戴いて二〇〇〇年の歴史を持つ日本にたいしても劣等感を抱いていた。ところが彼らは、武器、金銭そして技術において、現代文明を席巻するのに成功した。そしてとうとう左翼同士の内ゲバでソ連の集団主義を滅ぼし、個人主義の勝利を確認するやいなや、彼らは歴史なきことへの劣等感を投げ捨てて、むしろ歴史のないことこそが技術的、金銭的そして情報的な勝利の秘訣なのだと居直った。これが二〇世紀末の九〇年代に顕著に進んだことである。

そういう意味で、アメリカは現代のヴァンダル族だといわざるをえない。ゲルマンの一部族のヴァンダル族は、わけもわからぬまま、とにかくローマの古いものなら壊せと蛮行の限りを尽くした。そうした理由なき文化破壊のことをヴァンダリズムというが、昔からその傾向のあったアメリカが、とうとう二〇世紀の末に至って、現代のヴァンダル族としてこの地球に巨大な破壊を仕掛けている。

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