万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年11月4日

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟  全5巻』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:42

学生時代に新潮文庫の訳で通読済み。

その時は、何とか読了したものの、途中かなりダレた部分があって、ラストが非常に感動的だったことを除けば、いまいち強い印象を受けることがなかった。

そこで、少し前かなり話題になったこの新訳で再読してみることにしました。

カラマーゾフ家の、獣欲の化身のような父フョードル、父親譲りの粗暴さと同時に高潔な一面もあわせ持つ長男ドミートリー、冷徹な合理主義者の次男イワン、誰からも敬愛される温和な性格の持ち主である三男アレクセイ(アリョーシャ)、フョードルの私生児と噂される醜悪奇怪な人物スメルジャコフと彼らを取り巻くグルーシェニカ、カテリーナなどの女性達が織り成す物語。

これはやはり凄い。

いろいろな読み方ができると思うが、例えば、西欧を象徴するイワンに唆され、恐るべき行為に手を染めるスメルジャコフを見ると、作者ドストエフスキーの死後、西欧からの物質主義と急進的民主主義にますます侵食され、遂には過激主義者の暴力に屈し、人類史上最悪の地獄に転落して行った20世紀のロシアを思い起こされ慄然とする。

有名な「大審問官」の章は、初読の際と同じく、強い感銘は受けなかったが、やはりエピローグのあの感動は・・・・・・。

まさに大団円という感じで、本当に素晴らしかった。

また、アリョーシャの師であるロシア的聖人ゾシマ長老が、死を目前にして行った、以下の談話と説教も。

 俗世は自由を宣言した。最近はとくにそうである。では、彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか!なぜなら俗世が説いているのは、こういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい、君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。

では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか?富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。

彼らはこうも説いている。世界はこの先ますます一体化し、兄弟の結びつきが強まるだろう、まして距離がちぢまり、思想は空気をつたって伝達される時代なのだからなおさらのことだ、と。

ああ、こうした人間同士の一体化など、けっして信じてはいけない。自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自らの本質を歪めているのだ。なぜなら彼らはそこに、数多くの無意味でおろかな願望や習慣、このうえなくばかげた思いつきを生み落としているからだ。彼らはただ、おたがいの羨みや欲望、虚栄のためにだけ生きているにすぎない。宴席、馬や馬車、地位、奴隷に等しい下僕を得ることがすでに不可欠なものとみなされ、そのために人々は、命や、名誉や、人間愛までも犠牲にしてその必要を満たし、それができないとみるや、自殺さえしかねない。

・・・・・・

そのため、俗世では、いよいよ人類への奉仕、兄弟愛、人間たちの一体化といった思想が消滅し、じつのところ、そうした思想は嘲りすら浴びせかけられているありさまなのだ。自分が思いついた数かぎりない欲求を満たすことに、これほど慣れきってしまった以上、この囚われ人はどうやってその悪習を振りはらい、どこへ向かうというのか?孤独のなかに閉じこもる人間には、全体など何の用もなさない。こうしてものを貯めこめば貯めこむほど、喜びはいよいよ少なくなるという結果に行きついてしまった。

・・・・・・

民衆はわたしたちと同じように神を信じている。神を信じない実践家は、どんなに誠実な心をもち、どんなに天才的な知性をもっていようと、わたしたちのロシアでは何ごともなしえない。このことをよく覚えておきなさい。民衆は無神論者と出会い、彼らを打ち負かし、唯一の正教ロシアとなるのである。・・・・・上流社会の人々はそうではない。彼らは科学の言いなりになり、以前とはちがってもはやキリストぬきで、ひたすら自分の知性だけをたよりに正しい社会を作ろうとし、犯罪もなければ罪もないと広言している。たしかにそれは、彼らなりには正しいだろう。なぜなら神を持たないものにとって、犯罪などという概念はなんら意味をなさないからだ。ヨーロッパではすでに、民衆が力ずくで富裕な人々に立ち向かい、民衆の指導者たちはいたるところで民衆を流血の場へみちびき、彼らの怒りは正しいと教えている。だが「彼らの怒りはむごたらしいゆえに、呪わしい」。

・・・・・・

民衆は卑屈ではない。二世紀にわたる農奴制のあとですら、そうなのだ。顔つきも態度も自由だが、いかなる無礼さもそこにはない。それに、復讐心もつよくないし、嫉妬深くもない。「おまえさんはお偉い方だし、お金持ちだし、頭もよくて才能もある――それはそれで大いに結構、神さまの祝福がありますように。おまえさんを敬っているが、わたしも自分が人間だとわかっている。うらやみの気持ちをもたずおまえさんを敬うことで、このわたしも、おまえさんに対し、人間的な品位というものが示せるわけでして」じっさいにこんな言葉は吐かないにしても、(彼らはまだそういう口のきき方を知らないからだ)、彼らがそんなふうに行動するのを、わたし自身この目で見てきたし、経験もしてきた。

・・・・・・

だが、神は自分の僕である人間を救うだろう。なぜならロシアはその謙虚さゆえに偉大だからだ。わたしはわたしたちの未来を夢み、すでにそれをはっきりと目にしているような気がする。なぜならいずれはわが国のもっとも堕落した金持ちも、貧しい人々の前で自分の富を恥じ、貧しい人々は彼らの謙虚さをみて理解し、喜んで譲歩し、その立派な恥じらいに愛情をもって応えることになる。最後はそうなると信じるがいい。じっさいそうなりつつある。

人間の精神的な価値のなかにのみ平等はあるのであって、それがわかっているのは、わたしたちの国だけである。兄弟がいれば、兄弟愛も生まれるだろうが、この兄弟愛よりも先に、公平な分配がおこなわれることはけっしてない。キリストの御姿をたいせつに守り、それが高価なダイアモンドのように世界全体に輝きわたることを・・・・そうなりますように、アーメン、アーメン!

これを読んでから、実際にその後ロシアと世界、そして日本がたどった道を考えると・・・・・・。

作者の期待は、無惨にも、本当の本当に根底から裏切られたと言うしかない。

いや、ドストエフスキーはそれすらも見通していたのかもしれない。

作者の死によって構想のみに終わった本書の続編では、ロシア的庶民の善良さの象徴のようなアリョーシャがなんと革命家となり、皇帝暗殺を企て、遂には処刑されるという筋書きだったという。

それを知って、おいおい、いくら何でもそりゃないでしょうと昔思ったものだが、作者には自国を覆いつつある集団的な狂気と暴力の気配がはっきりと見えていたんでしょう。

その完全な絶望の中で、辛うじて保った希望の一片を表現したのが、この作品なのかもしれません。

 

 

とんでもない長さだが、驚くほどすらすら読める。

この新訳なら通読はそれほど困難ではない。

(ただ訳文は非常に良いと思うが、訳者解説は首を傾げる部分も多く、個人的にはあまり参考にならなかった。)

やはり素晴らしい。

世界文学の最高峰と言われるのもわかる。

ストーリーの展開も思想的背景もパーフェクトと感じる。

私のような初心者でも十分その凄さが分かる。

気後れせず、是非挑戦してみて下さい。

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