万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年11月28日

トーマス・マン 『ヴェネツィアに死す』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:04

学生時代、岩波文庫版を確か読んだはずだが・・・・・・。

はっきりと憶えていない。

たぶん再読。

150ページ弱しかない分量。

抽象的な芸術談義と淡々とした情景描写が続き、かなりだるい。

初老の作家が休暇旅行先のヴェネツィアでたまたま見かけた美少年へ同性愛的感情を持って・・・・・・という話。

物語の最後近くで、何かとんでもなく大きなものを比喩しているのかとも思ったが、考え過ぎか。

どの途、私には判断不能だ。

この作家も本書のような短編で誤魔化す。

『魔の山』も『ブッデンブローク家の人びと』も、まず読めそうにない。

結局私にとって、トーマス・マンは20世紀ドイツの優れた小説家というより、(民主主義と共和制の支持者に「転向」する前に)『非政治的人間の考察』という素晴らしい思想書を書いた文化人という印象です。

2014年11月25日

シラー 『ヴァレンシュタイン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:54

ゲーテと並ぶ文豪なので何か読まなきゃいけないなあと思っていたが、翻訳も比較的新しいし、とりあえずこれを選んだ。

原文はほとんど韻文だそうだが、翻訳ではそれをほとんど感じさせない、散文調の訳。

戯曲だが、三部構成で、500ページびっしりと量は多い。

しかし、実にテンポ良く読み進められる。

挫折する恐れはほとんど無いのでは?

高校世界史でも必ず出てくる人名だが、ヴァレンシュタインは、ドイツ三十年戦争当時の皇帝(旧教)側傭兵隊長から成り上がり、フリートラント公と呼ばれるようになる。

長年の戦乱で心の荒んだ傭兵たちの心服を得て、絶大な勢力を持つようになるが、それを恐れた皇帝とお互い疑心暗鬼の状態に陥り、ついに解任される。

勇猛果敢な名将にもかかわらず、決定的な局面で決断力を欠いて機を逸し、敵であるスウェーデン軍と和解、投降しようとした直前に暗殺される。

古典作家の作品をとりあえず一つは読まねばならないという義務感から読み始めたのだが、事前の予想よりもはるかに面白かった。

実に良い。

当時の雰囲気がよくわかる。

著名な文学作品であると同時に、歴史文学としても秀逸で役に立つ。

史実とはかなり違う部分もあるそうですが、名前しか知らない歴史上の著名人物が持つ個性のイメージが、すっと頭に入るのは、決して悪くないでしょう。

2014年11月22日

中谷巌 『資本主義はなぜ自壊したのか』 (集英社文庫)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 07:40

直接的には世界史に全く関係無いが、いつものことですのでご容赦を。

構造改革、規制緩和政策の旗振り役だった経済学者が、リーマン・ショック後に書いた転向の書。

前半三分の一ほどのみ精読。

内容は、新自由主義とグローバル資本主義批判。

情報の不完全性を利用し、社会的強者が情報を自ら創り出し、自己実現的予言を成就させ、私的利益を欲しい侭にする。

財力による政治の支配と言論の自由の形骸化が進行し、手続き上は民主的だが、ごく少数の富裕層優遇政治が続く。

(個人的には、それは真の民主主義が損なわれているというより、所詮民主主義とはそのようなもので、不可避な成り行きに思える。)

IT革命による情報の共有といっても、それで広まるのは、データ的な形式知のみで文脈的な暗黙知はネットには載らない。

政治による規制・監督を逃れるグローバル資本は、バブル破裂後の恐慌と格差拡大、環境破壊をもたらす「悪魔のひき臼」(ポランニー)だ。

こうした前半部の論調自体には全く違和感無し。

ただ、後半の文明論は少々感心するところもあれば、やや首を傾げる部分もあり。

経済学批判としては、西部邁氏や佐伯啓思氏、中野剛志氏の本の方がいいと思います。

2014年11月20日

ラシーヌ 『ブリタニキュス  ベレニス』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 12:55

高校世界史でも出てくる、フランス古典主義劇作家の一人。

序でコルベールとその女婿への献辞が付いている。

分厚さにびびるが、半分が訳注と解説。

古代ローマ史に題材を採った史劇二編を収録。

まず『ブリタニキュス』は、史上悪名高い暴君、ローマ皇帝ネロン(ネロ)とその義弟ブリタニキュス(ブリタニクス)、ネロの実母アグリピーヌ(小アグリッピナ)らが織り成す悲劇。

