万年初心者のための世界史ブックガイド

2014年7月15日

引用文(西部邁11)

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西部邁『無念の戦後史』(講談社) 「32 IT革命」より。

前世紀末から今世紀初頭にかけて、IT革命なるものが、世間の耳目を集めるような派手さで、繰り広げられました。

パーソナル・コンピュータ、携帯電話、ロボットなどの情報媒体が普及し、またインターネットを代表とする情報のシステムも拡大されています。

たしかに、インフォメーション・テクノロジー(IT、情報技術)が急進的に効率化されるだけでなく、それが社会全体に急激な変化を惹き起こしました。そういわざるをえないような現象が、先進諸国のみならず後進諸国にも休みなく発生しているかにみえます。

しかしその(大衆化という意味での)「革命」は、次の二つの意味で、「大破壊」にすぎません。

一つに、短期的でみれば、また局所だけを眺めれば、ITによる情報交換の効率化は社会にとって有益と断言できそうに思われます。たとえ新たなITの導入で社会から排除される(失業者のような)者が増えようとも、ITが彼らに新たな活動の場所を創り出してくれる、と考えればなおさらです。

しかしITの安易な導入は、短期および局所にあってすら、ITで操作しやすい(パターン化されているという意味での)「技術的」な種類の情報のみを増やしてしまいます。

そのせいでHO(ヒューマン・オーガニゼーション、人間組織)におけるチームワークが破壊されていきます。それは、アメリカで個人のパフォーマンス(成果)のみを基準として賃金を払うという成果主義が失敗している、という事実によくみてとれます。

二つに、長期でみれば、また大域を眺めれば、ITが有効なのは「確率的に予測される未来」についてだけです。

そんな場合があるとしたら、(たとえば金融取引のように)たった一ヶ月であるにもかかわらず何百回ものプレイが同一のルールの下で行われるので、そこに確率めいた事態が発生する、というごく限定された場合だけです。

非確率的な未来にはまずもってHO(人間組織)が当たらなければならないという真実をIT革命論は無視しています。

HOの崩壊を伴うITの繁殖は、むしろ、不法と不徳の温床だといったほうがよいのではないでしょうか。

実際、企業犯罪や性犯罪が多発しているという現在の状況の背後には、社会がITの発達と普及を統御できなくなっているという事態があるのです。

とくにインターネットは、アノニミティ(匿名性)を許すことが多いので、犯罪や不道徳を助長します。

詐欺や中傷の飛び交う場所、それがインターネットだといってさしていいすぎではありません。意見を作る努力をしないで意見を吐いてもよいとみなされている場所の見本、それがインターネットである、といってさして誇張ではないでしょう。

インターネットにせよ携帯電話にせよ、民衆がいわゆる「双方向コミュニケーション」に向かうので、政治の方面では世論の、そして経済の方向では市場の、そして文化の方向では欲望のヴァイタリティ(活力)を増大させ、そしてそれが社会全体の民主化を促す、といわれております。

それは大いなる誤解です。というよりその民主化における「民」が、ITの異常発達のせいで、「公民」ではなく「私民」にますます転落していっているのです。

私民化の実態についてくどくど解説する必要はありますまい。少年たちが異常性欲の映像に見入っている、少女たちが公共の場所で化粧に励んでいる、大人たちが自分の会社のこと以外には話題を持たない、あるいは自分の子供のほかには人間というものに関心を払わない、テレビのスラップスティック(どたばた)をぼんやり眺めているのが唯一の娯楽である、といった光景が果てしもなく広がっています。

「メディアはメッセージである」(マーシャル・マクルーハン)という言を今こそ思い起こすべきではないでしょうか。「メディア(媒体)の使い方が問題なのであって、メディアが技術的に発達することそれ自体は歓迎すべきことである」というのが大方の意見のようです。しかしそれは人間の本性にかんする誤解にもとづいています。

たとえばインターネットでいうと、そこには情報の「断片」が網羅されており、それを「急速」に取り出すことが可能です。つまりそのメディアの存在によって「意味」されているメッセージは、断片的な具体情報を、その刺激力と流通力に期待をかけて、急速に他者と交換するのが現代人の生き方であるべきだ、という価値観なのです。

