万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年11月12日

ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』 (日経BP社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:00

原著は1859年刊で、有名な「愚行権」および「他者危害の原則」という概念を打ち立てた自由主義思想の古典。

「他者に明白な危害を与えない限り、たとえ社会通念上愚かで自身に損害を与えるような行動でも、基本的にその人間の自由にさせるべきであり、社会や国家が干渉すべきでない」という考え方。

現代社会の我々も基本そう考えて日々暮らしているわけですが、これはどうなんですかねえ・・・・・・。

こうした一見無秩序で放任的な自由が、実は社会の進歩を促す貴重な前提になるというが、自由を保障しさえすれば(それを行使する多数者の資質を問わずとも)必ずより良い変化がもたらされるという進歩主義的考えに全くついていけない。

ミルには、多数派による(世論の)専制を批判する視点もあり、それは大いに説得的なのだが、形式主義的な自由こそ、そうした「多数の専制」を生み出す大前提になってしまっているのではないか。

ミル自身のように優れた少数者から多数者たる民衆に自由が拡がった時、一体何が起こるのか、19世紀の楽観的自由主義者が考えたのとは天と地ほど異なる事態が20世紀以降生じたと言うしかない。

19世紀の進歩的自由主義と20世紀の全体主義の関係は「原因と結果」です。

伝統と宗教から解放され自由を得た民衆が精神的アパシーに陥り、左右の狂信的イデオロギーに囚われ、ありとあらゆる愚行と惨劇を繰り広げて、人類自体を滅亡寸前まで追い込んだことが、ここ100年余りの世界史の実像です。

それを「進歩に逆らう一部の前近代的反動勢力によってもたらされた悲劇」と片付けるのは詭弁もいいところだ。

例えば本書には以下のような文章があります。

論争者がおかしうる罪悪のうち最悪のものは、自分と対立する意見をもつのは悪人、不道徳な人間だと決めつけることである。こうした誹謗中傷でとくに打撃を受けるのは、不人気な意見をもつ人である。一般に人数が少ないし影響力がなく、公平に扱われているかどうかに関心をもつのは当事者とその仲間だけだからである。そしてこの誹謗中傷という手段は、その性格上、主流の意見を攻撃する人は使うことができない。この手段を使えば、自分自身が危険にさらされることになるし、また、危険にさらされることなく使えたとしても、自分の主張が信用されなくなるだけである。一般的にいって、主流の意見に反対する側は、つとめて穏当な言葉を使い、不必要な刺激を注意深く避けることによってはじめて聞き手を獲得できるのであり、この基準を少しでも踏み外せば、ほぼかならず立場が悪くなる。これに対して主流の意見を主張する側は、反対意見に対して無制限に誹謗中傷を浴びせる方法で、反対意見を表明したり、反対意見に耳を傾けたりするのをためらわせることができる。したがって、真理と正義のためには、少数意見を主張する側が使う誹謗中傷より、主流の意見を主張する側が使う誹謗中傷の方がはるかに、抑制する必要が高い。たとえば、どちらかを選択する必要があるのであれば、宗教に対する暴言より無神論に対する暴言の方が、止めさせる必要性がはるかに高いといえるだろう。

「愚かで卑怯な多数者が、賢明で冷静な少数者を誹謗中傷という言論の暴力で圧迫する危険が常にある」という意味でなら、上記の文章は形式的には何ら反対するところが無い。

しかし実際の歴史に即して考えれば、自由主義思想の普及により国家と政府による抑制が徐々に取り除かれるや、一般民衆は伝統や身分や宗教による束縛を排除し、(上記の文章で言う)19世紀における主流意見の宗教擁護と少数意見の無神論の関係を逆転させ、後は自分達の気の向くまま、(共産主義からファシズム、人種主義的ナショナリズムから市場原理主義的新自由主義に至る)あらゆる種類の世俗的イデオロギーに基づく狂信を誹謗中傷によって広め、(ミルが必要と考えた)一切の自制を示すことなく、多数派世論の専制を完成させて現在に到っています。

19世紀の少数者(象徴的に言えば「無神論」、あるいは民主主義でも物質主義でも進歩主義でも何でもいい)を自由の美名の下に寛容に扱ったのはいいが、それらが異常増殖して20世紀に主流にのし上がった後は、この低劣・無残な新しい多数派は自由や寛容などには何の配慮も払わない存在に化していた。