母の羈絆を脱し、忠臣ブルスの諫言による一瞬の改心も空しく、佞臣の甘言を容れ、怪物的暴君へ変貌するネロの描写には緊迫感がある。

もうひとつの『ベレニス』は、ネロ死後の内戦を収拾したヴェスパシアヌス帝の息子で、名君として知られるティトゥス帝とユダヤ王女ベレニス(ベレニケ)の悲恋、コマジェーヌ(コンマゲネ)王アンティオキュス(アンティオコス)との三角関係が主題。

歴史モノなので面白く読めたし、迫力もある。

この大作家の作品に触れるには、適切で手ごろな本。

初心者にも十分お勧めできます。

予備知識が必須というわけではないが、可能ならば秀村欣二『ネロ』(中公新書)を読んでおいても良い。

2014年11月18日

チェーホフ 『かもめ』 (集英社文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:46

チェーホフ四大戯曲のひとつ。

女優アルカージナ、その息子で作家志望のトレープレフ、女優を目指すニーナなど。

片思いの連鎖と衝撃的ラスト。

これも、どう考えても喜劇ではなく悲劇に思える。

人生は決して思い通りにはならないという哀感があり。

味わい深い佳作。

2014年11月16日

カミュ 『異邦人』 (新潮文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 08:21

120ページ余りと短いのは何よりだが、よくわからん。

学生時代以来、十数年振りの再読だが、ただ単に妙な話だなあというのが正直な感想。

主人公にも感情移入は出来かねる。

20世紀(以降現在まで)の小説はやはりよくわからない。

単純にストーリーの面白さを満喫させてくれる小説以外、自分には理解不能です。

思想小説に近いものを出されてもわからない。

不条理、ニヒリズムと価値相対主義を描いた作品ということでいいのかもしれませんが、これも理解不足から来る単純化か。

教科書に載っている古典を楽にこなせるのはいいか。

ネームバリューと読みやすさの点でお勧め。

ただし内容は知りません。

2014年11月14日

引用文(西部邁12)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 08:51

 

西部邁『獅子たりえぬ超大国』(日本実業出版社)より。

 

いったい自由権とは何のことだろうか。たとえば私に、何かをなす自由の権利があるとすれば、これは相手にも、第三者にもある。となれば、人びとの自由が衝突する可能性が生じるのは明白である。
そこで、イギリスの自由主義者ジョン・スチュワート・ミルは、「他者危害の原則」を守るべきだという原理を打ち出した。他人に危害を与えないかぎり自由は許されるべきだというわけである。実は、この「他者危害の原則」こそがいまのアメリカ人が主張する自由権にたいする唯一の制限なのである。

これはいまやアメリカだけでなくて、現代人類に広く広まっている考え方で、「他人に迷惑をかけないかぎり、何をやってもいい」というわけである。・・・・・多くのビジネスマンが市場取引の自由をいい、他人に迷惑をかけるものでないかぎり、どんなものを売ろうがいいんだといっている。

そこで問題が起こる。迷惑あるいは危害とは何のことか。一つの例を挙げてみよう。たとえば十五歳の少女が渋谷の街角で中年男性相手に援助交際つまり少女買春をしているとする。この場合、いったい誰に迷惑をかけているか。体を売って小遣い銭を稼ぎたい少女はカネが入ったんだから満足、中年男は性的欲求不満をロリコン趣味も交えて満たしたので満足、ということで誰にも迷惑をかけていないようにみえる。

少女売春のような露骨な例でなくても、たとえばエログロの週刊誌でもマンガでも、あるいはテレビ番組でもいい。そういう商品を売りたい人が売って、買いたい人が買う。売った人は儲けが上がって満足、買った人は快楽を得て満足ということになってしまう。

ここでも諭吉の話を紹介すると、彼は卓抜なことをいった。「他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由とは何事だ、自分たちの子孫のことも考えてみよ。目の前にいる他人に迷惑をかけないからといって、自由や権利の名において勝手気ままをやっていたら、一〇年、二〇年、あるいは五〇年後に、社会がきわめて不道徳な状態になってしまう。すると、自分たちの子孫は不道徳の環境のなかでしか生まれ育てないし、死んでもゆけない」。道徳を守ってこその自由だと諭吉はいったのである。

他者危害の原則でもいいのだが、その他者には、いま生きている人間だけでなく、これから生まれるであろう人びとも含めなければならない。自分の行いが未来の人びとに悪影響を及ぼしはしないか、と考えてみるためには、過去を振り返り、どんなことを先祖が行ったときに、その時間的な影響として、自分がどういう状態におかれているのかについても検証しなければならない。このように、他者に未来の子孫を入れ、またそうするために過去の先祖たちのことも振り返るという歴史的な展望に立ってはじめて、自由についても論じることができる。