そしてそこで犠牲にされているのは、様々な具体的情報を何ほどか統一的に関連づけることを可能にする解釈の規則、なかんずく価値の体系なのです。

つまりIT革命それ自体が人々のパブリック・マインド(公心)を縮小させ、プライヴェート・マインド(私心)を肥大にしているということです。それが人間精神をヴァイタルなものにするとはとうてい思われません。

公心は人格心(にもとづく自発的な価値表現)と規律心(にもとづく自覚的な規範受容)とから成ります。そして私心には情緒心(にもとづく閉鎖的な自我意識)と帰属心(にもとづく受動的な服従態度)とから成ります。

前者が薄まり後者が濃くなるのがプライヴァタイゼーション(私民化)にほかなりません。私民の活力なんかは、人格と規律(価値と規範)に欠けているため、しょせん自己のうちに自閉したり他者の命令に追随したりするだけのことなのです。

革命(大衆化)を期待する心性そのものが活力において不足していることの現れであることに気づくべきではないでしょうか。自分のうちに精神の躍動を感じることができないため、自分の周囲に大変化が起こってくれれば自分も積極的に活動することができるかもしれない、とそれら革命主義者は願望するのです。

人間精神の活力は、むしろ、おおよそ同じことを「反復」する行為に見出されます。

反復が可能なのは、その対象にゆるがせにできない意義があると考えればこそです。また反復のなかにおのずと生じてくる微妙な差異に格別の意味があると思えばこそなのです。換言すれば、物事を「保守」することに活力の上昇を感じ、それを「革新」するのは活力の低下を覚える、ということです。

いうまでもありませんが、私心が悪くて公心がよい、などといっているのではありません。

情緒心に乏しい人格は偽善者のものですし、帰属心に欠けた規律は官僚人のものです。健全な人間は、自分のうちに情緒心と人格心の葛藤があると意識します。それゆえ、自分のおかれた状況のなかで両者を平衡させるべく「思索」するのです。また帰属心と規律心を折り合わせるべく、人々は集団のおかれた状況のなかで「議論」しなければならないのです。

IT革命は「思索と議論」を深めるのに貢献しているでしょうか。

逆です、断片情報で思索に中断を強いる、情報の急速伝達で議論に打ち切りを迫る、それがIT革命なのです。

そこで「チャット」(雑談)が行われていることをもって思索と議論の豊饒化とみるのは手前勝手な見方です。個人の思索にも集団の議論にも、安定した感情と確実な論理が不可欠です。チャットやらにそうした感情と論理を期待すべくもありません。

現代の文明状況が不安定な感情によって動揺させられ、不確実な論理によって振動させられていることは誰の眼にも明らかです。戦争のような大状況に始まり幼児虐待のような小状況に至るまで、現代文明を特徴づけているのは(庶民ではなく大衆の)感情の当て処のない漂流です。そして(知識人ならぬ専門家の)論理の筋道を欠いた彷徨なのです。

文明は、その絶頂において、深い憂愁と重い虚無にとらわれているといってよいのではないでしょうか。

あらゆる思索が明朗さと力強さを失って単なる屁理屈と化し、すべての議論が真摯さと活発さを失くして単なる御芝居に落ちています。

この文明の堕落を表象してくれているのがデモクラシー(民衆政治)ならぬマスクラシー(大衆政治)なのです。

マスクラシーは、右手に(擬似大衆化した)専門人のために新聞・テレビ・雑誌などのマスメディアを、左手に(擬似専門人化した)大衆人のために携帯電話やパソコンなどの最新のITを携えています。そして、マスマン(大衆人)とスペシャリスト(専門人)の連合軍に敵対する一切の勢力を殲滅すべく、大行進中であります。

「馬鹿は死んでも治らない」といえばそれまでですが、そんな時代に生まれてくる子孫には、如何ともし難く、同情を寄せざるをえないのです。

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