その結果が、全体主義的独裁と自由の根底からの喪失であり、それを避けられた場合でも無秩序で低俗な放縦を自由と取り違えるような社会なのだから、やはり近代においてどこかで自由の制限があってしかるべきだったのではないか。

本書の末尾には佐藤光氏という方の解説が載っているのだが、これは非常に重要です。

「危害原則」は低劣な自由を正当化するものではないとした上で、

自分も権力者の一人であることを忘れ、「権力者」のわら人形を仕立てて血祭りに上げ、相互に寛容であるからこそ各人が気ままな生活を送れることを理解せず、言い分が通らないからといって、突然多数の通行人を殺傷し、議論はおろか、あいさつさえ嫌って、閉め切った部屋の中でインターネットにしがみつくといった人間たち・・・・・・

また「危害」をどう定義するかについては、

ミルが活躍した時代は、イギリスの全盛期ともいえるビクトリア朝時代に重なるが、当時のイギリスには、こうした「境目」を暗黙のうちに誰の疑問の余地もなく決める「醇風美俗」が、うっとうしいまでに分厚く残っていたものと思われる。ミルは、こうした「醇風美俗」、あるいは「常識」「慣習」「習慣」などを「世論」と一緒くたにして、しばしば激しく非難しているが、何が、公権力の介入を必要とする「危害」あるいは「犯罪」なのか、何が、単なる「弁証法」における不快感の表明に留めるべきことなのか、などの境界は、「常識」「慣習」「習慣」、あるいはマイケル・ポランニーの言葉を借りれば、明示的な言葉や理性を超えた「暗黙知」によって決められる。というより、良くも悪くも、それらによって決められるほかのないものなのである。その「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」の力が、今日では弱まりつつある。

私が本書で最も不満に思うところを極めて明確に示してくれた文章です。

結局、言論、表現、契約、結社、経済活動等の様々な自由は、自らの基盤を成す、こうした「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」を弱体化させる、自己破壊的性質を持っているのではないか。

実定法がそうした「常識」の代わりになると楽観するのは、脱法的な社会悪がこれ以上無いほど蔓延している現状を見れば全く説得力を持たない(荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ))。

そもそも、自由な合理的個人による契約のみが社会秩序の源泉だと考えること自体が妄想だ。

自由を行使する人間の資質を問わなければ、社会は止めどなく堕落していく一方である。

自由主義は自らの原則の外にあるものの支えが無ければ、実は成り立たないのではないか。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)より)

そのことを自覚している保守的自由主義になら私も共感を抱く。

しかし、本書のような進歩的自由主義に対しては、建前上の綺麗事といった感が拭えず、保守的立場からして反面教師としての読み方しかできない。

本書には、以下のように極めて注目すべき文章もあるにはある。

個人間の違いをなくしていく要因として、以上の要因すべてとくらべてもさらに強力なのは、イギリスをはじめとする自由な国で、世論が政治を支配する状況が確立したことである。以前なら社会的地位の高さに守られて大衆の意見を無視できる人がいたが、いまではそうした地位が徐々に低下しているし、大衆の意思がはっきりしているときに、必要ならその意思に反対するという考え方自体を現実的な政治家がもたなくなってきている。このため、大勢に順応しない姿勢は社会の支援を受けられなくなった。社会のなかである程度の力をもつ勢力が数の支配に反対していて、大衆のものとは違った意見や傾向を保護しようとする状況ではなくなっているのである。

この認識は極めて鋭いが、ここまで見通しておいて、なぜ民衆への自由の拡がりを楽観視できるのか?

 

 

(少数派の)思想・言論の自由、個性尊重、個人に対する社会の権威の限界という、本書で展開されている主張は、20世紀以降、民衆の多数派によって加えられる抑圧への抵抗としては首肯したいが、本書が書かれた肝心の19世紀の状況については適用するのをためらう。

むしろ、伝統や常識を一顧だにしない、予定調和的進歩を能天気に想定する自由(放任)主義が、恐るべき結果をもたらし、その悪影響をほとんど払拭できない状況下で現在の我々も生きていると言うべき。

 

 

さほど難解ではなく普通に読める。

少なくとも初心者であっても、論旨が全く読み取れないということは無いはず。

社会思想史上、有名な古典ですし、読了しておくのも悪くない。

ただし、上述の通り、私はあまり感銘を受けるようなことはありませんでした。

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