アメリカは、歴史感覚が乏しいから、そのことがわからない。したがって、アメリカの自由というものは、自分の儲けや快楽を目指すとき、その時間的な視野が現在に限定されたものになっている。それがアメリカの個人的自由主義の実情である。

・・・・・

自由論は民主主義論にも関係してくる。どういうルールを決めれば他者に迷惑をかけないですむかを問題にする場合、ではルールをいかに決めるかが問題になる。本来、歴史感覚のある国民であれば、「ルールの根本は歴史によってプレスクライブ(予め処方)される」と考えるのだが、アメリカは歴史という精神の土壌に欠けるため、結局は現在生きている人びとのあいだの多数決で事を決めざるをえなくなった。トックビルが「多数者のティラニー(専制政治)」とよんだのがそれである。アメリカでは多数決が社会ルールの唯一の決定基準になっているわけだ。

多数決とは何か。投票ということの意味を社会全般に及ぼせば、まさしく世論にほかならない。多数派の意見が反映されて、ある特定の多数決になり、世論が最高の基準だということになるわけである。そのことをトックビルは心配したのだが、自由主義者ジョン・スチュワート・ミルですら、トックビルの影響を受けてこういった。「アメリカでは“世論による支配”が行われている。これにイギリスも気をつけねばならない」と。

・・・・・

これは本当は恐ろしいことである。人びとがいったいどんな価値観を抱いているのか、どんな道徳をもっているのか、あるいは自分たちの価値観、規範が未来にどういう影響を及ぼすのか、他国からどういう評価、反応を受けるのか。そんなことにかかわりなく、多数決方式の決定を安定させることだけが国家の秩序の原則になったわけだから。

・・・・・

「自由」という日本語は(自由と訳したのは西周だが)なかなかおもしろい。英語でフリーダムとかリバティというが、それと日本語の自由が同じだと思ってはならない。自由とは読んで字のごとく、自らに由(ワケ)があるということだ。自分に根拠があるということである。

だとしたら、問題は自分とは何かということである。

二種類の自分がいたとしよう。一方の自分は、先祖の歴史の英知、伝統の精神に思いを馳せ、未来の子孫に何を残し得るか、伝えられるかを考えている自分。他方の自分は、過去も未来も考える気がなく、その場その場の欲望に身を任せる自分。常識というものがあれば、自分にワケがあるといっても、前者のワケでなければならない。

・・・・・厄介な抑圧から解き放たれることは人間にとって望ましいことだが、何のために解き放たれるのかというと、一言でいえば、真っ当な理想や目標、目的へ向けて進むために現在の制約から解き放たれるわけである。そうであるなら、どんな理想や価値観、あるいは目的を持つかを論じなければ、自由論が成り立つはずもない。

もちろん、この目的や目標は、けっして特定の指導者が設定するものであってはならない。かつてヒットラーやムッソリーニやスターリンが、そしていま金正日やブッシュや小泉が目的や目標をあれこれ掲げたが、それはとんでもない顛末になったし、今後もなるであろう。

重要なのは、「自由をいうときには、その目的や目標が本当に納得できる道徳にもとづいているのかを議論したり確認したりしなければならない」ということである。道徳といって言い過ぎならば、コモンセンス(常識)にもとづいているのかどうか、フランス語でいえば、ボンサンス(良識)に裏づけられているのかを、人びとが自分のなかで、また他人との交流のなかで、思索しなければならない。議論したり確認したりするプロセスがなければ、自由そのものは子孫のみならず、自分自身にも深刻な害を及ぼしかねない。

人は行動するとき、たいていはいくつかの選択肢のなかで迷っているものである。そのとき、Aを選ぶかBを選ぶかという選択のなかで、AとBのいずれが優れているか、いずれが劣っているかを判定しなければならない。仮にその判定を人間の欲望に任せるにしても、Aを選ぶ欲望の下劣さ、Bを選ぶ欲望の高貴さなどにかんして、真っ当な欲望が何であるのかを議論しなければならない。

そして、この議論の根拠は、またしても歴史へ差し戻される。・・・・・十九世紀までのアメリカには、歴史が浅いことにたいする彼らなりに劣等感があった。ヨーロッパにたいして、あるいは天皇制を戴いて二〇〇〇年の歴史を持つ日本にたいしても劣等感を抱いていた。ところが彼らは、武器、金銭そして技術において、現代文明を席巻するのに成功した。そしてとうとう左翼同士の内ゲバでソ連の集団主義を滅ぼし、個人主義の勝利を確認するやいなや、彼らは歴史なきことへの劣等感を投げ捨てて、むしろ歴史のないことこそが技術的、金銭的そして情報的な勝利の秘訣なのだと居直った。これが二〇世紀末の九〇年代に顕著に進んだことである。

そういう意味で、アメリカは現代のヴァンダル族だといわざるをえない。ゲルマンの一部族のヴァンダル族は、わけもわからぬまま、とにかくローマの古いものなら壊せと蛮行の限りを尽くした。そうした理由なき文化破壊のことをヴァンダリズムというが、昔からその傾向のあったアメリカが、とうとう二〇世紀の末に至って、現代のヴァンダル族としてこの地球に巨大な破壊を仕掛けている。

2014年11月12日

ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』 (日経BP社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:00

原著は1859年刊で、有名な「愚行権」および「他者危害の原則」という概念を打ち立てた自由主義思想の古典。

「他者に明白な危害を与えない限り、たとえ社会通念上愚かで自身に損害を与えるような行動でも、基本的にその人間の自由にさせるべきであり、社会や国家が干渉すべきでない」という考え方。

現代社会の我々も基本そう考えて日々暮らしているわけですが、これはどうなんですかねえ・・・・・・。

こうした一見無秩序で放任的な自由が、実は社会の進歩を促す貴重な前提になるというが、自由を保障しさえすれば(それを行使する多数者の資質を問わずとも)必ずより良い変化がもたらされるという進歩主義的考えに全くついていけない。

ミルには、多数派による(世論の)専制を批判する視点もあり、それは大いに説得的なのだが、形式主義的な自由こそ、そうした「多数の専制」を生み出す大前提になってしまっているのではないか。

ミル自身のように優れた少数者から多数者たる民衆に自由が拡がった時、一体何が起こるのか、19世紀の楽観的自由主義者が考えたのとは天と地ほど異なる事態が20世紀以降生じたと言うしかない。

19世紀の進歩的自由主義と20世紀の全体主義の関係は「原因と結果」です。

伝統と宗教から解放され自由を得た民衆が精神的アパシーに陥り、左右の狂信的イデオロギーに囚われ、ありとあらゆる愚行と惨劇を繰り広げて、人類自体を滅亡寸前まで追い込んだことが、ここ100年余りの世界史の実像です。

それを「進歩に逆らう一部の前近代的反動勢力によってもたらされた悲劇」と片付けるのは詭弁もいいところだ。

例えば本書には以下のような文章があります。

論争者がおかしうる罪悪のうち最悪のものは、自分と対立する意見をもつのは悪人、不道徳な人間だと決めつけることである。こうした誹謗中傷でとくに打撃を受けるのは、不人気な意見をもつ人である。一般に人数が少ないし影響力がなく、公平に扱われているかどうかに関心をもつのは当事者とその仲間だけだからである。そしてこの誹謗中傷という手段は、その性格上、主流の意見を攻撃する人は使うことができない。この手段を使えば、自分自身が危険にさらされることになるし、また、危険にさらされることなく使えたとしても、自分の主張が信用されなくなるだけである。一般的にいって、主流の意見に反対する側は、つとめて穏当な言葉を使い、不必要な刺激を注意深く避けることによってはじめて聞き手を獲得できるのであり、この基準を少しでも踏み外せば、ほぼかならず立場が悪くなる。これに対して主流の意見を主張する側は、反対意見に対して無制限に誹謗中傷を浴びせる方法で、反対意見を表明したり、反対意見に耳を傾けたりするのをためらわせることができる。したがって、真理と正義のためには、少数意見を主張する側が使う誹謗中傷より、主流の意見を主張する側が使う誹謗中傷の方がはるかに、抑制する必要が高い。たとえば、どちらかを選択する必要があるのであれば、宗教に対する暴言より無神論に対する暴言の方が、止めさせる必要性がはるかに高いといえるだろう。

「愚かで卑怯な多数者が、賢明で冷静な少数者を誹謗中傷という言論の暴力で圧迫する危険が常にある」という意味でなら、上記の文章は形式的には何ら反対するところが無い。

しかし実際の歴史に即して考えれば、自由主義思想の普及により国家と政府による抑制が徐々に取り除かれるや、一般民衆は伝統や身分や宗教による束縛を排除し、(上記の文章で言う)19世紀における主流意見の宗教擁護と少数意見の無神論の関係を逆転させ、後は自分達の気の向くまま、(共産主義からファシズム、人種主義的ナショナリズムから市場原理主義的新自由主義に至る)あらゆる種類の世俗的イデオロギーに基づく狂信を誹謗中傷によって広め、(ミルが必要と考えた)一切の自制を示すことなく、多数派世論の専制を完成させて現在に到っています。

19世紀の少数者(象徴的に言えば「無神論」、あるいは民主主義でも物質主義でも進歩主義でも何でもいい)を自由の美名の下に寛容に扱ったのはいいが、それらが異常増殖して20世紀に主流にのし上がった後は、この低劣・無残な新しい多数派は自由や寛容などには何の配慮も払わない存在に化していた。

その結果が、全体主義的独裁と自由の根底からの喪失であり、それを避けられた場合でも無秩序で低俗な放縦を自由と取り違えるような社会なのだから、やはり近代においてどこかで自由の制限があってしかるべきだったのではないか。

本書の末尾には佐藤光氏という方の解説が載っているのだが、これは非常に重要です。

「危害原則」は低劣な自由を正当化するものではないとした上で、

自分も権力者の一人であることを忘れ、「権力者」のわら人形を仕立てて血祭りに上げ、相互に寛容であるからこそ各人が気ままな生活を送れることを理解せず、言い分が通らないからといって、突然多数の通行人を殺傷し、議論はおろか、あいさつさえ嫌って、閉め切った部屋の中でインターネットにしがみつくといった人間たち・・・・・・

また「危害」をどう定義するかについては、

ミルが活躍した時代は、イギリスの全盛期ともいえるビクトリア朝時代に重なるが、当時のイギリスには、こうした「境目」を暗黙のうちに誰の疑問の余地もなく決める「醇風美俗」が、うっとうしいまでに分厚く残っていたものと思われる。ミルは、こうした「醇風美俗」、あるいは「常識」「慣習」「習慣」などを「世論」と一緒くたにして、しばしば激しく非難しているが、何が、公権力の介入を必要とする「危害」あるいは「犯罪」なのか、何が、単なる「弁証法」における不快感の表明に留めるべきことなのか、などの境界は、「常識」「慣習」「習慣」、あるいはマイケル・ポランニーの言葉を借りれば、明示的な言葉や理性を超えた「暗黙知」によって決められる。というより、良くも悪くも、それらによって決められるほかのないものなのである。その「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」の力が、今日では弱まりつつある。

私が本書で最も不満に思うところを極めて明確に示してくれた文章です。

結局、言論、表現、契約、結社、経済活動等の様々な自由は、自らの基盤を成す、こうした「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」を弱体化させる、自己破壊的性質を持っているのではないか。

実定法がそうした「常識」の代わりになると楽観するのは、脱法的な社会悪がこれ以上無いほど蔓延している現状を見れば全く説得力を持たない(荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ))。

そもそも、自由な合理的個人による契約のみが社会秩序の源泉だと考えること自体が妄想だ。

自由を行使する人間の資質を問わなければ、社会は止めどなく堕落していく一方である。

自由主義は自らの原則の外にあるものの支えが無ければ、実は成り立たないのではないか。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)より)

そのことを自覚している保守的自由主義になら私も共感を抱く。

しかし、本書のような進歩的自由主義に対しては、建前上の綺麗事といった感が拭えず、保守的立場からして反面教師としての読み方しかできない。

本書には、以下のように極めて注目すべき文章もあるにはある。

個人間の違いをなくしていく要因として、以上の要因すべてとくらべてもさらに強力なのは、イギリスをはじめとする自由な国で、世論が政治を支配する状況が確立したことである。以前なら社会的地位の高さに守られて大衆の意見を無視できる人がいたが、いまではそうした地位が徐々に低下しているし、大衆の意思がはっきりしているときに、必要ならその意思に反対するという考え方自体を現実的な政治家がもたなくなってきている。このため、大勢に順応しない姿勢は社会の支援を受けられなくなった。社会のなかである程度の力をもつ勢力が数の支配に反対していて、大衆のものとは違った意見や傾向を保護しようとする状況ではなくなっているのである。

この認識は極めて鋭いが、ここまで見通しておいて、なぜ民衆への自由の拡がりを楽観視できるのか?

 

 

(少数派の)思想・言論の自由、個性尊重、個人に対する社会の権威の限界という、本書で展開されている主張は、20世紀以降、民衆の多数派によって加えられる抑圧への抵抗としては首肯したいが、本書が書かれた肝心の19世紀の状況については適用するのをためらう。

むしろ、伝統や常識を一顧だにしない、予定調和的進歩を能天気に想定する自由(放任)主義が、恐るべき結果をもたらし、その悪影響をほとんど払拭できない状況下で現在の我々も生きていると言うべき。

 

 

さほど難解ではなく普通に読める。

少なくとも初心者であっても、論旨が全く読み取れないということは無いはず。

社会思想史上、有名な古典ですし、読了しておくのも悪くない。

ただし、上述の通り、私はあまり感銘を受けるようなことはありませんでした。

2014年11月10日

ゲーテ 『若きウェルテルの悩み』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:43

タイトルは誰でも知っている、超有名な古典。

200ページに満たないので読むのは楽だが、内容も形式も時代がかっているなあという印象。

正確な文学的価値など私にはわかりようがないが、素人にとっては愉しみのために読むというより、教科書に出てくる古典的作品をとりあえず読了しましたよという知的見栄のために読む本だ。

シュトルム・ウント・ドランクや合理主義的啓蒙思想への反省とか、教科書的なことが読み取れないわけでもないが・・・・・・。

一点注意すべきは、ゲーテは古典主義からロマン主義への過渡期の文学者となっていて、それで間違いじゃないんでしょうが、ゲーテ個人の遍歴では最終的には古典主義を奉ずるようになって順番が逆だということ。

『ウェルテル』は初期の作品なので、それがいまいちしっくりこない原因か。

恋愛小説の古典中の古典だが、どうも感情移入しにくい。

ゲーテの代表作二編をとりあえず読みましたが、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』『同 遍歴時代』『親和力』などに進む気にはなれない(『ヘルマンとドロテーア』は少し気になるが)。

この岩波文庫版はかなり古い訳だが、比較的新しい他の訳で読んでも同じかな。

大学時代、新潮文庫版で一読したことがあり、今回は再読だが、やはりもう一つ。

通読難易度はそれほど高くないが、あまり面白くはない。

ただゲーテを一作読むのなら、『ファウスト』より、こちらの方が楽か。

2014年11月9日

シャーロット・ブロンテ 『ジェイン・エア  上・下』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:19

作者は、エミリ、アンと並ぶ、ブロンテ姉妹のひとり。

ブロンテ姉妹(ただしシャーロットとエミリのみ)はオースティンと共に、「高校世界史教科書の文学史にはほとんど出てこないが、各種の世界文学全集にはほぼ必ず収録されている作家」です。

孤児同然の境遇の女性が力強く人生を切り開いていく物語。

ストーリーの語り口と展開、伏線の張り方が実に巧み。

クライマックスが3回くらいあるような感じで、最後の最後まで決して飽きさせずに読ませる力がある。

個人的には、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』より、こちらの方が面白かった。

ブロンテ姉妹の生前には、本書は大ヒットしたが、『嵐が丘』の評価が高まるのは作者の死後だったそうで、本書の方が素人にはわかりやすいんでしょう。

とは言え、文学初心者にとっては、それが欠点とは思えない。

名作としての評判と、実際読んだ際感じられる面白さが一致しているのは、初心者にとって大きな喜びです。

やはり素晴らしい。

分量はかなりあるが、さして気にならない。

是非読むべき。

2014年11月7日

トルストイ 『戦争と平和  全6巻』 (岩波文庫)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 07:21

説明不要の有名な古典。

この版は2006年頃刊行の新訳。

途中で訳者によるコラムが挿まれている。

全6巻で、各巻が中編小説並みの長さなので、気ばかりあせって細かな描写を味わう余裕なんて無い。

冒頭からかなりだるい。

19世紀初頭のロシアの貴族社会全般を描くのだが、かなり退屈。

アウステルリッツの戦いの描写は中々の迫力だが、ちょうど真ん中あたりからはものすごく大雑把なあらすじだけつかめればいいやという気分になり、かなり粗いとばし読みになった。

実はそこで一回挫折してます。

最近はかなりの数の文学書を読了できていたのですが、さすがにこれは長すぎました。

かなり自信を失ってしまった。

ですが、もう一度気合を入れ直して、最初から読み始めました。

主要登場人物は、まずピエール・ベズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキー、ニコライ・ロストフの三人、そしてアンドレイの妹マリア、ニコライの妹ナターシャ。

他に当時の上流階級の堕落した悪しき側面を象徴するワシーリィ・クラーギン公爵家の人々。

歴史上の実在人物では、ナポレオン、アレクサンドル1世、クトゥーゾフ、バグラチオン(後ろの二者はロシアの将軍)等が描かれている。

私は、他の文学ジャンルに比べて、歴史小説や史劇はまだ読み易く感じる方だが、それでもこれだけの大長編となるとやはり苦しい。

トルストイの歴史観を説いた非小説的部分よりも、貴族社会の各一家の生活を長々と描写した部分がキツイ。

なお、偉人・英雄の自由意志で歴史が創られるのではなく、複雑で捉えがたい必然こそが歴史の原動力であり、人々はその道具に過ぎないというのがトルストイの史観。

それを理解しないナポレオンと、登場する実在人物としては唯一それを理解していたクトゥーゾフが対比して描かれている。

ナポレオンのロシア遠征失敗を経て、物語の末尾ではデカブリストの乱が暗示されている。

あとよく言われるように、エピローグ後半でのトルストイ自身の史観説明部分は蛇足の感がある。

何とか通読した・・・・・・。

より分量が多いのを勘案しても、『カラマーゾフの兄弟』のような凝集力が無いから、本書の方が通読ははるかに難しい。

しかも3週間から1ヵ月かかりきりになる。

とりあえず読み通したことで、難解な思想小説や言語実験めいた小説でない限り、大概の文学書を読了できるという自信はついたが、さすがに疲れました。

そして、ストーリーの展開に手に汗握って目も離せない程のめり込むことも無かったし、トルストイの歴史観に深い感銘を受けるということも残念ながら無かった。

これが私の限界です。

とてもじゃないが、「さあ、次は『アンナ・カレーニナ』だ」なんて気分にはなれませんでした。

これも、読了したという事実が最大の収穫です。

それだけでも自分を誉めたい。

しかし残念ながら、私にはこの永遠の傑作の真価を理解する能力はありませんでした。

2014年11月4日

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟  全5巻』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:42

学生時代に新潮文庫の訳で通読済み。

その時は、何とか読了したものの、途中かなりダレた部分があって、ラストが非常に感動的だったことを除けば、いまいち強い印象を受けることがなかった。

そこで、少し前かなり話題になったこの新訳で再読してみることにしました。

カラマーゾフ家の、獣欲の化身のような父フョードル、父親譲りの粗暴さと同時に高潔な一面もあわせ持つ長男ドミートリー、冷徹な合理主義者の次男イワン、誰からも敬愛される温和な性格の持ち主である三男アレクセイ(アリョーシャ)、フョードルの私生児と噂される醜悪奇怪な人物スメルジャコフと彼らを取り巻くグルーシェニカ、カテリーナなどの女性達が織り成す物語。

これはやはり凄い。

いろいろな読み方ができると思うが、例えば、西欧を象徴するイワンに唆され、恐るべき行為に手を染めるスメルジャコフを見ると、作者ドストエフスキーの死後、西欧からの物質主義と急進的民主主義にますます侵食され、遂には過激主義者の暴力に屈し、人類史上最悪の地獄に転落して行った20世紀のロシアを思い起こされ慄然とする。

有名な「大審問官」の章は、初読の際と同じく、強い感銘は受けなかったが、やはりエピローグのあの感動は・・・・・・。

まさに大団円という感じで、本当に素晴らしかった。

また、アリョーシャの師であるロシア的聖人ゾシマ長老が、死を目前にして行った、以下の談話と説教も。

 俗世は自由を宣言した。最近はとくにそうである。では、彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか!なぜなら俗世が説いているのは、こういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい、君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。

では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか?富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。

彼らはこうも説いている。世界はこの先ますます一体化し、兄弟の結びつきが強まるだろう、まして距離がちぢまり、思想は空気をつたって伝達される時代なのだからなおさらのことだ、と。

ああ、こうした人間同士の一体化など、けっして信じてはいけない。自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自らの本質を歪めているのだ。なぜなら彼らはそこに、数多くの無意味でおろかな願望や習慣、このうえなくばかげた思いつきを生み落としているからだ。彼らはただ、おたがいの羨みや欲望、虚栄のためにだけ生きているにすぎない。宴席、馬や馬車、地位、奴隷に等しい下僕を得ることがすでに不可欠なものとみなされ、そのために人々は、命や、名誉や、人間愛までも犠牲にしてその必要を満たし、それができないとみるや、自殺さえしかねない。

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そのため、俗世では、いよいよ人類への奉仕、兄弟愛、人間たちの一体化といった思想が消滅し、じつのところ、そうした思想は嘲りすら浴びせかけられているありさまなのだ。自分が思いついた数かぎりない欲求を満たすことに、これほど慣れきってしまった以上、この囚われ人はどうやってその悪習を振りはらい、どこへ向かうというのか?孤独のなかに閉じこもる人間には、全体など何の用もなさない。こうしてものを貯めこめば貯めこむほど、喜びはいよいよ少なくなるという結果に行きついてしまった。

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民衆はわたしたちと同じように神を信じている。神を信じない実践家は、どんなに誠実な心をもち、どんなに天才的な知性をもっていようと、わたしたちのロシアでは何ごともなしえない。このことをよく覚えておきなさい。民衆は無神論者と出会い、彼らを打ち負かし、唯一の正教ロシアとなるのである。・・・・・上流社会の人々はそうではない。彼らは科学の言いなりになり、以前とはちがってもはやキリストぬきで、ひたすら自分の知性だけをたよりに正しい社会を作ろうとし、犯罪もなければ罪もないと広言している。たしかにそれは、彼らなりには正しいだろう。なぜなら神を持たないものにとって、犯罪などという概念はなんら意味をなさないからだ。ヨーロッパではすでに、民衆が力ずくで富裕な人々に立ち向かい、民衆の指導者たちはいたるところで民衆を流血の場へみちびき、彼らの怒りは正しいと教えている。だが「彼らの怒りはむごたらしいゆえに、呪わしい」。

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民衆は卑屈ではない。二世紀にわたる農奴制のあとですら、そうなのだ。顔つきも態度も自由だが、いかなる無礼さもそこにはない。それに、復讐心もつよくないし、嫉妬深くもない。「おまえさんはお偉い方だし、お金持ちだし、頭もよくて才能もある――それはそれで大いに結構、神さまの祝福がありますように。おまえさんを敬っているが、わたしも自分が人間だとわかっている。うらやみの気持ちをもたずおまえさんを敬うことで、このわたしも、おまえさんに対し、人間的な品位というものが示せるわけでして」じっさいにこんな言葉は吐かないにしても、(彼らはまだそういう口のきき方を知らないからだ)、彼らがそんなふうに行動するのを、わたし自身この目で見てきたし、経験もしてきた。

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だが、神は自分の僕である人間を救うだろう。なぜならロシアはその謙虚さゆえに偉大だからだ。わたしはわたしたちの未来を夢み、すでにそれをはっきりと目にしているような気がする。なぜならいずれはわが国のもっとも堕落した金持ちも、貧しい人々の前で自分の富を恥じ、貧しい人々は彼らの謙虚さをみて理解し、喜んで譲歩し、その立派な恥じらいに愛情をもって応えることになる。最後はそうなると信じるがいい。じっさいそうなりつつある。

人間の精神的な価値のなかにのみ平等はあるのであって、それがわかっているのは、わたしたちの国だけである。兄弟がいれば、兄弟愛も生まれるだろうが、この兄弟愛よりも先に、公平な分配がおこなわれることはけっしてない。キリストの御姿をたいせつに守り、それが高価なダイアモンドのように世界全体に輝きわたることを・・・・そうなりますように、アーメン、アーメン!

これを読んでから、実際にその後ロシアと世界、そして日本がたどった道を考えると・・・・・・。

作者の期待は、無惨にも、本当の本当に根底から裏切られたと言うしかない。

いや、ドストエフスキーはそれすらも見通していたのかもしれない。

作者の死によって構想のみに終わった本書の続編では、ロシア的庶民の善良さの象徴のようなアリョーシャがなんと革命家となり、皇帝暗殺を企て、遂には処刑されるという筋書きだったという。

それを知って、おいおい、いくら何でもそりゃないでしょうと昔思ったものだが、作者には自国を覆いつつある集団的な狂気と暴力の気配がはっきりと見えていたんでしょう。

その完全な絶望の中で、辛うじて保った希望の一片を表現したのが、この作品なのかもしれません。

 

 

とんでもない長さだが、驚くほどすらすら読める。

この新訳なら通読はそれほど困難ではない。

(ただ訳文は非常に良いと思うが、訳者解説は首を傾げる部分も多く、個人的にはあまり参考にならなかった。)

やはり素晴らしい。

世界文学の最高峰と言われるのもわかる。

ストーリーの展開も思想的背景もパーフェクトと感じる。

私のような初心者でも十分その凄さが分かる。

気後れせず、是非挑戦してみて下さい。

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